『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第二節 他力の悲願

   よくよく案じみれば
  

よくよく案じみれば、天に踊り地に躍るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ、往生は一定と思いたもうべきなり。よろこぶべき心を抑えて、よろこばせざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに、仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、「他力の悲願は、(かく)の如きのわれらがためなりけり」と知られて、いよいよ頼しくおぼゆるなり。


 第二節の文にはいって学ぶこととします。この第二節の文は、第九章の中心・要の文でありますが、『歎異鈔』後序の「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」という聖人のつねの仰せに対応するものであります。
 第一節の「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじ心にてありけり」と述懐されておりますところの、師の親鸞と弟子・唯円との宿業・実存の響感のところから、一転して、ここの第二節に「よくよく案じみれば」と仰せになっているのであります。宿業・実存の自覚のところに、深い歴史感情をもつのであります。歴史的実存の自覚をもつのであります。すなわち、わが身の業の深さを感ずるところに、その業にかけられてきた無縁の大悲を感ずるのでありますが、その歴史感情・無縁の大悲を「よくよく案じみれば」とふりかえられているのであります。無縁の大悲を再確認しようとされる言葉が「よくよく案じみれば」というお言葉であります。
 ありつるにありけりよくよく案じみればという言葉の展開には、深く大きな意味が述べられているのであります。親鸞聖人の個人的経験をとおして、その経験が歴史的なものであるという、歴史的実存の自覚を、ありつるにと述べられているのであり、それをくぐって、弟子・唯円と宿業・響感され、歴史感情をもたれた表白がありけりであります。かかる、宿業の響感が師弟一味でありますが、この師弟一味の境地から「弥陀五劫思惟の願を、よくよく案じみれば」と、大きく、本願の歴史にたちかえられているのであります。本願の歴史感情にたちかえったところから、深い静かな感動をもって、「よくよく案じみれば」と述べられているのであります。
 後序は、親鸞聖人一人の御述懐でありますが、第九章は、師弟一味、すなわち「親鸞も」という弟子と同じ位置にたたれて、ともに、本願の歴史にたちかえり、本願の歴史を仰いでおられるお(こころ)が、「よくよく案じみれば」という一語に表現されているのであります。

 第九章の第二節の「よくよく案じみれば、天におどり云々」のお言葉は、「よくよく案じみれば」という言葉から、ただちに、「天におどり云々」とつづけないで、「よくよく案じみれば」という言葉のまえに、後序の聖人のつねの仰せの「弥陀の五劫思惟の願を」というお言葉を挿入して、その後に、「よくよく案じみれば、天におどり云々」と読み下していく方が落ち着く感じであります。(曽我量深選集』・第六巻『歎異抄聴記』二二九)第二節の「よくよく案じみれば」という一語に、後序の、聖人のつねの仰せのお言葉の如くに、弥陀の本願と、宿業の身との円環関係をいいあらわされていることを読みとるべきでありましょう。
   
 宿業の自覚と弥陀の本願とは、相照らしあうものであり、歴史感情は円環をなし、循環して働くものであります。循環作用がなくなったとき、体験主義に堕落するのであります。体験執にとどまるのであります。

   矛盾的自己同一
  

よくよく案じみれば、天に(おど)り地に(おど)るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたもうべきなり。

