『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第十章 法   爾
 

一、念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆ()にとお()さふ(そう)()き。 (定本・親鸞聖人全集・第四巻・言行篇・1・13)



第一節 絶対現実世界の風光

   響感の世界

 いよいよ、『歎異鈔』の師訓十章の、最後の第十章にはいって学ぶことになります。
 この、第十章の文から、親鸞聖人八十六歳の暮(正嘉二年十二月十四日・一二五八)、京都三条富小路(とみのこうじ)御舎弟(ごしゃてい)尋有(じんう)僧都(そうず)の坊舎において、高田の顕智に語られた「親鸞聖人・最後の法語」(改訂・親鸞聖人行実・一三六、および、『末燈鈔』第五通・全書・二・六六三、「親鸞八十八才御筆」とある『正像末和讃』自然法爾章・全書・二・五三〇、と同形式の三文がある)を憶うのであります。長い文章ですが、全文を掲げてみます。
  

(ぎゃく)の字は、因位(いんに)のときうるを獲という、得の字は、果位(かい)のときにいたりてうることを得というなり。(みょう)の字は、因位のときのなを名という、号の字は、果位のときのなを号という。
自然(じねん)というは、自はおのづからという、行者(ぎょうじゃ)のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず。
如来のちかいにてあるがゆえに。法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。
この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、すべて、行者のはからいなきをもちて、このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり。
自然というは、もとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより、行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんと、はからわせたまいたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞと、きゝてそうろう。
ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり、無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃(ねはん)とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめに、弥陀仏とぞききならいてそうろう。弥陀仏は、自然のようをしらせんりよう(料)なり。この道理を、こころえつるのちには、この自然のことは、つねに、さたすべきにはあらざるなり。つねに、自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお、義のあるべし。
これは、仏智の不思議にてあるなり。
  よしあしの文字(もんじ)をもしらぬひとはみな
  まことのこゝろなりけるを
  善悪(ぜんまく)の字しりがおは
  おゝそらごとのかたちなり

  是非しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ
  このみなり
  小慈小悲もなけれども
  名利に人師(にんし)をこのむなり(全書・二・五三〇『正像末和讃』)

 この、「自然法爾章」の言葉は、親鸞聖人が人類の精神史にのこされた金字塔であります。その生涯をかけて身辺の内外の問題に追われるようにして、ねむり休まされることもなく、仏道を歩みつづけられた、親鸞聖人がいたりとどかれた純粋感情の世界であります。自然法爾の世界であり、自然の浄土であります。
 聖人の御生涯は、善導大師の説かれた「二河白道の譬」の行者さながらのものであり、満九十年の御生涯の最後まで、求め、歩みつづけられたのであります。そうしてそこに、ひらかれ、きずきあげられた大乗仏教の記念塔が、この自然法爾の法語であります。われわれ人類の精神生活の指標を、かくのごとくかかげられたのであります。この法語に説かれている世界は、われわれが、この生涯をつくして、求めつづけていかねばならない世界であり、また、本願念仏の教法にたちかえるとき、ただちに、われわれの足下にひらかれる純粋感情の世界であります。
  ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。
  無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。
  弥陀仏とは、自然のようをしらせん料なり。
 人間の分別・理知を超えた、広大な世界であり、自然法爾の世界であり、純粋感情・絶対現実の世界であります。「かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり」一切の形を超え、色を超えて、ただ、自然と一つになった、自然そのものになった世界であります。絶対現実に生き、絶対現実の真ん中にたちあがった世界であります。この、自然法爾の法語は純粋本能の世界に生きた人の叫びであります。生きとし生けるもの、あらゆるものに、いのちを見いだし、そのいのちの声を聞いた人の叫びであります。『大無量寿経』に説かれている音響忍(おんこうにん)の世界であり、一切衆生、および、草木(そうもく)国土と響感しあっている世界であります。

 「一切衆生悉有(しつう)仏性(ぶっしょう)註1)」――生きとし生けるもの、ことごとく、仏性あり――とは『涅槃経』が、人類にのこした大文字であります。末法の自覚にたった浄土教の高僧・道綽禅師は、その著『安楽集』に、「一切衆生皆有(かいう)仏性」(全書・一・四一〇)と、この語を引き、浄土教独立の事業をなした法然上人は『選択本願念仏集』の開巻(全書・一・九二九)に、この語を引いて、日本浄土宗の独立を宣言されているのであります。さらには、「草木国土悉皆(しっかい)成仏」ともいうのでありますが、これらは、大乗仏教の、いいかえれば、人類の純粋本能が願い求めてきた、絶対現実の世界であります。この世界を、親鸞聖人は『唯信鈔文意』(全書・二・六三〇)に  

