『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

註 (補 説)
<五 第七章 無  碍>


1・念仏者の者の字の意味するもの
 第七章の冒頭の「念仏者」の者を虚字とみるか、実字と読むかということが、従来から問題になっているが、多屋頼俊氏は、その著『歎異抄新註』(六八頁)に詳細に検討されて、「念仏者」の者の一字は虚字とみるべきであると結論づけられている。また、曾我量深先生は、「念仏者」は法をあげ、「信心の行者には」は機をあげる、とその著、『歎異抄聴記』(曽我量深選集・第六巻・二〇三)で注意され、また、「念仏するものはというからむつかしくなるので、これは念仏なるものはというのである」(同書・二〇一)と説かれている。
 考えてみるに、「念仏者」はとは、単なる虚字ではなく(勿論、実字に読むべきではない)、者の一字に、「念仏なるものは」という重い語調を感ぜしめるものがあるのである。すなわち、その語調は念仏は「罪悪生死・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための」(第一章)法である。いわゆる、人間の実存に応えた法であることを訴えているのである。念仏は、実存の法であり、感の法である。(安田理深先生が、曾我量深先生の教学を「感の教学」と名づけられている)感覚・感情の世界の法であり、また、諸法・万法の法であって、観念の法ではないのである。すなわち、念仏は、主体論的・存在論的法である。かかる念仏の意義を「者」の一字に暗示されているのである。
 かくのごとく考えるとき、「念仏者は」、「念仏なるものは」という文字に、念仏という法は、単に、「者」の一字を虚字として、「念仏は」と読み流せないものがあることを表現しているのである。

2・無碍
 無碍というについて、親鸞は、無碍光如来として説かれていることが多い。  

尽十方無碍光仏と申す。光の御形にて、色もましまさず、形もましまさず。即ち、法性法身に同じくして、無明の闇をはらい、悪業にさえられず、この故に無碍光と申すなり。無碍は有情の悪業煩悩にさえられずとなり。

と、『唯信鈔文意』(全書・二・六三一、六二二)、『御消息集』(全書・二・七一一)などにみられる。「行巻」所引の『論註』の文における無碍の問題は、生死即涅槃の自覚である。「是の如き等の入不二の法門は、無碍の相なり」(全書・一・三四六)と説かれているところである。すなわち、煩悩と菩提、悪と徳など、相対するものが、その相対を超えて、煩悩即菩提、転悪成徳などと不二(絶対肯定)に証入する法門が無碍の相であると説かれているのである。「念仏者は、無碍の一道なり」とは、念仏こそ、入不二の法門であるというのである。
 さらに、二河譬における白道であるが、親鸞は、「信巻」の「白道四五寸釈」(全書・二六七)に、白道を、白は選択摂取之自業・往相廻向之浄業、道は本願一実之直通・大般涅槃無上の大道と釈し、それに対する黒道(路)を、黒は無明煩悩之黒業・二乗人天之雑善、路は二乗・三乗・万善諸行之小路と釈し、四五寸とは、「衆生の四大・五陰に喩ふるなり」と釈されているのである。しかし、白道と黒道(路)と二道あるのでなく、仏法は入不二の法門であって、黒道がそのまま、白道に転ずるのである。すなわち、そのよく転ぜしめるものは「能生清浄願心」であり、金剛の真心であり、純粋意欲である。ここに、入不二の法門は、われらにおける純粋意欲ということになる。
 いま、『論註』と『観経疏』にもとづいて入不二の法門を、一は、本願念仏の教法に、一は、われらの純粋意欲に見いだしたのであるが、この入不二の法門こそ、絶対無碍の自由の相を示しているのである。

3・外道について
 親鸞教学における「化身土巻」の位置は大きく、親鸞教学は、「教巻」からみるときは、往・還二廻向、「化身土巻」からするときは三々(三願・三機・三往生)の法門と体系づけられるのである。三々の法門とは
      (三願)(三機) (三往生)   (三経)  (三門)(三蔵)

    ┌第十九願―邪定聚―雙樹林下往生―『観無量寿経』―要門―福徳蔵┐
 ┌方便┤                              ├化身土巻┐
 |  └第二十願―不定聚―難思往生―――『阿弥陀経』――真門―功徳蔵┘    |
 |                                      |
 └真実―第十八願―正定聚―難思議往生――『大無量寿経』―弘願―福智蔵―前五巻―┘

