『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

註 (補 説)
一 自覚と実践>

1 往還二廻向について・一
 往還二廻向は、浄土真宗の綱格であり、天親・曇鸞の教学によられたものである。天親の『浄土論』の薗林(おんりん)遊戯地(ゆげじ)門のもとに、本願力廻向の文字が出ているが、それによって、曇鸞は廻向を往相廻向と還相廻向とに分けられた。五念門の前四門と五功徳門の前四功徳との自利の因果は、ともに自己の往相であるが、ただ利他の第五門にかぎり、因の第五念の廻向は往相であり、果の第五功徳は還相である。これによりて曇鸞は、天親がただ因の第五念にのみ名づけられた廻向の名を、さらに、果の薗林遊戯地門の還相の方にも拡充して、遂に、往還二廻向という法相を建立されたのである。(曽我量深選集・第三巻・一六四・取意)
  

『浄土論』に曰く「云何が廻向したまえる、一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、廻向を首と為して大悲心を成就することを得たまえるが故に」といえり。
廻向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。往相とは、己れが功徳を以て、一切衆生に廻施したまいて、作願して、共に、彼の阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたもうなり。還相とは、彼の土に生じおわりて、奢摩他(しゃまた)毗婆舎那(びばしゃな)方便力成就することを得て、生死の稠林(ちゅうりん)に廻入して、一切衆生を教化して、共に、仏道に向えらしめたもうなり。
若は往、若は還、皆、衆生を抜いて生死海を渡せんが為にしたまえり。是の故に「廻向を首と為して大悲心を成就することを得るが故に」と言えりと。(全書・二・六六「信巻」)
と曇鸞は、往相・還相を定義され、また
廻向の名義を釈せば、謂く、己れが所集の一切の功徳を以て、一切衆生に施与して、共に、仏道に向えしめたもうなり。(全書・二・二四「証巻」)

と廻向の名義をあかされている。いま、往相・還欄・廻向の名義に、ともに「一切衆生に廻施したまいて、作願して、共に」、「一切衆生を教化して、共に」、「一切衆生に施与して、共に」と説かれているのであるが、この点より考えるとき、往・還二廻向は、孤独的人間の実践でなく、僧伽の一員の自覚をもつものの実践であることを説かれていると考えられる。往・還二廻向ともに僧伽の実践であることを注意したいのである。

 さらに、『教行信証』は願の四法をあかし、『浄土文類聚鈔』は成就の相法を説かれているのであるが、『浄土文類聚鈔』は、還相廻向の名義を説き、つづいて  

是を以て、浄土の縁熟して、調達・闍王をして逆害を興ぜしめ、濁世の機あわれみて、釈迦・韋提をして安養を選らばしめたまえり。つらつら、彼を思い、静かに此を念うに、達多・闍世、博く仁慈を施し、弥陀・釈迦、深く素懐を顕わせり。
之に依りて、論主、広大無碍の浄信を宣布し、普遍(あまね)く雑染堪忍の群生を開化す。宗師、往還大悲の廻向を顕示して、慇懃(おんごん)に他利・利他の深義を弘宣せり。聖・権の化益、偏に一切凡愚を利せんが為に、広大の心行、唯、逆・悪・闡提を引かんと(おぼ)してなり。(全書・二・四四六)

と説かれているのである。すなわち、還相廻向の事実の相を、提婆・阿闍世・弥陀・釈迦、さらに、論主(天親)・宗師(曇鸞)のうえにみておられるのである。かく、還相を、われわれの背景とみられているのは、『三経往生文類』に「如来の二種の廻向によりて、真実の信楽をうる人は……」(全書・二・五五四)と説かれ、『正像末和讃』(全書・二・五一九)に「如来の二種の廻向を、ふかく信ずるひとはみな……」、また
  無始流転の苦をすてて
  無上涅槃を期すること
  如来二種の廻向の
  恩徳まことに謝しがたし(全書・二・五二一)
とうたわれ、また、『高僧和讃』(曇鸞章)に
  弥陀の廻向成就して
  往相・還相ふたつなり
  これらの廻向によりてこそ
  心行ともにえしむなれ(全書・二・五〇五)
と讃歌されている文などが、それを示されていると考えられる。
 また、曾我量深先生は「往相とは、一心帰命の自我の前景であり、還相とは、此一心帰命の自我の後景である」、「真実に本願力の体験は、唯、自己の還相、即ち往生成仏の自己背後に於てのみ存在するのである」(曽我量深選集・第三巻・一六四)と説かれているのは、『浄土文類聚鈔』に説かれている還相の事実、いいかえれば、成就の還相を明らかにされたものと考えられるのである。
 しかし、いうまでもなく、往相・還相の二廻向の体は、本願力であるが、それが衆生にあらわれた相が、往相・還相である。すなわち往相・還相は本願力がわれわれのうえに現行する実践である。
  他力の信をえんひとは
  仏恩報ぜんためにとて
  如来二種の廻向を
  十方にひとしくひろむべし(全書・二・五二六『皇太子聖徳奉讃』)
と和讃されているごとく、往・還二種の廻向は、如来の本願力であるが、往相・還相ともに、求道者の自覚的実践である。『六要鈔』には、問答をおこして
  問、言う所の廻向は、是れ、衆生所修の廻向たりや、将は、如来所作の廻向たりや。  

