『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

註 (補 説)
<二 第四章 慈  悲>


1・聖道・浄土二門判
 聖道門・浄土門ということは、道綽禅師の『安楽集』に説かれている教相判釈である。末法の自覚にたった教相判釈である。すなわち  

問うて曰く、一切衆生、皆、仏性有り。遠劫より以来、まさに多仏に値うべし。何に由りてか、今に至るまで、()お自ら、生死に輪廻して、火宅を出でざるや。
答えて曰く、大乗の聖教に依るに、(まこと)に、二種の勝法を得て、以って、生死を(はら)わざるに、是を以って火宅を出でず。何者をか二と為る。一には謂く聖道、二には謂く往生浄土なり。其の聖道の一種は、今の時、証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る。
是の故に『大集月蔵経』に云く、「我が末法の時中に、億億の衆生、行を起し道を修せんに、未だ一人も得る者あらず。当今は末法にして、現に是れ五濁悪世なり。唯、浄土の一門ありて通入すべき路なり」(全書・一・四一〇)

と説かれており、また「化身土巻」には  

凡そ、一代教に就いて、此の界の中に於てして、入聖得果するを聖道門と名く、難行道と云えり。……安養浄刹に於てして、入聖証果するを浄土門と名く、易行道と云えり。(全書・二・一五四)

と聖道・浄土二門を説かれているが、この聖道・浄土の二門判は、龍樹の難易二道判、曇鸞の自力他力判にそのもとを求められたものである。当時の中国仏教の涅槃宗・天台宗がそれぞれ教相判釈をもって一宗を起しており、さらに、時代に相応せる浄土教は広く普及したが雑然とした様相を示していて本願念仏の正意があきらかにされていなかったため、浄土教も一宗を起し統一する必要にせまられていたのである。また、摂論家の別時意の難など浄土教に対する批判論難などがさかんであった。かかる時代をうけて、道綽禅師の聖道・浄土二門判は生まれたのである。
 龍樹・曇鸞の教判をかえりみるとき、龍樹の難易二道の教相判釈は、丈夫志幹にあらざる機の自覚にたったものであるが、時の批判弱く、曇鸞の自力・他力判は、五濁無仏の時の問題にふれておられるが、機の自覚は軽くふれられているのである。この二師をうけて、道綽禅師は時機批判を判然とたてて、末法の凡夫の自覚をあきらかにし、浄土宗独立の宣言をされたのである。すなわち、本願念仏の宗教が、はじめて、一宗をたてることとなったのである。
 ここに、『安楽集』には、「一には大聖を去ること遥遠、二には理深く解散」と、まさしく、時機を批判し、「化身土巻」には、「如来はるかに、末代罪濁の凡夫を(しろしめ)し」て、此土入聖得果は不可能なることを説かれているのである。
 思うに、『歎異鈔』の初三章・安心訓は機の自覚にたって表白されたのであるが、師訓十章の後半・起行訓の最初(第四章冒頭)に、聖道・浄土二門判が説かれているのである。つまり、起行七章と歎異八章を一貫しているものは、この二門判にたった末法の凡夫の自覚である。安心・自覚の問題、自己批判の問題はさておき、実践の問題、他己批判の問題は、厳密なる時機批判をとおした教学批判(教相判釈)をもって、はじめて、なし得るものであることを、『歎異鈔』は語りかけているのである。今日的課題として注意しなければならない問題が提起されているのである。

