『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第二節 同一・平等の世界

   弟子一人ももたず

 つぎに、『歎異鈔』の一人(いちにん)の問題を、第六章と第二章の結びの文と対応しつつ考えたいのであります。第二章の結びの言葉には  

詮ずるところ、愚身の信心におきては此の如し、この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また、棄てんとも、面々の御はからいなりと、云々。

と述べられていますが、「詮ずるところ愚身の信心におきては此の如し」という表白に、よき師に対する絶対信順と、念仏(本願の歴史)に対する確信をもって、一人(愚身)の信が述べられているのであります。さらに言葉をつづけて「面々の御はからいなり」と仰せになっていますが、「親鸞一人がためなりけり」と、一人(いちにん)の信にたつとき、「面々の御はからい」といい切れるのであります。おのおのの、主体的選びにまかすことができるものであり、また、まかすべきものがらであります。宗教心というものは、主体的に、ただ「弥陀の御もよおし」に出あうか否かにかかわった事柄であって、親鸞聖人の意図の参与する余地はないものであります。この第二章の結びのお言葉に、聖人の宗教心に対する純粋な態度がうかがわれるのであります。
 宗教心は、ひとえに、一人の自覚の問題であります。よき人に出あったところにひらかれたものであるとともに、それは、そのまま、みずから主体的に選んだものであります。みずから主体的に求道にたってこそ、はじめて、一人の自覚がなりたつのであり、また、一人の自覚なくしては、信心同一もなく、純粋な歩みとはならないのであります。親鸞聖人は、かかる宗教心のあり方を自覚されて、第二章の結びの言葉として、主体的選びを説かれているのであります。つまり、純粋なる宗教心は主体的自覚の問題でありますから、いかなるときも、一人であります。
 かかる、一人の信がたつところに、第六章の親鸞は、「弟子一人ももたず候」という表白が生まれるのであります。健康な人間の横の関係、すなわち、純粋な社会的・世界的関係がなりたつのであります。また、主体的選び、すなわち、一人の信がたったとき、そのままが「如来よりたまわりたる信心」(第六章)であり、「親鸞一人がためなりけり」(後序)と表白されているところのものであります。ここに、横の関係と縦の関係において、真の人間が成就することになるのであります。

 さらに、第六章の書きだしの言葉に、「専修(せんじゅ)念仏のともがら」とありますが、これは、本願念仏の法をもっぱら行ずる人々ということであり、本願念仏の法を一つにする人々ということであります。しかし、法は一つであっても、信はそれぞれちがうということがあります。このように、吉水教団の人々は、本願念仏の法を同じくするという自覚にたっていたと考えられるのであります。しかし、親鸞聖人は本願念仏の法の問題でなく、信心が同一という、信の問題とされたのであります。すなわち、「弥陀の御もよおしにあづかりて念仏申し候う人」(第六章)でありますから、御同朋(後序)であります。
 どこまでも、親鸞聖人は、法を立場としないで、機・わが身の自覚にたたれた、すなわち、主体的一人の自覚を離されないのであります。本願念仏の法を主体約・自覚的にうける立場をはずされなかったのであります。ここに、吉水教団における親鸞聖人の面目があり、大きな位置があります。

 『歎異鈔』における一人の意義を学んでいるのであらますが、さらに  

法を聞きて、能く忘れず、見て敬い、得て大きに(よろこ)ばば、則ち、我が善き親友(しんぬ)なり。 (全書・一・二七・『大無量寿経』「信巻」所引)

と説かれているごとく、一人の自覚にたつとき、如来から「善き親友」と名づけられるのであります。そこには師も弟子もないのであります。賢者・愚者などの別もなく、ただ、ひとしく如来から善き親友と呼ばれるのであります。また、「信巻」に真の仏弟子を釈して、「弟子とは、釈迦・諸仏の弟子なり」(全書・二・七五)と説かれていますが、本願念仏の道を歩みつづけるものは、釈迦・諸仏の弟子と名づけられるのであります。「わが弟子・ひとの弟子」と申すごときものではないのであります。
 個人的人間が日常的人間の関係を超えて、仏道の歴史・本願の歴史のうちに位置づけられることになるのであります。過去・現在・未来と歴史が展開していく、その歴史の機として、本願の歴史の(あかし)となる人間の位置におかれるのであります。個人的人間を超えて歴史的人間にならしめられるのでありますから、たとえ、師というも弟子というも、ともに、釈迦・諸仏の弟子であります。でありますから、わが弟子というものはないのであります。互いに、同行・同信として、尊敬しあう間柄にならしめられるのであります。如来からも親友と尊敬され、互いにも親友・同行と尊敬しあう、平等関係にならしめられるのであります。この意味において、第六章に「親鸞は、弟子一人ももたず候」と表白されているのであります。また、「親鸞一人がためなりけり」(後序)と表白されている、その一人の信は、如来廻向の信・如来よりひらかれた信でありますから、ともに、同一信心であり、師・弟子・友の間に一味平等の世界がひらかれるのであります。『歎異鈔』における一人の問題は、親鸞聖人の身をとおして、このように展開されてきたのであります。

