人生の設計図

細川巌先生講演要旨 − 佐々木一味記

 本稿は、昭和四十三年九月七日徳山市民館で行われた、「親鸞にたずねる会」主催の文化講演、福岡教育大教授(当時)、理博、細川巌先生の講演要旨を、佐々木一味氏(周南市栄町、故人)がとりまとめられたものである。

 ご紹介に預かりました細川でございます。学校では化学を教えておりますが、同時に仏教研究会という会でその方の顧問をしております。今晩は化学の話でなしに精神的な方面に関係のあるお話を二・三致したいと思って参りました。大体一年に六−八回徳山に参っておりまして一部の方々と仏教のお話をする事がございますが、今晩は仏教というふうにすぐ打ち出すのでなしに「人生の設計図」という事であります。題名が説明不足ですが、「幸せな人生の為の設計図」または「意義有る人生の設計図」ということでお話し、後でご質問や皆さんのお考えを承りたく思います。

一、人生二度なし

 先ず人生の設計図・見取図を考えるのでありますが、例えば家を建てようと思うと、平屋か二階か、間取りはどうするかと色々設計を考えるわけであります。またマラソンでもやろうという事になりますと、初めはどんなスビードで走り、真中へんはどういうふうに走って、ラストスパートはどこからかけるかというふうに、大体のデザインを考えるのが普通でございます。処が人生の設計図という事になりますと、非常に様子が変って参ります。どこが違っているかといいますと、人生そのものが二度ないという事でございます。
 レースの場合は本番をやる前に必ず練習をする。そしていよいよ本番という時、自分の全力を発揮して走るわけですが、人生二度なし、という事は残念ながら練習してみてから人生にとりかかるというわけにはいかないのでありまして、一度きりしかない。我々の人生は初めから本番なんだという処が非常に違う訳です。
 家の設計なら色々やりかえがきくわけですが、我々の人生は既に始まっていて、もはやバックがきがない。そこで恋愛がよかろうと思って結婚してみたけど、どうもいかん、やはり見合結婚がよいといってもう一遍やり直す、というわけにはいかんのでありまして、これをまとめて申しますと、“人生は二度ない”という事、従って取り返しがきかないという事であり、これが本番でリハーサルがきかんという処が、他の設計図を考える場合と非常に違っているわけでございます。
 もう一つ言えば、既に人生は始まっている訳で、これをマラソンで申せば、既にスタートのピストルは鳴って、我々は走っておる訳です。走っている最中に設計を考えんならん処が普通の設計図と違っており、第三はどこに行くのか目標がハッキリしないという事でございます。
 人生は二度ないのであり既にスタートは切られているのに、どちらに向って走ったらいいんだろうかと言いながら走っているといいう状態でありまして、誠におそまきながら我々は自分の見取図というものを、今から持たなければならない。そうしないと所謂酔生夢死と申しますが、酔っぱらったような人生、空しい人生、遂に目覚める事のない人生になる訳であります。
 次に、二度ない人生の見取図を考えてゆく上から大体人生を三つに分ける。昔は人生五十年、今では七十年としますと“これが本当に意味ある人生への出発点だ”という点、それは“足が地につく”という点、それが一つあるだろうと思います。足が地につくとは“立つ”という事。孔子は“我十有五にして学に志し、三十にして立つ”と言った。そこから本当の人生が始まるわけですね。
 そこまで何年かかるか人によって違うけれども、私共はこの足が地につくまでの距離をできるだけ縮めて、三十才前後を目標にするのが第一の設計であろうと思います。もう一つ大事な点は人生のラストスパートをかける時期−競馬でこれを誤ると、のびてしまうか力を発揮し得ないで終ってしまう。そこで、ある処で本当にシャンとしなければならん。
 人生二度なしと言いますが、先ず足が地について本当の人生へ出発するまでの第一期、次は足が地について歩む充実期、そしてラストスパートの結実期というふうに人生を三つのコースというもので考えてみるのはどうであろうかと思うのであります。
 これは私が思いつきで申し上げるのでなく、長い人類の歴史の中で人々に仰がれている高い人格というものは、全てこの三つのコースをもっているのであります。これが私共に大きな指南を与えるのではなかろうかと思います。

