『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第三節 純 粋 意 欲

   世界の二重性
  

また、浄土へいそぎ参りたき心のなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば「死なんづるやらん」と、心細くおぼゆることも、煩悩の所為(しょい)なり。
久遠劫よりいまゝで、流転せる苦悩の旧里(くり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土はこいしからず候うこと、まことに、よくよく、煩悩の興盛に候にこそ。
なごりおしく思えども、裟婆(しゃば)の縁つきて、力なくして終るときに、彼の土へは参るべきなり。
いそぎ参りたき心のなき者を、ことに、あわれみたもうなり。これにつけてこそ、いよいよ、大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候らえ。


 これから、第三節にはいって学ぶわけであります。この第三節は、『教行信証』の悲歎述懐のお言葉にてらすと、「真証の証に近づくことを(たのし)まず」のお言葉にあたります。
  誠に知んぬ、悲しき哉、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の大山(たいせん)に迷惑して
  定聚の数に入ることを喜ばず ……第二節
  真証の証に近づくことを快まず……第三節
  恥ずべし傷むべし矣。(全書三・八〇「信巻」末)
 『教行信証』の悲歎述懐の文と、『歎異鈔』第九章の文とを対照すると、このようになるわけであります。すなわち、第三節の文は、真証の証・真実浄土、いいかえれば、純粋感情の世界に近づくことを快まずという問題であります。
 さて、本文にはいって学ぶこととします。
 浄土へいそぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば「死なんづるやらん」と、心細くおぼゆることも、煩悩の所為なり。
 所労(病気)にでもなれば、死ぬのであろうかと思う――ということは、人間の感情であります。ここに、感情の世界の二重性ということが問われているのであります。近代人は、神の存在を否定して自我を見いだすとともに、自我の世界のみを認めて、自我が否定された世界の存在を認めなかったのであります。つまり、一重(いちじゅう)の世界より見なかったのであります。しかし、人間は、「死なんづるやらんと、心細くおぼゆる」という感情をもつものでありますから、そこには、自我の世界と自我が否定された世界、現実の世界と現実を否定した世界、いいかえれば、此の国と彼の国という世界の二重性を、無自覚的に感じとっているのであります。すなわち、人間の感情の世界は、二重構造をもっているのであります。如何に、現実的世界より認めない人間であっても、感情の動くところには、無自覚的に、世界の二重性を認め感じとっているのであります。
 かかる二重の世界を、いま、此の国と彼の国といったのでありますが、仏教では、地獄と極楽とか、穢土と浄土などという神話的表現をもちいていい伝えてきました。この地獄と極楽、穢土と浄土という二つの世界が別々にあるのではなくて、一つの世界が二面の意味をもつのであります。

 穢土と浄土との(世界)そのものは、一つであります。すなわち、穢土とは(けが)れたる環境という意味で、人間的関心を立場にした生活のところにひらかれる世界であります。また、浄土とは浄められたる環境であって、人間的関心を超え、絶対現実にめざめた純粋感情の世界を浄土というのであります。人間的関心を立場とするか人間的立場を超えるかによって、穢土は浄土に転ずるかどうかということになるわけであります。二つの世界を実体的に考えるのでなく、立場が転ぜられるとき、世界も転ぜられるのであります。  

両土、処別ならず。たとえば、雲去って月あらわれ、垢落ちて鏡あきらかなるがごとし。(『深解会通』一九の右)

であります。
 この穢土と浄土について、厭離(おんり)穢土・忻求浄土といわれています。穢土(えど)を厭離し(いとい、はなれ)、浄土を忻求する(よろこび、もとめる)、すなわち、厭離・忻求(註10)という感情は、人間としてあるべき感情でありましょう。仏教(浄土門)は、厭離穢土・忻求浄土、すなわち、厭離・忻求という形で願生心・宗教心の問題、純粋意欲の問題を説いています。  

浄土門の意、穢土を(いと)うて浄土を(よろこ)ぶをもって正意とす。是れ、無上の方便、本願の正意なり。(『深解会通』一八の左)

と説かれているように、「穢土を厭うて浄土を忻ぶ、すなわち、厭離・忻求ということは、世界に対する批判精神であります。この世のみを考える一重の世界観には、世界に対する批判精神が欠けているのであり、世界を実体化しているのであります。「穢土を厭う」というところに、すなわち、この世に対する批判精神のあるところに、「浄土を忻ぶ」という世界の二重性を自覚する世界観をもつことができるのであります。
 このように、厭離・忻求という、世界に対する批判精神のあるところに、世界は二重性をもつことになり、願生心・求道心と説かれている純粋意欲が生まれ、人間は、求道的人間・菩薩的人間となるのであります。