答、五念門の行は、(もと)是れ、衆生所修の行なり、而るに、其の本を尋ぬれば、偏に、仏力を以て増上縁となして成就する所なるが故に、実を以て面も論ずれば、諸仏・菩薩みな五念を以て菩提を得るが故に、弥陀の正覚、即ち五念を修して速に、成就することを得たまえり。然るに、五門の中、此の廻向の行は、往生の後、出の功徳となして、大悲を成就して生死海を度す。仏の本願力を其の本とするが故に、功を仏に(ゆず)れば(こく)する所、唯、仏の廻向たり。(全書・二・二一四)

と説かれているごとく、往相・還相は、もと、衆生の所修の行であり、その(もと)をおせば、仏の本願力であるというべきである。衆生の往相・還相の廻向と如来の廻向とは、その体を同じくするものであって別あるものではない。(「行巻」の重釈要義に「他力と言うは如来の本願力なり」と述べられて、次に引用される文、(全書・二・三五)また、「信巻」の欲生心釈に「欲生は即ち故れ廻向心なり」(全書・二・六六)と、如来廻向を述べられて引用されている文は、ともに、『浄土論』と『論註』の文であって、「証巻」の還相廻向の引文(全書・二・一〇七)と等しい文であることも、この点を説かれていると考えられる)
 ふりかえってみると、成就の四法(『浄土文類聚鈔』)にたつとき、還相はわれわれの背景となり、願の四法(『教行信証』)にたつとき、還相は信心の行者(菩薩的人間)の自覚的実践となるのである。しかし、そのもとをおさえれば、仏の本願力に一貫されているものであるといわねばならない。かくて、人間は、自利々他の実践的主体、すなわち、大乗的・菩薩的人間となるのである。これを人間成就というのである。

2・往相欲・還相欲
 往相欲・還相欲とは  

私は我執我見の現実を突き破って、大自然の一如の霊境に進み度いと願う願往生人であると共に、さらに此一如の世界から一層深い現実の煩悩生死の薗林に還来せんと欲する願求がある。祖聖は前者を往相と呼び、後者を還相と名けて居られる。往相欲は現在の小理智や小愛欲に苦しんで居る者の止むを得ざる欲願であるが、第二の還相欲にいたりては我々に在りて誠に不可思議の願求である。(曽我量深選集・第三巻・一五七)

 と説かれているが、理知的(我執我見の)人間には、考えられない欲求である。しかし、如何なる人間も、その内面に往相欲・還相欲をもっているものであり、この二欲願によって、真の人間成就をなすのである。

3・他利利他の深義
 自利・利他という語句は、善導の『散善義』などによって  

又、真実に二種あり、一には自利真実、二には利他真実なり。(全書・二・五二『散蕪義』「信巻」所引)
諸機の三心は自利各別にして、而して、利他の一心に非ず。(全書・二・一四七「化巻」)

などと用いられるときは、自力・他力を意味するのである。しかし、天親の『浄土論』には  

如来の益大功徳力成就と、功徳成就とを示現するが故なり。(全書・一・二七三)
如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就することを示現しつ。(全書・一・二七四)
菩薩は是の如く五門の行を修して、自利利他して速に阿耨多羅三藐三菩提を成就したまえることを得たまえるが故に。(全書・一・二七七)

と、自利・利他の語句が三ヶ所に出されているのである。このうち、前二丈は如来の自利・利他という意味にもちいられ、第三文は、文の表面から見るときは、行者たる菩薩の自利・利他の意味にもちいられている。これを曇鸞は解釈されて  