二、日常的人間

 第一のコースは、本当の人生へ出発する迄と申しましたが、今そういう処へ向っているが、まだそこへ到達していない存在が“日常的人間”と言われる訳であります。これは実存哲学の人々が使われるのですが、日常性に追い廻される存在を言い、仏教では凡夫といってきました。普通の人間・あたり前の人という訳であります。人間は初め日常的人間として存在する。その生活内容は性と経済と名利。性は男女間の問題、セックスといいますね。経済というのは金。金を金をという訳です。名利というのは人からよく思われたい、かっこよくしたい。そういうものを日常生活といいます。こういう処からは私の言います“意義ある人生の設計図”は生れてきません。
 日常的人間の特長を、実存哲学のハイデッガーは三つあげました。第一はムダ話が多い事。それはむなしい話であって、人のうわさ話、悪口、異性の話、酒、マージャンの話。要するに、あの人この人といって、外側の話が中心であって自分というものを考えない。たとえ自分の事を考えているようでも、実は外側のものに縛られている。あの人は私の事をどう思っているだろうかというような事に追い廻され、それが口にでるとムダ話となる。
 第二はキョロキョロ。せんさく好きで何かよい事ないかといつもキョロキョロして心が定まらない。好奇心に富んでいるといえば面白いんですけども、自分自身が充実せずフラフラしているものですから、いつも外に刺激を求め何か相手を見つける事で自分の充足感を味わおうという訳であります。博多駅の工事中、地下を掘っているときの事、板囲いの或る高さに穴があけてガラスを入れてある。傍に大人用と書いてある。穴が作ってないと好奇心にかられて、いつ板を壊されるか分りませんから作ってある。腰の高さにもあって、子供用と書いてある。子供もキョロキョロしている訳ですね。もっと低い所にもあって、これは犬用と書いてある(笑声)。これは冗談ですが、犬も子供も大人も、皆キョロキョロしているというのが、日常性の特長の第二ですね。
 第三は中途半端。何をしても続かん。冷水摩擦を始めたが一週間でやめた。散歩も一ケ月続かんというふうに色々やるんですが、結局この人はこれだけはやり遂げたというものをもたない。
 こういう段階では、どんな設計図を書きましても、自分というものが抜きになっていて、あの設計図がいい、この設計図がよかろうと、いつもキョロキョロしているから続かない。人間は何とがしてこの日常的人間を脱却しなければならない。

