まだ見ぬ〈今〉へ

X 特別編:

『ローラーガールズ・ダイアリー』(Whip It, 2009)

 昨夜(二日目)は一緒に映画を見て、みんなで議論しました。そこでこの時間は予定を変更して、僕も感想を話させてもらいます。そのために印象に残った三場面を取り上げるつもりです。
 まずは内容をおさらいしましょう。物語の舞台はテキサスの田舎町。美人コンテストを通じて社会の表舞台に立てるように母親にしごかれている少女ブリスが主人公でした。ところが彼女は母親の型にはめられる生き方がいやになり、次第にローラーゲームという場末のB級スポーツに夢中になっていきます。そして家出同然に飛び出して男の子とも付き合いますが、うまくいきません。ブリスは深く傷ついて家にもどり、両親と和解します。それから彼女はローラーゲームに打ち込むことを決め、自分の道を歩み出していきます。

初めて歩いたとき
 この映画で僕が一番気に入ったのは、少女が初めてローラースケートをする場面です。おそらく小さいころに、少しはすべったことがあるのでしょう。たどたどしくも、道路の真ん中をゆっくりと進んでいきます。その姿をカメラが街路の正面から映し出します。このとき道には、だれもいません。おそらく彼女の姿に観客が集中できるように、余計なものを取り除いたか、それとも人気のない早朝に撮影したのだと思います。このときローラースケートに集中しているブリスには、他のものは何も見えないはずです。その意味で、これは彼女のこころの風景でもあるのでしょう。
 この場面を見ていて、僕はとてもなつかしい気持ちがしました。それは自分が初めて二本足で歩こうとしたときの記憶です。もちろん実際には、そんなことは覚えてはいません。だけど、この場面から、僕は自分が初めて歩こうとしたときの不安や歓びを如実に感じたのです。どうして人間は歩こうとするのでしょうか。体ごと大地に伏せていれば、とても安定しています。二本足で立ちあがるのは、あえて不安定になることです。だけど、それによって初めて世界が拓けます。いのちとは何かと問われるならば、それはみずから伸びようとするものだと思います。飛びたい、跳ねたい、踊りたい。伸びていくことが、いのちの歓びです。ただし人間には身体だけではなく、こころや精神の成長という側面があります。二本足で立ちあがることは、身体の成長の一場面と捉えられるかもしれませんが、それ以上に、初めて精神の世界へ踏み出すという意味があると思います。それはすばらしい一歩であるだけではなく、怖れやおののきをともなう不安な一歩でもあるのでしょう。ただ、その一歩を僕たちはみずから欲しているのではないかという気がします。

音楽
 ところで、この場面では静かで透明感のある音楽が流れています。この曲は、いったいどこから聞こえてくるのでしょうか。
 映画で使われる音楽は大きく二種類に分けられます。たとえば、この後でロックバンドが登場しますが、そこで聞こえてくるのはスクリーン上でバンドが演奏しているものです。つまり映画の中の特定の場所から聞こえきます。ところが、この場面は異なります。ここで聞こえてくるのは、少女の不安やときめきによりそうような、映画の〈中〉から聞こえてくる音楽なのです。この曲はローラーゲームの決勝戦の後で、お母さんと和解する場面でも流れています。この曲への制作者の深い思い入れが感じられるようです。この音楽がどこから流れてくるのかと問われるならば、おそらく主人公の少女の存在から響いてくるのだと言えるでしょう。もしかしたら僕たちにも、それぞれの存在の底に流れている音楽があるのかもしれません。その響きを聞きあてることができたら、幸せだろうと思います。

ローラースケートという小道具
 主人公のブリスは、これまで美人コンテストで入賞するために母親の言いなりになってきました。ところが、ひょんなことから彼女はローラーゲームを知り、長いことしまっておいたスケート靴を取り出します。そして先ほど見たように、おそるおそるすべってみるのです。この場面は母親からの独り立ちを意味しています。なれないスケートで怪我でもしたら大変です。母親が知ったら、その場で禁止することは目に見えています。その意味では、彼女の挑戦は別のスポーツでもよかったのかもしれません。
 それでも、このローラースケートという小道具には展開の妙があるような気がします。なぜならローラースケートは歩くことの延長上にあるからです。それは親の庇護を離れた別次元へと歩むこと、あるいは子供時代とは違う異次元の世界に入ることを暗示しているのです。
 だれしも幼いときに一度目の独り立ちをします。そして思春期に二度目の独り立ちを迎えます。そこには独立の歓びだけではなく、虚空に投げ出されたような強い不安もあることでしょう。だれにも支配されない、しかし、だれにも支えられないという両義的な感覚です。それは、どこに落ち着くかわからない危険な時期でもあります。しかし、映画の主人公はローラースケートのこつをつかみます。そしてアルバイト先のレストランでも自由に乗り回すようになります。それは彼女の独り立ちが順調に進み、ブリスが母親の知らない自分の世界を築き始めていることを示しています。

