4 理性中心主義の行き着くところ
ところが、それが行き過ぎるとどういうことになるか。「過ぎたるは及ばざるよりも悪し」といったのは徳川家康です。儒教文化からくる「理性」が近代化の原動力になったというのが司馬先生の指摘ですが、しかし、理性中心主義となると、行き着くところはどういうところか。
それは、まず理想主義ですね。理想主義というのは、理想どおりにいかない人間を排斥し、理想どおりにいかない問題を排除していく。これが理想主義の特徴です。そして、そこから出てくるのは能力主義、エリート主義です。
今、日本はますますその様相を深めています。大学では自己点検・自己評価というのをやっていますが、これは理想どおりに業績が上がらない者は大学にいてはいけませんということです。そのことを自分で点検せよという。なぜほかの人が点検しないのか。文部行政は、自己点検が正しいかどうかを第三者が点検するという二重構造にしたんです。なぜでしょう。初めから他の人に評価されたら、そんなことはないということで、恨(うら)みつらみが生まれます。そうした恨みつらみが起きないように、まず自分で自分を評価させる。第三者は、その評価が妥当かどうかを評価する。これは完壁なエリート主義です。
私の研究分野は素粒子物理学と申しまして、物質の基本的な成り立ちを探究する学問です。湯川先生以来の伝統の所為か、世界的に優れた研究者が数多くおられます。若い頃の私は、この分野で研究成果をあげてゆけるかどうか、不安一杯でした。
そういう中で、大学における仏教青年会運動を天下に公開するというのは、私は不本意だった。そんな力量のある人間だとは思っていませんでしたから。戦後の大学仏青運動の先駆者であった師の勧めで始めたのです。私は「近江の湖(うみ)を一人して埋め」と言われたと同じくらいたいへんだと思いました。埋められる量ではない、けれども、師の仰せなら、というので始めた。
そうしたら、物理の研究者仲間の先輩から叱(しか)られました。「君は片手間に研究をやれるほど能力のある人間か」と。それで気合いが入った。これからは大学を追い出されないように研究をしようと思った。そして仏教運動をやりながら、夢中で研究をやっているうちに、びっくりするほど成果が上がった。これはやはりお蔭さまなのです。
今の日本は、エリート主義の危険性を深めていますよ。これが現代の特徴です。日本人は本当の意味では世界のナンバーワンになっていないんですけれども、世界中から「責任を果たせ、責任を果たせ」と言われている。そしてその結果出てくるのは、排除の考え方です。理想に合わないものは排除していく。リストラの時代ですね。
そして、それでうまくいかないと、現実卑下(ひげ)になる。こんなにも現実はつまらない。こんなにも自分はどうしようもない。これは理想主義の行き着くところ、理性中心主義の行き着くところです。
その結果どういうことになるのか。うつ病です。心の病にかかる。私が大学に二十八歳から今日六十一歳まで奉職して、立ち会ってきた悲劇はこれです。心の病なんです。エリートの心の病というのは、きわめて悲劇的ですね。私が、自分の生きてきた業苦について人に語る気になれないのは、この悲劇を見てきたせいです。
日常生活で「私はこんな苦労をしています」なんて、言えたものではありません。「恵まれたる隣人もまた、いたましき輪廻の旅人である」ということを、わかっていただきたい。業苦の衆生でない人は、一人もいない。
今申し上げたこれらの問題は、『歎異抄』第二章の背景にある関東教団の危機に通じます。これは、親鸞聖人のご子息善鸞(ぜんらん)の問題です。善鸞の問題というのは、賢善派(けんぜんは)の異義として伝えられています。
賢(かしこ)く、間違いをしない。廃悪修善に邁進(まいしん)する。そのことを徹底的に主張する。これは理性中心主義に傾いた善鸞の悲劇です。善鸞はついにどうなっていったか。加持祈祷(かじきとう)に走っています。心の病から逃(のが)れ、現実の自己卑下から逃れるためには、お祈りしかなかったんでしょうね。ついに善鸞は祈りの宗教に流れていってしまった。これが理想主義の末路(まつろ)です。
今、日本はそうなりつつあります。祈祷宗教が流行ってきています。
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