三、足が地につく

 では、日常的人間を脱して、ムダ話でなくキョロキョロでなく、中途半端でなしにやっていくのはどうして出来るか。先ずこれが出来た段階を、足が地につくと申します。私共は日常的人間であってそのまま一生をゆく人もあります。或いはある時期に日常的人間に打止めをして「そこから本当の人生を生み出した人もあるのでありまして、今はそういう処を求め考えている訳であります。
 足が地について真の人が生れる。孔子は三十にして立つといいましたが、立つとは足が地につくという問題。一つの大地をもつ、或いは立場・立脚点をもつという事が大事で、その時期が早い程大変な事であります。
 私共は立つというと学歴というものを考えまして高校よりも大学、大学より大学院、或いはもう少し上があるならその上にと、何か学歴をつんでゆくと立場ができ、立脚点ができて来るんじゃないかというふうに思う。或いは女性ならいい結婚をしたら足が大地につくんじゃないかと、こう思うんですが、そういう学歴、地位、結婚相手で決まるのではないんであって、日常性を打破する処に立つという事がある。
 学歴の方から申しますと、大きな会社の初代の社長という人達の約九十%は、昔の小学四年卒業であるという。例えば豊田佐吉という人は、小卒の大工さんであったが、紡績機を発明して豊田市という市の名にまでなっている。また御木本という人も小学四年卒だが、真珠を養殖して世界に輸出し外貨を獲得した。
 気骨をもって人生を歩きぬき、数多くの業績を残した人は、必ずしも学歴をもたない。
 それは昔じゃないかというとそうでない。今でもそうであります。資本金何億というような会社でなしに、中小企業とか商売というようなものは、大学を出ていない人が社長になり、主人になっているのが随分多い。本当に人間が独立してやってゆくという事になりますと人生最後の段階、六十・七十才になった処で、なお且つ人生に大きな貢献を与えているという人には、大学を出た人は少ない。大学卒は大体サラリーマンか何かで早く停年で終っているわけです。現代では、もはや学歴はものを云わなくなって来ている。大学の数がふえたのがその理由の一つ。学歴偏重の反省期に入っているといいうのが現実であります。
 一つの大地をもつ、足が地につくという問題をもう少し言いかえますと、我々は、例えば一粒のタネ、固い殻の中に入って保護されて存在するタネである。タネにはどういう生き方があるかといと、タネ一粒として穀でタネを守ってゆくという生き方、虫に食われぬ様、ふみつぶされぬ様、或いは腐らない様に守るという生き方。人間もそうであって、人間の殻を仏教では色々に言いますが、我執とも申します。親鸞聖人は自力と言った。
 自力とは自分の力と考えますが、そうではなくて、これは仏教用語であって人間の自己保持の思いを自力という。それは一つには名聞(人から悪く思われたくないという殻の中で自己を保持する。笑われてはいかんと、いつも自分の姿勢を正す働きをする訳です)、次は利養(損したくない、得したいというソロバン根性。今勉強しとかんと先で損するという様に、これがあるから人間は努力する)、第三は勝他(人に負けてはならん。一歩でも先にという負けじ魂。これあるが故に競争心というか意地張りの心というか、しっかりやろうという奮発心がおこる)。
 こうした殻の中で自分を守り、自分の穴の中で自分というものを伸ばそうという事になりますと、中のものを腐らんように人から踏みつぶされん様にしてゆくという事になります。実は人間にとって大事であって、殻がなければ人間は人間として大きくなれない。例えば卵の殻がないと黄身と白身が流れ出てしまって、卵として成り立たない様なものである。しかし殻がいつまでもあったのでは、黄身・白身に終わってしまう。
 いま大地に立つというのは、タネが太陽の光にあい、地中に埋められ、水を与えられ、空気があると、自分の殻を破って、芽を出し、根を張ってくる。殻は中身を保持するだけでなく、破れるという処に殻としての本当の意味が出てくる。これを足が地につくという。
 そこで、人間は芽も根も出ない一粒のタネで一生を終ってしまうのか―私は、タネとしてなら設計図はいらない、意味がないと思う。タネだけであるなら日常的人間である。一生の間には結婚したり子供が生れたり、色々の事がありましょうけれども、遂に空しい一生に終るのではないか?
 私のいう“意味ある人生の設計図”はタネが発芽し、根を張る処から始まる本当の人生に於て必要である、こう思うのであります。
 それは仏教或いは東洋の精神文化の教えている問題であって、孔子は三十而立と言った。そこに初めて伸びてゆくべき大地をもつ。大地をもった者にして大空(広い世界・永遠の世界・仰ぐ世界)をもつのであります。足が地について初めて頭が大空を仰ぐ、そういう処に人生の出発点があるのではないか。
 しかし日常性が破れていないと、それは如何ともし難い。それを親鸞聖人の教では“自力を打ち砕く”という。それは人生への発足という事を問題にしているわけであります。人間の穀を破って本当に大地に立つと共に、一方に於ては大空に伸びてゆくという事が、仏道の出発であり、親鸞聖人の教の基本の一つである。そこで“自力をすてて他力に帰す”とこういう。
 では自力が打ち砕かれるというけれども、その意味はどういう事か。卵の殻を打ち砕いたのでは、中身がドロッと出て卵が死んでしまう。
 人間も、名聞・利養・勝他の心があればこそ、人間として成り立っているのであり、人生に生きてゆくには、人に負けてはならんし、一生懸命損せんように働かんならん訳です。
 打ち砕くというのはなくしてしまう事ではありません。殻はありながら殻を破るというのは、穀の中に閉じともっていた胚芽というか双葉が伸びていって殻をおし分けて出てくるという事。そこには太陽の光と水・空気・大地といったものが必要である。それを他力という。タネ以外の力である。光は教とか本願力である。そういうものを受けとめて、自分自らが殻をおし分けて出てくる。殻は残っているままが破れているのである。
 孔子は世界の四大聖人と云われているが、“三十にして立つ”といったのが非常に偉い処ですね。色々の人がどういう年令で、自分の殻を破って大きな世界に出たかと申しますと、釈迦という人は二十九才で出家し、六年の修行を経て、三十五才で悟りを開かれたと申します。
 親鸞という人は、二十九才の時叡山をおりて法然上人の門を叩き、大いなる世界に出られたわけですが、のち越後に流されて大きな転回をとげたと云われますが、その年を申しますと三五才である。そういう処からみますと、凡そ三十〜三十五才という処で、一流の人は大きな世界に出られたのであろうという事が云われる。
 我々はそういう人々に遠く及ばない存在であるけれども、人間というものは大体似たりよったりのものであって、私達も自分はつまらんと思ってはいけない。大体、三十五才までに足が地につくというのが理想的な生き方であります。日常的人間、即ちセックスと経済と名利に引きずり廻されている我々が、本当に芽を出してゆくという事は、一応三十〜三十五才というのが設計の第一になるわけであります。
 さて設計はそうかも知らんが、それにはどうしたらなれるかという問題にも、触れねばならんわけである。足が地につく事を仏法の言葉では、菩薩地とか初歓喜地と申します。菩薩の立つ大地が歓喜地といい、歓びに満ちているという。人間はそこで生き甲斐を感じとって生きる。ことができる。
 これに至るに仏教では第一に資糧位という。資はもとでであり、糧はかてである。初めはわからなくても、将来のあなたのもとでとなりかてになるもの、あなたを必ずたすけて深い働きをするものを仕入れてゆくという事、それを教えを聞くという。聞くという中には読む事も入る。聞いてよく考えそして質問する・たずねるという事。
 第二は加行(けぎょう)位。これは実行。何か一つ実行しなけりゃならん。そして第三の通達位に至る。この通達位が今の歓喜地であって、そこに人間の本当の生き甲斐がある。これを不退といい四十一段の菩薩の位であるといわれます。
 我々は初め日常的人間である。私も貴方も君も僕もである。そこから足か地につくにはどうするか。先ず資糧位、次に実行。それによって初めて不退転といい、正定聚の菩薩といわれる世界に出ると申すのであけます。これを別の言葉でいうと、立志(志を立てる事)が大事。そして中途でやめないで貫き通す努力。第三に実行。この三つが大切。これを続けてゆく為には実は先生(よき師よき友)というものが蔭に隠れていますが、本人の側から申すと、このように立志と努力と実行。
 話が横道にそれますが、子供の教育というものを考えてみますと、大事な事は何か一つ決めた事を努力して、貫き通す癖をつけておく事だと思います。私共、毎年夏休みに少年錬成会をやっていまして、広島・宮島方面では今年で七回、久留米で三回目ですが、参加する小三〜中三の子供達に実行するようにといっている事が一つあります。食事の時合掌して食前・食後の言葉をいう事を続ける。かなり徹底して毎年やります。子供は純真であって、家に帰っても続けている者が多い。何かそういうふうに小さい事でいいから、実行し続けてゆくという事が大切であります。それが大きくなって足が地につく場合の根本になる。

