『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第三節 第八章を頂点とした『歎異鈔』の組織

 第八章を頂点とする『歎異鈔』の組織を考えてみたいと思います。
 まず、第七章との関係は、すでに学んだところでありますが、「念仏者は無碍の一道なり」と、宿業の身に純粋自由の世界をあたえる道が、念仏というものであります。念仏という法であります。してひらかれるが、念仏の法であります。その法に出あい、その法徳をうけた感動の表白が第七章でありますが、その第七章の感動の根源をあかしているのが第八章であり、第八章は「念仏は……ひとえに他力にして」という表現で、念仏の法そのものを説いているのであります。この意味で、第七章の表白は、第八章から流れてきたものといえましょう。
 このような関係にある第八章・第七章のみ「念仏は」・「念仏者は」と本願念仏を文章の冒頭にかかげて、本願念仏の法をあかしているのであります。『歎異鈔』における特異な文章であります。(「弥陀の誓願」・「念仏には」と書きだしている第一章・第十章の問題は後にふれることとする)『歎異鈔』は全般に、その当時の、親鸞聖人門下の、すなわち、唯円の身辺におこった歴史的事件を媒介として説かれているのでありますが、その中にあって、第七・八章のみは、歴史的事件にふれず、本願念仏の法そのものを、直接に、問題にしているのであります。文章そのものが、第七・八章の性格を物語っているのであり、『歎異鈔』における重要な位置を、第七・八章がもっていることをあらわしているといえます。また、『歎異鈔』のうちで第七・八章の文章は(第一章・第十章と共に)簡明直裁な洗練された文章であります。文章そのものからも、第七・八章は注目しなければならない章であります。『歎異鈔』の眼目であります。

 つぎに、第七章は、第四・五・六章の帰結と考えられます。
 第四章は、慈悲の問題・自と他の問題であります。慈悲とは、自と他との関係のあり方であります。慈悲という関係がなりたたなければ人間性をうしなうのであります。慈悲は、あってもなくてもよいというような問題ではありません。人間としてしなければならない重要な課題であります。しかし、それがなしとげられるには、本願念仏の法によらねば成りたたないものであります。
 人間性をうしなうか、うしなわないかという、人間にとって大切な問題でありますが、また、現実には、それは「此れ必らず不可なり」(全学・二・六二「信巻」信楽釈)であります。人間的立場からは、まったく不可能事でありますが、本願念仏にかえるとき、あらゆる外的条件にかかわりなく、無碍にひらかれるのであります。この意味で、第四章の帰結として第七章が説かれていると考えられます。
 同じく、第五章の父母孝養の問題も、そうであります。肉親の愛情という私的感情をとおし、純粋に、自己否定を見いだすことによって、世々生々の父母兄弟、四海みな兄弟という平等感情が生まれるのであります。
 第六章の師と弟子との問題も、すなわち、教団・僧伽の問題も、本願念仏・本願の歴史を仰ぐところにおのずから、道がひらかれるのであります。「如来よりたまわりたる信心をわがものがお」にするところに、いいかえれば、本願の歴史よりたまわった、他力の大道よりたまわったものをわたくしするとき、大道はとざされることになります。師と弟子の共感がなくなり、教団・僧伽は形骸化して、その生命をうしなうのであります。
 このように、生命をうしなった教団・僧伽の息をふきかえそうとして、法制をさだめ、機構をつくることになるのでありますが、それらは、いよいよ、その生命をうしない、傷を深くするばかりであります。ただ、わたくしする心をすてて、他力の大道にたちかえるとき、無碍の一道はひらかれるのであります。この意味から、第六章は第七章にたちかえる道程と考えられるのであります真このように考えてくるとき、第四・五・六章は、親鸞聖人や唯円の身辺におきた歴史的事件を媒介として、本願念仏にかえる道が説かれているのであります。この第四・五・六章にこたえて説かれている第七章・第八章は身辺の事件を超えて、本願念仏の大道を原理的に説かれているのであります。この意味から、第四・五・六章の具体的な問題をもって、第七・八章を学ぶとき、第四・五・六章の具体的な問題の根源があきらかとなり、ときほぐされていくのであります。すなわち、第七・八章は第四・五・六章のかえり場所であると同時に、第四・五・六章の出発点であります。第四・五・六章の利他の起行訓は、第七・八章の自利の起行訓(了祥師がこのように分類されている)と円環の関係をなすものであります。
 第三章と第八章の関係は、すでに学んだところでありますが、第二章と第八章は、ともに、歴史的事件を直接媒介とせず、原理的に、第一章は「弥陀の誓願不思議」を説き、第八章は「念仏は……ひとえに他力にして」と本願念仏の法を説いているのであります。第一章では、真宗の大綱を示すと科文せられているように、本願念仏の大道を原理として、人間救済の道を道理として説かれています。第八章は、その原理・道理を「ひとえに他力にして」と、自己のうえの事実として、はじめて、新しく見いだしているのであります。第一章の原理も、第八章において、絶対自己否定(非行・非善)の自覚をくぐって、驚きをもって、自己のうえに見いだされことがなければ、観念におわることになるのであります。このように考えてくるとき、第八章は、『大無量寿経』下巻に説かれているところの  

諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念せん。至心に廻向したまえり」 (全書・二・二四一「信巻」所引)

という本願成就文にひとしい位置をもつと考えられます。『歎異鈔』における成就文と考えられます。
 また、第二章は、第一章の「弥陀の誓願不思議」・第八章の「ひとえに他力にして」と述べられている他力を、具体的に、「よきひとの仰せ」としてあきらかにしているのであります。さらには、第二章の後半に説かれているごとく、弥陀・釈迦・善導・法然・親鸞という本願の歴史の事実として、他力を具体的にあきらかにしているのであります。第二章・第八章は法の真実をあかす『大無量寿経』とすれば、それに対して、機の真実をあかす『観無量寿経』という位置を第二章がもっていると考えられます。
 このように、第八章によって、師訓の前七章は、一つの組織づけをすることができるのであります。さらに、第九章以下と第八章の関係を簡単にふれてみることとします。
 「念仏は……ひとえに他力にして」というごとく、自力を否定して、はじめて本願念仏そのものに出あった感動(第八章)から、第九章は生まれるのであります。いわば、絶対他力の大道をあかす第八章から転落するという形で「念仏申し候えども云々」という第九章は生まれるのであります。「他力の中には自力と申すことは候」(全書・二・六八三『末燈鈔』第十七通)と聖人が説かれているごとく、他力の中に自力がくわわるのであります。純粋感情の世界に、人間的関心が混入するのであります。そのとき、ただちに純粋感情の世界は閉ざされてしまい、ます。これが宗教心の展開のうちにおける魔の淵とも名づくべき関門であります。
 しかし、この関門をくぐって、新しくひらかれる世界が、第十章の「念仏には、無義をもて義とす」という自然法爾の世界であります。第八章に「ひとえに他力にして」と説かれいた他力の世界が、自然法爾の世界として判然とされてくることになります。第八章では、非行・非善という言葉で、「非」という一字で暗示されていた世界が、きびしい否定語をもってあかされていた本願他力の世界が、第十章では「不可称・不可説・不可思議の故に」という言葉で、まったく肯定的な表現で説かれているのであります。第八章から第九章をくぐって、ひらかれた第十章の自然法爾の世界こそ、第八章においてはじめて感動をもって見いだされた本願念仏の世界が、あらためて再確認されたものというべきであります。(第九・十章は、いずれ各章のところで詳説することとする)
 この第十章を頂点として、第十二章以下の歎異八章はひらかれ、さらに、後序をとおして、唯円の歎異の事業は、今日まで願いかけられ、展開し、歩みつづけられているのであります。ここに、『歎異鈔』における第八章の重要性を考えさせられるのであります。
 すなわち、実践の問題をとおして、「ひとえに他力にして」と、絶対自己否定をとおして、はじめて本願他力に目覚めることの重要性を考えるのであります。


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