『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

註 (補 説)
<四 第六章 教  団>


1・知識帰命の異義
 『歎異鈔』の時代の異義・異端の基調になるものは、誓名別信計、賢善精進計であるが、いま問題にする知識帰命計は『歎異鈔』、『末燈鈔』、『御消息集』にも直接出ていないのである。しかし、覚如の『口伝鈔』、『改邪鈔』、蓮如の『御文』には出されているのである。異義の問題は、いずれこの書の「下巻」において直接ふれることになるが、ただ、知識帰命計が『歎異鈔』などに直接出ないで、覚如の『口伝鈔』などに出されているということは、真宗教団、本願寺教団の問題として考えさせられるものがある。
 すなわち、親鸞・唯円の時代においては「弟子一人ももたず」という同朋教団の意識が、真宗教団の、少くとも表面の、基調になっていたことがうかがえよう。いうまでもなく、当時すでに門弟はそれぞれの門徒をもっていたのであるが、親鸞・唯円は、自己の教団をつくる意図はなかったのである。その後、覚如によって本願寺教団が、関東の門弟たちの門徒(高田門徒など)に対立する形でつくられたと考えられるが、そこに、知識帰命計が教団の表面的な、また、重大な異義として考えられることになったのである。
 いいかえれば、真の共同体・憎伽が、その生命をもっているときは、知識帰命計の異義が、たとえあったとしても、その共同体・僧伽の重要なる問題とはならないのである。この意味から、知識帰命計が問題となるかならぬかは、その共同体・僧伽の生命的・根源的問題として考えねばならぬことであろう。

2・深信自身
 『愚禿鈔』(全書・二・四六七)に機の深信を「決定して自身を深信す」と説かれているがこれは、善導の機の深信の言葉から取り去ることのできる言葉をすべて取り去って、これ以上取り去ることのできないものとされているのが、『愚禿鈔』の機の深信の言葉である。ここに「深信自身」という四文字に、自己自身の尊厳の自覚が表白されているのである。
  如来を信ずるという法によって、初めて自分自身を信ずるのでしょう。……自分を静かに見つめるという余裕がある、これが即ち自信である。……その資格のないものが、静かに自分を信ずることができる。(曽我量深選集・第八巻・一九七)
と説かれているが、「深信自身」とは自己自身の自信である。宿業・実存の自覚をとおして、「正しく、彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、皆是れ、真実心の中に作したまいしに由りてなり」(全書・一・五三三「信巻」所引)と善導が「散善義」に説かれているところの歴史感情を感じとった一人の信(自覚)であり、歴史的確信である。わが業のところに歴史の深さを感じ、その歴史を荷負し、新しく歴史を形成していく、歴史的実存の自覚が「深信自身」であり、一人の信である。また、『唯信鈔文意』に  

「唯」は、ただこのことひとつという、ふたつならぶことを嫌う(ことば)なり。また、「唯」は、ひとりという意なり。(全書・二・六二一)

と説かれているが、「ただこのことひとつ」を見いだした「ひとり」の自信である。「ただこのことひとつ」を見いだした「ひとり」は、その見いだした「このことひとつ」の歴史が、その「ひとり」を、真仏弟子、次如弥勒と名づけてくるのである。宿業・実存の身のままに、歴史的実存とされ、菩薩的人間という位置をあたえられた自覚が「深信自身」である。「弟子一人もたず候」といい得る歴史的独立者の自覚であり、浄土の僧伽・教団に加ったものの自覚である。

