まだ見ぬ〈今〉へ

V

外道と内道
 こころが曇っていると、まわりの世界も暗くなります。もちろん世界が輝いて見えることもありますが、それはたいてい自分の調子がいいときです。そんなときは、他人が自分のために何かを我慢しているのかもしれません。僕は学校に勤めているのですが、学校というところは会議が多いのです。それも何時間も続くことがあります。そんな会議には、みんなうんざりしているのですが、ただ退屈せずにすむときがあります。それは自分が主人公になって、延々と話しているときです。そんなときは不思議と疲れを感じません。だけど、まわりの人は早く切り上げてほしいと思っているに違いありません。
 ここまで話してきたことは、本当の意味で今が輝くことは少ないということです。それはなぜなのか。たいていは自分の外に理由を探します。これを伝統的な言葉で外道といいます。これに対して仏教は、僕たち自身のこころのあり方を問います。だから仏教は別名として内道と呼ばれます。それでは自分のあり方を問うとは、どういうことなのか。それを考える材料として、次にある物語を読んでみましょう。

『ナポリを見る』
 お配りしたのは『ナポリを見る』という短編です(末尾の資料参照)。作者はクルト・マルティというスイス人(1921-)。カール・バルトという神学者の影響を受けた牧師で、平和運動や貧しい国々の支援のために長く働いてきた人のようです。私的な話になりますが、ドイツのフライブルクという町で学んでいたときに、大学の授業で資料として配られたものを読んだのが、この短編との出会いです。ところがその後、作家名も作品名も忘れてしまい残念に思っていたのですが、最近になって、たまたまドイツ文学の作品集で見つけることができました。まるで若いときの友人に再会したような嬉しい気持ちでした。どうやら邦訳はないようですので、この機会に訳したという次第です。
 まず『ナポリを見る』(Neapel sehen)という表題について。これは「ナポリを見てから死ぬ」(Neapel sehen und sterben)というドイツ語の言い回しに由来しています。ナポリはイタリアの都市ですが、とても美しい町だと言われています。つまり、たとえようもなく美しいものの比喩なのです。この言い回しの意味は、ナポリを見るまでは死ねないとも、ナポリを見たなら死ねるとも解せるでしょうか。ただし、この短編にはナポリそのものは出てきません。それでは物語の中でナポリに比すべき美しいものとは何なのか。それは、ゆっくり考えていきたいと思います。

要約
 お話の内容はかんたんです。物語の場所は、1960年頃のドイツ(あるいはスイス)。高度経済成長が始まったころです。主人公は工場労働者のおじいさん。彼は40年間、この工場で働いてきました。生産性を上げるために働きつづけ、何度も会社から報奨金をもらい、そのお金で近くに家も建てました。彼の人生は工場の発展のために捧げられてきたのです。夜、寝ているときも機械のリズムで、その手が震えます。そろそろ低賃金の仕事に替われと医者や上司はすすめますが、彼は首を縦にふりません。ところが、ついに病気になり職場を去ることになります。ここまでが物語の前史です。お話では、おじいさんは自宅で床に就いています。彼の家からは工場が見えます。しかし、彼は工場が憎い。そこで庭に仕切り板を立てて、工場が見えないようにしています。ところが病状が重くなり、おじいさんの心境にも変化が現れます。

仕切り板
 おじいさんの庭先には仕切り板があります。それは工場が憎いからです。だけど、憎いのは相手と深い関係にあるからです。初めて会った人を憎むことはできません。よく言われるように、愛と憎しみは表裏の関係にあります。「愛と憎しみ」をひとくくりにして、その反対を探すとしたら「無関心」になるでしょう。
 主人公の老人の半生は、工場と切り離すことができません。彼は経済成長を続ける社会と歩調を合わせるように働いてきました。だから、その手は眠っていても「スタッカートの速さでふるえる」のです。それは人間のために工場があるのではなく、工場のために人間があるような職場でしょう。おじいさんは身を削って働いてきました。そのおかげで、彼は家族を養うことができました。だからこそ、工場が憎いのです。
 しかし、庭先に仕切り板を立てれば、自分の視野もさえぎられます。この仕切り板を立てるというのは、とてもおもしろい比喩だと思います。僕たちにも、それぞれに嫌いなもの、憎いものがあるでしょう。それは言葉を替えれば、遠ざけたいもの、見たくないものです。それを見ずにすますために、やはり僕たちもこころの中で仕切り板を立てているのではないでしょうか。それは自分で作った自分だけの世界にたてこもるということです。いやなものを見ずにすむという利点はありますが、それによって僕たちは自分を広い世界から遠ざけることになります。

