『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第三節 還相は自覚行

   この慈悲始終なし
 

今生に、いかにいとおし不便(ふびん)とおもうとも、存知(ぞんち)のごとく助けがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心にて候うべきと云々。


 第四章の結びの文に入って学ぶことになります。ここに、聖道門自力の慈悲に絶対批判を加えて、浄土門他力の慈悲のみ、純粋行であり、真実行であることを説かれているのであります。
 「今生に」とは、日常的世界・人間的世界においてはということ。さらには、末法の今日においては、という意味を含んでいると考えられます。末法の人間の世界においては、ということであります。次に「この慈悲始終なし」ということは、聖道の慈悲、すなわち、人間的立場にたった慈悲、これは直接的愛情ともいうべきものでありますが、徹底して一貫しないものであると、絶対否定をくだしておられる言葉であります。この問題は、すでに学んできたのでありますが、もう少し考えてみることにします。『愚禿悲歎述懐和讃』に

  浄土真宗に帰すれども
  真実の(しん)はありがたし
  虚仮(こけ)不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし

  悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
  修善(しゅぜん)雑毒(ぞうどく)なるゆえに
  虚仮の行とぞなづけたる

  小慈小悲もなき身にて
  有情(うじょう)利益(りやく)はおもうまじ
  如来の願船いまさずば
  苦海をいかでかわたるべき (全書・二・五二七)

と和讃されていますごとくに、人間的立場・自力の立場にたつとき、それが如何に「頭燃(ずねん)をはろう」がごとく、力をつくしても、その実践は雑毒であり、虚仮の行と名づけられるものであって、清浄の行・純粋行・真実の業にならないのであります。この立場からは、に働きかけるということ、すなわち、有情利益は思いもよらぬことであります。「この慈悲始終なし」という言葉は、善導大師の『散善義』の「此れ必らず不可なり」という言葉と相対する、絶対自己否定の言葉であります。

 人間は、本来、歴史的社会的存在であって、と宿業響感の関係において存在するものであり、より働きかけられ、に働きかける存在であります。また、人間は本来的・本能的に、に働きかけようとする実践意欲を深くもっているものであります。しかるに、ここに「この慈悲始終なし」と、その実践そのものの絶対否定を宣言されているのであります。なお、『愚禿悲歎述懐和讃』には「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもうまじ」と、そのような他に働きかける意欲をもつことさえ否定されているのであります。この否定の言葉は、外から、客観的に否定されているのではなく、親鸞聖人が主体的に、わがこととして痛みをもって、否定せざるを得ぬ現実を、断定の形をもって表白されているのであります。いいかえれば、人間的・聖道門・自力の立場においては深い人間性をまっとうすることができないではないかという、現実を押えた断定の言葉であります。そこには、立場の根本的な転換以外にないという、廻心をせまる言葉であります。
 すでに学んだごとく、第四章は慈悲を問題にしつつ、人間のあらゆる行為・実践について問題を提起しているのでありますが、ここの、「始終なし」という表現で、立場の根本的転換をせまっているのであります。この断定の言葉は、人間の実践についての、今日的回答というべきものであります。すなわち、第四章に、人間的・理知的立場にたった行為・実践について、行為そのものを、とやかく批判せず、ただちに、その立場の根本的転換を提起されているのでありますが、この第四章の教えをうけて、それが、個人的なものであろうと、集団的・組織的なものであろうと、今日のあらゆる行為・実践は、根本的反省をしなければならないのであります。表面的な行為の手段とか方法などに対する批判はなされていても、その行為・実践の立場そのものに対する主体的批判は、今日まったく忘れ去られているといってもいいのでありますから、第四章の教説の今日的意義は大きいものがあると考えられます。

  しかれば、念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心に候うべきと、云々。
 「この慈悲始終なし」と説かれているところの、立場の根本的転換をせまる言葉をうけて、しかればと述べられているのであります。しかればという言葉によって、場面は大きく転ぜられ、ひらかれてくるのであります。
  如来の廻向に帰入して
  願作仏心をうるひとは
  自力の廻向をすてはてて
  利益有情はきわもなし(全書・二・五一八『正像末和讃』)
と、和讃されているごとく、聖道門・自力の廻向を転じて、いいかえれば、立場をまったく一転するとき、「利益有情はきわもなし」であります。

