過去の巻頭言

【平成22年3月7日〜平成23年5月7日】
 仏法では私を法、ものがら、万法諸法の一つであるという。このものがらを包み、ものがらを本当にものがらたらしめるもとを真如法性という。法のもと、道理である。その大きなものが小さなものに働きかける姿を如来という。大きなものが私に働きかけて、この小さな私を大きな世界に出さずんばやまじという働きを如来の本願という。これを南無阿弥陀仏という。南無は帰れ、来れであり、阿弥陀仏はこの大きな世界を言う。「汝、大いなる世界に出でよ」と私を呼んでやまないものを真如法性の具体的働きかけといい、如来本願という。これを仏という。これを一番初めにわかった人が釈迦である。釈迦は弥陀によって仏となったのである。

     『歎異抄講読(第八章について)』 二、第四章から八章までのつながり より

【平成22年1月3日〜3月7日】
 本願の歴史に気づくとき、われわれの流転の歩みは、一転して、本願の歴史の展開になるのであります。われわれの一歩一歩が、本願の歩みになるのであり、流転の歴史が、そのままに、本願の歴史の上に位置づけられ、展開するのであります。迷いの歩みが、求道の歩みと転じ、一つ一つ、新しいいのちが見いだされていく精神生活がはじまることとなります。それは、われわれの流転の歩みを場として、本願が展開するからであり、かかる本願は、永遠の未来にむかって歩みつづけるものであります。
         高原覚正師著『歎異鈔集記(中巻)』 まえがき より

【平成21年10月12日〜平成22年1月3日】
 教えに遇わないと流転というのは分からないのであって、言い換えてみると、生きる方向が分からない、あるいは何のために生きているか分からない、そのことを「流転」と言うんだろうと思います。
  私たちは決して流転とは思わないわけであって、教えに遇って初めて、今までの生き方は流転であったと分かるわけでありまして、教えに遇わずして流転とは思わないですね。生きる方向が分からない、何のために生きているか分からない。

        平木正則先生「正像末和讃讃講」  (「京都歎異抄の会」HPより)

【平成21年4月4日〜平成21年10月12日】
 すべて生きることは苦悩である。苦悩の中に生きて、しかも生活そのものを光たらしめるためには、考えねばならぬ問題が二つある。
 一つは無智である。われらの生活が不断に真の人生を創造する光は仏教のいわゆる智恵である。無智なるがゆえに、世の中及び自分に対して、正しいものの見方をしない。正しいものの見方を欠いた時、その生活は行き詰まる。不断に正しい教養を受けて自分自身をつちかわねばならぬ。
 今一つは苦悩の中に立つ力の欠乏である。力の根底は慈愛である。人生に対する熱愛、人に対する熱愛、それをおいて無限に苦悩に働きかける力はありえない。慈愛の眼を不断につちかうものは宗教的・道徳的教養である。力の源泉は信念である。
                住岡夜晃選集第四巻『女性の幸福』悩む女性に より

【平成20年12月24日〜平成21年4月4日】
 すべて人は何物の前に立って生きているかが問題でありましょう。我々は人の前、世間の前に立っていて、常に世間体を考える。世間とは、不特定多数という。誰ときまったわけではないが、とにかく大勢の人を頭に浮かべて、不特定多数の前に立ってとりつくろっている。不特定多数の前に立つ時に、見かけをよくするということが生まれ、偽善というものが生まれる。とりつくろって恰好をつけねばならない。しかし不特定多数を対象とするのでなしに、対象がたった一人になると、その人は非常に強くなる。愛する一人の人を対象として、その人の気に入るようにしようとするとき、それを愛という。その一人の人が親であるならば孝となる。その一人が師であるならば、教を奉持することになりその教を頂いてゆく身となる。遂に仏を対象とするならば、そこにはじめて本当の信心の行者が生まれる。
  細川巌師述『歎異抄講読(第二章について)』 十五、愚身 より

【平成20年8月21日〜平成20年12月24日】
 砂漠化と温暖化、これらを合わせるとこれからさき二十一世紀を生きのびていくためていくためだけでも、人類はかなり大きな試練を乗り越えていかないといけないことが予測されます。まして今後長い期間の人類の運命を考えると、全く楽観を許さないことであります。今からの時代に備えていくために必要なものは、まず第一に智慧である。状況を的確に把握してこれに対処していく智慧が必要である。第二にみんなとよく話し合い、力を合わせて事にあたってゆく意識と協調精神が必要である。第三にこの地球を守り抜こうとする決意が必要であろう。
 細川巌 『正像末和讃讃仰(1991年)』 より

【平成20年6月30日〜平成20年8月21日】
 宗教と申しますと二つに分けられます。一つは不幸その他一括しまして地獄と申しますか、その地獄を恐れる宗教です。したがって不幸が起らないように、逆に言えば幸いというものが来るよう願っている、そういうことがたてまえになっている宗教で、これが大部分といってもよい。地獄を恐れる宗教ですね。それに対して不幸を恐れない、地獄を恐れない宗教がある。実は本当の仏教がこれである。恐れというものを持たないんであります。恐れというものから解き放たれるのであります。
 歎異抄講読(第一章について)「二、誓願不思議」より 


【平成19年11月18日〜平成20年6月30日】
 信心の人は自分で信心があるとは決して言わない。自分はお粗末な人間である、世間心の存在であると言う。世間心の自己を発見することが世間心を超えることである。そして他の人の善に対しては、本当によかったと随喜し、他の人の悪に対しては悲しみ歎き痛む、どうかあの悪をやめて本当の道に立ってくれ、どうか立ってもらいたいと願いを持つ。冷たい批判でなしに、暖かい眼で人の善悪が見れるようになる。そして同時に深く自己を懺悔する。
 歎異抄講読(後序について) 第五節より

