『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第二節 無義を義とす

   自 力 無 効

  念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆえにとおおせ候らいき。

 本文にはいって学ぶこととします。『歎異鈔』の前十章を、了祥師は「師訓」と名づけ、この師訓第十章を無義為義(むぎいぎ)章と名づけられています。この第十章を、曾我量深先生は「承上起下(じょうじょうきげ)というものでございましょう」(曽我量深選集・第十二巻・二九八)とおおせになっていますが、師訓の前九章をうけ、後の異義八章をひらく、いわば、生産的位置にある章であります。『歎異鈔』の前半の帰着するところであり、後半の起点になる章で、『歎異鈔』の(かなめ)・総標であります。すなわち、大乗仏教の帰結というべき一章であります。

  念仏には、無義をもて義とす。
 『歎異鈔』の親鸞聖人は、この簡明直裁な言葉で、絶対現実の世界・本願念仏の世界に対する態度を説かれています。これは、法然上人からうけられた、伝承の言葉であります。吉水教団において、法然上人から直接にお聞きになって、晩年まで、耳の底にとどまっていたお言葉であります。親鸞聖人の生活を貫いていたものであり、身をとおして洗練されたものであると考えられます。法然上人に、そのままの言葉が残されていないとか、いるとかが問題にもなっていますが、その考証よりも、法然・親鸞と伝承されてきたところの、念仏行者の態度を、これほど、簡明にあきらかにしている言葉はないでありましょう。
 また、吉水教団時代の青年親鸞が、師の法然上人より聞かれたものでありましょうが、晩年の、建長七年(一二五五・八十三才)の冬(『末燈鈔』第二通)から、正嘉二年(一二五八・八十六才)に御制作になった『自然法爾章』まで三年間にわたってくりかえし説かれているものであります。考えてみますと、そのころは、長息・善鸞義絶の問題があり、また、高田の真仏(しんぶつ)横曾根(よこぞね)性信(しょうしん)、鹿島の順信(じゅんしん)などが、それぞれ、道場主として門弟の獲得維持に腐心していたころで、関東教団が混乱し、京都の親鸞聖人も心痛しておられたころであります。唯円も、かかる深い痛みをもって語られた聖人のお言葉として、お聞きしたのかもわかりませんが、唯円の心を深くうったお言葉であったにちがいありません。師訓の最後に、この短いお言葉を書きつけた、唯円の心情も推察されるように感ずるのであります。

 直接、本文にはいって学ぶこととします。
  念仏には、無義をもて義とす。
と、説かれていますが、まず、はじめに「念仏には」と仰せになっています。親鸞聖人が法然上人からお聞きになったものとしては  

他力には、義なきを義とすと、本師聖人のおおせごとなり。(全書・二・六〇二・広本『尊号眞像銘文』末)
如来の誓願には、義なきを義とすとは、大師聖人のおおせに候いき。(全書・二・六六七『末燈鈔』第七通)

などとあって、「他力には」、「如来の誓願には」と書きのこされています。「他力というは、如来の本願力なり」(全書・二・三五「行巻」)とありますから、「他力には」も、「如来の誓願には」も同じことでありますが、それを、唯円は「念仏には」とうけとっているのであり、『歎異鈔』独自の表現になっているのであります。
 「念仏には」とは、「念仏については」とか、「念仏に対しては」とかという意味で、念仏をうけるものの態度を問う言葉であり、念仏行者の、念仏に対する姿勢を問うているのであります。第七章のはじめの「念仏者は」という言葉によって、次に、念仏の利益を説かれているのであります。また、第八章の「念仏は」という言葉は念仏は行者の実践を超えたものであると、その念仏の大行の意味をあかすためのいい出しの言葉でありましたが第十章の「念仏には」という言葉は、念仏に向う人間を問う言葉であります。

 次に、「無義をもて義とす」というお言葉でありますが、「義」という字について  

他力には、義なきを義とす。義というは、はからう心なり。この故に自力というなり。(『尊号眞像銘文』全書・二・五七六)
第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御誓なれば、他力には、義なきを義とすと、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義というは、はからうことばなり。行者のはからいは、自力なれば義というなり。他力は、本願を信楽して往生必定なる故に、さらに、義なしとなり。(全書・二・六五八『末燈鈔』第二通)