涅槃をば滅度という、無為という……仏性という、仏性すなわち如来なり。この如来、微塵(みじん)世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海(ぐんじょうかい)の心にみちたまえるなり。草木国土ことごとく、みな成仏すととけり。
註・この言葉は、「正嘉元年(一二五七)八月十九日、愚禿親鸞八十五才書之」という奥書のある『唯信鈔文意』広本の一本にのみある言葉である。さきの『自然法爾章』が書かれた前年である。――『歎異鈔講座』・第二巻・一一九――

と説かれています。
  この如来、微塵世界にみちみちたまえり
  一切群生海の心にみちたまえるなり
  草木国土ことごとく、みな成仏す
 まことに、豊かな世界であり、絶対平等の世界であります。人類が願い求めてきた浄土であり、親鸞聖人がいたりとどかれた世界であります。この浄土建立のため、聖人は、その生涯をつくされたのであります。

   大乗仏教の回答

 『大無量寿経』の神話は、阿弥陀仏の因位を法蔵菩薩と名づけています。法蔵菩薩の問題は、曾我量深先生が御生涯をかけて来られました課題でありますが(曽我量深選集・第十二巻『法蔵菩薩』、同選集・第五巻「如来表現の範疇としての三心観」をはじめ、多くの著述の上にふれておられる)、純粋主体ということであります。ほんとうの自己、真の自己そのものを、法蔵菩薩という神話をもって説かれているのであります。純粋主体は、永遠に願い、求め、歩みつづけるものであり、これは、人間だけにあるものではなく、生きとし生けるもの、あらゆるもの、すなわち、万法にあるものであります。万法そのものは、それぞれ、純粋主体・法蔵菩薩をもっている、いな、万法そのものが法蔵菩薩そのものであります。ただ、人間は、本願念仏の教法によって、そのことを自覚し、あらゆるもののうちに秘められている(この故に因位という)法蔵菩薩・純粋主体と響感する世界をもつことができるのであります。
 この、法蔵菩薩――歩みつづける純粋主体――は、つねに分化し統一をくりかえしている現象界の内面をささえているものであります。いいかえれば、生成流転しているところの、物質・動物・人間・社会・集団など、すべての面において考えられる問題であります。たとえば、芸術の世界について考えてみましても、つねに、創造と破壊・統一と分化をともなうものであります。しかし、その破壊・分化の深い底には、願い、求めているところの情熱的な姿勢を見いだすのであります。また、自己疎外とか、人間喪失とかという言葉がありますが、疎外され、喪失していると考えている自己そのものの内面に、疎外され、喪失されているが故に、なお、燃焼しつづけている法蔵精神を見いだすのであります。
 かかる、法蔵菩薩の課題は、現代史に対する、曾我量深先生からの、いいかえれば、大乗仏教からの回答であろうと確信するのであり、現代は、その「法蔵菩薩の教学の時代」であると考えられるのであります。(この書の下巻で、法蔵菩薩について詳説の予定である)

 「一切衆生悉有仏性」といい、「山川草木悉皆成仏」を説く大乗仏教も
  この如来、微塵世界にみちみちたまえり。
  一切群生海の心にみちたまえるなり。
  草木国土ことごとく、みな成仏す。
と説かれている『唯信鈔文意』も
  自然(じねん)というは、もとより、しからしむるということばなり。
  無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまきぬゆえに、自然とはもうすなり。
と説かれている『自然法爾章』のお言葉も、一切万法のうちに、法蔵菩薩を感知し、感応道交したものでありましょう。一切方法のうちに、すなわち、絶対現実の世界に、法蔵菩薩の声を聞かれた大乗仏教徒の、また、親鸞聖人の応答の言葉であります。自己のうちに、願い、求め、歩みつづけねばおかれぬ、法蔵精神をもち、また、絶対現実の世界のうちに、法蔵菩薩を感得するもののなし得る応答であります。また、法蔵精神を本来的にもっているものの、なさねばならぬ応答であり、表白であります。
 これは、人類の永遠の指標であり、本願の教法により目覚めしめられた純粋感情・絶対現実の世界の風光であります。しかし、これは、「もとより、行者のはからいにあらず」という世界であります。人間の分別・理知を、まったく、超えた世界の風光であります。
 かかる世界を、唯円房は、師訓第十章として師訓の最後に掲げたのであります。


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