3・清沢満之の教団
 「大谷派なる宗門は、大谷派なる宗教的精神の存する所にあり、あに、人員の多寡なるを問わんや、あに、堂宇の有無を問わんや」(『教界時言』)と清沢満之先生は宣言して、宗門改革運動を放棄して、覚如・蓮如による本願寺教団の体制内活動を停止して、広く体制外に呼びかけられることになったのである。「親鸞は、弟子一人ももたず候」という言葉も、当時の既成教団的体制を否定して、親鸞の十方衆生・全人類に対する真の共同体確立の宣言であったと考えられるのである。清沢満之先生の「大谷派なる宗門」とは、未来の衆生に呼びかける絶対僧伽であり、純粋教団であって、それなくしては己れの精神的生命が存立し得ないところである。既成教団の宗旨の名と取っては、先生の宗教的生命をうかがい知ることはできぬのである。

4・一味同証
 「証巻」のはじめに、第十一願をあげて浄土は涅槃界であり、一如の世界であることを九語をもって転釈され、つづいて主伴同証・師弟一味同証であることを釈されているのである。さらに、願文、願成就文等をあげ、ついで『浄土論』の妙声功徳・主功徳・眷族功徳・大義門功徳・清浄功徳をあげて説かれているのである。すなわち、二十九種荘厳功徳のうち、この五功徳をあげて浄土は、主(師)・眷族(友・弟子)と二乗・女人・根欠、すなわち、反逆的存在をもつつむ、僧伽・共同体であることを説かれているのである。なお、この五功徳のうち、眷族功徳について『六要鈔』には「今の釈、最も真実証を明すの要文たるか」(全書・二・三二五)と注意をあたえておられる。  

荘厳眷族功徳成就とは、偈に「如来浄華衆・正覚華化生」と言えるが故に、此れ云何ぞ不思議なるや、凡そ是の雑生の世界には、若しは胎・若しは卵、若しは湿・若しは化、眷族若干なり、苦楽万品なり。雑業を以ての故なり。彼の安楽国土は、是れ阿弥陀如来の正覚浄華の化生する所に非ざるは莫し。同一に念仏して別の道なきが故に、遠く通ずるに、夫れ四海之内皆兄弟と為すなり。眷族無量なり、いづくんぞ思議す可きや、と。(全書・一・三二五「証巻」所引)

と『論註』に眷族功徳を説かれているが、同一念仏無別道故、四海之内皆兄弟、眷族無量ということが浄土の僧伽・教団である。一味平等の世界である。さらに『一念多念証文』に「妙声功徳」の「剋念願生」をかのくにの清浄安楽なるをききて、剋念してむまれんとわがうひとと、また、すでに往生をえたるひともすなわち、正定聚にいるなり。(全書・二・六〇七)
を註釈されているごとく、この一味平等の世界は、浄土の名を聞きて生まれんと願う人にも、往生した人にもひらかれているのである。然るに、現代という時代を思うとき、浄土の名を聞きて生まれんと願う人多きことを考えさせられるのである。ただ、浄土の僧伽・教団、すなわち、真の共同体の原理が(名義)明らかにされているといい得ないことを痛感するのである。また、『高僧和讃』曇鸞章に
  如来清浄本願の
  無生の生なりければ
  本則三三の品なれど
  一二もかわることぞなき(全書・二・五〇六)
と和讃されているごとく、本来、二乗・女人・根欠といわれる人間も、そのままつつまれ、眷族無量である世界が浄土の僧伽・教団である。

5・仏恩・師恩
 善導の『往生礼讃』に雑修の得失を説くに、十三失をあげられているが、その第十失を「化身土巻」に引用されて  

真に知んぬ。雑修にして而して雑心なる者は大慶喜心を得ず。故に宗師は、彼の仏恩を念報すること無し業行を作すと雖も、心に軽慢を生じ、常に名利と相応するが故に、大我自ら覆うて同行・善知識に近親せざるが故に、楽みて雑録に近きて、往生の正行を自陣障他するが故に、と云えり。(全書・二・一六五「化身土巻」には『礼讃』の言葉をかえて引用きれている)