   往相即還相

 第四章の文面そのものは、聖道門・自力の立場をすてて、念仏申す、すなわち、往相廻向にたちかえるとき、その実践者の立場が、まったく転ぜられて真の還相がひらかれるのであります。それでありますから、第四章を「しかれば、念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心にて候うべきと、云々」と結ばれているのであります。
 さらに、還相の問題を『教行信証』の「証巻」に照らして、いま一度学んでみたいのであります。「証巻」に説かれているのは、必至滅度(第十一願・往相)と還相廻向(第二十二願)であります。『歎異鈔』においては、この往相と還相の問題を原理的にあきらかにしているのが第四章であり、第五・第六章は、具体的な問題を媒介として往相・還相の問題を説かれているのであります。
 さて、「証巻」は「信巻」からひらかれたものであり、「信巻」に説きあかされたところの、他力廻向の信・歴史的主体的自覚から(他力廻向の信の益としての現生不退、さらに、その益である真の仏弟子の自証から)展開してきたものであります。すなわち、歴史的主体的自覚をもったものの歴史的主体的な自覚的実践であります。まさしく、「証巻」は主体的自覚的実践の問題をあかして往相・還相を説き、ともに、如来の他力廻向であることを説いている(註8)のであります。
 いま、少し「証巻」の問題にふれたのでありますが、『歎異鈔』の前三章は「信巻」に、第四・五章は、まさに「証巻」に相応するのであります。この点より考えますとき、『歎異鈔』の第四・五章は、歴史的主体的自覚をもったものの、主体的・自覚的実践であるというべきであります。第四章と第五章の問題は、本願にたちかえる(往相)ことが、そのまま、法爾自然に、還相であると、ただ単にいっているのではなく、往相は(「念仏申さんと思いたつ心」(第二章)でありますから)いうに及ばず、還相も自覚的実践(いうまでもなく、理知的立場を超えた、本願の力用であり、主体的実践)であることをいわんとされているとうけとるのであります。
 と申しますことは、第四章の浄土の慈悲は、「大慈大悲心をもて、思うがごとく、衆生を利益するをいうべきなり」と説かれているお言葉から、「思うがごとく利益する」すなわち、主体的な自覚的実践であると「いうべきなり」と、自覚的実践であることの確認をうながされていると考えられるのであります。(本文・一・「二種の廻向なり・二」参照)

 さらに、第四章において、「いうべきなり」の六文字と、「この慈悲始終なし」の八文字が強い表現となっていますが、ここに、聖道の慈悲と浄土の慈悲の関係が暗示されているのであります。「いうべきなり」の六文字をもって、浄土の慈悲は、歴史的純粋感情を立場とした主体約・自覚的実践であるという確認をあたえておられるのであります。この確認をとおして、「この慈悲始終なし」の八文字をもって、人間的・自力の立場にたった聖道の慈悲を、まったく否定されているのであります。
 浄土の大慈悲心は、人間的立場の実践を、「この慈悲始終なし」と絶対否定されたところのものであります。人間的立場、すなわち、理知的自覚・自力の信を絶対的に否定したところに、新しく見いだされるものが、浄土の大慈悲心であり、それは歴史的純粋感情を立場とした、主体的・自覚的実践であります。(自力の信の絶対的否定は、第二十願の問題である。上巻・第二章・第三節「宗教的反逆」中巻・第九章・第一節「師・親鸞の応答」参照)すなわち、信の自己批判(第二十願の自覚)をくぐった主体的・自覚的実践が還相廻向であります。
 この還相廻向の第二十二願を、「大慈大悲の誓願」と名づけられ、「還相廻向の御ちかい」(全書・二・七三一『如来二種廻向文』)と名づけられています。第十七願も、第十八・十一願も、また、第十九・二十願なども、それぞれ「悲願」と名づけられているのでありますが、特に、この第二十二顧のみ「大慈大悲の誓願」といわれているのであって、第二十二願・還相廻向に対する親鸞聖人の深いおこころをうかがうのであります。 