春の芽生え
 自分だけの世界に閉じこもっていて気持ちいいのは、しかし、しばらくのあいだだけです。そのうち世界から自分を閉ざしているという息苦しさが生まれてきます。そう感じさせるのは広い世界の力です。広い大きな世界が、君が閉じこもっているのは狭い世界だと呼びかけてくるのです。それは狭いだけではなく、人工的に作られた虚偽の世界でもあります。真実が虚偽に虚偽であることを教えるのです。
 このお話では、おじいさんの庭の中にも「春が芽生えた」とあります。彼の妻が言うように、そのうち「花ざかり」になるでしょう。小さな花は、大きな世界の力を受けてひらきます。それは仕切り板にさえぎられることのない、大きな世界の表現なのです。花が咲いている。それだけで、仕切り板が嘘くさく感じられるのではないでしょうか。
 そこで、おじいさんは仕切り板を取るように、家族にたのみます。ところが彼の妻はぎょっとします。もしかしたら、彼女は夫の死を予感したのかもしれません。なぜなら工場への愛と憎しみが、彼のこころを支えていたからです。おじいさんは、初めは二枚だけ板を取るようにたのみます。ここも、おもしろいところです。僕たちが嫌いな相手を受け入れるのも、やはり少しずつです。こうして工場の一部が見え、また少し仕切りを取ると、その分だけ工場が見えます。「病人の視線は、工場のうえをやさしく憩った」とあります。『ベルリン、天使の詩』というドイツ映画があるのですが、まるで天使が高みから人間世界をやさしく眺めるような、そんな幸せな描写だと思います。

事務所
 それから、おじいさんは工場の煙突から煙がたなびき、構内をクルマが走り、朝夕に人々が出入りするさまを目にします。おそらく四十年にわたる労働者としての歳月を、そこに見たのでしょう。彼は最後の板を取り去るように命じます。そこに隠れていたのは社員食堂と事務所でした。どうして最後に事務所が登場することになるのでしょうか。このような職場にはホワイトカラーとブルーカラーが存在します。ブルーカラーというのは、現場で働く作業員です。工場労働者のおじいさんは、これに当たります。ホワイトカラ−の方は事務職です。スーツを着て、空調の効いた心地よい部屋で仕事をしているような人たちです。たいていは学歴も高く、会社の上層部に昇進していくような立場にあり、ブルーカラーよりも高い給料をもらっています。汗にまみれて働いている労働者たちから見れば、これほど憎い存在はないでしょう。
 社員食堂は、もしかしたらホワイトカラーもふくめて、すべての職員が日常的に顔を合わせる場所だったのかもしれません。いずれにしても最後の一枚を取り去ることで、おじいさんは憎しみをこえたのです。だけど、ここでも彼は不平をこぼしながら板をはずすようにたのんでいます。ここも、おもしろいところだと思います。不平をこぼすのは、どこかで自分を守っているからです。憎んでいた対象を素直に受け入れることは、人間には不可能なのだろうと思います。

往生浄土
 最後には工場の敷地のすべてが見えたとあります。実際には、ベットに横になっているおじいさんが、工場の全景を目にすることはできないでしょう。ここは、こころの中で工場の存在を受け入れたという意味だろうと思います。そのとき彼の表情には微笑みがひろがります。そして数日後に、この世を去っていきます。ここで語られていることは、伝統的に往生浄土と呼ばれてきたことに近いと思います。今回のテーマでいえば「まだ見ぬ今へ」です。憎しみの壁が取り払われたとき、大きな世界が彼のこころに広がりました。ただし、それは初めからそこにあった世界なのです。その世界を受け入れるために自分の力で壁を取りのぞこうとすることを、伝統的に自力と呼びます。もちろん、実際に仕切り板を取るように命じたのはおじいさんであり、作業をしたのは近所の人たちです。しかし、おじいさんをそのように促したのは春の力でした。この春の力を本願他力と呼びます。花をひらかせた春の力が、おじいさんに広い世界を教え、仕切り板の向こうへといざなったのです。
 工場の存在を受け入れて、おじいさんは死んでいきます。彼の表情には、満ち足りた微笑みがありました。人間は、つねに愛や憎しみの中で生きています。愛や憎しみとは、言い換えれば、自分だけがかわいいという見方です。このような愛憎が人間を真実から遠ざけています。だから生きている限り、真実そのものとひとつになることは難しいのです。ギリシアの哲学者は、人間は神でもなく動物でもないと述べています。つねにその中間で不安定な状態にあるのが人間なのでしょう。言い換えれば、生きているかぎり人間は真実とひとつになることはできず、愛憎や不正にひらきなおることもできません。
 真実の世界を浄土と呼びます。浄土とは文字通り、人間の愛憎でゆがめられない浄い世界のことです。愛憎を捨てて浄土へとおもむくことが往生浄土です。しかし、それは愛憎の巣であるこの身が果てたときに初めてかなうことだと、先人は教えてきました。ここには人間への深い洞察があるように思います。

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