他利と利他と、談ずるに左右(さう)あり。若し、仏()りして言わば、宜しく「利他」というべし。衆生自りして言わば、宜しく「他利」と言うべし。今将に、仏力を談ぜんとす。是の故に利他を以って之を言う。当に知るべし。(全書・一・三四七「行巻」所引)

と「他利・利他の深義」を説かれている。従来から、この他利・利他の語義がいろいろに説かれてはっきりしないのであるが、実厳院真昭師の『略本私考』(この書は、すでにあげた『深解会通』と同じく、非公開本として、五ヵ寺に伝承されたものである。七尾・改観寺住職・嶺藤亮師の好意により、ここに引用することを得た)には  

仏よりいえば利他という、他の衆生を利し玉えばなり。衆生よりいえば他利という、他の弥陀に利せらるればなり。一体の上に於て、かくのごとく深義をあらわし玉うなり。この義こころえがたきようなれども言は身近にいわば、(我が)衆生をたすける――利他、(我)弥陀にたすけらるる――他利と云うの違いなり。

と説かれている。すなわち、利他は「他を利する」という積極的な意味をもつ語句であるが、他利とは「他が利せられる」、「他に利せられる」という意味の言葉である。衆生がみずから五念門の行を修して自利するとき、他が、自然法爾に利せられるこれが他利である。衆生が自己の意志をもって、能動的に、他に働きかけるものではないのである。この意味から、衆生よりは自利・利他するとはいえぬのであって、自利・利他という言葉は如来においてのみいい得るのである。それ故に「仏自りして言わば、宜しく利他というべし。衆生自りして言わば、宜しく他利と言うべし」と曇鸞は、「他利・利他の深義」を説いて、自利・利他ともに、如来の本願力廻向であることを明らかにされているのである。
 いま、往相・還相は、ともに、衆生の自覚的実践であり、衆生のうえの相であるが、往相(自利)も還相(利他)も、その根源をおさえれば、如来の本願力廻向である。「まことに、其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり」(全書・「二七七「行巻」所引)である。ということを、曇鸞をとおして学んだのである。
 考えてみるに、往相(自利)・還相(利他)によって、大乗的・菩薩的人間は成就されるのである。しかして、それをよく成就せしめる法が本願念仏の宗教である故に、大道――道は、則ち是れ、本願一実の直通大般涅槃無上の大道(全書・二・六七)と「信巻」に説かれ、往相・還相の二廻向を、真の人間成就の大道なる故に、「教巻」に、浄土真宗の教学の大綱とされるのである。

4・往還二廻向は純粋本能
 往相・還相は、人間が本来的にもつところの純粋本能である。この点を、よく説き明かしているのが『観無量寿経』の欣浄縁、散善顕行縁、定善示観縁における韋提であり、釈尊である。
 欣浄縁において、釈尊は、韋提の通請(つうしょう)に応えて光台現国を現じ、諸仏の国を見せしめられたのである。通請に応えられた諸仏の国とは、「信巻」白道四五寸釈に、「二乗・三乗・万善諸行の小路」(全書・二・六七)と説かれているごとく、自力・小乗の個人的関心を脱しきれない世界である。やがて、韋提はこの自力・小乗の諸仏の国を批判・歎異して「我今楽生」と別選請求するのである。この韋提の別選請求の意識の内面には純粋本能として七重の獄中の夫の大王があったのである。釈尊は、この韋提の別選請求にただちに応えられて、「即便微笑」して口から五色の光をだして、大王の頂を照らされたのである。善導は、韋提の別選請求が広開浄土門の意義ある故に「即便微笑」されたのであると讃嘆されている。すなわち、韋提の純粋本能としての往相・還相の二願求に応えて、釈尊は「即便微笑」されたのである。
 韋提の通請に対しては無言であった釈尊は、韋提の別選請求に応えては、「即便微笑」され、散善顕行縁を説きはじめられた。さらに、定善示観縁の説法によって阿弥陀仏の本願の世界にふれた韋提は  

世尊、我が如きは、今、仏力を以ての故に、彼の国土を見たてまつる。若し、仏滅後の諸の衆生等は、濁悪不善にして五苦に逼められん。云何して当に、阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき。(全書・一・五一)

と、未来の衆生の救済を念ずる還相的意欲を表白するのである。その韋提の請求に応えて、釈尊は正宗分の説法をはじめられることになる。かくのごとく、韋提の還相的意欲に応えて『観無量寿経』は展開されていくのである。