と説かれているごとく、行者のはからい・自力のはからい(義)を超えたところ、すなわち、「義なき」ことが、「自然」なることが、本願の世界の道理(義)であります。「義なき」、「無義」ということは、自然法爾ということ、後の義は、道理ということであります。
 つまり、「無義をもて義とす」という言葉は、自力のはからい、いいかえれば、人間の分別・理知を超えた自然法爾を道理とするという意味であります。
 「無義をもて義とす」・「義なきを義とす」ということが、すなわち、本願他力の世界の原理であり、自然の道理であります。
 他力・自然の世界は人間の分別・理知でたてられる義を超えているものでありますから、「義なきを義とする」のであります。『正像末和讃』に
  他力不思議にいりぬれば
  義なきを義とすと信知せり(全書・二・五二二)
とうたわれているごとく、絶対現実の世界に目覚めたとき「義なきを義とす」という自然の道理を信知するのであります。
 理知的自覚を立場とする「自力のはからい」、すなわち、個人的意志の延長においては、他力・自然の世界、いいかえれば、絶対現実の世界にふれることはできないのであります。理知的立場、自力の立場を超えた(義なき)ところに、すなわち、歴史的意志による自覚のところに、他力・自然の世界、絶対現実の世界はひらかれるのであります。理知的立場を超える(義なき)ことが、絶対現実の世界にふれる原理であります。

   不可称・不可説・不可思議

 「義なきを義とす」とは、他力の世界、すなわち、絶対現実の世界に帰入する根本的態度をあかす言葉であります。その意は、『歎異鈔』第二章に  

「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と、よきひとのおおせをこうむりて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏はまことに、浄土に生るるたわにてやはんべるらん、また、地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。

と、親鸞聖人が、具体的に、法然上人との出あいをとおして「総じてもて存知せざるなり」と表白しておいでになるところのものであります。しかし、この、親鸞聖人の絶対信順の表白は、師・法然上人との出あいによって生まれ、自覚されたものであります。このように、「義なきを義とす」という他力・絶対現実の世界に帰する根本的態度も、たとえば、師との出あいという、人間の理知を超えた、絶対現実の世界の出来事からあたえられ、きめられて来るものであります。帰入する態度も、帰入する世界からあたえられるもので、人間から、直接に生まれるものでもなく、生み出すこともできないのであります。
 「義なきを義とす」という自覚、自力無効が要義であるという自覚は、かくの如く、尊厳なものであります。「この真実信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからいよりおこりたりと、知らせたもうべし」(全書・二・六九三『末燈鈔』第二〇通)と、説かれているごとく、「二尊の御はからいよりおこりたりと」再確認しなければならない自覚であります。この自覚によってのみ、他力不思議の世界に参与することができるのであります。絶対現実の世界に帰入することができる、唯一無二の姿勢であることを確認しなければならないのであります。

  不可称・不可説・不可思議のゆえにと、おおせ候らいき。
 なぜ「義なきを義とす」というのかといえば、「不可称・不可説・不可思議のゆえに」であります。人間の理知・はからいを超えて、不可称・不可説・不可思議であります。他力不思議の世界・絶対現実の世界は、念仏によって感知せしめられる世界であります。
 不可称の称とは、称量ということで、はかること、いいかえれば、比較することであります。不可称・不可説・不可思議とは、人間の理知では、はかることも、説くことも、思議することもできないということであります(註2)。言亡(ごんもう)慮絶(りょぜつ)ということがありますが、言葉も思慮もたえたりということであります。曾我量深先生は『歎異抄聴記』に  

念仏に依って、天地全体は不可称・不可説・不可思議の広大無辺の世界となる。不可称・不可説・不可思議は、分らぬということではなく、分る必要のないほどに疑いない、明るい世界。分別を用うる必要のないほど、明るい道光明朗(みょうろう)超絶の世界である。……我々は、思慮分別してさえ困っているのに、それを分別出来ぬとあっては、どうしたらよいかというと、思慮分別を用うる必要のないほど、明らかに輝いている世界、それを、光明摂取という。(曽我量深選集・第六巻・四四二)

と述べられています。まったく、他力不思議の世界は、人間の理知を超えた、不可称・不可説・不可思議の広大無辺の世界であり、自然法爾の世界であります。山川草木のいのちと響感し、生きとし生けるもののいのちの声を聞いていく世界であります。この世界にかかわりをもつことができるのは、ただ、念仏あるのみであります。本願念仏によってのみ出あうことのできる、仏々相念の世界であり、絶対現実の世界であります。
 