 後序の「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」とあるをうけて、「喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたもうべきなり」であります。「喜ぶべきことを喜ばぬ」そこに、機の深信、すなわち、人間の歴史的実存の痛み(自覚)があります。その、わが身の宿業・実存をよくよく案じみる(深信)のであります。そのことにおいて、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずる(法の深信)のであります。己れの痛みにおいて、如来の無縁の大悲を感ずるのであります。二つの事柄が別の事柄でないのです。二つの事柄――弥陀の本願とわが身の宿業・実存との二つの事柄が無関係にあるのでなく、異質のもの、次元のちがうものが一つになっているのであります。その次元のちがう二つの事柄が、わが身の宿業・実存の自覚のところに、すなわち、親鸞一人という一点に、一つになっているのであります。
 それでありますから、「喜ぶべきことを喜ばぬにていよいよ往生は一定」と、内面的に展開するのであります。「喜ぶべきことを喜ばぬ」身が本願の正機でありますから、「いよいよ往生は一定」であります。「喜ばぬ」身を何んとか処置してから、本願に出あうのではありません。「喜ぶべきことを喜ばぬ」というところに、すでに自覚があるのであります。「喜ばぬ」身というところに、本願は来っているのであります。もう、そこに本願が来っているから、「喜ばぬにて」と、にての二字を加えて、自覚を確認しておられるのであります。本願がかけられている身の確認があり、「喜ぶべきことを喜ばぬ」身のまま「いよいよ往生は一定と思いたもうべきなり」であります。べきなりという断定に、確信があります。
 「喜ばぬにて、いよいよ往生は一定」喜ばぬと往生一定とは矛盾概念であります。矛盾したものが、弥陀の本願というところで内面的に統一されているのであります。それでありますから、弥陀の本願の機の自覚、すなわち、願いかけられているという自覚まで、内面的に深めなければ一つにならぬのであります。理知的立場からは喜ばぬと往生一定とは、絶対に、一つにならぬものでありますが、本願の立場・純粋感情の世界にたてば、喜ばぬところに本願の歴史を感じ、仰ぐことができるのであります。唯円も「踊躍歓喜の心おろそかに候」という形で無自覚ながら身に感じていたのでありますが、親鸞聖人に「親鸞も」とうけとられ、「思いたもうべきなり」と確信をもっておさえられるとき、無自覚的に感じていたものが、自覚的にはっきりとうなずくことができるのであります。
 さきの、「唯円房おなじ心にてありけり」という、詠嘆の心が、師弟一味の感情となって、「喜ぶべきことを喜ばぬにていよいよ往生は一定と思いたもうべきなり」と同一信に深められて、ともに、五劫思惟の本願を仰がれているのであります。

 「親鸞もこの不審ありつるに」以下の文について、くりかえし考えてきたのでありますが、第九章の文は、文字を超え、文体を超えて、われわれに迫ってくるものが感ぜられるのであります。如何に、唯円が、御在世中の親鸞聖人とのつねの対話における深い感動を、今、ここに、純粋感情の表白として、書きつけているかを、うかがうことのできる文章であり、また、読むものに、その感動を、じかに、身にひびかせる文章であることを思うのであります。