四、充実期

 さて、次に第二の時期、足が地についてからの行き方は、人生の現実での苦労を重ねてエネルギーを蓄積するという事。伸びんとするものは屈すである。それは意図的ではなくとも、先ず人間は苦労を重ねる様になっている。それは年令からいって三十〜四十或いは三十五〜四十五という壮年期の十年間は、苦労を重ねる程力が貯えられるという年代であります。
 苦労にも色々ありますが大別すると、一つは個人苦(自分に持病があって体が弱いとか、学歴がないとか、器量が悪いとかいうような個人的な問題。これはなかなか人には言えない問題で、じっと内にもっていなければならん。誰にもある問題であって、器量がよければ、健康なら、学歴があれば個人苦はないかというとそうでない。それぞれ劣等感なり、いろんな悩みをもっている訳です)。
 もう一つは職場苦(いつまでたってもうだつが上らないとか、商売を一生懸命やるんだが儲からんとか、この職は私に適しているんだろうかとか、友達はどんどん昇級してゆくのに自分は認めてもらえんとかいう問題)。
 或いは家庭苦(夫婦間の問題、親子間の問題などあるわけでして、現代親子の問題は深刻でありまして、家つきカーつき婆ぬきという言葉にも見られるように、非常に親子の問題は難しい。又、女性の場合、子供が中学生になると、母親としては扱い難くなるとか、主人は勤めに打ちこんで自分との対話が減ってくるなど)。
 こうした苦労が壮年期には段々と積もってくるわけであります。足が地についていない間は、そういう苦労が受け止められないで、人の方に向いて相手が悪いんだという見方をし、或いは、どうせ認められないんだとすねておったかも知れないものが、足が地についてくると、その苦労で愚痴を言ったり押しつぶされたりしないで取り組んでゆく、背負うてゆく様になる。先に申す一粒のタネが根をおろすとは、実にこの様な現実の問題から逃げないで、ぶつかってゆくという事であります。
 いま日本に色々と平和運動がありますが、平和運動する者自体がけんかしている。幾つにも分裂して相手を悪く云いあっています。この人達は大事な問題をすぐに抽象的にして逃げておるわけです。夫婦けんかの絶えない先生が、学校で子供の教育している様なものですね。実際に足が地についておると、苦労を背負うてゆく。人生設計の第一は足が地につくという事。第二は現実の苦労をそらさずに受けて立つという事。そういう人はどうなるか。一口にいうと「悪人」が生れてくる。或いは頭の低い、人生を深く理解できる人が生れてくる訳であります。
 これが壮年期の骨組でありますが、この十年間にやらねばならぬ内容を、具体的に申しますと、第一は自分の仕事に精励する事。これはわかった様でなかなかそういかない。大分前ですが、ある所で将棋の丸田八段と一緒に食事をした時、八段に色々遠慮なく聞いてみました。「プロの人とアマチュアの人とどこが違いますか」と問いましたら、「プロの人はいつも将棋の事を考えているという事でしょうね」という事でした。成程と私は非常に教えられました。野球の選手でもそうでしょう。我々アマは将棋や野球が好きだとしても、時々しかやらない様になっている。
 足が地について一歩を歩むようになると、第一に仕事に励む。これを別の角度からいいますと、大体週刊誌というものは読まなくなる。と私は思います。勿論、散髪にいって一寸目を通す様な事はあるけれども、週刊誌の半分はセックスで半分は人のうわさ、いらん事である。それを読んで発奮したという人は余りない。それよりも、仕事の本を読む様になる。
 第二はよき師・よき友をもつようになる。そして励ましたり慰めあったり相談したりする。
 第三は貯金をする様になるだろうと思う。これは意外と思われるか知れませんが、人間がシャンとしてくるとムダ使いしなくなる。経済的にも独立した生き方をする様になる。内村鑑三という人は「金というものは最上のものではない。けれども非常に大切なものの一つである」と言っておられます。極めて当然の話ですけど、人間が本当に独立してゆく上に、金は大事なものであります。