【平成19年6月23日〜11月18日】
若人よ。
 その逆境を喜べ。枯れる葉は枯らせよ。落ちる花は落とせ。
 そして今一度、霜雪と戦って、芽を出し枝をのばし、花を咲かせよ。
 汝の真価は、ただそこからのみ生まれ、汝の光は、苦闘によってのみあらわれる。
 あえて叱咤(しった)す。
 青年よ。涙の谷底より起ち上れ。
  住岡夜晃選集 『若い友のために』 若人よ起て より

【平成19年1月2日〜6月23日】
 お前はお前でちょうどよい。顔も体も名前もせいも、お前にはそれはちょうどよい。
 貧も富も親も子も息子も嫁も、その孫もそれはお前にちょうどよい。
 幸も不幸もよろこびも、悲しみさえもちょうどよい。
 歩いたお前の人生は、悪くもなければよくもない、お前にそれはちょうどよい。
 地獄へ行こうと極楽へ行こうと、行ったところが、ちょうどよい。
 うぬぼれる要もなく、卑下する要もなく、上になければ下もない、死ぬ日月さえちょうどよい。
 仏さまと二人つれの人生、ちょうどよくないはずがない。
 これでよかったと、いただけた時、臆念の信が開かれます。
  『真宗入門(ケネス・タナカ著、島津恵正訳)』(法蔵館) 150ページより

【平成18年10月14日〜平成19年1月2日】
 道を求めることのない人の一生はそのままで死んでいる。雪も、雨も、坂も、海もさらに火をも越えて道を求めるものにのみ、永遠不死の大道は開かれる。
 一度求めても得られぬ。二度三度突進しても解決がつかぬ。されど、汝の胸底には何物かの力が頭をもたげて、じっとしていることをゆるさぬではないか。
 無上正真の一道。進めよ進めよ、二度破れても三度出でよ。三度与えられずとも、四度五度立上って精進せよ。求める者にのみ、ついに解決は与えられる
  『住岡夜晃選集』 第一巻「若い人のために」より

【平成18年7月21日〜10月14日】
 皆さんが大きくなって世の中へ出て、皆にいろんなことを言われて、皆から捨てられて一人ぼっちになることがあるかもしれない。会社に勤めて自分の正しいと思って言ったことが上司の癪にさわって、遠くに流されるかもしれない。そして主流からはずされたという感じで、「ああ俺も営々としてやってきたが、主流からはずされたなあ」という思いに立たされるかもわからない。そういうことがもしあった時にこの教えというものが、切々として胸にこたえるものであります。
  中村 正 先生述 『志〜こころざし〜』より

【平成18年7月1日〜7月21日】
 静かなる感動。赤く燃える人は多いけれども、青く燃える人はいない。静かなる感動、静かなる青き炎。近寄って見なければ見えないかもしれない、近寄っても見えないかもしれない。一生涯見えないかもしれない。しかし、見える人には、脈々としてその胸中に燃えたぎっているものがあるのであります。そういうものを持とう。若き友よ。
  中村 正 先生述 『志〜こころざし〜』より

【平成18年4月1日〜6月31日】
 「一切恐懼 為作大安」(『讃仏偈』)(一切の恐れおののいて生きているもののために おおきな安らぎをとどけたい)
 生ききれない 死にきれない 絶望的な思いの中で出会った法蔵菩薩のことばであった
 「恐れおののいて生きているもの」 私がそれであった
 「為作大安」 この文字が光を放ち こころの琴線をはじくたびに身が震える
  『光明(平成18年3月号)』巻頭言(志慶眞文雄)より抜粋

【平成17年11月3日〜平成18年3月31日】
 近年、たび重なる青少年の事件報道に、絶句するほどの衝撃を受け続けることであります。なかでも隣人の初老の婦人を殺害した十七歳の少年の「殺してみたかったから……」という供述には、日本中が心胆寒からしめられたことです。本心かどうかはともかく、ニヒリズムの極みが感じられる言葉です真どうして、ここまで追いつめられたのか。(中略)・・・・いずれにせよ、理由のない孤独と、誰にもぶつけようのない憤りが潜在していたことに相違ないでしょう。
  『生きるための歎異抄松田正典著、法蔵館)』、「衝撃的な少年事件」より

【平成17年9月26日〜11月3日】
 私たち人間というのはどこまでも深い存在だと思います。ですから、どのように生きるか、ということになれば、深く生きなければいけない、自分という人間が本来持っている深さに至るまで、できるだけ深く生きなければいけない、そのように思います。
  「初心者のための観無量寿経 (岡本英夫)」より

【平成17年9月11日〜9月26日】
どうして勉強するの・・・? それは高校に入るため
どうして高校に入るの・・・? それは大学に入るため
どうして大学に行くの・・・? それはあなたが幸せになるためよ・・・
幸せって何・・・?
  「仏の教えに出あうということ (寺岡一途)」62ページより

【平成17年5月23日〜9月11日】
 今のいろいろな悲惨な状況は、一口で言えば人間の狂気だと思うのです。これはやはり自分に正義を立てるからなんですね。人間の上には正義はありません。正義も、真実も、仏さまに返すべきものです。それを自分に立てるために、逆に残酷になるのです。それはやはり、自分というものを見誤っているからです。(中略)私の中に煩悩があるのではなく、煩悩に名前をつけたのが私で、どこまで行っても私は煩悩なのです。だから人間の上に真実とか正義とか立てることは、本当はできない。
  「生死を超える道 (志慶眞文雄)」より