2・『観経』の散善と『歎異鈔』
 『観無量寿経』の世福・戒福・行福の三福を散善といい、『観経疏』の「序分義」に、「散善顕行縁」(全書・一・四八七「化身土巻」所引)と説かれている。「序分義」においては、「やがて正宗分に説く散善九品の端緒をひらき、三福九品の散善が、往生の業因なるをあらわす経由」という意味の、「散善顕行縁」という語句を、「化身土巻」では、「散善は行を顕わす縁なり」と解釈されている。
 すなわち、『観無量寿経』の顕文に説かれる散善・三福九品は、本願念仏の行をあらわす縁であるという意味になる。いいかえれば、散善・三福九品としてあげられているところの諸善万行、つまり、いかなる実践も、本願念仏の行をあらわす縁であり、道程、方便であると説かれているのである。
 いま、『歎異鈔』は第四・五・六章に、『観無量寿経』の世福が配当されているのであるが、三福を世福におさめて、慈心不殺・父母孝養・奉事師長の世福(世間的・倫理的実践)が、本願念仏への道程の意義をもっていることを示されているのである。
 第四章は、実践の問題をとおして、自覚の問題を問うのである。すなわち、慈悲の問題をとおして、念仏の信の問題が問われているのである。考えてみるに、慈心不殺などの定散二善の問題は、第十九願の問題である。すなわち、修諸功徳(実践)の問題であって、講師は第十九願の願名を修諸功徳の願と、第十九願にちかわれている実践的課題をもって、その願名とされているのである。それに対して、親鸞は、ただひとり至心発願の願という第十九願の信心(自覚)の願名をあげられている点を注意しなければならない。すなわち、あらゆる実践・諸善万行は、つねに、その底に、実践主体の自覚(信)を問うていることとなるのである。いま、あらゆる実践と述べたが、現代における文化の問題である。文化の問題は、つねに、その根底に実践主体の自覚を問うているものであることを、ここにおいて学ばされるのである。
 なお、真の人間、すなわち、大乗的・菩薩的人間における実践の問題においては、第二十願(法執・体験執)の問題が大きい課題であり、その実践が純粋なる実践になるためには、第二十願の自覚をくぐらざるを得ないのである。しかし、第二十願の問題は、その根底に、第十九願の自覚の徹底が必要であると考えられる。曾我量深先生は「二十願を超過し得ないのは、我々が到底十九の願を超過し得ないからである」(自我量深選集・第三巻・一六六)と説かれており、定散二善として『観無量寿経』に説かれている実践の問題が、其の人間成就の問題の根源に横たわっていることを示されているのである。
 以上の意味において、『歎異鈔』の初三章の安心訓も組織的に展開しているごとく、起行訓も並列されているのではなく組織的・立体的に並べられているのであるが、第四章は、その起行訓の根源をおさえている章というべきである。

3・三願的証
 曇鸞の三願的証は『論註』巻下(全書・一・六九「行巻」所引)に説かれているのである。『浄土論』に明かされている、一心・五念・五功徳門を第十一・十八・二十二願の三願に、その証明を求めて、「阿弥陀如来の本願力によるが故に」速やかに自利・利他を満足することを得ると説かれているのである。 
     (『大経』・本願)(『浄土論』)

      ┌― 三 信 ―― 一 心 …………………………… 信 ┐
 第十八願 ┤                          |
      └― 十 念 ―― 五 念 …………………………… 行 ┤
                                |
      ┌― 正定聚 ―― 近門と大会衆門 ┐         |
 第十一願 ┤                |         |
      └― 滅 度 ―― 宅門と屋門 ――┼ 五功徳門 ― 証 ┘
                       | 
 第二十二願 ― 還 相 ―― 薗林遊戯地門 ―┘

 かくのごとく自利・利他、すなわち、往・還二廻向は、阿弥陀如来の三願によって明かされているのであると説いて、速やかに得る証明とされた。これが、三願的証の本来的意義である。
 しかし、この曇鸞の三願的証は、本願の宗教におけるところの、いわば、組織神学というべきものであると考えられる。龍樹が、『易行品』弥陀章に  

是の諸仏世尊、現に十方の清浄世界に(ましま)して、皆、(みな)を称し、阿弥陀仏の本願を憶念すること、是の如し。(第十七願意)  
若し、人、我を念じ名を称して、(みずか)ら帰すれば、即ち必定に入りて、阿耨多羅三藐三菩提を得、是の故に常に憶念すべし。(第十八願意)
人、能く、是の仏の無量力功徳を念ずれば、即時に必定に入る、是の故に、我、常に念じたてまつる(第十一願意)(全書・一・二五九「行巻」、『愚禿鈔』、『銘文(広本)』所引)