これは如来の還相廻向の御ちかいなり。これは、他力の還相の廻向なれば、自利・利他ととも、行者の願楽(がんぎょう)にあらず、法蔵菩薩の誓願なり。……よくよく、この選択悲願をこころえたもうべし。(全書・二・七三二『如来二種廻向文』)

と注意されていますように、還相廻向は自覚的実践でありますが、どこまでも、人間の理知をまったく否定した法蔵菩薩の誓願であり、歴史的主体の願いであります。また、「行者の願楽にあらず」であって、人間的意欲に属するものでなく、如来の大慈悲(歴史的純粋感情)そのものであります。曇鸞大師が表白されているごとく「動静(どうじょう)、己れにあらず、出没、必らず(ゆえ)あるが如し」(全書・一・二八二『論註』「行巻」所引)であって、われわれのうえの実践の問題でありますが、その動静・その出没は、人間の理知を超えた、本願の道理によるものであります。まことに、人間を機として行ぜられるものでありますが、本願自身が実践展開するところのものであります。
 しかし、どこまでも、人間に関係し、人間のうえにひらかれる意欲であり、自覚的実践であります。けれども人間的立場を絶対自己批判したところから生まれでる実践であり、本願自身の実践でありますから、人間的臭味を、まったく残さない純粋行であり、真実行といわれるべきものであります。第四章の「いうべきなり」という六文字を、ここでうけとることができます。われわれから、これが純粋行・真実行なりとはいえないのであって、われわれのうえの歴史的主体的な、しかも、自覚的実践こそ、純粋行・真実行といわるべきものであると、客観的に定義づけられているのであります。

 すでに学んだごとく(本書・一・「大乗ということ」参照)、人間は本来、他に働きかけようとする意欲と実践、すなわち、還相的意欲と還相行をもっているのでありますが、その意欲と実践を、真に純粋なものにするか、いなかは、ひとえに、自己の自力の信に対する自己批判をもつか、いなかにかかわるのであります。人類の歴史が願い求めてきたところの、純粋なる還相行をなりたたせるかいなかは、ひとえに、その、みずからの立場の絶対自己批判があるかないかにかかわっていることを学んできたのであります。
 この信の自己批判(第二十願の問題)は、『大無量寿経』の教説にもとづく、親鸞聖人の教学のもつ独自の面目であります。自己の信、すなわち、自己の立場の批判をとおした還相行の成就こそ、親鸞聖人の教学が、人類の歴史の願ってきたものにこたえられるところの、重要な課題であります。
 この自己批判のない実践は、独断的になるか、懐疑的になるかのいずれかであります。真剣になれば独断的になり、真面目になれば懐疑的になるのであります。これが、こんにちの、あらゆる実践のもつ問題であり、壁であります。この問題に対する回答が、親鸞聖人の教学であり、『歎異鈔』第四章であります。
 みずからの立場に対する自己批判をくぐって、新しく、本願の教え・本願の世界にむかって、永遠にたちかえる(往相・第十一願にちかわれている歴史的実践)そのとき、われわれのうえに、自覚的に生まれるものが還相的意欲であり、還相行(第二十二願にちかわれている歴史的・世界的実践)であり、これこそ、真に、純粋行・真実行といい得るものであります。この実践こそ、本願の歴史の歩みであり、歴史的純粋感情そのものの展開であります。かかる実践の問題こそ、現代という時代をひらく真の実践でありましょう。
 しかし、これは念仏の徳・真実信心の徳であり、真の仏弟子にあたえられた徳であります。また、この人をこそ、「弥勒に同じ・諸仏に等し」とたたえられる人であります(註9)。このことが、歴史的事実として、『歎異鈔』の表面にあらわれてくるのは、唯円という仏弟子をとおして実践される悲歎八章であります。

 しかしながら、いま『歎異鈔』第四章は実践の問題を具体的に説かれる段階でなく、「念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心にて候うべきと、云々」と結ばれて、往相即還相と説かれているのであります。往相を離れた還相はなく、往相のあるところに、還相の力用はひらかれると説いて、第四章を結ばれているのであります。つまり、第四章は、往相・還相の問題を原理的に説かれているのであって、この原理をうけて、第五・第六章において、具体的な問題を媒介として還相の問題が展開されるのであります。


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