<上巻>はじめに

細 川  巌

 住岡夜晃は広島県の出身で、明治二十八年(一八九五)芸北の地に生まれ、いわゆる安芸門徒の土徳のなかで育った。大正三年(一九一四)十九歳で広島師範学校を卒業し、郷里に近い小学校に赴任、以後約十年間の教職生活を経験した。

 二十一歳ころから煩悶が始まり、「孤独そのもので、ただ闇の中で苦し」んで、内外の書籍を読破した。二十三歳の夏、「信の火がかすかに点ぜられ、如来の慈光によみがえる」。その最初の念仏の夜の狂風吹きすさぶ折の感銘から、狂風と号した。

 二十四歳(大正八年)の早春、謄写版刷りで「光明」第一号が出された。これが光明団の出発点となった。

 二十八歳(大正十二年)団設立五周年記念大会を開いた直後、教職をとるか、宗教活動をとるかの岐路に立たされ、同年七月教壇を離れて、光明団本部を広島市に移した。それは「赤手空拳、いや支払う見込みさえない借金と共に、聖典一冊、数珠一連、ただそれだけを持って念仏しつつ濁乱の世に飛びこんだ」大冒険であった。

 昭和十一年(一九三六)、四十一歳のとき名を「夜晃」と改めた。これは「ひとえに、み法を求め、大信海に生かされ、念仏の境の深まらんことを念じ、無明の大夜に影現したもう寂静の光に生かされんことを切念」したからであった。

 昭和二十四年(一九四九)、五十四歳で死去するまで、年一回全国約四十の支部を巡講するとともに、本部で七日間の講習会を年三回、その他例会、小講習会を毎月開催し、多くの求道者を育成した。

 その教化の特徴は、第一に座談にあった。これは午前と午後の講義のあとに一時間ほど行われるもので、聴衆の心中の不審や疑問、そのほか生活上の問題などを一対一で問答した。それは、わからない仏教用語の意味を尋ねるとか、参考意見を聞くとかのなまぬるいものでなく、真剣勝負、如来が勝つか煩悩が勝つか、一生念仏申すかどうかなど、いのちがけの座談であった。他の教団では、説き手は説きっぱなし、聞き手は聞きっぱなしで、同朋の進展ははなはだ遅々たるものが多かった。そのような時代にこのような座談の時間を設けられたことは、大きな特色といわれよう。

 第二に黒板の利用である。黒板の板書は系統だっており、話の筋道がつねに明瞭に示された。お寺の高座の口だけの説法を行わず、視聴覚を取りいれた説法であった。

 第三に原典を一般同朋に持たせて教育したことである。同朋は常時「聖典」(島地大等編・明治書院)をもち、講話の内容は浄土三部経をはじめ、『御本典』『浄土和讃』『仮名聖教』、そのほか『大乗起信論』『法句経』などであった。したがって、老婆老翁も聖典に親しみ、原典に直接、接して、深い感銘を与えられた。

 その没後すでに五十年の今日もなお、多くの団員を擁し、求道の人の誕生が相続していることは、ひとえにこれらの深い先見の明に満ちた教化によるものであろう。

 関係著作としては、次のものがある。いずれも光明団本部の刊行である。

 ○住岡夜晃全集(二十巻)・・・・・・・十三回忌に出版された機関誌「光明」「聖光」の記載文をまとめたもの

 ○住岡夜晃選集(五巻)・・・・・・・・・全集の選集「若い友のために」ほか。

 ○難思録 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最晩年の文集

 ○住岡夜晃法語「讃嘆の詩」・・・・・全集からの抄出

 ○住岡夜晃先生(上・下) ・・・・・・・自伝(上巻)と遺弟の感想(下巻)

 なお、師は晩年、学生寮を設けて多くの青年学徒の求道を育成した。以下、青年へのことばを遺訓録から抜粋する。

「私は釈迦、親鸞がそばにいて聞いてくださるということを思いながら法話をしてきた。たとい何人が聞いていても、常に堂々の陣を張って述べ得ないようでは、自信も教人信もあり得ない。大地に足がついている者は、たとい師の教をそのまま師の前で講説しても有難く説くことができる。梅はすべて同じく梅であっても、古今東西いまだ同じ花の咲くことを聞かぬ。領解とは、まことにかくの如きものである。内を見れば実に頭の下がらぬものがある。これをどうするかというのでは不信である。頭の下がらぬ私でございますと頭をさげきるところに切れた信一念がある。さげればさげるほど、さがらぬ自分が見える。見る自らは自らに非ずして、願力自然の仏であり、さがらぬ自己は業道自然の自己である。」

「存在自体が物を言う人物にならねばならない。それは、自分の心の中に、自己肯定して何か尊いようなものが出てくる。それをすべてかなぐり捨てて、自身の中に愚悪あるのみと信知することによって成就する。大愚にかえるのである。きれいなものはすべて如来浄土におかえしする。そこに愚者としてひれ伏す天地がある。こうしてだんだんと、存在自体が物をいうようになるのである。」

 「人生五十年まことにわずかの間である。われわれの持っている物はすべて死の前には何の役にもたたず、置いてゆかねばならない物ばかりである。その時にただ一つ、念仏のみが私のものである。つね日ごろ、わずかずつでも、この事を思わして頂きたいものだ。」

(『親鸞にであった人々』より)

(注)細川巌は、広島文理大学生の時、文理大・高等師範学校が住岡夜晃の下に敷設した健民修練所(通称、清明寮)の寮長として入所した。以来、住岡夜晃を師として仏道を歩み、広島大学、福岡教育大学および九州大学の仏教青年会を指導した。生涯を仏法の自信教人信に尽くした。広島師範学校教授、広島大学教授を経て、福岡教育大学教授を務めた。福岡教育大学名誉教授。理学博士。一九九六年没。「御一代聞書讃仰」、「十住毘婆沙論ー龍樹の仏教ー」、「晩年の親鸞」、「信は人に就くー唯信鈔文意讃仰ー」、「善導和讃讃仰」、「自己を超える道」等、多くの著書がある。