と第十七・十八・十一願を取りだしておられる伝承をうけられていると考えるのであり、龍樹の三願、曇鸞の三願による本願論が、親鸞の真仮八願の教学を引きおこすことになったものであろう。
 思うに、教学といわれる限り組織をもったものであるべきであり、また、本願の宗教である限り、その教学の根源は、本願に求むべきであることは言をまたぬことである。そのとき、善導・法然(さらに近くは、蓮如)は、第十八願一願建立の立場であるが、第十八願一願を立場とするときは、よく、自覚をあたえるものであっても、教学的には「行信未分」といわれるごとく、不充分な点をもっているのである。しかし、龍樹・曇鸞を経て、親鸞の『教行信証』がなるに及んで、本願の宗教の教学は、その組織を全うしたものと考えられる。組織をもった教学によってこそ、時代批判・文明批判を生むことができるのである。親鸞の真仮八願の教学、ひいては、曇鸞の三願的証の今日的意義を思うのである。

 しかし、いまは、「上巻」註にも述べたごとく(上巻・註<七 第二章>・30参照)実践(第二十二願)と自覚(第二十願)の問題として考える手掛りとして、曇鸞の三願的証を信用したのである。

4・第十一・十八・二十二願と第二十願
 第十一・十八・二十二願と第二十願(十九願)の関係は深いものがあると考えられる。
 『浄土三経往生文類』に「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり」(全書・二・五四三)と説かれているごとく、念仏往生の願(第十八願)と必至滅度の願(第十一願)とは因果関係にあるのである。すなわち、信を因として、滅度・涅槃がひらかれるのである。
 また、『浄土文類聚鈔』(全書・二・四四六)に
  大涅槃は、即ち是れ、利他教化地の果なり。
  還相廻向と言うは、則ち、利他教化地の益なり。
と説かれているごとく、還相は往相に即するものであって、往相の果である大涅槃の働き(徳用・益)として還相はひらかれるのである。すなわち、第十一願から第二十二願はひらかれるのである。つまり、第十八・十一・二十二願と展開していくのである。
 そのとき、曇鸞は、天親の『浄土論』の偈頌を結ばれている「普共諸衆生、往生安楽国」という還相の言葉に説かれているところの衆生の語につまずいて  

問うて曰く、天親菩薩、廻向の章の中に「普共諸衆生、往生安楽国」と(のたま)えるは、此れは、何等の衆生を共と指したもうや。(全書・一・三〇七)

と問いをおこされて、有名な八番問答を説いて、その衆生を第十八願の機であるとされている。また、親鸞は、それをうけて「信巻」末には、『涅槃経』、曇鸞の八番問答、善導の抑止門釈を引いて、罪の自覚の再確認を説いて、「信巻」を結ばれているのである。(上巻・註<六 第一章>・14上巻・註<八 第三章>・30参照)この唯除の問題は、『尊号真像銘文』にも  

唯除五逆誹謗正法というは、唯除は、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、謗法のおもきとがをしらせんとなり。(全書・二・五六一)

と説かれて、五逆(第十九願)・謗法(第二十願)の自覚を説かれている。すなわち、天親の廻向(第二十二願還相廻向)の文をうけて、曇鸞・親鸞は、新しく、逆謗(第十九・二十願)の自覚にたたれたのである。第十八・十一・二十二願と展開してきたところに、あらためて新しく第十九・二十願の問題が生まれでたのである。
 また、第十八願成就文に、第二十願の「至心廻向」という語句が入っていることが注意されている。成就文は釈尊の表白であるが、その純粋なる願生心が表白されている第十八願成就文の中に、自力の信である第二十願の「至心廻向」の語句が入っているが(本書・第九章・第二節・「果遂のちかい」参照)、親鸞は、「信巻」欲生釈に、その「至心廻向」なる第二十願の語句を、『如来会』にてらして「至心に廻向したまえり」と読みかえられている。(全書・二・六六)釈尊によって、第十八願成就文として表白されているごとき純粋なる宗教心の内にして、なお、第二十願・自力の信がひそんでいるということである。
 すなわち、他に働きかける実践の問題においても、また、自己自身における宗教心・自覚の問題においても、第二十願の問題がつきまとうて来るということを知らされるのである。かかる根の深い第二十願の機を自覚するとき、その宗教心も、その実践も、まったく次元を異にしたものとなるのである。

