3 アジアの文化、ヨーロッパの文化

 この理性が非常に大事であるということはわかります。しかし、大事なものが命取りになることがあるのです。
 この理性を生んだ東アジアの文化、それは儒教精神です。私の世代の先生は、みんな『論語』を読んでいます。孔子や老子・荘子、四書五経を一生懸命に読んでおられた。夏目漱石などの文学には、そういう中国の古典がみごとに生きていると指摘されています。ある意味で、日本文化の真髄といってよろしいでしょう。
 そこが出発点で仏教に出会っていくということがあったんですね。親鸞聖人も『教行信証』に二カ所だけ『論語』を引いていらっしやいます。
 それに対してヨーロッパの文化は、プロテスタンティズムあるいはカソリシズムが基本になっています。キリスト教の文化のなかにも理性を大事にする文化がある。理性をどういうふうに見ていくかといいますと、神を認識する能力です。ヨーロッパではこれを理性と定義している。これは欧米人にとって非常に大事な感性です。日本人は欧米を旅行するとき、多くは一流のホテルに泊ります。円高だから旅行会社は一流のホテルを斡旋(あっせん)する。そして、ホテルのカウンターで「宗教(レリジョン)は何ですか」と尋ねられます。そこへ「ナッシング(ない)」と書いたら、それは誤解されます。なぜかというと、理性を持たないということにサインしたようなものですから。ヨーロッパの伝統では、理性を持たないのは人間ではないとされるのです。
 ヨーロッパの人びとは、このことから子どもというのは未成人間だと考える。アジアでは子どもをどう見るか。アジアでは童心は道心であるといいます。童心は道の心であり、道の心は仏の心であるとされる。子どもの心に、人間としての最高の心、理想を見るという文化がある。だから日本人の子どもを見るまなざしと、ヨーロッパ人が子どもを見るまなざしには、決定的な違いがある。
 これを念頭に置いて、欧米人の幼児教育の文献を読まないといけません。今、「モンテッソーリの自由保育」というのが日本で流行(はや)っているでしょう。私はあれは決定的な問題があると思っています。というのは、子どもを未成人間と見る文化のなかで生まれた自由保育なんです。もともと子どもを見る目はきびしい。その上での自由保育。そうするとバランスが取れて、うまくいくのです。
 ところが日本の場合は、子どもの心は人間の心として最高のものである、理想であるという文化でしょう。「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに」という山上憶良(やまのうえのおくら)の歌に見られる文化です。そこで自由保育をやると、智慧の教育と慈悲の教育のバランスがこわれる。バランスがこわれると、何をやっても許されるということになって、小学校では学級崩壊が起こる。
 あの「モンテッソーリの自由保育」を実践するには、バックグランドになる文化がないのではないでしょうか。これは本当に考えさせられるところですね。
 さて、話を元に戻しますと、理性というのは、アジアにおいては儒教精神がバックボーンにあって、民族の教育の根幹となり続けてきました。ヨーロッパにおいてはプロテスタンティズムやカソリシズムというキリスト教文化が根底となって、人間教育の根幹として理性教育がなされてきたわけです。
 司馬遼太郎は、ヨーロッパで産業革命を成功させたのはプロテスタンティズムだとおっしゃる。産業革命というとイギリスとドイツです。イギリスではプロテスタンティズムがバックボーンだった。それが産業革命を成功させた原動力だという。
 それと同じように、明治維新というたいへんな社会革命を成功させた原動力は、日本の儒教文化だった。これは司馬遼太郎のご指摘です。いかに理性教育が人間教育の根幹として大事かが推(お)し量(はか)られますね。

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