  浄土へいそぎ参りたき心のなく
という表白は、現世のみを肯定する心、現世に執着する心、すなわち、一重の世界観がすてられぬ痛みの表白であります。世界に対する批判精神を、はっきりもつことができず、菩薩的人間としてたちあがることができない悲歎の言葉でありますが、しかし、すでに、世界の二重性を感じとっている意識が潜んでいるのであります。
 人間は、本来的に菩薩的存在であります。いいかえれば、二重性の世界観をもたねばおけぬ存在であります。しかるに、日常的・理知的には、この世を実体的にとらえて、一重の世界観によって生活しているのでありますが、「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと、心細くおぼゆる」のであります。といって、「いそぎ参りたき心」はないのであります。いそぎ菩薩的人間にたちかえらんとする意欲がたたないのであります。
 ここで、菩薩的人間、純粋意欲の問題は一つの転機にたつことになります。厭離・忻求の感情、すなわち、世界を批判する批判精神をなりたたせないものを、自己自身のうちに見いだすことになります。それは、「煩悩の所為なり」と説かれている煩悩であります。煩悩が、人間の本来性にたちかえる意欲を障碍するのであります。一重性の世界観にひきもどすのが煩悩であります。仏道をさまたげる問題が、自己自身のうちに見いだされたのであります。
 この「煩悩の所為なり」という断定的な聖人のお言葉から、第三節の文は、さらに展開することとなります。

   悲 心 の 器
  

久遠劫よりいまゝで、流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土はこいしからず候うこと、まことに、よくよく、煩悩の興盛に候にこそ。


 このような言葉で、宿業の世界をいいあらわされているのであります。
  苦悩の旧里はすてがたく ………厭離穢土の心をもたぬということ
  安養の浄土はこいしからず候……忻求浄土の情をもたぬということ
 さきに学んだごとく、厭離穢土・忻求浄土ということは、世界に対する批判精神であり、二重性の世界観をもっていることであります。これは、すなわち、人間の精神の健康性をあらわしているものであります。しかし、「苦悩の旧里はすてがたく、安養の浄土はこいしからず候」と表白されていることは、二重性の世界をもちながら、厭・忻の意欲が生まれないということであります。これが、人間の実存そのものであり、日常的人間の現実世界であります。考えてみますに、厭・忻の意欲が生まれない、すなわち、純粋意欲にたちあがることができないという、この人間の日常的現実世界(穢土)・人間の実存こそ、すなわち、宿業・他力そのものであります。人間の絶対現実の世界(浄土)であります。「両土、処別ならず」(『深解会通』)であります。この日常的現実の世界そこに、絶対現実の世界が反映・顕出しているのであり、呼びかけているのであります。ただ、理知を過信している人間・煩悩具足の自覚のない人間は、この呼びかけの声を聞くことができないのであります。
 源信僧都は、人間を「悲心の器」(全書・一・七三四・『往生要集』)といわれていますが、日常的現実世界にありながらこの日常的現実世界こそ、宿業・他力の世界であると、絶対現実が呼びかけている声が聞こえぬのが、痛ましいのであります。絶対現実の声は、すでに、もう、呼びかけているのである、だのに、それがうけとれない、うけとって菩薩的人間としてたちあがれない、ここに、人間の痛ましさ、悲しさがあるのであります。それは、煩悩にまなこがさえぎられているためであり、自業自得であります。この意味で、人間は「悲心の器」であります。
 煩悩は、日常の世界では、どうというものではありませんが、一たび、求道の問題・純粋感情の問題、いいかえれば、深い人間性の問題になると、痛ましい事柄になってくるのであります。煩悩が、本来的に、求道精神をもっているところの深い人間性――菩薩的人間をくもらせ、汚し、苦悩の旧里といわれる一重性の世界観にとどまらせるのであります。絶対現実の世界を、穢土とするのであります。しかも、この煩悩をすてることができない、いな、いよいよ、つのるばかりであります。「よくよく、煩悩の興盛に候にこそ」であります。

 しかしながら、この、煩悩こそ、深くほりさげて、自覚されねばならないところのものであります。絶対現実の世界は、この煩悩の延長のところには、絶対に、見いだせるものではありません。絶対現実の世界は、この煩悩の死を要求するものであります。しかし、自分で死にようがないのであります。最後まで、すてがたく・求めがたいのであります。この意味からも、「よくよく、煩悩の興盛に候にこそ」であります。
 ここに来って、「死を死す」という言葉がありますが、人間の絶対死が考えられねばなりません。その問題が次の文に説かれることになります。