5・第二十願をくぐって
 第二十願の自覚をくぐったとき、その自己自身のうえにひらかれている宗教心(自利)も、実践(利他)も、他力廻向の事業であることに気づかしめられるのである。
 「証巻」の結びに、『教行信証』の前四巻の総結として、すなわち、「教巻」の「謹んで、浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり、一には往相、二には還相なり」(全書・二・二)という言葉をうけ、結んで  

是を以って、論主(天親)は広大無礙の一心を宣布して、普徧(あまね)く、雑善・堪忍の群萠を開化し、宗師(曇鸞)は大悲往還の廻向を顕示して、慇懃(おんごん)に、他利・利他の深義を弘宣したまえり。仰いで奉持す可し、(こと)に頂戴す可し矣。(全書・二・一一九)

と説かれている。すなわち、第十八願成就文の中の第二十願の語句である「至心廻向」を、「然るに、微塵界の有情……真実の廻向心なく、清浄の廻向心なし」(全書・二二八六)の自覚をとおして、「至心に廻向したまえり」と読みかえられたごとく、「証巻」の総括には、天親の一心にたちかえり、曇鸞の他利・利他の深義をうけて、自利・利他共に、他力廻向の事業であることを明かされているのである。すでに、他利・利他の深義は、この註において(本書・註<一 自覚と実践>・3参照)一応ふれたのであるが  

他利は、中慈中悲でないかと思うのですが、どういうものでしょうか。利他は大慈大悲である。還相廻向の利他は大慈大悲である。これは、阿弥陀如来の廻向であるから、大慈大悲である。ところが、もし浄土の菩薩ご自身の力でもって教化なさるというならば、そういうものほほんとうの意味において無縁の慈悲というわけにいかないので、それは法縁の慈悲、すなわち中慈中悲ということ以上に出ることができない。そういうような意味をもっているのでなかろうか。(曽我量深選集・第九巻・一九四)

と説かれて、自利・利他共に、如来の無縁の大悲廻向であることを明かされている。さらに、『略本私考』に  

他利と利他と左右に分けて、一体をあらわし玉う。仏と衆生と分れば左右あれども、その心性をたづぬれば、ただ一つなり。この一つなるを分けて、仏よりいえば利他という。他の衆生を刺し玉えばなり。衆生よりいえば他利という。他の弥陀に利せらるればなり。一体の上に於て、かくのごとく深義をあらわし玉うなり。(中略)
生仏一体のうえに往還の大悲をあらわし玉う義は、経の従如来生解法如々文、聖人御釈云、従如来生示現報応化種々身文。如々とあるは、仏の如と衆生の如となり。この生仏二如を一如としるを解すると云う。この一如の当体より、報応化種々身を示現し玉う。この示現がなければ、一如のさとりには、いたらせられぬなり。そのゆえは、この一如は、人々具足箇々円成の仏性と名けて、これを聖道門に於ては、自力の修行を以て磨き琢きてあらわせと教ゆれども、今、この凡夫はかなわず、依って、それが為に、本願を起して一如の理にかなわしめ玉うなり。故に、その理性(りしょう)を云うときは、理は本願の真理、性は仏の真理なり。かって凡夫の理性と云うはなきなり。しるべし云々。

と説かれている。この『略本私考』により、曾我量深先生の説をかえりみるとき、自利・利他、往相・還相の問題は、人間の自己自身における心性・仏性の問題であるということである。すなわち、凡夫と名づけられる理知的・日常的人間の問題ではなく、心性・仏性としてとらえられているところの、純粋主体における問題である。純粋主体においてこそ、よく、自利・利他をなし得るのである。さらにいえば  

利他に由るが故に、則ち、能く自利す。是れ、利他する能わずして、能く自利するに非ず。(全書・一・三四六「行巻」所引の『論註』の文)