   煩悩の所為なり

  よろこぶべき心を抑えて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。
 「念仏もうし候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと」と、おそるおそるお尋ね申した弟子・唯円に、師の親鸞聖人は「天に踊り、地に躍るほどに、喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ、往生は一定と思いたもうべきなり」と答えられているのであります。――「喜ぶべきことを喜ばぬ」それこそ、宿業の自覚であり、実存の自覚であります。そこにおいてこそ、本願の歴史を仰ぐことができるのであります。「踊躍歓喜の心おろそかに候うこと」という唯円の問いに、よろこぼう、喜ばねばならぬという意識が働いているのであるが、よろこぼう、喜ばねばならぬということではない。――と、親鸞は確信のほどを、唯円に述べられたのであります。親鸞聖人が、わが身に感ぜられた確信のほどを述べられたとき、唯円は、はじめて、実存の自覚をとおして本願の歴史を師とともに、身に感じとることができたのでありましょう。
 つづいて、静かに、「よろこぶべき心を抑えて、よろこばせざるは煩悩の所為なり」と、説きはじめられました。これまでは、たたみかけるように表白されていたのでありますが、ここから、語調がかわって、道理を説きはじめられるのであります。煩悩と本願の関係について説きだされているのであります。
 われわれは、喜べる・喜べぬのみを問題にして、その根源をおさえないのですが、その根源をおさえて「煩悩の所為なり」と説かれているのであります。仏教(成唯識論)においては、一応、煩悩を、煩悩障(ぼんのうしょう)所知障(しょちしょう)に分けます。煩悩障とは、身心をかき乱し、涅槃にいたるをさまたげる煩悩すべてをいい、我執を根本とするのであります。所知障とは、知られるべき対象を実体的にたてて、正智をさまたげる煩悩で、法軌を院本とするのであります。
 ┌煩悩障……我執を根本とす……涅槃を障える
 └所知障……法執を根本とす……菩提を障える
 煩悩障は、わたしたちに涅槃の世界・純粋感情の世界のあることを知らしめないで、日常的世界に迷わす煩悩であります。所知障は、自己の体験をとおして、教法を実体的に考える一つの教条主義、体験そのものを実体的にとらえる体験主義をおこす煩悩であります。これは、目だたない煩悩でありますが、菩提心・純粋意欲をうしなわしめるものであります。煩悩障は、仏法に目覚める、目覚めぬにかかわりないのでありますが、所知障は、仏法にふれたところに生まれるものであります。
 このように、煩悩について考えてみるとき、唯円の提起した問題は所知障としての煩悩の問題というべきであります。しかし、これは一応のことであって、再応すれば「煩悩熾盛の衆生」(第一章)であり、「煩悩具足のわれら」(第三章)であります。踊躍歓喜の心の障害となっているのが、一応は所知障であり、体験主義にとどまっているからであります。しかし、煩悩障・所知障を分別し、理知的に考えれば、いよいよ、踊躍歓喜の心・純粋感情の世界から遠ざかることとなります。煩悩障・所知障は一応の分類であります。再応すれば、煩悩障・所知障ともに煩悩であります。『歎異鈔』においては煩悩・所知の二障の分類をせず、ただ「煩悩の所為なり」と、自覚の一点をおさえていることを考えねばなりません。

 このように考えてくるとき、唯円の提起した「念仏もうし候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと」という問題は、新しい問題に転ぜられることとなります。すでにくりかえしたごとく、唯円は所知障・体験主義におちているのであります。いわば、後念相続(ごねんそうぞく)の問題、すなわち、宗教経験をもったものの問題であります。「念仏もうし候えども……」ということは、本願念仏に出おうたものの問題で、本願念仏に出あわないものには感ぜられない問題であります。この、唯円の問題に、親鸞聖人は、「親鸞も」と同調されたところから述懐されてきたのでありますが、この一節になって、煩悩障であれ、所知障であれ、また、宗教経験をもつ、もたぬにかかわらず絶対現実の問題としては、ただ今の自覚(一念の信)あるのみであります。それ故に、人間の宿業・実存をおさえて、「煩悩の所為なり」と仰せになっているのであります。この「煩悩の所為なり」のなりの二字をうけて、しかるにと展開して、「しかるに、仏かねて知ろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば」と、本願に転ぜられています。ここに、第九章の師弟の対話は、一転することとなります。すなわち、後念の問題が一念の問題に転換されるのであります。

   人間の絶対現実
  

しかるに、仏かねて知ろしめして「煩悩具足の凡夫」と仰せられたることなれば、「他力の悲願は、かくの如きのわれらがためなりけり」と知られて、いよいよ、たのもしくおぼゆるなり。


 『歎異鈔』の文は、声をあげて読むとき、切々と身にせまるものを感ずるのでありますが、この一節も、まさにそうであります。唯円が、親鸞聖人からお聞きしたのを、生涯耳の底にとどめておき、時あるごとに反復していたものでありましょうから、聖人がお書きになった『末燈鈔』などの和文の聖教の語調とは、まったくちがったものを感じます。解釈や解説などに関係なく、直接的にうつってくる言葉であります。とくに、この一節は解釈を必要としないのであります。  

後念相続に即して一念帰命の境地を一層明らかにされたのである。表は後念相続に就いて語られているが、一念と後念とは相対立するものではないから、いつでも一念を離れて後念なしということを明らかにされたのが第九条(章)である。(曽我量深選集・第六巻・二一七)