   これにつけてこそ

  なごりおしく思えども、裟婆の縁つきて、力なくして終るとき、彼の土へは参るべきなり。

 このような表現で、自然(じねん)法爾(ほうに)の世界をいいあらわされているのであります。
 『歎異鈔』の言葉の勝れていることを、あらためて考えるのであります。言葉は、生きて働くものであってこそ、生きた言葉といえましょう。今日、対象的にものを考えたり、概念的に、理知的に言葉を用いているものですから、いつの間にか、生きた言葉と生きていない言葉を聞きわける力をうしなっているのでないかと思われます。生きた言葉のみが、働きをもち、主体をめざませ、内面的世界をひらくのであります。とくに、第九章の言葉が、如何に生きているかということを、内面的に次から次へと展開しているかということを思うのであります。

 人間の絶対死、すなわち、絶対現実にめざめるということがなければ、純粋感情の世界はひらかれないのでありますが、その、人間の絶対死ということは、他力廻向であり、自然法爾であります。人間の意志などを超えた世界のことであり、人間の力の及ばぬ事柄であります。ここの本文の「力なくして終るとき」という言葉は、人間の理知的意志がつかいものにならないことを自覚したとき、すなわち、自力無効を自覚したときということであります。そのときが、死を死したときであります。そのとき、「被の土へは参るべきなり」であり、絶対現実の世界・純粋感情の世界がひらかれるのであります。そのとき、まったく新しいいのちに生きるのであります。宿業・他力の絶対現実の世界に生まれるのであり、そこは、自然法爾の世界であって、絶対自由の世界であります。本願の世界であり、純粋感情の世界であります。
 いそぎ参りたき心のなき者を、ことに、あわれみたもうなり。これにつけてこそ、いよいよ、大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候え。

 「いそぎ参りたき心のなき者」とは、煩悩にさえられて、積極的にたちあがれない者のことであります。「ことに、あわれみたもうなり」とは、本願の正機とされているということであります。煩悩具足の凡夫が、阿弥陀仏の本願の正機とされているということであります。
 ここに、思いかえされるのは、近くは、第九章・第二節の
  しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と、おおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけり
であり、遠くは
  罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。(第二章)
  煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死を離るゝことあるべからざるを、あわれみたまいて願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば(第三章)
の文であります。本願のもとにかえるとき、煩悩具足のままに転ぜられるのであります。業道(ごうどう)自然(じねん)のままに、願力自然によって救われるのであります。そこにひらかれるのが、法爾(ほうに)自然の世界であります。「これにつけてこそ、いよいよ」と一転するのであります。一念帰命がたつのであります。
 「いそぎ参りたき心のなき者……こそ」、すなわち、「……こそ」というところに、他力の悲願をうけとめている心の動きが、胎動が感ぜられるのであります。それをはっきりうけとめて、「いよいよ、大悲大願」という確認になるのであります。他力廻向の本願・大悲大願(大悲廻向の大願・第十八願)を、また、本願の正機とされているわが身を、確認するのであります。ここに、大きく一転せしめられるのであります。人間的関心を離し得ざるわが身が、煩悩具足の凡夫が、仏の本願の象徴になるのであります。
 煩悩具足の凡夫をして、真の人間成就を果たきしめんがための歴史的呼びかけ(註11)を確認するとき、煩悩具足の身のまま、歴史的・主体的人間となるのであります。第二節に「往生一定」と説かれている他力の悲願が、われわれの「悲心の器」の自覚をとおして、いま、第三節のここに「往生は決定」と、成就されるのであります。つまり、大乗的・菩薩的人間が確立されるのであります。