と説かれているが、仏恩・師恩を忘れると、その行動は名利と相応し、同行・善知識に近親せず、本願の歴史からはずれるのである。それは、そのままに自陣障他の道となるのである。ただ、「自然の理にかなわば」と説かれているごとく、願力自然の道理にかなうとき、雑生の世界にいて苦楽万品をうける業道自然のままに、浄土の僧伽・教団に参加することを得て、仏恩・師恩を感知することができるのである。すなわち、歴史的人間となるのであって、そのとき、大慶喜心を得るのである。「噫、弘誓の強縁は多生にも(もうあ)(がた)く真実の浄信は億劫にも獲叵(えがた)し」(全書・二・一「総序」)という感動を生むのである。

6・第二十二願について
 往相・還相的意欲は、人間の本来的にもつものであるが、浄土の僧伽においてよく果たし得るものであり、僧伽の実践である。(本書・註<一 自覚と実践>・1参照)『歎異鈔』第四・五・六章をとおして僧伽の実践を学んできたのであるが、まさしく、還相廻向の願は第二十二願である。願文をあげれば、  

たとい、我仏を得んに、他方仏土の菩薩衆、我が国に来生せば、究竟して必らず一生補処に至らん。其の本願自在の所化、衆生の為の故に、弘誓の鎧を被り、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除かん。常倫に超出し諸地之行現前し普賢の徳を修習せん。若し爾らずば、正覚を取らじ。(全書・一・一〇)

とちかわれているのである。この第二十二願は大きな願であって、第二十三願・供養諸仏、第二十四願・供具如意、第二十五願・説一切智の三願にひらかれ、さらに、第二十三願から第四十六願、第二十四願から第二十七・三十一・三十八・三十九願、第二十五願から第二十九・三十・三十六・四十二・四十五願、さらに第二十六・二十八・四十願等へと展開されるものであって、『大無量寿経』の四十八願中の一大群をなす本願の代表的本願であると考えられる。
 また、第二十二願成就文は、『大無量寿経』下巻「正宗分」に衆生往生の果を説ける一段が、これにあたり

         ┌ 一生補処 ―― 仏告阿難 …… 如我国也(全書・一・二七)
         │
         ├ 供養諸仏 ―― 仏告阿難 …… 還其本国( 同   二八)
         │
  衆生往生の果 ┼ 聞法供養 ―― 仏語阿難 …… 不可勝言( 同   二八)
         │
         ├ 説法自在 ―― 仏語阿難 …‥ 離悪趣心( 同   二八)
         │
         └ 二利円満 ―― 究竟一切 …… 不能窮尽( 同   二九)

となる。『浄土論』においては五功徳門の薗林遊戯地門であり、不動応化・同時利生・無余供養・遍示三宝の四種の菩薩荘厳功徳が、第二十二願からひらかれるのである。しかして、この第二十二願の願名は、諸師は願の文面より、必至補処の願といい、一生補処の願と名づけられているが、親鸞は、除其本願の字に注意され「また還相廻向の願と名く可きなり」とされたのである。
 いま、第二十二願について、その本願の深遠なる展開を学んだのであるが、還相の問題は人類史をつらぬく、人類永遠の願いであり、今日的課題である。その人類史的課題に、経典は重厚なる組織をもって応えているのであり、また、その経典の応答から、今日的課題が如何に深遠なるものかを感ずるのである。