と説かれています。「第二章は唯円が仏法に目覚めた(一念の)ところであり、それ以後(第二章以下)は後念の世界である」という解釈もあるようですが、曾我量深先生は、「第二条(章)は念仏の法を掲げられてある。ここ(第九章)は念仏に就いて我々の機のはからいを更に否定して、……一念帰命の境地を一層明らかにされたのである」と述べられています。
 まさに、前節において体験主義におちいった唯円の告白に同調して、対話されてきた親鸞聖人は、語調をあらためて「よろこぶべき心を抑えて、よろこばせざるは煩悩の所為なりしかるに仏かねてと……」と、弥陀の本願にたちかえられて、本願の道理を説きあかされているのであります。さきの「よくよく案じみれば」と述べられていたところは、聖人の述懐でありますが、この、しかるにの一節からは、本願にたちかえったところから、本願の道理を説きあかされているのであります。いわば、第一章の「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」という、弥陀の本願の初一念にかえられて、本願に、その道理をかえされて話されているのであります。

 主体的時間、すなわち、生きた時間は、つねに、今であります。過去もなく、未来もなく、「ただ今」あるのみであります。また、自己そのものは、宿業の身、実存的存在としてあるのであり、「煩悩具足の凡夫」であります。しかも、かかる実存の自覚のところに、純粋主体が知らされるのであり、生きた時間をもつのであります。今を忘れ、自己そのものの、実存の自覚をはなれたものは、すべて、観念であり、現実でなく、事実でないのであります。
 ただ今の今は、考えられた時間でなく、生きた時間、すなわち、「ただ今」の反復のみであります。
 また、自己とは、こうあるべきだとか、人間の本来性はこういうものだとかと考えることはできましょうが、現実の自己そのものは、「煩悩具足の凡夫」であり、煩悩の世界にあけくれしている身であります。しかし、自己を対象的に考えているときは、「煩悩具足の凡夫」とは考えられないのであります。弥陀の本願にたちかえってはじめて「仏かねてしろしめして、煩悩具足とおおせられたることなれば」ということに気づくのであります。「煩悩具足」とは、「仏かねてしろしめして」のことであります。すなわち、仏への方向をとったとき、いいかえれば、求道の道を求め歩みはじめたとき、先だって、実存をいいあてておられる「煩悩具足」の身であることを深く感知するのであります。道を求め歩むとき、その意欲の障害となるものが、煩悩であります。しかし、そこに、「煩悩具足の凡夫」といいあてておられる本願の教法を、さらに、「煩悩具足の凡夫」のためにちかわれている「他力の悲願」を、いよいよ知らされるのであります。「他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけり」という、絶対的救済を知らされるのであります。
 「親鸞も、この不審ありつるに」という聖人の表白は、すでに学んだごとく、現在完了の文体であります。いわば、過去から現在への方向であります。過去からの流転を、現在のただ今、うけとめて、「よろこぶべき心をおさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり」と説かれているのであります。しかし、ここの「他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけり」の一段の文は、未来から現在への方向であります。
   
 未来の仏から、現在のわれわれに呼びかけられているのであります。「煩悩具足の凡夫」と呼びかけられるのであります。「既にして、悲願(いま)す」(全書・二・一五八「化身土巻」)であります。喜ぶことを喜ばせざるは煩悩の仕業でありますが、その煩悩は、人間そのものに具足しているものであります。煩悩をとれば何うにかなるのでなく、現実の人間そのものは、ただ今のわが身は煩悩具足して、ここにある存在であるところの凡夫であります。煩悩をとってしまえば、ただ今のわが身は存在しないのであり、煩悩具足して、ただ今のわが身であります。この、人間の現実そのもの、すなわち、絶対現実は「仏のしろしめ」すところであり、仏の真智によらねば自覚せしめられないものであります。仏(未来)からいいあてられて、はじめて自覚されるところのものであります。絶対現実は未来に照らされて自覚されるのであります。

