<上巻> あとがき

松田 正典

 菩薩(ぼさつ)は、梵語ボディサットバの音訳であるが、自ら仏果を求め、他の衆生を教化する者の意である。中近東やアフリカ東海岸にまで及ぶ貿易を営む商人が、古代インドの西海岸に生まれ、仏舎利塔を中心にして求道集団を形成し、菩薩団(ボディサットバ・ガーナ)と称したと伝えられる。ここに大乗仏教の興起を見る人もある。

夜晃先生は、若干二十四歳で光明団を創立なさったが、お若い頃は「大乗菩薩道の提唱」と題して東に西に獅子吼なさったことが、記録からお伺いすることができる。この場合の菩薩道とは、釈迦の説法の真意を深く尋ねつつ時代にダイナミックに関わる自利・利他の道の意味である。このような素朴な意味で用いられており、仏道五十二位の最高位である十地の菩薩の意味ではない。

先生の光明団運動開始の時代背景を見るに、明治の国家建設の師・ドイツが第一次世界大戦で敗北し焦土と化した一九一八年の翌年であった。わが国は、有史以来、中国を「国造りの師」として来たが、その中国がアヘン戦争で英仏連合軍に敗れたとき、明治維新を起こし、国造りの師を中国からドイツに変更して近代化を図った。そのドイツが焦土と化したとき、日本軍部は国造りの師はもはや要らぬとし、軍国主義に向かってひた走り始めた。師範学校を卒業して高等小学校に主席訓導として着任なさった先生は、このような時代状況をわが国の未曾有の危機と直感なさったのであった。先生の言、「人類の師・釈尊」、「一生被教育者であれ」、「大乗菩薩道の提唱」、「家も村も国家も、はたまた人類も、その真の繁栄は本願一実の大道の樹立にあり」等は、この時代背景が考慮されるならば、より正確にご理解いただけるであろう。

 四十歳以降、先生は「孤独の内転」と称されて、徹底して「内観の一道」を歩まれたのであった。遺された講義ノートを拝見すると、『大正大蔵経』に伝えられる浄土教の原典に当たられ、道隠や大瀛ら江戸時代を代表する学僧の講録に学ばれながら、僧俗共なる聴衆に実に本格的な御講義をなさったことが伺える。その講義時間たるや、年間百時間をゆうに超えている。そして、老若男女が一心に耳傾けたと伝えられる。

 このような先生の御生涯は、突然変異で生まれるものではない。ご法義どころ広島の三百年の伝統もその一因であろう。また、当時の師範学校の教育がいかに優れたものであったか、伺い知ることができよう。

 夜晃先生亡き後、御教化に出遇った主に僧侶の方々が、これを継承することは極めて難しいと判断なさって、団を解散なさったのであった。その中で、細川巌先生は、夜晃先生の御事業を(一)長年の聞法者がいよいよ深まること、(二)次なる世代が育つこと、の二つに分けられて僧伽の継承に取り組まれた。(一)については、僧侶を講師に立てて年間四つの会座を復活なさると共に、自らも講師として会座を背負われた。(二)については、広島師範学校の教え子と文理大関係者に協力を求めて、夏休みに四泊五日の少年錬成会を始められ、ここで育った若者の為に青年部会研修会を開始なさった。私は、先輩諸兄に随って、その一端に関わらせていただいた者である。以来四十有余年、今も盛んである。

 この書は、昭和六十二年(一九八七)に「住岡夜晃法語集刊行委員会」によって非売品として刊行された『讃嘆の詩』(全五六四頁)を原書に、普及版として再編集したものである。再編の作業に通して、先師の法語に取捨を加えた責めの重さを痛感させられた。そこで、先輩に習ってそれぞれの「詩」の末尾に原書のページを注記した次第である。

 この書を永年の聞法者がお読みくださって、深い感動を私ども編者と共有くださるとともに、是非とも若い世代への施本にしたいと思い立ってくださることを願ってやまない。そうして、若い世代がこの書をひも解くとき、初めて出会う仏語に戸惑うであろうことを考え、末尾に主な仏語の解説文を付した。それにしては解説が難しいきらいがある。しかし、解説を読んで仏語を理解した気分になるのも問題であり、その辺りのバランスに苦慮した次第である。また、様々な使われ方が可能であるように願って、最小限の索引を付した。「索引」と「仏語解説文」とを併せ用いていただくとき、解説文は「詩」の脚注にもなる。索引に挙げた「語」の選択基準が明確でないきらいがあるが、お許し願いたい。

今回の作業に三年の歳月を要したのは、私が定年退官に際し残務整理に忙殺されたことが原因である。この書の刊行を念じてくださった関係者一同に、伏してお詫び申し上げたい。再編作業に参加くださった方々は、岡本義夫(島根県三隅町徳泉寺住職)ほか岡本英夫、熊谷誓樹、佐々木玄吾、佐々木常和、佐々木忠義、堤日出雄、中山竜三、原田敬三の僧俗諸氏である。ここにご芳名を記して、ご苦労への謝辞とする。

(広島大学名誉教授)