五、結実期

 次はいわば人生のラストスパート、結実期でありまして、そのラストスパートをかける時期は大体五十〜五十五才といっていいでしょう。
 孔子は「三十而立・四十不惑・五十知命」と申しましたが、自分の立つ大地が十年間の努力を通してみて、間違いないものであるという確信を不惑といった。知命、命を知るという事は、今晩お集まりの大部分の方達にはかなり先の事に思われましょうが、若い人にもこれも大事な事ですし、又そういう年令の方には切実な問題です。それをラストスパートという。
 知命を孔子は五十といったけれども、我々に於ては五十五〜六十になり、或いはもっと先になるかも知れん。しかし命を知るとはどういう事だろうか。それは現在という地点に立って、過去をふり返りそして未来を望み見る「展望」をもつ。それが知命の初めだろうと思う。“年たけてまた越ゆべしと思いきや、命なりけり小夜の中山(西行法師)”命なりけりというのは、宿命であった。さだめであるなあという意味で、自分の来し方を展望点に立って省みる、そこに現在の自己をみる時云われる言葉であります。
 私の人生のラストスパート、最後に自分の力を注いでやらねばならん問題は、いわば自分の生涯を捧げるところ、そういうふうなもの。それには先ず過去を展望し、そこには色々の失敗や間違った事、つまらぬ事もあったけど、全てが生かされて、今私はここに立つ事が出来た。歩んで来た道を思う時“命なりけり”私の歩まねはならんコースであったという、そういう点をもつ事が或る時期に必要である。親鸞は「遠く宿縁を慶ぶ」といった。自分の過去をふり返って慶ぶものをもち“命なりけり”と感謝できる地点をもつ。
 その地点は同時に未来を展望する地点。そこに自分の降りてゆくべき人生のコース、降り道、私がこれからやる問題を考えてゆく。私が世の中、人の為に働ける道を考えんならん。
 現代は五十〜五十五才で停年という時代。この時期には何を考えるかどいうと、どこに遊びに行こうか、どの子にかかろうか、そういう展望しかない訳である。私の言う“意味ある人生の設計図”というのは、少しでも人々の為に役に立つ生き方、そういう展望のできる設計図であります。
 未来への展望はどうなるか。色々考えるんですが、それは教育であろうと思う。スイスの有名な教育者ペスタロッチは、初め農村改革を志して失敗した。そして孤児の教育を始める。そういう処に打ちこみ始めたのは、彼が五十才を越えてからであった。子供には子供でなければ持たぬものがある。そこに着眼して、次々に幼児教育から国民教育というものをやってゆく。また親鸞という人は、七十六才で和讃を書き始められた。和讃というのは和語讃嘆であって、当時は仏教の本は全て漢文であったのに対して、和語・カナ文字で書いて、学問のない人々にも仏法を伝えようという気持の表われであった。
 讃というのは讃嘆でありまして、七五調の歌にして大体十年かかって五百首書きあげてゆかれた訳であります。
 即ち人生の展望というものからいいますと、私共は老後をどうして楽しもうかと考えるのでありますが、そうでなしに、何か人々の為に役立つ事はないかというようなことが出てくる設計図、それが意味深い人生の最後を飾るものであろうと思うのであります。
 そこで私共の出来る事で孫のしつけということはどうだろうかと思います。私にはまだ孫はおりませんが、孫を育てるというのでなしに、孫のしつけというものは、シャンとした年寄りが受持つべきもの、責任ではないかと思うのであります。大体子供のしつけは親がするのが当然であります。けれども、子供のしつけに大事な十才までの頃の親は、三十〜四十の一番忙しい年代であり、あくせくしながら働いている。そこに年寄りの出てゆく場がある。
 どういうしつけが大事かというと、色々ありますが、一つは朝晩神仏を拝むというしつけ。これは小さい時から、お爺さんお姿さんが働きかけてゆくべき事であって、それが幼いときから出来てゆく処には、深い家庭教育というものがあると思うのであります。
 例えばこのように、何かそこに他へ働きかけてゆくものを持ちたい、そういうのが「展望」という事の骨子でございます。