 仏は、われわれにとっては永遠に未来でありますが、その未来によって、われわれの、ただ今の絶対現実がうきぼりにされるのであり、観念的現実でなく、この、ただ今のわが身の絶対現実をおさえて、「煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」というところに、既に悲願が成就せられ、大悲心が来ているのであります。
 「おおせられたることなれば」と親鸞聖人も仰せになっていますごとく、煩悩具足の凡夫と、仏がいいあてておられることなれば、いいあてておられることですから、煩悩具足の凡夫を、わがこととされている仏の大悲心は来っているのであります。すなわち、煩悩具足の凡夫、いいかえれば、人間の絶対現実は仏の自己限定であります。人間の絶対現実のところに、仏は「他力の悲願」として自己を限定し、来っているのであります。
  罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします(第二章)
  煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死を離るゝことあるべからざるを憐れみたまいて、願をおこしたもう本意(第三章)
と説かれている悲願は、仏の自己限定であります。『大無量寿経』に説かれている弥陀の四十八願を、別願と名づけられていますが、「煩悩具足の凡夫」のためにたてられ、ちかわれている本願でありますから、別願すなわち、人間を超えた仏(法性法身・真如そのもの)が、「煩悩具足の凡夫」として実存する人間のところに、本願として自己限定しているのであります。ここに、『大無量寿経』に説かれている弥陀の本願を、別願といい、悲願と呼ばれる所以があります。
 「煩悩具足の凡夫」を場として、仏(真如)そのものが本願として来っているのであります。現行しているのであります。それでありますから、「煩悩具足の凡夫」の自覚のところに、すなわち、人間の現実存にめざめるところに、仏(真如)の現行が自覚されるのであり、仏(真如)を自覚するのであります。いいかえれば、真の主体的自覚が生まれ、そこに、歴史的主体としての自己そのものを見いだすことができるのであります。「いよいよ、たのもしくおぼゆるなり」という感情にみたされるのであります。
 「煩悩具足の凡夫」という人間の絶対現実は、さらに、歴史的・純粋主体――仏(真如)そのものが、いまここに現行しているという、歴史的絶対現実へと展開するのであります。

   果遂のちかい

 この第二節に説かれている「他力の悲願(註9)」ということでありますが、阿弥陀仏の四十八願は、別願であり、悲願でありますが、『教行信証』においては、とくに、第十九・第二十願を悲願と名づけられています。なお、この第九章は、唯円の体験執の問題を機として説かれていることを考えあわせますと、ここの「他力の悲願」は、まさしく第二十願とうけとることができるのであります。第十九願の問題をあきらかにした第三章と対応して、第九章は、第二十願の問題をあかしているわけであります。
 その第二十願について、しばらく考えてみようと思います。第二十願は、本願の名号におうて、その名号を自力の心で修し、浄土に生まれんと願うものは、必ず、極楽浄土の往生を遂げさすであろうとちかわれているのであります。この第二十願を、植諸(じきしょ)徳本の願・係念定生(じょうしょう)の願・不果遂者の願・至心廻向の願と名づけられています。前三名が諸師伝承の願名(がんみょう)であり、最後の至心廻向の願という願名が親鸞聖人の己証(こしょう)の願名であります。
 「植諸徳本」の願名は、「一切善法の本」であり、「十方三世の徳号の本」であるところの本願の名号を「己れが善根として極楽に廻向」(全書・二・一五八「化身土巻」所引『如来会』)するのが第二十願の機であることをあらわしているのであります。また、次の、「係念定生の願」という願名でいいあらわされているところの「係念定生」――念を西方の極楽浄土に係ける者は、定めて往生せしめよう――という第二十願の意は、名号を己れが善根として廻向しようとするところに、すでに、あらわれているのであります。すなわち、第二十願文の如く「我が名号を聞きて(聞名)、念を我が国に係けて(係念)、諸の徳本を植え」んとするところに、聞名が係念をとおして徳本となるのであります。名号を徳本(諸の功徳の本)と考えるところに、すでに、極楽浄土に係念しているのであり、利益(浄土という果)を求めている自力の心が働いているのであります。本願の名号を人間の功利心で考え、とらえていることになります。
 しかし、本願は、このような功利心をもって本願の名号に向う人間をも、「果遂せずば、正覚を取らじ」とちかわれているのであります。やがて浄土往生を()(はた)さしめねばおかぬ、とちかわれているのであります。これが、第二十願を「不果遂者の願」と名づけられている所以であります真凡そ、本願の名号は、第十七願にちかわれているところの諸仏の位のものがらであります。功利心を離れない人間を超えたもので、凡夫のものではないのであります。しかし、その名号を聞き、名号に出おうたとき、すかさず、その名号を己が善根とし、それをもって、浄土の利益を得ようとするのであります。人間を超えた本願の名号、本願の世界(浄土)を、自己の所有としようとするところに、人間の横暴があるのでありますが、それは、そのまま、本願を疑うものであります。人間を超えた本願の名号、本願の世界を、功利的人間が所有できると考えることが、本願そのものを知らないことであり、それは、仏智を疑うものであります。『疑惑和讃』に
  不了(ふりょう)仏智(ぶっち)のしるしには
  如来の諸智を疑惑して
  罪福信じ善本を
  たのめば辺地にとまるなり