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと、信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち、摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり。

と、第一章に説かれている本願の原理が、『歎異鈔』の各章を経て、最終的に第九章の法執(体験執)の問題をくぐって、われわれの純粋感情の世界としてひらかれ、成就してきたのであります。それが、第十章であります。
 歴史的事実としては、親鸞聖人の最晩年になって、善鸞義絶という肉親の問題や関東教団の動揺という問題をとおして、聖人の心に、大きく復活してきた世界であります。この信境を、刻明に記録されたのが、「最後の法語」といわれる『自然法爾章』でありますが、これについては、さきに学んだのであります。

   歴史観・世界観

 この『歎異鈔』第十章、および、『自然法爾章』に説かれているところは、本願念仏の教法によってひらかれる、絶対現実世界の風光であります。人類の歴史的な願いを象徴している、大乗仏教が、その主題としている、この絶対現実世界の風光を、親鸞聖人によって、はじめて煩悩具足の凡夫、すなわち、実存的人間である大衆に公開され、あたえられたのであります。その歴史的世界観を、表白し、讃嘆されているのが、この第十章の文であり、『自然法爾章』のお言葉であります。
 これは、第八章に「ひとえに他力にして」と説かれているように、ひとえにはじめて、実存的人間のうえにひらかれた世界であります。「すべて、人のはじめてはからわざるなり」(全書・二・六六三『末燈鈔』五通・自然法爾章)とおおせになっているごとく、はじめて、思いを超えて、ただいま、われわれのうえに感ぜられる世界であり、本願念仏の教法がひらく、世界観であります。
  五濁悪世のわれらこそ
  金剛の信心ばかりにて
  ながく生死をすてばてて
  自然の浄土にいたるなれ(全書・二・五一〇『高僧和讃』善導讃)
と、うたわれているごとく、五濁悪世のわれらにこそ、ひらかれる自然の浄土であります。「往相廻向の真証、いま、身に満足せしめたまえり」(『深解会通』・二〇の右)という充実感であります。

 第八章の「ひとえに他力にして」という自覚は、その前面に、第十章に説かれている本願念仏の世界観をもちその背後には、第二章の後半に説かれている、弥陀・釈迦・善導・法然という本願の歴史をもっているのであります。釈迦・善導・法然に代表されている本願の歴史は、人間の世界に本願自身が歩んできた足跡であります。釈迦・善導・法然は、それぞれの時代の、本願そのものであり、弥陀そのものであります。その念仏の歩みは、親鸞・唯円と展開し、今日も、なお、歩みつづけているのであります。
  釈迦・弥陀は慈悲の父母
  種々に善巧(ぜんぎょう)方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり(全書・前掲・善導讃)
と説かれているごとく、釈迦・弥陀の方便、つまり、本願の歴史に出あうことがない限り、われわれの信(自覚)はひらかれないのであります。故に、ひらかれた信は、廻向の信といわれるものであり、歴史的自覚であります。この歴史的自覚こそ純粋なる宗教心であって、無上の信心といわれているところのものであります。必ず、本願の教法による自覚は、本願の歴史を見いだしたときひらかれるものであり、また、本願の歴史に見いだされるものであります。われわれのうえにひらかれたものでありますが、本願そのものであります。かかる歴史的自覚のうちに見いだされる世界が、自然の浄土であり、また、真実報土と呼ばれる世界であります。すなわち、純粋感情の世界であります。
 浄土を、報土(ほうど)化土(けど)註3)とわけられていますが、ともに、仏の世界であり、宗教的世界であり、人間の深い自覚のところに見いだされる世界であります。源信僧都が『処胎経(しょたいぎょう)』によってあきらかにされたところであり、親鸞聖人は、『教行信証』に報土・化土を、真仏土・化身土とわけられて詳説されていますが、いま、報土と名づけられる世界は純粋感情の世界であります。
 純粋感情の世界は、第二章でいえば、釈迦・善導・法然の伝承・第十七願の伝承、すなわち、本願の歴史という自己のから、自己自身のにひらかれたものでありますが、ただ、自己のにひらかれたものであるばかりでなく、自己をとりかこむ、なる、山川草木、一切衆生と宿業・響感する世界をもつものであります。このの関係でありますが、なる自己と外なるものは、単に、という関係で響感しあうものでなく、(自己)をひらき、ひらかれたなる自己は、なるもののうちにかえって自己を見いだすのであります。汝によって、「汝よ」と呼ばれ、呼ばれることによってひらかれた我は、また、汝の内に我を見いだすのであります。この宿業・響感の世界を、自然の浄土といい、真実報土といい、自然法爾の世界と呼ばれているのであります。純粋感情の世界であります。
 「かたちもましまきぬゆえに、自然とはもうすなり」と『自然法爾章』に説かれているごとく、形、すなわち実体的なもののない世界であり、人間の理知で考えようのない、「不可称・不可説・不可思議のゆえに」といわれる世界であり、無義の世界であります。

