『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第三節 転  成

   本願の証し

  罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故にと云々。

 この第七章の結びのお言葉は、第一章の  

その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらす、念仏にまさるべき善なき故に。

のお言葉を思いおこすとき、すべて、問題は解消するのであります。仏教は自業自得を説き、因果応報(業因によって業果を生ずる)の理を説くのでありますが、本願念仏の宗教は、内に煩悩さかんにして、外に罪悪深重なる者の救いのためにたてられたのでありますから、本願念仏の教えにふれたとき、因果応報の理にかかわらず、悪を転じて徳となさしめられるのであります。人間存在の悪が、本願の機という意味をあたえられることになるのであります。
 (ごう)という言葉は、今日では誤解されて、その言葉のいのちをうしなっていますが、人間の業、すなわち、行為そのものは、まったく、人間を超えて深く重いものであることを感ずるのであります。業の深さとか、業のおそろしさとか、と、日常つかわれている言葉も、罪とか悪とかを、倫理的・道徳的言葉としてうけるとき、それは、どこかのだれかの問題のように考えてしまうのでありますが、罪業・悪業、罪悪深重・煩悩熾盛と、『歎異鈔』から問いかけられるとき、それを、ただ理知的にうけ流すことができないものを感ずるのであります。現実存の、わが身の問題として、主体的にうけとらなければならない言葉であります。いうまでもなく、罪悪深重・煩悩熾盛という言葉は、主体的自覚の言葉であります。
 業とは、造作・行為という字義で、意志による身心の生活を意味する言葉であります。われわれが善悪の業をつくれば、それによって、それぞれの(むく)い(果報(かほう)業報(ごうほう))を生ずるのであります。業因によって業果が生まれるのであります。このように、業は業報を生み、また、次の業を生むので、業そのものを、業道といいます。この業道は、人間の理知を超えて働くのでありますから、すなわち、自然・他力でありますから、業道自然とよばれています。
 考えてみますと、仏教が、人間の行為を業として説いてきた歴史は、人間の行為は、ただ、単なる行為でなく、深く内面的意義をもっていることをあかしてきたのであります。人間の行為に、深い、いのちを感じてきたのであります。かかる、深い、いのちをもった業道自然にこたえられているのが、弥陀の本願であります。われわれは、本願念仏の法(教法)を学ぶとき、自己の業道自然のうえに、阿弥陀仏の本願・いのちを感ずるのであります。そのとき、そこに、無為自然の世界、すなわち、純粋感情の世界がひらかれるのであり、絶対自由の世界に生まれることができるのであります。
  罪悪も業報を感ずることあたわず
と説かれている、この力強い断定的な言葉は、如何なる罪業・悪業も、本願念仏の法に照らされるとき、業道自然のいのちが、そのまま、逆に、本願への道と転ずることになるのであります。本願念仏の法によって、われわれの業因を転じて、無為自然の世界になさしめられるのであり、転成されるのであります。しかして
  諸善もおよぶことなき故に、無碍の一道なりと云々。
と、第七章は結ばれているのでありますが、以上の意味から、いかなる諸善もおよぶことなき、絶対善を説かれているのであります。自力作善の善、いいかえれば、廃悪修善の人間的・理知的立場にたった善は、虚仮雑毒の善であるのに対して、真実清浄の善・善悪を超えて、善悪をつつむ、真の善といわれるものは本願念仏の法以外にない(註4)ことを讃嘆されているのが第七章であります。
  

『論語』に云く、季路、問わく「鬼神に(つか)えんか」と。子の曰わく「事うること(あた)わず、人いづくんぞ、鬼神に事えんや」と。(全書・二・二〇一「化巻」)

 『教行信証』の「化身土・末巻」に、引文を引かれている最後に、親鸞聖人は、右の『論語』の言葉を引用しておられるのであります。この『論語』の文は、弟子の季路の問いに対して、孔子が
  (いま)だ、能く人に事うること能わず、いづくんぞ、能く鬼神に事えんや
と答えているのでありますが、親鸞聖人は、「未」の字を「不」の字にかえて読みかえて、「化身土・末巻」に引用されているのであります。すなわち、「まだ、人にさえつかえることができないのに、どうして、神につかえることができようか」という孔子の言葉を、「(神に)つかえることはできない。どうして、人間が、神などにつかえることができるか」と読みかえられているのであります。親鸞聖人は、孔子の言葉を読みかえることによって、人間の主体性の確立を宣言されているのであります。
 すでに学んだごとく、大乗仏教は、人間そのものを、大乗的・菩薩的存在であると説き、人間存在そのものの尊厳性を見いだしているのでありますが、その大乗仏教の理を、本願念仏の宗教は、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫の自覚の身のうえに、事実として実証しているのであります。すなわち、本願の歴史のうちに位置づけられている自覚、いいかえれば、仏弟子と名づけられる身の自覚のところに、専政なる身の自証・確信をあたえられるのであります。
 かかる自証・確信をあたえられるとき、「人いづくんぞ、鬼神につかえんや」であり、『歎異鈔』第七章に説かれているごとく、天神・地祇、魔界・外道、善・悪に誘惑されることはないのであります。
 自己の尊厳性を自証せしめられ、また、凡夫の自覚において本願の批判精神にたつとき、「余道(よどう)(つか)うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を(まつ)ることを得ざれ、吉良日(きちりょうにち)()ることを得ざれ」(全書・二・一七五「化巻末」)と説かれているごとく、余道などを必要としないのであります。いかなるものにも動転しないのであります。

 かえりみますとき、第七章は、本願念仏の徳を讃嘆されている章でありますが、本願念仏によって宿業の自覚をひらいた人間が、自己自身のうちに、尊厳性を自証・信如し、絶対自由の世界を感知した表白であります。純粋主体を確立することを得た宣言であります。


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