六、附録

 以上で、“意味ある人生の設計図”の概要は終ったのでありますが、最後に一つだけつけ加えておきます。それは、既に結婚しておられる方もありますが、未婚の方が多い様ですので、よい結婚をするという事に触れておきましょう。
 本当に人生を生きぬいてゆくには、本当の家庭を作らなきやいかん。それは当然のことですが、夫婦が愛情によって結ばれると共に、互いに尊敬しあってゆける友達といいますか、自分の足りない処を相手がもっていて、自分がそれを尊敬できる様な、そういう敬と愛とで結ばれてゆくのが、本当の夫婦というものである。そういう配偶者をもつという事は、人生を設計して進んでゆく上に実に大きい力をもってくるわけであります。
 そこでどういう女性が立派な妻になり得るか。又どのような男性が頼もしい夫になるかという事。人を見るには色々ありましてこれは附録ですから当たらんかも知れませんが、女性を見るには昔から言われていることで、履物を脱ぐ時、ようと見ておくと大体わかる。キチンとならねばいかん。これは自分でやってみるとわかりますが、非常に難しいことであります。
 なぜかというと、履物は人のいない所で脱ぐ場合が多い。そこで思わずパッと乱れる。殊に便所のスリッパかそうなり易い。それをいつもキチンと脱ぐ人は、人の乱れている履物も揃えてあげる女性でありましょうが、この人は大したものであると思っていい。間違いないですね。もっともそれができん女性でも間違いのない人があるかも知れませんから(笑声)そちらには触れないでおきます。
 次に男性を見る場合ですが、シャンとした男性というものは、所謂おべんちゃらを云わない。これを仏教では諂曲(てんごく)という。諂(てん)はへつらいおもねる、曲(ごく)は曲げる。そう思ってもおらんのに、自分の気持をおし曲げて相手におもねりへつらう、従って女性がいると、何となく女性の好きそうな事をいう。上の人がいると上の人にへつらうという様な男性は、用心しなきゃいかん。
 どんな男性がいいか。色々あるが「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)仁に近し」という言葉がありますが、余り女性の前で女性の気に入る事を言えない人が多い。しっかりしとる男性は、そういう傾向にあるようです。

七、結び

 今晩のあらすじは、二度ない人生の中で、我々は先ず日常的な人間を打破しなくてはならん。そこから設計が始まるのであって、次に苦しみを受けて立つという何年間かをもち、その中で仕事に精通してゆく。そして最後の人生の展望点に立ち、自分の生涯を捧げてゆくという何かを持つ。そういう処に“意義ある人生の設計”の概要があるのではないか。
 私は今四十九才でありまして、展望点から先の方はまだ考えの足らん所もあろうかと思います。このあと時間の許す限り質問なりご意見なり承ったらと思います。

(この後の座談会、約一時間の内容は割愛します)

ページ頭へ  |  目次に戻る