『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

三 第五章 還  相
 

一。親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふ(もう)したることいまださふ(そう)()ず。そのゆ()は、一切の有情はみなもて世々(せせ)生々(しょうじょう)父母(ぶも)兄弟なり、いづれもいずれもこの順次(しょう)に仏になりてたすけさふら(そうろ)うべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふ(そう)はゞ(わば)こそ、念仏を廻向して父母をもたすけさふ(そう)()め。たゞ自力をすてゝ、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生(ししょう)のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通(じんずう)方便をもて、まづ有縁(うえん)を度すべきなりと云々。(定本・親鸞聖人全集・第四巻・言行篇1・8)



第一節 実践主体の問題

   第四章をうけて

 第四章は、聖道の慈悲を批判して、浄土の慈悲のみが、真実の実践であると示されて、「しかれば、念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心にて候うべきと、云々」と結ばれているのであります。
 この第四章の、念仏申すのみぞ」という言葉は、第一章の「念仏申さんとおもいたつ心のおきるとき」第二章の「ただ念仏して」とあるところの念仏をうけているのであります。
 すでに学んだところでありますが、『歎異鈔』の説き方は、所行(しょぎょう)に能信をおさめて説かれているといわれていますが、念仏は所行の法、すなわち、歴史的行・歴史的実践であり、諸仏の行であります。また、信は能信、すなわち、自覚であり、われわれの問題であります。『歎異鈔』は能信を所行におさめて、つまり、自覚の問題を歴史的実践におさめているのであります。信を念仏におさめて、伝承されているのであります。つまり、「ただ念仏」の伝承であります。しかし、念仏は法であり、所行の法であって能行ではないのであります。念仏を能行、つまり、わたしが行ずるものとするとき行信の混乱をおこすことになります。信(自覚)は能信であって、どこまでもわたしの問題でありますが、念仏は所行・歴史的実践であって、人間を超えたものであり、仏によって行ぜられるものであり、われわれの信(自覚)の背景となるものであります。念仏は、わたしを超えた大行(だいぎょう)であり、仏の行であります。このことは『歎異鈔』を読むとき、忘れてはならないことであります。

 かかる、所行・大行・歴史的実践としての念仏をうけて、第四章に「念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心」であると説かれたのでありますが、第五章においては、この大慈悲心である念仏の功徳を、父母孝養のためにさしむけたいというのであります。このことは、所行・大行である念仏を、能行とするのであって、本願の宗教の所行・能信の綱格をくずして、所行・能行とすることになり、教学(教相)の混乱をきたすことになります。
 第五章は、このような念仏の法に、父母孝養という私的感情をさしはさみ、所行・能信、すなわち、歴史的実践と自覚の綱格を乱す問題が提起されているのであります。

 この第五章は、『観無量寿経』に説かれている三福の中の、孝養父母にあたる章でありますが、了祥師は念仏不廻向章と名づけられています。
 この第五章の歴史的背景となるものとして、平安末期の社会事情があります。伝教、空海によってひらかれた平安仏教も、末期にいたると、怨霊退散のための祈祷仏教に堕落しており、また、農耕社会である地方農民の意識には、祖先崇拝の観念があり、宗教界の大切な行事として祖先供養が行なわれていたのであります。ただ、このような庶民感情を、いま、とやかく問題にする必要はないのでありまして、この素朴な、原始的感情に、本願の宗教は如何に答えるかという問題を、第五章は提起しているのであります。

  親鸞は、父母孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候わず。
 この親鸞は、父母孝養のため、いわば、追善供養のため、一返も念仏申したことは、いまだかつてございません、といい切っておいでになります。念仏は法であり、大行であって、個人的人間を超えたものであります。父母孝養の問題・祖先供養の問題は、人間として素朴な尊い感情でありますが、あくまで、私的な、個人的感情の立場の問題であって、次元を異にしているのであります。混乱すべきではないから、はっきりといい切っておられるのであります。
 第四章において、自力聖道の慈悲心をひるがえして「念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心」と説かれている本願念仏にたちかえったのであります。
     