 によってを見いだし、そのなるものを見いだしていく純粋感情の世界を、唯円は『歎異鈔』の師訓の帰結として、第十章に掲げたのであります。
 また、この第十章そのものが、『歎異鈔』の内と外を関係づける位置にあります。つまり、この第十章は、承上起下といって前九章をうけ、後八章を生みだす分水嶺であります。すなわち、第二章に説かれている本願の歴史の展開を自己自身の内に感知し、さらに、「一室の行者」といわれる同門の異端という外の問題をとおして、第十一章以下に説かれているところの、唯円の歎異を生みだす分水嶺であります。
 すなわち、第十一章以下の歎異八章にあげられている異端の徒は、一応はなる存在でありますが、ただ単になる存在ではなく、唯円はそのなる異端を、自己自身のに見いだしているのであります。なる異端と宿業・響感することによって、宿業・響感の世界をひらいているのであります。第十章に説かれている無義為義の世界をひらいているのであります。それゆえに、第十一章以下は、第十章の歴史的意志による信知の世界、つまり純粋感情の世界から生みだされた還相であります。ひとえに、唯円という歴史的人物をとおした本願の展開であり、本願そのものの歩みであります。第十章は『歎異鈔』において、かかる位置をもつのであります。
 青年親鸞が、吉水教団で師・法然上人よりうけたまわった教えは、「義なきを義とす」という簡明なるものでありました。しかし、この教えは、親鸞聖人に深い感動をあたえ、聖人の御生涯をつらぬくものとなったわけであります。そうして、それは最後の法語といわれる「自然法爾章」という、すぐれた文章によって表現されている、秀いでた宗教的境地にまでたかめられたのであります。この、法然・親鸞の二師によって磨きあげられたところの、無義為義の教法・自然法爾の道理は、先に学んだごとく、物質から人間におよぶ全宇宙、さらには、教育・芸術など、すべての文化の根源的法則となるものであります。すなわち、全宇宙・全文化にこたえる根源法であり、それが内包するところは、無限に深く広いものであります。大乗仏教が、人類の歴史に示した記念塔であります。
 この自然法爾の道理を、唯円は、師訓および、教団における異端の問題をとおして、深く学びとったものであります。かくして、この道理は、歎異鈔となって、地上に歩みつづけてきたのであります。しかし、この自然法爾の道理は、いまだ、今日的課題として解明しつくされたといえないものでありましょう。
 かえりみますとき、近代人は自我の自覚をひらいたのでありますが、かえって、そのために傲慢な錯覚をおこすことになったのであります。この近代人の自我の高ぶりが、今日の全宇宙的混迷をまねくことになったのであります。この混迷を、如何に克服していくかということが、現代の人類的課題であります。この混迷は、宇宙的・世界的であるとともに、人間世界の微細なる部分にもみちているのであります。この混迷の克服は、いうまでもなく、人間の理知のよく果たし得るものでありません。理知的立場から、この混迷を克服せんと努力するときはなお、その混迷を深め広げることになります。われわれは、かかる今日的課題をもって、無義為義・自然法爾の道理を学びとっていかねばなりません。そのとき、一歩一歩、この道理は解明されていくのであり、また、一歩一歩、人類の歴史の真の歩みがはじめられ、新しい歴史、新しい世界が形成されていくのであります。
 第十章は、このような問題を、われわれに提起しているのであります。
 この第十章の「無義をもて義とする念仏によってひらかれた自然法爾の世界は、歎異八章として歩みだす唯円の歎異精神・批判精神の根源的立場であります。歎異八章は、念仏の現行であります。
 さらにいえば、念仏の現行としての批判精神こそ、人類が、もっとも、今日、要請している究極的課題であります。


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