 さらに、親鸞は、韋提の往相的意欲の底に流れている純粋本能としての還相的意欲を洞察されて、「韋提別選の正意に因りて、弥陀大悲の本願を開闡(かいせん)す」(全書・二・一四七)と「化身土巻」に説かれ、『観無量寿経』に顕彰(けんしょう)隠密(おんみつ)の義を、すなわち、経典の二重性を読みとる『観無量寿経』観をうちたてられたのである。
 また、能説の釈尊に隠顕二義あるのみならず、実業の凡夫・韋提にも、二義を見いだされているのである。すなわち、「我を教えて、清浄業処を観ぜしめたまえ」という韋提の通請の「清浄業処」を、「化身土巻」には「清浄業処と言うは、則ち是れ、本願成就の報土なり」(全書・二・一四七)と釈せられて、韋提の無自覚な請求にも、その内面に純粋本能として、往相・還相的意欲、自利・利他円満の、本願の世界を求める意欲あることを見ておられるのである。

 以上、註1・2・3・4によって、往相・還相二廻向の問題を学んだのであるが、二廻向は、人間の純粋本能の問題であり、人間をして、人類の歴史的世界的課題を荷負して(大乗的)、歩みつづける(菩薩的)存在たらしめるものである。この二廻向によって、人間は、真の人間成就をなさしめられるのである。これを『教行信証』に求むれば、まさしく「証巻」であり、『大無量寿経』の本願に求むれば、第十一願、第二十二願であるが、その点は、次第を追うて、後に詳説することとする。

5・純粋感覚・純粋感情
 純粋感覚と純粋感情について、曾我量深先生は「二十九種荘厳は感覚の世界、一法句は感情の世界、感覚の世界は個人的である」ということを仰せであったと記憶しているのであるが、この問題は、曾我量深選集・第九巻・『正信念仏偈聴記』第四・第五講及び攻究二に詳説されている。すなわち曇鸞の『論註』の浄入願心章の文  

法性法身に由りて、方便法身を生ず。方便法身に由りて、法性法身を(いだ)す。此の二の法身は、異にして分つべからず、一にして同ずべからず。是の故に広(二十九種荘厳)略(一法句)相入して、(つか)ぬるに法の名を以てす。菩薩若し、広略相人を知らずんば、則ち、自利利他すること能わず。(全書・一・三三六「証巻」所引)

によって、方便法身を純粋感覚、法性法身を純粋感情とし、如来の本願を純粋意志という表現を用いて説かれているのである。すなわち、純粋感情とは形も、すがたも、色もなく、根本平等智・平等性智であって、分別のない智慧であり、天地万物を照らしていくものである。諸法が円融無碍になる、円満融通の感情、平等感情である。
  尽十方無碍光の
  大悲大願の海水に
  煩悩の衆流帰しぬれば
  智慧のうしおに一味なり(全書・二・五〇六『高僧和讃』曇鸞章)
と和讃されている「智慧のうしおに一味なり」の智慧であると説かれている。さらに、純粋感覚とは、浄土の七宝荘厳などで、形のない純粋感情が、純粋清浄のかたちをあらわしたものであると説かれている。
 ついで、「法性法身に由りて、方便法身を生ず」は能生・所生の関係で、体は別であり「異にして分つべからず」である。すなわち、本来ないものを新らたに生ずるのであるから、不一であり、異であるが、「分つべからず」分離することはできないのである。また、「方便法身に由りて、法性法身を出す」は能出・所出の関係で、「一にして同ずべからず」である。すなわち、方便法身により、本来、法性法身の中にあるものを(いだ)すのであるから、一にして不具であるが「同ずべからず」混同してはいけないと説かれている。

 さらに、「菩薩若し、広略相人を知らずんば、則ち、自利利他すること能わず」であって、二種の法身を知らざれば、「自利利他すること能わず」であると説かれている。また
  如来清浄本願の
  無生の生なりければ(全書・二・五〇六『高僧和讃』曇鸞章)
とある無生の生が純粋感情であるが、清浄本願(純粋意志)によって、無生というところに生をあらわす。そのとき、純粋感情は無生の世界、純粋感覚は生の世界、無生から天地万物を生ずる、生成すると説かれている。また、法性法身は一法句、方便法身は清浄句、法性法身は、理性の世界、方便法身は事相の世界であると、曾我量深先生は二種法身について、かくのごとく説かれているのである。
  