 しかし、さらに第五章では、第四章で「大慈悲心」と説かれたところの、この念仏を感動をもってうけとったところから、それをそのまま、近親の供養のために、という素朴な人間感情に結びつけたのであります。ここで、親鸞聖人は、はっきりと、断言的な言葉をもって、この問題に、「いまだ候わず」とこたえられているのであります。みずからの問題として、本願念仏の世界を、明確にこたえておられるのであります。「親鸞は……一返にても……いまだ候わず」という強い表現をもって断言されていることは、『歎異鈔』において、他に見られないのてあります。たとえ、素朴な感情とはいえ、本願念仏に、私的感情をさしはさむことを絶対的に否定される親鸞聖人の態度を、この第五章の文章からうかがい知るのであります。

   自力の執心

 第四章において、他に働きかける心のうちに、第十九願の自力作善の心がひそんでいることを自覚し、本願念仏の世界にたちかえらしめられたのであります。「念仏申すのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にて候うべき」と第四章が結ばれているごとく、本願念仏に、いよいよ、たちかえるばかりであります。
 しかし、人間の自力の執心は、まさに、根が深いというべきものであります。自力作善の心を自覚し、批判して本願念仏にたちかえったのでありますが、次には、「この念仏を父母のために」という形、すなわち、自力の念仏という形で、自力の執心はもりかえされてくるのであります。 

本願の嘉号(かごう)をもって、(おの)れが善根(ぜんごん)とするが故に、信を生ずること(あた)わず、仏智をさとらず、彼の因を建立(こんりゅう)せることを了知(りょうち)すること能わず。(全書・二・一六五「化身土巻」本)

と説かれていますように、わたくしを超えた本願の念仏・本願の大道、すなわち、公の大道をわたくしするという問題であります。この問題は求道のあるところ、人間の歩むところに、つねにつきまとってくるものであります。でありますから、つねに、自己の信を批判・反省して、新しく新しく、本願の大道にかえらねばならないのであります。第十八願の信にかえらねばならないのであります。
 第四章は「念仏申すのみぞ……」と結ばれているのであり、本願念仏にたちかえる、いわば、往相道にたつことが、そのまま還相道であり、往相即還相であると説かれていたのであります。しかし、第五章に至って、さらに、もう一度、新しく本願念仏の大道にたちかえらねばならぬことを説かれているのであります。実践の問題に対する人間の意識の複雑さが思われるのであり、また、その根強い自力心の深さを知るのであります。第四章をうけて第五章は、再び、大きく転換し、根底からくつがえされねばならない実践主体の問題が説かれているのであります。
 いま、「本願の嘉号をもって、己れが善根とする」という『教行信証』の言葉を引用したのでありますが、この言葉そのものは、第二十願開顕の「化身土巻」に説かれているところの、聖人の御自釈の文であります。しかし、この『歎異鈔』第五章は、『観無量寿経』の三福の中の、孝養父母にあたる章でありますから、第十九願の意を批判されているのであります。しかし、第五章は、単なる自力作善という問題でなく、本願の嘉号である念仏を父母の追善供養のために、という問題であります。立場は、第十九願の定散自力の立場でありますが、行ぜられるものがらは、本願の嘉号であります(註1)。この点を 

本願の嘉号、けだし是れ、如来不可思議他力の功徳なり、しかるに、諸善に准じて己れが善根となす。(全書・二・四〇七『六要鈔』第六)

と存覚上人は注意をあたえられています。諸善を己れが善根とする人間は、さらに、念仏をも、諸善に准じて、己れが善根とするのであります。でありますから、ここの念仏は、第十九願の自力の立場にたった念仏、すなわち、自力の念仏であります。ここに、人間の自力の執心の深さを考えさせられるのであります。まさしく、この自力の念仏、自力の信心の問題は第二十願の問題であり、『歎異鈔』では、第九章において解明されているのでありますが、この第五章において、すでに第十九願にたった第二十願の問題が暗示されていると考えられるのであります。
 いずれにしても、第四章の念仏をうけて、第五章に説かれている「この念仏を、父母孝養のため」という立場は、大きく転換し、まったく出なおさなければならない問題であります。
  親鸞は、父母孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候らわず。
と、断定的な告白体で自力の念仏を否定され、つぎに「その故は」という言葉をもちいて、大きく転回されているのであります。「親鸞は」という告白体で切りだされ、「その故は」と、はっきり述べようとされているところに、聖人の実践の問題に対する、きびしい態度がうかがわれるのであります。


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