と説かれているごとく、利他することによって自利する、すなわち、利他によって、純粋主体がなりたつのである。利他によって自利されるのは如来であると共に、それは、如来と衆生との一如の働きであって、純粋主体の働きでなければならない。しかし、この純粋主体に目覚めることは、無縁の大慈悲に、すなわち、本願の歴史によって、如来の利他によって、はじめて得られることである。
 かかる自利・利他の意義を、純粋主体の問題を、曇鸞は他利・利他の深義として説かれてきたのである。
 さらに、『略本私考』には「化巻」の三願転入の文を引いて「これみな、他利・利他の深義なり。しるべし云々」と説かれているごとく、第十九・二十願の自覚をくぐって、真に、他利・利他の深義を自覚することができるのである。すなわち、第十九・二十願の自覚をくぐって、純粋主体、大乗的・菩薩的人間を成就することができるのである。

6・正定と滅度
 正定と滅度の問題は、古来から論ぜられてきた問題である。『一念多念証文』に  

このくらい(正定)にさだまりぬれば、かならず、無上大涅槃にいたるべき身となるがゆえに、等正覚をなるともとき、阿毗抜致(あびばっち)にいたるとも、阿惟越致(あいおっち)にいたるともときたもう、即時入必定とももうすなり。この真実信楽は、他力横超の金剛心なり。しかれば、念仏のひとをば『大経』には「次如弥勒」とときたまえり。(全書・二・六〇六)

 と説かれているごとく、念仏するひとは、正定聚の位にさだまり、無上大涅槃(滅度)にいたるべき身であり、弥勒に同じき身である。しかるに、蓮如上人の『御文』(全書・三・四〇七、一帖目第四通)に  

一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり。

と説かれ、また、存覚上人は『六要鈔』に初益と終益に分けられている。(全書・二・三二)しかし、この二益に分けられるは、一益、すなわち、体験主義に堕ちいるをいましめて、一応説かれているものと考えられる。
 『深解会通』に  

益々(やくやく)(ふたつ)なきゆえに、正定聚即滅度、滅度すなわち正定聚なり。故に、正定聚に住するひと、即ち滅度に至るなり、正定と滅度と二位ありといえども、実は一証なり、一証なりといえども、此土にあるとき正定聚といい、浄土に至るとき滅度を得という。この故に、初後なきに非ず、両土益同じからず、一益と名くべからず。二益というといえども、果体に二種あることなし。所証前後なし、正定を得るもの即滅度をうるなり。両土処別ならず。(中略)既に、一念発起のとき、智光明朗の月あきらかにして、一如法界の真身あらわれり。滅度いづれの時をまたんや。(中略)往相廻向の証果なれば、本願相応のひと、現身にみな得たり。

と説かれ、また、『略本私考』に  

次第前後を見るは、凡夫の妄見なり。平生に於て一念に往生治定とおもうは前なり。念々相続して六十年か七十年なりとも一期を経て、一息断絶閉眼して浄土に生ずるは、後とおもえり。これらは、無前後の処に前後をたてあらそい、無差別のところに差別を立つる凡夫顛倒の妄見なり。いま、必至といい、即得といえり。必と即との二字、これ字眼なり。(中略)凡夫の方に於ては時により縁により正定と思うとも、仏辺よりはいつも滅度のものと見たもうべし。

と説かれている。かくのごとく、この正定と滅度の問題は古来から論議を尽くされているのであるが、『愚禿鈔』に説かれているごとく、正定は前念命終の問題であり、滅度は後念即生の問題(全書・二・四六○)であって、宗教心における自覚と感情・自証と救済の問題であると考えるのである。(上巻・五 前序・「展開する宗教心」上巻・註<七 第二章>・43参照)

 宗教経験を理知的・分別的にとらえて、一益(即身成仏にひとしい体験主義)といい、二益という立場との歴史的闘争の記録が、さきにかかげた『御文』であり、『六要鈔』、『深解会通』、『略本私考』などである。かく考えるとき、曾我量深先生によって「環境はもとのとおり依然たるものであるけれども、信の一念にあらたなる心境が開ける。その心境はすなわち浄土である。浄土であり浄土の門である」(曽我量深選集・第十二巻・七七)と簡明直截に説き明かされるまでの歴史を思うのである。