 すでに学んだように、人間は、本来的に、求道的・修道的存在であり、菩薩的人間であります。しかし、みずからのうちにもつ、人間的関心、煩悩によって、厭離穢土の心、すなわち、世界に対する批判精神をもつことができず、その菩薩性がくもらされるのであります。そこに、人間の絶対現実の相があります。つまり、人間的意志や意欲を、まったく超えて、絶対現実の世界は宿業・他力の世界であるからであります。
 しかし、厭離穢土の心をもたぬもの、「いそぎ参りたき心のなき者」、さらにいえば、世界に対する批判精神(厭離心・忻求の情)をもたず、単なる現実世界に心ひかれるものが、絶対現実の世界にあるというこの事実。また、そのままが、宿業・他力の絶対現実にそむいているままが、絶対現実の世界から呼びかけられているという事実。本願にそむくものが、本願に呼びかけられ、本願の機とされている事実を、はじめてうけとめた言葉が「いそぎ参りたき心のなき者を、ことに、あわれみたもうなり。これにつけてこそ……」という、第九章の親鸞聖人の人間の構造を、あますところなく、見きわめられた言葉であります。
 ここに、人間が、本来的に、構造的にそなえていた菩薩的人間が、はじめて、地上の事実的存在となるのであります。大乗仏教が理として説いてきたものが、地上の事実として具体的になるのであります。しかも、宿業・他力の絶対現実の世界からの呼びかけ、すなわち、本願の歴史からの呼びかけによって目覚め、たちあがることができたのでありますから、かかる人間・主体こそ、大乗的・菩薩的人間といわれるものであります。如来の本願によって目覚めしめられた自利(菩薩性)利他(大乗性)成就の大乗的・菩薩的人間の確立こそ、真の主体性の確立というべきであります。
 死を死す、すなわち、第九章の主題であるところの第二十願の自覚をとおした、真の主体性の確立は、ここに大乗的・菩薩的人間として、その姿をあらわすのであります。

  力なくして終るとき、彼の土へは参るべきなり
  ことに、あわれみたもうなり
  往生は決定と存じ候え
べきなり、たもうなり、存じ候え、という親鸞聖人のお言葉に、一つの展開が説かれ、不動の信念が表白されていることになります。
  力なくして終るとき……「死を死す」という自覚
  彼の土へは参るべきなり……感情の世界
 「死を死す」という自覚のところに、感情の世界がひらかれるのであります。そこから、さらに「いそぎ、参りたき心のなきものを、ことにあわれみたもうなり」と、展開されるのであります。すなわち、本願の歴史にたちかえっておられるのであります。自覚のところにひらかれる感情の世界から、本願の歴史にたちかえって、「ことに、あわれみたもうなり」と、深くうけとっていくところに、感情の世界は、さらに純粋感情の世界に深められるのであります。いいかえれば、信のところにひらかれる証の世界は、廻向の信という信の再確認をとおして、廻向の証・真実証と深められていくのであります。
 さらに、言葉をつづけて「これにつけてこそ、大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候え」と展開されているのであります。すなわち、存じ候えと、自己のうえにひらかれた純粋感情の世界を、純粋客観の立場にたって確認し、説きあかし、表白されているのであります。ここに、「選択(せんじゃく)廻向の直心(じきしん)、利他深広(じんこう)の信楽、金剛不壊(ふえ)真心(しんしん)」(全書・二・四八)と「信巻」冒頭に言葉をつくして讃嘆されているところの、本願の宗教による真の自覚(真実信心)が、歴史的主体的確信が、表白されているのであります。
 第九章は、唯円の個人的問題にはじまって、それに同感された「親鸞も」という表白から深められているのでありますが、しかし、この第九章の文が、少しも、主観約・個人的な表白におわらず、力強い、しかも、内面的に展開していく、独白の文章になっているのであります。これは、聖人が、自己の体験をとおして、しかも、つねに、本願の歴史にたちかえり、純粋客観にたって説かれているからであります。ここに、確固たる確信の表白となるのであります。第二章といい、第九章といい、主観的な体験談におわるはずの文が、まったく、体験談とは次元のちがった文になっていることを考えさせられるのであります。つねに、本願の根源に、歴史の初一念にたちかえって、本願の道理として語りかけておられる、親鸞聖人の姿勢こそ、時を超えて、現代人のわれわれに大きな示唆を与えられているのであります。

   煩悩の積極的意義
  

踊躍歓喜の心もあり、いそぎ浄土へも参りたく候わんには、「煩悩のなきやらん」と、あやしく候いなましと云々。


 第九章の結びの文でありますが、ここに至って、本願の宗教により、人間の思惟が、大きく転回されるのであります。
 人類の歴史には、善悪の意識・善を求め悪をにくむという日常的・世間的な意識が、しつようにつきまとっているのであります。といって、善を求めず、悪をにくまずというように、善悪を無視すれば、人間性をうしなうことになります。この善悪との闘いの記録が、『歎異鈔』であり、この善悪にとらわれる意識を克服した表白が、第三章の悪人成仏の章であります。これは、人類の精神史に応えた、大きな事業であろうと思われます。
 さらに、ここ、第九章の結びの文にきたって、罪悪深重・煩悩具足の身に、積極的意義があたえられるのであります。純粋感情の世界(踊躍歓喜の心)をうしない、純粋意欲(いそぎ浄土へ参りたき心)がないということは、求道においては罪であり悪であります。『大無量寿経』の第十八願の問題として