である。さらに、「化身土巻」は第十九・二十願の方便仮門を、その本巻にあかすとともに、邪偽の外道を末巻にあかされている。すなわち、三々の法門を建てることをとおして、『教行信証』は全宗教界・全思想界に応えているのである。
  正真の教意に拠りて、古徳の伝説を披らき、聖道・浄土の真仮を題開して、邪偽・異執の外教を教誡し、如来涅槃の時代を勘決して、正像・末法の旨際を開示す。(全書・二・一六七)
と説かれているごとく、末法の自覚にたって、内には聖道・浄土の真仮を顕開し、外には邪偽・異執の外教(外道)を批判されているのが「化身土巻」の本末両巻である。末法の自覚にたって批判されているということを注意しなければならないのである。すなわち、内なる聖道・浄土の真仮批判は、末法の時と機にそむくものであり、外なる外道は、仏説にあらざるところの、聖弟子・天仙・鬼神・変化の説であって「四種の所説は信用するに足らざる」(全書・一・一六六)ものであり、まさしく、末法の様相を示すものであると批判されているのである。
 しかるとき、『歎異鈔』においては、方便仮門(第十九・二十願)及び聖道に対する批判は、第十一章以下の歎異八章に説かれるのであるが、外なる外道批判は、直接的には、この第七章の「信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」の一語であると考えられる。それだけに、この一語は『歎異鈔』において重要なるものである。しばらく、「化身土巻」末巻と対応して、この一語を考察してみようと思う。

 すでに、真・仮・偽の仏弟子について(本書・註<四 第六章>・7参照)学んだのであるが、外道とは、偽の仏弟子と説かれているものであって、釈尊時代において、六十二見・九十五種をかぞえられたところの邪道である。しかし、この偽の仏弟子(外道)と仮の仏弟子(内道)との区別は、実は、判然としないのである。すなわち
  五濁増のしるしには
  この世の道俗ことごとく
  外儀は仏教のすがたにて
  内心外道を帰敬せり

  かなしきかなやこのごろの
  和国の道俗みなともに
  仏教の威儀をもととして
  天地の鬼神を尊敬す(全書・二・五二八『愚禿悲歎述懐和讃』)
と悲歎されているところが、それである。
 たとえ、浄土教を自認しているものであっても、たとえば、鎮西の如く二類(念仏と諸行)往生を説くものは、諸善万行をゆるすのである。まして、聖道門は、その理は、大乗の頓教であるが、その実践たるや、歴劫修行の権大乗と区別がたたぬ状態にあることはいうをまたねことである。
  念仏成仏これ真宗
  万行諸善これ仮門
  権実真仮をわかずして
  自然の浄土をえぞしらぬ

  聖道権化の方便に
  衆生ひさしくとどまりて
  諸有に流転の身とぞなる
  悲願の一乗帰命せよ(全書・二・四九四『浄土和讃』大経意)
 その人(機)が、聖道・浄土のいずれにあるとしても、諸善万行をゆるすとき、その人は、権実真仮の分判がつかないのであり、外道と混乱するのである。これが、今日の聖道・浄土の道俗の現事実でないであろうか。理としては、聖道・浄土それぞれに大乗の理をもっているのであるが、その実践の法においては、権大乗・実大乗・真実・方便の区別がつかず、外道との別もまったくついていないのであって、「諸有に流転の身とぞな」っているのである。「外儀は仏教のすがたにて、内心外道」である。さらに、九十五種の外道が、みずから仏道と称して横行しているのであるから、聖道・浄土・外道を区別することがまったく不可能になって、末法の様相をいよいよ深めているのである。  

ひそかに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道、今、盛なり。然るに、諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路をわきまうることなし。(全書・二・二〇一『教行信証』後序)

と、聖人をしていからしむ思想界・宗教界の現実である。ここに、諸善万行をきらって、「念仏成仏これ真宗」と説くところの、「ただ念仏」の本願の宗教の、人類史的意義を思うのである。

      ┌ 真……『教行信証』前五巻……唯仏一道独清閑
      |
  仏弟子 ┼ 仮……「化身土巻」 本 ……聖道諸機・浄土定散の機  ┐
      |                            ├ 実践の法は同じ
      └ 偽……「化身土巻」 末 ……六十二見・九十五種の邪道 ┘

