『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第二節 如来の本願力なり

   ひとえに他力にして

 この「ひとえに他力にして」という言葉が第八章の眼目であります。『歎異鈔』の師訓のうち、第八章を一つの頂点と感ぜしめるものは、この言葉によるものと考えられます。
 ひるがえって考えるとき、第七章において、念仏の法徳を、宿業のわが身にうけた感動を「念仏者は無碍の一道なり」と讃嘆されたのでありますが、その感動の背景、すなわち、念仏そのもの(大行・本願の歴史)をあきらかにしているのが第八章であります。
 第七章の体験の背景である念仏そのものは、わが計らいを超えた大善であり、大行である所以を、第八章の前半に「わが計らいにて行ずるに非ざれば、非行という。わが計らいにてつくる善にもあらざれば、非善という」と説かれているのであります。つづいて、「ひとえに他力にして云々」と説かれているのでありますが、そのひとえにという言葉は、念仏は非行・非善なることを「他力にして」と繰りかえされようとしている言葉ではないのであります。念仏は「他力にして、自力を離れたる」ものであることを再確認して、ひとえにと仰せになっているのであります。
 念仏は、わが計らいを超えたものであること(第八章前半の文)を自覚された感動を、さらに、新しく深めるところに「ひとえに他力にして云々」という反省的言葉が生みだされているのであります。一つの感動に出あったところから、また、さらに深い感動に出あう。感動から感動へ。これが、本願の展開であります。本願の世界は一つの感動にとどまるものではないのであります。第七章と第八章の関係、さらに、第八章の前半の文と後半の文の関係は、かかる、本願の展開を、内面的展開を示しているのであります。

   人間形成の法

 『歎異鈔』に、ひとえにという言葉は数ヶ所に見られるのでありますが、いま、その一つをとってみますと
  自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心かけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。(第三章)
と説かれています。この第三章のひとえにと類をひとしくするのが、第二章の「ひとえに往生極楽の道をといきかんがためなり」というお言葉であります。
 ひとえにたのむ、ひとえにきくということ(註3)は、すなわち、唯信であります。「涅槃の真因は、ただ、信心を以てす」(全書・二・五九「信巻」)と説かれているところの「ただ信心」であります。他力の世界、すなわち、本願の宗教の世界は、ただ信心・純粋意欲でなければ入ることができないと説かれているのであります。本願の宗教の世界いいかえれば、純粋感情の世界は、純粋意欲のあるところに、自然にひらかれるというのであります。ひとえにたのむひとえにきくとは純粋意欲にたつということでありますが、ひとえに、という言葉に、決断の意があります。人間的・理知的立場をすててたつ、自力を転じて他力に帰すという決断の意を、ひとえにと表現されているのであります。
 「人のはじめて、はからわざるなり」(全書・二・六六三『末燈鈔』第五・自然法爾章)と述べられているごとく、決断のところに、自力がすたり、そこにはじめて生みだされるものが純粋意欲であります。決断のあるところに、はじめて新しく生まれるものであります。ひとえにという言葉は、このような意味をもっているのであります。
 少し横道にそれたようでありますが、もとにもどって、第八章の前半の文においては、念仏の法そのものは、人間の計らいを超えたものであることを説かれ、後半の文において、ひとえにという言葉をもって、念仏の法そのものについて、はじめて新しく見いだされた意義を説かんとされるのであります。
  念仏は、……ひとえに他力して(歎異鈔』第八章)
  他力というは如来の本願力なり(全書・二・三五『教行信証』「行巻」)
 ここに『歎異鈔』『教行信証』の言葉をならべてみますとき、第八章の「ひとえに他力にして」とあるところのひとえにはじめて新しく見いだされるものは、如来の本願力ということでなければなりません。『教行信証』の「行巻」重釈要義(じゅうしゃじゅようぎ)に述べられているこの「他力というは如来の本願力なり」という言葉は、第八章のいうベくして、いまだ、いい得ざるところをいいつくしているものと考えられるのであります。この『歎異鈔』と『教行信証』の言葉を一つにするとき
  念仏は、ひとえに他力にして、如来の本願力なり。
ということになります。「念仏は、如来の本願力なり」であります。また、念仏は「選択本願、是れなり」(全書・二・二二「行巻」)であります。すなわち、念仏は、如来の本願力であり、また、選択本願そのものであります。
 「行巻」には、他力・本願力を  

阿修羅(あしゅら)の琴の、鼓するものなしといえども、しかも、音曲自然なるがごとし。(全書・二・三五)

という一つの譬喩をもって説かれています。阿修羅の琴は、弾く人なくして、その音曲は自然に、如意にひびくというのでありますが、この阿修羅の琴は、十方世界に響流する念仏を、さらには、如来の説法を象徴しているのであります。「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず」(第二章)と説かれているところの、釈迦・弥陀二尊のみことを象徴していると考えられるのであります。この、二尊のみことこそ、念仏そのものであり、如来の本項力そのものであります。この二尊のみことこそ、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生に感応し自利々他円満して、すみやかに、無上道(成仏の道)を成就するのであります。真の人間形成を果たす法が、二尊のみことであり、念仏であり、如来の本願力であります。
 かくて、第八章は、「行者のためには、非行・非善なり」と結ばれているのであります。「非」の一字は、人間的立場を絶対的に否定したところの、強い否定語でありますが、この強い否定語をもって、念仏は如来の本願力なることをあざらかにしているのであります。この「非」の一字をくぐって
  念仏は、ひとえに他力にして、如来の本願力なり。
という表白が生まれるのであります。

 考えてみますと、如来の本願力をわれわれに呼びおこさしめたところのこの「ひとえに他力にして」という言葉が、第八章の眼目となっているのであります。また、「ひとえに他力にして」という眼目をもつ第八章が、『歎異鈔』の眼目となっており、さらに、「ひとえに他力にして」ということが、親鸞聖人の宗教の眼目であります。この「ひとえに他力にして」という言葉をもつ第八章を中心に、『歎異鈔』は前半と後半に分けられるのであります。この意味で、第八章は『歎異鈔』の分水嶺であり、頂点であります。


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