仏について二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身と申す。法性法身と申すは、色もなし形もましまさず、然れば、心もおよばず語もたえたり。この一如より形をあらわして方便法身と申す。その御相に、法蔵比丘と名告りたまいて、不可思議の四十八願の大誓願をおこしあらわしたもうなり。この誓願のなかに、光明無量の本願・寿命無量の弘誓を本としてあらわれたまえる御形を、世親菩薩は、尽十方無碍光如来と名けたてまつりたまえり。……尽十方無碍光仏と申す。光の御形にて、色もましまさず、即ち、法性法身と同じくして、無明の闇をはらい悪業にさえられず。(全書・二・六三〇『唯信鈔文意』、全書・二・六一六『一念多念証文』参照)

と説かれているが、一如・法性法身・純粋感情から、われわれの業に応え、法蔵の本願力によって、われらのために方便法身・尽十方無碍光如来・純粋感覚の世界がひらかれ、「十方微塵世界にみちみちたまえる」(全書・二・六一六『一念多念証文』)のである。しかし、この方便法身は、本願力廻向なる故に、法性法身と同じく、色も形もなく、いいかえれば、われらのうえに、執着・法執の跡をのこさないのである。そこにおいて、はじめて、自利利他円満するのである。
 純粋感情の世界は、自然の世界であって、純粋意志・歴史的意志によって、われらの純粋感覚となるのである。しかし、純粋意志・歴史的意志(本願力廻向)によって、われらのうえにひらかれたものであるという再確認があるとき、個人の業のうえにひらかれた純粋感覚は、固執を超え、個人性を超えて、純粋感情とおなじく、真の普遍性をもつこととなるのである。(本書・註<八 第十章>1・2・3参照)

6・往還二廻向の循環
 『教行信証』のうち、「教巻」と「証巻」は相対応するものである。
 考うるに、「証巻」は他力の行信によりて得る証果である。

  行 ┐
    ├─ 因 ┐
  信 ┘   |
        |
  証 ―― 果 ┘

「これすなわち、念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうる」(全書・二・五五一)『浄土三経往生文類』)と説かれているごとく、第十八願・念仏往生の願(第十七願の行を第十八願の信に摂して)と第十一願・必至滅度の願とは因果関係にあるのである。さらにいえば、「信巻」の「真仏弟子釈」をうけて「証巻」はひらかれるのであって、「証巻」の内容(往相の証果と還相廻向)は真の仏弟子の実践である。この意味において、「証巻」は他力の行信を因とする証果である真しかるに、「証巻」には、三個の結釈の文があるのであって、その第一は、「夫れ、真宗の教・行・信・証を案ずれば、如来大悲廻向の利益なり……因浄なるが故に、果亦浄なり、知る応し」(全書・二・一〇六)とある往相四法の結釈であり、第二は、「爾れば、大聖の真言、誠に知んぬ。大涅槃を証することは願力の廻向によりてなり。還相の利益は利他の正憲を顕すなり」(全書・二・一一八)と説かれている還相廻向の結釈の文である。さらに、第三の文は前四巻を総結して、「是を以って論主は広大無碍の一心を宣布して……他利・利他の深義を弘宣したまえり。仰いで奉持す可し、(こと)に頂戴す可し矣」(全書・一一九)と結ばれている。この三個の結釈の文は「教巻」をうけて説かれているのである。
 すなわち、「証巻」は「教巻」の冒頭の「謹んで、浄土真宗を按ずるに二種の廻向あり云々」と真宗の大綱を述べられた言葉をうけてひらかれ、さらに、「証巻」を結ぶにあたって、「教巻」にかえされているのである。仏の本願力によりて、よく、往相・還相を完うじて、まさしく、われらに還相したもう真宗の真実教にかえされているのである。つまり、われらの行・信・証という往・還の背景には、真実教が還相されているのであり、その還相廻向によって、われらの往相・還相がなりたっていることをあきらかにされているのである。
 『深解会通』に、「とかくのはからいなく、慶んで念仏すべし。このこころ、すなわち、二種の廻向の御利益なり」と、往相・還相を結んで説かれているのであるが、往相・還相を完うじて(「証巻」)、それを念仏の法(「教巻」より展開した「行巻」の念仏に「教巻」を摂めて)にかえす。われらに還相されている念仏の法にかえす。つまり、往相道にたつ。そのことが、「二種の廻向の御利益なり」と説かれているのである。
 すなわち、往相・還相(証巻)は「教巻」と無限に循環し展開していくのである。


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