 考えてみますとき、本願の宗教は、真宗と呼ばれるのであって、人類の真実の宗となるものであります。いろいろとある宗教の中の一つという特殊宗教ではなく、人類の(むね)となるもの、すなわち、絶対的宗教・普遍的宗教というべきものであります。それでありますから、人類の根源的願い(本願)のもつ構造をあきらかにしているのが、本願の宗教の教学であると考えられます。親鸞聖人が本願の宗教を問題にされる立場は、このような立場にちがいないと考えられます。『教行信証』も『歎異鈔』も、かかる聖人の宗教観をうけているのであります。このように考えてきて、改めて、『歎異鈔』における一人の問題を考えてみたいのであります。
 わたしという存在は、考えてみますと、誰れびとも代りあうことのできない絶対主体であります。単独者であり、独立者であります。この意味で、かけがえのない、尊厳なる存在であります。一人の問題は、第一に、かかる意義をもつのであります。しかし、このわたしという存在は、単独者であり、独立者であって、孤独者ではないのであります。というのは、人類の本願がかけられているものであり、その本願をうけつぐものという位置にあるのであります。この意味で、歴史的単独者であります。真に、人類の根源的願い(本願)の歴史を荷負する使命を自覚的に引きうけねばならない独立者であるのであります。この自覚をもつとき決して、孤独者ではないのであります。人類史的使命をもった大きな存在であって、個人的人間ではないのであります。しかし、かかる自覚をうしない、個人的・私的感情におちこむときは、孤独者となるのであります。わたしという存在を自覚をもって顧みるとき、個人的・私的感情を超えて、本願の歴史をうけてたちあがらねばならないのであります。一人の問題の、第二としては、かかる意義をもっているのであります。
 第三に、孤独者と孤独者の集合体では、社会・世界はなりたたないのであります。独立者と独立者、さらにいえば、本願の歴史をうけ、それを自覚した歴史的独立者の集りこそ、真の社会・世界といい得るのであります。かかる社会・世界においては、人々の間には信心同一の感情があり、交配されるものと支配するものなどという意識はなく、ただ、道を同じく歩む先輩と後輩があるのみで、そこには、互に響感の世界がひらかれるのであります。一人の問題は、第三に、かかる意義をもつのであります。

   師あるのみ

 第六章は、師と弟子の問題、すなわち、教団・僧伽の問題を説かれているのであります。教団・僧伽は「宗教的精神の存するところにあり」という意味を、清沢満之先生は述べられています(註3)が、教団・僧伽は仏(師)と法のあるところにひらかれるものであります。仏(師)と法があるところに、仏法をうけて僧(僧伽)が成立するのであります。教団・僧伽においては、師(仏)と友(僧)のみありて、弟子のない世界であります。師によって象徴される本願の歴史をうけたところにひらかれる同体感情の世界であります。さらにいえば、本願の歴史という歴史感情をもったところに感ぜられる世界であります。
 この意味から、教団・僧伽は地上に形づくられた浄土であります。浄土とは、安心(あんじん)の国・安楽の国でありますから、教団・僧伽にふれるとき、人間は真の安心がなりたつ、そのような社会が教団・僧伽であります。純粋感情の世界であり、そこには、「わが弟子」・「ひとの弟子」という争いを必要としないのであります。ただ、本願の歴史の象徴としての「師のみあり」であります。世にいう指導者でなく、純粋感情の世界における関係であります。師に対する感情も、弟子に対する感情も、友の間の関係も、すべて純粋感情の世界の風光であります。ただ、世間の例にならって、師と弟子の名をもちいるだけであって、一味同証(註4)であります。
 師も弟子も、「信を一にして、心を、当来の報土にかけし輩」(別序)であります。師も弟子も、廻向の信をたまわり、浄土を求めて、生涯、求道し願生せんとするもののところにひらかれるのが、教団・僧伽であります。

 ところが、本願の歴史の原点に、すなわち、法蔵因位の修行(われわれのために、五劫思惟、永劫修行されたと説かれている本願)にたちかえることを忘れるとき、一つのつまずきが生まれます。いいかえれば、歴史感情をうしなって、個人的感情にたつとき、一方においては師に対して、「善知識だのみ」といわれる知識帰命計(きみょうけい)におちいり個人的感情をもって師に対することになります。いわゆる、ファン意識というようなものをもって、師の従属的存在となるのであります。また、一方においては、弟子に対して、指導者意識をもって「わがものがお」にふるまうことになり、弟子を己れの従属者とするのであります。ともに、純粋感情の世界をうしなってしまいます。浄土という性格をうしなった教団(実は、集団にすぎないもの)になります。そこにおいては、師も弟子も、歴史的感情をうしない個人的感情を立場とし、わが師・わが弟子という個人的・人間的臭味をもった師と弟子の関係におちいるのであります。個人的感情・人間的感情によってつながり、統制される集団に堕落するのであります。このような、教団・僧伽の堕落に対する、親鸞聖人の、本願の道理、すなわち、自然の理に即したこたえが、「親鸞は、弟子一人ももたず候」という表白であります。さらに、この一人の信の自覚から、仏恩・師恩(本願の歴史)を感知し得るのでありますが、この本願の歴史感情を、「自然(じねん)(ことわり)にあいかなわば、仏恩をも知り、また、師の恩をも知るべきなり」と述べられて、第六章の結びとされているのであります。


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