 すなわち、仮の聖道の諸機・浄土の定散の機は、形は仮の仏弟子であるが、現実の本質は、まさしく偽の仏弟子であり、外道である。末法の自覚をもたない仏弟子のおちいる深淵であり、また、末法の現実相である。
 さらに、「化身土巻」末には、まさに、九十五種の外教邪偽を批判して、『日蔵経』、『月蔵経』、および『弁正論』などを、ながながと引用されて私釈を加えておられないのである。すなわち、「信巻」末の悲歎述懐につづいて『涅槃経』を引文されているに対応せしめられていると考えられる。「信巻」末の文は、内なる自己自身に対する批判であり、「化身土巻」末の文は、外なる末法の現実相に対する批判であるが、この内・外に対する批判は、相対応し呼応しあうものであらねばならない。すなわち、「念仏成仏これ真宗」に照らされた、自己自身の現事実であり、また、末法の世界の様相である。
 この外道を「化身土巻」末の冒頭に、『般舟三昧経』を引いて「余道に事うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」と具体的に示されているのである。ここに、仏道に対して、外道を余道と説かれているのであるが、仏道とは、人類の永遠の問題に応えるものであり、永遠の解脱を得るものであるに対して、外道・余道とは、天を拝し、鬼神を祠り、吉良日を視るという現世の禍福にかかわる心の問題である。
 天(天地の神)、鬼神(生霊(しょうりょう)怨霊(おんりょう)などといわれるもの)をおそれ、吉良白をえらぶということは、原始的自然人の宇宙観・宗教観から生まれた感情である。釈尊の仏教は、この原始的自然人の感情を超えて、自覚的人間をおこし、純粋感情の世界をひらかれたのであるが、この自覚的人間を失うとき、原始的感情の世界に転落するのである。「化身土巻」末に、邪偽として批判されるものは、この原始的感情の世界、いわゆる、原始宗教への転落を批判されているのである。すなわち、自覚的人間の喪失を悲歎されているのである。
 かかる批判・悲歎をとおして、『教行信証』の「後序」には
  慶ばしき哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の衿哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(全書・二・二〇三)
と、今日世尊・法然との出あいを謝しておられるのである。
 考えてみるに、仮・偽が「化身土巻」に説かれていることは、「真仏土巻」から流出した報中の化であるとうけとっておられるからである。それとともに、その仮・偽は、「念仏成仏これ真宗」を、また、「唯有一道」をあかす意義をもつものであるという、仮・偽の仏道史上の意義を示されていると考えられる。釈尊を生んだ原始人の宗教は、いままた、本願の宗教の絶対なることを反証する第十七願の意義をもっと考えられるのである。ここに来って、『歎異鈔』第七章の「信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」の一語の深遠なる意味を了解し得るのである。

4・造罪の多少を簡ばず・四不
 『歎異鈔』第七章後半は、罪悪と諸善の問題をかかげて念仏の法徳をあかされているのである。しかるに、「信巻」をみるとき、大信海を嘆じて「造罪の多少を簡ばず、行に非ず善に非ず」(全書・二・六八)と、四不七非をあげて、信心(自覚)の問題を説かれている。すなわち、『歎異鈔』においては、罪悪・諸善の問題が念仏の法徳として、「信巻」においては、同じ問題が自覚の問題として説かれているのである。「信巻」には、「貴賤緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず」と四不をあげ、さらに、「行に非ず、善に非ず」等の七非を説いて大信海を讃嘆されているのである。この四不・七非は

 ┌四不――機の問題……大信海は、機根にかかわりなく、摂することをあかし
 |
 └七非――行の問題……大信海は、分別・理知を超えた世界であることをあかしている

のである。『六要鈔』には、この四不を問題にして(七非は、次の第八章において詳説する)  

不簡等と云い、不謂等と云うは、機を簡ばざることを明す。十方衆生、簡ぶ所なきが故に。不問等とは、罪に依って往生を得ざるに非ることを明す。不論等とは、生ずること自力の功に由らざることを明す。(全書・二・二九一)

と説かれている。いうまでもなく、大信海を讃嘆されるに、機の自覚をもってせられているのである。すなわち、「信巻」においては、機の自覚をとおして、機のうえにひらかれた大信海を讃嘆されているのであるが、『歎異鈔』第七章は、機の自覚をとおし、機のうえにひらかれた大信海の利益(罪悪も業報を感ぜず)を嘆ずる形で、念仏の法徳を説かれているのである。

     『歎異鈔』第七章  「信巻」四不
      ┌――――――┐ ┌――――――┐
  念仏の法徳 ←―― 大信海利益 ←―― 機の自覚

 『歎異鈔』第七章と「信巻」の大信心讃嘆との関係は、上図のごとくになるのである。いずれにしても、「罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故なり」という一語は、罪業ふかく、悪多き者には、感動なくて読み得ぬものである。(上巻・註<六 第一章>・15参照)


目次 に戻る / 註<六 第八章> に進む