バスに乗る
 それでは最初の場面にもどりましょう。初めてのローラースケートのあと、ブリスがローラーゲームの入団テストのために、町を出る場面があります。このとき彼女はバスに乗ります。それはごく普通の乗り合いバスです。ところが彼女は不安な面持ちで「私も乗れますか」とたずねます。なぜなら、これは新しい人生へと踏み出すバスだからです。(おそらく、この場面で制作者は『卒業』という有名な作品のラストシーンを意識したのではないかと思います。)もしかしたら、みなさんも独り暮らしを始めるとき、いつものバスや電車に乗り込むのにも、普段とは違う感覚を覚えるのではないかと思います。
 ブリスはバスの乗り口で不安な表情で運転手を見上げます。そしたら運転手は当然のように「乗りなさい」と身振りで応えます。彼女のこころの震えと安堵が伝わるような場面です。バスに乗り込むと座席について、隣のおばあさんと言葉を交わします。彼女は「すてきな髪の色ですね」とほめ、おばあさんは「自分で染めているの」(I do it myself.)と答えます。この何気ないやりとりも、自分の人生は自分の手で染めていくものだと彼女に教えているかのようです。バスの窓には、見なれた町の風景が流れていきます。学校、クラスメート、バイト先のレストラン。旅立とうとするブリスには、そうした日常の風景が遠くに感じられるのでしょう。

台所
 次に見てもらいたい場面は台所です。両親にローラーゲームのことがばれてしまい、ブリスは家を飛び出します。ところが付き合い始めた彼の裏切りに傷つき、家にもどってきます。しかし家には、だれもいません。そこで彼女は台所に座り込み、両親の帰りを待っています。
 みなさんの家の中にも、いろんな部屋があると思います。たとえば床の間がもうけられた居間などは、どちらかというと「かくあるべし」という理想や主義が掲げられるところでしょう。そこは両親に背いて家を出たブリスがもどる場所ではありません。これと対極的なのが台所でしょう。そこは食の場所です。つまり、一緒に食べてきたという人間関係の原点をなす場所なのです。これは余談になりますが、だれかと仲良くなりたいと思ったら、何かを一緒に食べるのは良い方法の一つです。僕が若いころは、焼肉を食べているカップルは「できている」という俗説がありました。たぶん人間関係の深さに応じて、食べるものも脂っこくなるのではないかと思います。実際のところ、出会ってすぐにステーキや焼き肉を食べる男女は少ないのではないかと思います。
 話をもどします。今、ブリスは台所に腰を下ろしています。ここでは放心したように座り込むことが、大切なのだと思います。もはや彼女に自分の正当性を主張したり、母親の教育を責めたりする気持ちはありません。すべてを失って帰るところ、そこが自分の育った場所であり、家庭の台所なのです。帰宅した母親もブリスのそばに座ります。母親は娘をミスコンテストに仕立て上げ、上流社会に送り込もうとしてきました。しかし、傷ついた娘を前にして親としての野心がくずれ、彼女も人間としての原点に返ったのです。
 このとき二人は冷蔵庫をはさむように座っています。その扉に何があったか覚えていますか。答えは赤いハートのマグネットです。まるで百円ショップで売っているようなやつです。親子の愛情というものは、冷蔵庫に貼られた安物のマグネットみたいなものです。そこにあっても、ふだんはまったく気づくことがありません。それはすべてを失って座り込んだときに、初めて目に留まるようなものなのでしょう。これも余談になりますが、文学や映画では大きな物語の展開よりも、あってもなくてもいいような小道具が大切なことがよくあります。ここでのハートのマグネットも物語の展開には何の影響も与えません。だけど映画のスタッフは「できれば気づいてください」という気持ちで、こっそりとこの場面にマグネットを忍び込ませたのだと思います。

二番目で生きる
 最後に取り上げたいのは、ローラーゲームのメンバーが決勝戦で敗れて、高らかに「あたしらナンバーツー」(we are number two!)と連呼するところです。映画の前半でも、彼女たちが同じように声を合わせる場面がありました。そこではチームは負け試合の後で「どうせ二番よ」と自嘲していたのです。彼女たちは人生のどこかで負けた記憶があり、現在も社会の底辺で生きているという負い目があります。母子家庭や低賃金で働く生活の苦しさも描かれています。しかも、舞台はテキサスの田舎町です。レストランの客が評するように、よそ者は立ち寄りもせず、立身出世をめざす若者はここを出ていきます。しかし彼女たちは、この二流の町にしがみついて生きていくしか他にないのです。
 このような女性たちの社会的地位を象徴するのがローラーゲームです。かりにトップまで登りつめても、全米でスポットライトが当たるようなスポーツではありません。それはどこまでも日の当たらないB級スポーツなのです。だから彼女たちのナンバーツーというかけ声には、自嘲のひびきが込められていました。彼女たちの人生に日が当たることはないのです。
 ところがチームに若いブリスが加わり、彼女たちは本気になります。その後の展開は一緒に見てきたとおりです。優勝は逃したものの、女性たちは全力をつくす満足感を経験します。それによって、彼女たちは卑下することなく、充実した二番手の人生を送るという生き方を学んだのです。
 ラストシーンは、レストランの屋根の上から静かに町を眺めるブリスの姿を映します。これからも少女はこの町で生きていくことでしょう。ナンバーツーの町で、ナンバーツーのスポーツに打ち込み、ナンバーツーとして生きていく。「ささやかで名もないけれど、私はこの町で生きていきます。」主人公の少女は、そう決めたのです。このような生き方の旗印となるのが、決勝戦の後の高らかな「あたしらナンバーツー」でした。この呼び声に、僕は深い感動を覚えます。おそらくチームのメンバーは満ち足りた思いで、それぞれの現実へと帰っていくことでしょう。ここには住岡夜晃先生の「念仏申して自己を充実し、国土の底に埋もるるをもって本懐となすべし」という言葉に通じるものがないでしょうか。この映画を見ていて、アメリカの念仏はwe are number two! かもしれない。そんな気がしました。

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