  仏智の不思議をうたがいて
  自力の称念このむゆえ
  辺地(へんち)・懈慢にとゞまりて
  仏恩(ぶっとん)報ずるこゝろなし(全書・二・五二三)
と説かれて、悪因悪果(罪)をすりかえ、善因善果(福)を得んとする罪福心、すなわち、人間的功利心をもって、本願の名号(善本)を修する者、つまり、自力の心で念仏を行ずる者を、仏智を疑惑する者といい、その人は真実報土には生まれないと説かれているのであります。個人的人間心が加われば、純粋感情の世界はひらかれないのであります。
 しかし、「化身土巻」に第二十願文の傍証として引かれている『平等覚経』の
  人の命、(まれ)に得べし
  仏、世に(おわ)せども、(はなは)()うこと難し
  信慧(しんえ)あること致るべからず
  若し聞見せば、精進して求めよ(全書・二・一五九「化身土巻」所引)
という言葉は、煩悩具足の凡夫(第九章)であり、垢障(くしょう)の凡愚(「化身土巻」全書・二・一六五)であるわれわれに、ただただ念仏を勧められている仏のおこころをうかがうのであります。「化身土巻」には、この『平等覚経』の言葉につづいて、『観無量寿経・阿弥陀経』の文・善導大師の九文・元照律師・孤山などの十四文を引用されて、念仏往生を勧められているのであります。たとえ、その立場が人間的立場であろうと、ただ、「一切善法の本」であり「十方三世の徳号の本」である本願の名号を行ずることを勧められているのであります。たとえ、その心が功利心であろうと、自力の心であろうと、本願の名号・本願の言葉にふれしめようと力を尽されているのであります。ここに、第二十願を「不果遂者の願」と名づけられる所以があります。