        ┌五逆……第十九願……悪……世間的悪…『歎異鈔』第三章
 第十八願・唯除┤
        └謗法……第二十願……罪…出世間的悪…『歎異鈔』第九章

「唯除五逆・謗法」の問題が説かれていますが、第九章は、まさしく、第二十願の問題であるところの謗法・法執、すなわち、体験執の問題をかかげているのであります。宗教における罪の問題であります。しかし、宗教における罪も、日常的・人間的意識においては、悪の問題であります。本願の宗教にまで、くい入ってきた善悪の問題であり、本願の宗教によって、はじめてあきらかにされた悪・罪の問題であります。
 第九章において、親鸞聖人は、この悪・罪の問題の根源をおさえて「煩悩の所為なり」と説かれたのであります。すでに、そこには、五逆の問題の根源も「煩悩の所為なり」とおさえられていることを暗示されているといえましょう。このように考えてくると、日常的(世間的)・宗教的(出世間的)善悪の問題の根源を、親鸞聖人は、「煩悩の所為なり」とおさえられているのであります。『歎異鈔』の第二章から後序にいたるまでをつらぬいている善悪の問題を、この、第九章において「煩悩の所為なり」ととらえておられることは注意しなければならないことであります。(本書・七 第九章・第二節「煩悩の所為なり」参照)
 第二章で「地獄一定」ととらえ、第三章で「悪人」ととらえられた人間の実存を、第九章において総合して、「煩悩具足の凡夫」ととらえられているのであります。すなわち、『教行信証』では、人間の宿業・実存を、「難治(なんち)()」として、「一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提(断善根・宗教的感覚のないもの)なり」(全書・二・八一・「信巻」末)と説かれているものを、『歎異鈔』では、第九章に「煩悩具足の凡夫」ととらえておられるのであります。この意味で、第九章の「煩悩の所為なり」・「煩悩具足の凡夫」という表現は、大きな意味をもつものと考えられます。

 このような意味をもつ「煩悩具足」を、第九章の結びの文にきたって  

踊躍歓喜の心もあり、いそぎ浄土へと参りたく候わんには、「煩悩のなきやらん」と、あやしく候いなましと云々。

と、人類の歴史がもてあましてきた煩悩に、積極的意義を見いだされているのであります。煩悩が本願の大地であると、煩悩を積極的に肯定されているのであります。いいかえれば、煩悩がなければ、本願にたちかえる機がないことになり、本願に出あうこともできないのである。煩悩がなかったならば大変なことである、という仰せであります。
 かえりみますとき、人類の歴史は、善悪の問題との闘いであったといっていいのでありましょうが、その善悪の問題の根源を、親鸞聖人は、第九章において「煩悩の所為なり」とおさえられているのであります。「自身は、是れ、煩悩を具足せる凡夫、善根(ぜんごん)薄少にして、三界に流転して、火宅(かたく)を出でず」(全書・一・六四九『往生礼讃』「信巻」所引)と、善導大師が表白されているごとく、三界・火宅といわれる日常的・理知的世界に生きる人間の現実存は、「煩悩具足」であります。「煩悩具足」して、ここに、かくのごとくあるということが、人間の現実存であり、しかも、宿業・他力であります。何んともなし得ない人間の事実であります。ただ  

しかるに、仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりと知られて、いよいよ、たのもしくおぼゆるなり。

と呼びかけられる、本願の歴史の人(よきひと)に出あうとき、「煩悩具足」のわれわれは、はじめて、「他力の悲願」にたちかえることができ、「煩悩具足」のままに、本願の歴史の中に位置づけられるのであります。本願の機、すなわち、歴史的実存とならしめられるのであります。いいかえれば、はじめて、大乗的・菩薩的人間の自覚をもつことができるのであります。大乗的・菩薩的人間として位置づけられ、大乗的・菩薩的人間としてあることを自覚・確認するのであります。
 このとき、わが身の煩悩を、さらには、全人類――いな、生きとし生けるものの煩悩を、宿業として積極的に引きうけることができるのであります。煩悩の積極的意義を見いだすことができるのであります。ここに、大乗的・菩薩的という偉大なる、真の主体が確立されることとなるのであります。

  煩悩のなきやらんと、あやしく候いなましと云々。
このころ、すでに八十歳をすぎておられたと考えられる親鸞聖人に、若い気魄を感ずる言葉で、第九章は結ばれているのであります。


目次 に戻る / 第十章 法 爾 に進む