 さて、この往・還二廻向は、菩薩(衆生)の廻向であるが、「まことに、其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁と為す」(全書・一・三四七「行巻」所引)と、曇鸞は『論註』の利行満足章の最後に説かれている。それをうけて「教巻」のはじめに「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり」(全書・二・二)と説かれて、二種の廻向みな如来廻向とされたのが『教行信証』の教学である。
 さらに、「大涅槃を証することは、願力の廻向によりてなり。還相の利益は、利他の正憲を顕わす」と「証巻」を結び、つづいて前四巻の総結として「是を以て、論主は広大無碍の一心を宣布して、普徧(あまね)く、雑善・堪忍の群萠を開化し」(全書・二・一一八)と説かれているのである。すなわち、本願力の廻向によりて大涅槃を証するとき証大涅槃の利益として、還相の利益はあらわれるのである。「往いて還えらずということなし」(『深解会通』)であるが、これが如来の本願の正意である。さらに、天親は、如来の二種の廻向によりて、帰命尽十方無碍光如来という広大無碍の一心(信心)を宣言されたのであるが、その一心に「群萠を開化」する還相の利益がひらかれていると説かれているのである。
 すなわち、人類史をつらぬき、今日的課題である還相は、一心・自覚にたつところにひらかれるのである。証大涅槃をひらいてから後にではない、一心・自覚に還相の根源があることを天親はあかされたのであり、さらに曇鸞をうけて親鸞は、その還相は(往相もつつんで)如来廻向であると説かれているのである。考えてみるに『歎異鈔』第二章の  

詮ずるところ、愚身の信心におきては此の如し。この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また棄てんとも面々の御計らいなり、と云々。

の結びの言葉は、如来廻向の広大無碍の一心の表白であり、還相廻向の「群萠開化」の呼びかけである。如来廻向とは「詮ずるところ」と表白されているがごとく、よき師と念仏の伝承(本願の歴史)である。浄土の僧伽となって地上に、その姿をあらわしているのである。愚身の信心(広大無碍の一心・自利)も、「面々の御計らいなり」と深い情熱を秘めて、全人類に呼びかける(還相・利他)も、ともに浄土の僧伽の実践である。純粋教団から生産された純粋行であり、また、この純粋行が純粋教団を新しく生産していくものである。

7・真・仮・偽の仏弟子
 「信巻」末に、真仏弟子釈をあげて  

真仏弟子と言うは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦・諸仏の弟子なり。金剛心の行人なり。斯の信・行に由りて、必らず、大涅槃を超証すべきが故に、真仏弟子と曰う。(全書二一・七五)

と説かれ、仏弟子を真の仏弟子・偽の仏弟子・仮の仏弟子と分けられているのである。さらに
  仮と言うは、即ち是れ、聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
  偽と言うは、則ち、六十二見、九十五種の邪道、是れなり。(全書・二・八〇「信巻」末)
と説かれているが、仮の仏弟子といわれるものは、如来廻向の信・行なく、超証大涅槃なきもので、聖道の諸機と浄土の定散の機であるが、ともかくも、釈迦・諸仏の弟子であるといい得よう。しかし、偽とは、まさしく外道であり邪道の人である。これを、なぜ偽の仏弟子と名づけて、仏弟子の中に入れられているのであろうか。
 考えてみるに、親鸞の批判は、「仏に帰依せば、終にまた、其の余の諸天神に帰依せざれ」(全書・二・一七五)と「化身土巻」末の冒頭に、『涅槃経』の文を引文されているが、その諸天神を帰依する意識・帰依の立場を批判されているのであって、諸天神を誹謗し、諸天神の存在を否定されていないことは注意しなければならないのである。しかるとき、六十二見、九十五種の偽なる人を偽の仏弟子として仏弟子に加えられていることは、その人の意識の内面に、真実を求めている事実を兄いだされていることになる。すなわち、その人は無自覚であるが、親鸞の眼・法蔵の本願の眼からするとき、真実なる求道心(法蔵精神)が秘められていることを見破られて、偽の仏弟子と名づけられているのである。親鸞の人間凝視の確かさと、あたたかさを思うのである。
 ともかく、仮の仏弟子の問題は『教行信証』の「化身土巻」本に、偽の問題は「化身土巻」末に批判を加えられているのである。『教行信証』に真(「信巻」)・仮(「化身土巻」本)・偽(「化身土巻」末)の問題が応えられているということは、『教行信証』は仏法の僧伽の内に対し、また、僧伽の外に対して、すなわち、全人類に応えられている大乗の論として唯一のものというべきであろう。



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