 さらに、第二十願の問題として、『大無量寿経』の第十八願成就文に「至心廻向」という第二十願の言葉があることが注意されています。第十八願成就文とは、他力の信心成就を表白されている文でありますが、そこに、第二十願の自力の信の言葉である「至心廻向」という言葉がはいっていることを、次に、考えてみたいのであります。
 しかも、親鸞聖人は、その第十八願成就文を二分して
  諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。(全書・二・六二)
という前半を、本願信心の願成就の文と名づけ、「信楽釈」に引用され、「至心廻向」より後半の文を、『如来会』の成就文の「所有の善根、廻向したまえるを、愛楽して』(全書・一・二○三)によって、「至心に廻向したまえり」と訓点をかえて
  至心に廻向したまえり。彼の国に生ぜんと願ぜば、即ち、往生を得、不退転に住せん。唯、五逆と正法を誹謗するとをば除く。(全書・二・六六)
と読んで、本願の欲生心成就の文と名づけ、「欲生心釈」に引用されているのであります。すなわち、第十八願成就文を二分して、前半は信心・自覚をあらわす文とし、後半は欲生心・願・意欲をあらわす文とせられて、一念の信の内景を二つに分けられているのであります。
 かくて、欲生心・願・意欲をあらわす文とせられている後半の文に、宗教心における重要なる問題があるのであります。その重要なる問題をふくんでいるのが、本来は、第二十願の言葉である「至心廻向」の四字であります。この第十八願成就文に、第二十願の「至心廻向」の囲文字があるということは、第十八願にちかわれている他力の信心が得られたとき、なお、その中に、第二十願の法軌の問題があらわれていることを、第十八願成就文が物語っているのであります。すなわち、「念仏申し候えども」という第二十願の問題は、第十八願の宗教経験をくぐったものの問題であります。
 宗教経験は、(宗教経験に限らず、如何なる経験にあっても)たとえ、その経験が純粋なるものであるとしても、必ず、あたくし・人間の功利心がひそんでいるものであることを、第十八願成就文が物語っているのであります。すなわち、第十八願成就文によって、人間を超えた純粋なるものを経験する場合であっても、人間において経験されるとき、必ず、人間心が潜在するものであるということを知らされるのであります。人間における経験の秘密の問題を、第十八願成就文はあきらかにし、提起している点を注意しなければなりません。
 しかし、この「至心廻向」の文字を、親鸞聖人は「至心に廻向したまえり」と訓点をかえて読まれているのであります。このことから、第二十願の「至心に廻向」せんとする心(信)は、やがて  

然るに、徴塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に<漂寸(ひょう)(もつ)して、真実の廻向心なく、清浄の廻向心なし (全書・二・六五「信巻」欲生心釈)

という、絶対自己否定の自覚を生み、「至心に廻向したまえり」の自覚に転入せしめられるべきものであることを知らされるのであります。このように、第二十願の心(信)は、やがて、「我が国に生まれんと(おも)え」という如来の欲生心・本願心によって、第十八願の信に転入(果逐)せしめられる意義をもっているのであります。
 第二十願の願名を、親鸞聖人が「至心廻向の願」と名づけられる所以も、ここにあると考えられるのであります。第二十願の「至心に廻向す」という「至心廻向」は、人間的立場にたつ意欲の問題でありますが、その意欲が、第十八願成就文の「至心に廻向したまえり」という如来の意志に転ずるという構造をもつのであります。つまり、人間的立場にたつ意欲が、自己否定をくぐったとき、既に、その底に、人間を超えた真の意欲が働いていることを自覚し、転ぜられるものであるということを、第二十願は教えているのであります。
 かくのごとく、第二十願と第十八願成就文は、現代の人間における経験の問題に、重要なる回答をあたえているのであります。

 以上、第二節の問題をひろいつつ、解明をしてきたのでありますが、『歎異鈔』第九章の眼目は、この第二節にあると考えられます。また、『歎異鈔』の親鸞聖人は、吉水教団の一員の自覚をもって語りかけておられるために、真仮分判の思想が判然としていないのであります。すなわち、第十八・第十九・第二十願の別があきらかでないのでありますが、この第九章、とくに、第二節は、後の『教行信証』などの親鸞教学を生む歴史的事実(師と弟子の対話)をあきらかにしている点で、注目すべきであると考えられるのであります。つまり、『教行信証』にあきらかにされている真仮分判の厳密なる教学は、『歎異鈔』の第九章のごとき歴史的事実を、その背景として樹立されたものであります。
 この意味から、素朴な真仮未分のまま、「他力の悲願」という言葉を用いて対話されている第九章・第二節の文を、『教行信証』の教学に照らして学んできたのであります。すなわち、『教行信証』に照らして、第九章の「他力の悲願」を第二十願として学んできたのであります。


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