7・淤泥華の自覚
 曇鸞は『維摩経』の淤泥華(おでいげ)の譬喩を『論註』巻下、観察体相章(全書・一・三三五「証巻」所引)に引いて、菩薩行を説かれている。それを『六要鈔』には
  淤泥華とは、問う、何の華を指す乎。答う。淤と言うは濁、泥と言うは水、濁水に生る華は、是れ蓮華なり。(全書・二・三三四)
と説いて、左のごとき二義をあげている。

       ┌ 淤 泥…………… 衆生煩悩
 ┌ 第一義 ┤
 │     └ 華 …………… 仏 性
 |
 │     ┌ 淤 泥…………… 性 徳
 └ 第二義 ┤
       └ 華 …………… 修 徳

 すなわち、淤泥に象徴される衆生の煩悩は、衆生本来のものであって、その淤泥においてのみ蓮華は生ずるのである。法蔵因位の修行として説かれている歴史的感情も、淤泥において感ぜられるものであり、不動応化・同時利生・無余供養・遍示三宝と説かれている菩薩の四種功徳も、淤泥の自覚において行ぜられるものである。自利・利他、往相・還相は、淤泥の自覚において、はじめて行ぜられるものである。さらにいえば、大乗的・菩薩的人間成就は、淤泥の自覚においてのみ成しとげられるものである。

8・第十一・二十二願の特殊性
 「証巻」に説かれている往相・還相は歴史的主体的実践であって、しかも、自覚的実践である。『深解会通』に
  往いて往くところなきことを知り、還って還ることなきを知る。知るといえども知ることもなく、知ることもなしと知る。これまことの知れるなり。
と説かれているごとく、人間的理知的世界をまったく超えた実践であるが、無自覚的実践ではない。「これまことの知れるなり」であって、理知的に知られるものではないが、主体的自覚的実践である。
 往相・還相を『大無量寿経』の本願に求むれば、第十一・二十二願である。第十二・十三・十七願は、法の三願といわれ如来に属する本願であり、第十八・十九・二十願は、機の三願といわれて衆生に属する願である。ただ、第十一・二十二願は独自の位置をもった本願である。すなわち、『観無量寿経』の第七観に説かれている華座を、善導は別依報と名づけられたごとく、この第十一・二十二願は特別の願の性格をもつのである。つまり、機の上の問題でありつつ、如来に所属しているというべきである。平明に解説すれば、往相・還相は衆生の自覚的実践で、衆生の問題であるが、廻向の二字は如来に属するのである。
 かかる第十一・二十二願の性格から、往相・還相は、人間における自覚的実践であり、人間の上の実践で あるが、その実践そのものの主体は、人間に属するものでなく法蔵菩薩の本願である。淤泥(宿業)の自覚のところに感ぜられる歴史的純粋感情の現行であることを注意しなければならない。

9・諸仏・弥勒等同
 往相・還相の人を、すなわち、大乗的・菩薩的人間を、親鸞は「弥勒に同じ」、「諸仏に等し」と説かれているのである。  

信心の人をば、諸仏にひとしともうすなり、また、補処の弥勒とおなじとももうすなり。(全書・二・六六七『末燈鈔』第七通)

と、同じと等しを、弥勒と諸仏に説き分けられている。しかし、また、『末燈鈔』第七通の前の、浄信宛の上書に  

『華厳経』に「聞此法歓喜信心無疑者、達成無上道与諸如来等」とおおせられて候。また、第十七の願に十方無量の諸仏にはめとなえられんとおおせられて候。また、願成就の文に、十方恒沙の諸仏とおおせられて候は、信心の人とこころえて候。この人は、すなわち、この世より如来とひとしとおぼえられ候。(全書・二・六六六)

と説かれている。すなわち、親鸞は、信心の人を、は、弥勒に同じ、諸仏に等し、さらに、諸仏に同じと絶対肯定の立場にたたれていたと考えられる。
 さきに(註・6参照)聖道門の即身成仏等の立場を否定して、正定と滅度を説かれていたのであるが、煩悩・宿業の自覚をとおして、本願の歴史を見いだし、本願の歴史を荷負するとき、弥勒に同じ、諸仏に同じという確信を得るのである。真の仏弟子にあたえられる確信である。往相・還相の人、すなわち、大乗的・菩薩的人間は、かかる確信のうえに成就されるのである。


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