『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

第二節 純 粋 行

   浄土の慈悲

 他に働きかける行が「助けとぐること、きわめてありがたし」と批判されるとき、その行ずる者の意識・立場が内観されて、本願念仏の信・往相道にたちかえらされ、たちかえったところから、真実行・純粋行としての浄土の慈悲が生まれるのであります。さて、第二節の文にうつります。 

浄土の慈悲というのは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

 これが第四章・第二節の文であります。この文のうち、大慈大悲心ということでありますが、『観無量寿経』の第九真身観に
  仏心とは大慈悲これなり、無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂す。(全書・一・五七)
と説かれていますが、この「仏心とは大慈悲これなり」という言葉は、『観無量寿経』の眼目であり、『観無量寿経』をつらぬいている精神でありましょう。この経典自身が解釈しているごとく、かかる仏心・大慈大悲心は無縁の大悲であります。すなわち、大慈悲心は有縁・無縁を超えて、もろもろの衆生に働きかけるのであります。
 また、『涅槃経』(全書・二・六二「信巻」所引)に「大慈大悲は、常に菩薩にしたごうこと、影の形にしたごうが如し」と説かれ、「大慈大悲を名けて仏性となす」、「一切衆生悉有仏性と(のたま)えるなり」と説かれているごとく、大慈大悲という感情は、人間の深い内面(仏性)に本来的に、本能的に秘められているものであります。さらに、影の形にそうがごとく、菩薩の内面(大乗的人間)の感情として、つねに、もちたもたれているところのものであります。いま、菩薩を大乗的人間といいましたが、すでにふれたごとく、自己のなる苦悩・宿業を内観し、また宿業の自覚をとおして、外なる苦悩の衆生の苦悩と響感し、そこから、あらためて往相道にたちかえる、そこに、大乗的人間・菩薩的人間が生まれるのであります。かかる菩薩的人間の内面の感情こそ大慈大悲心であり、この菩薩的人間の大慈大悲の感情は、おのが宿業の自覚のところに、苦悩の衆生の苦悩と響感していくのであります。この響感の世界の働き・力用を「大慈大悲心をもて、おもうがごとく衆生を利益する」と説かれているのであります。この響感の世界の働き・力用を浄土の慈悲と名づけられているのであります。

  浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて……
と説かれていますが、かかる浄土の慈悲は、「念仏して、いそぎ仏にな」るところに、ひらかれる力用であります。
 この「念仏して、いそぎ仏にな」るということでありますが、本願念仏の利益に、正定と滅度の二益があります。つまり、第十一願に、住正定聚と必至滅度との二つの願事があります(註6)が、いまこの第四章で「念仏して、いそぎ仏になりて」と説かれているのは、二つの願事・二つの利益のうちの必至滅度であります。この滅度とは、「証巻」に説かれているごとく、無上涅槃であり、無為法身であります。仏の世界であり、仏そのものであります。この滅度を、未来の益(正定を現益とするに対して、滅度を当益)と古来から説かれていますが、滅度は、宗教における、いいかえれば、深い人間の問題における永遠の今の問題であるということであります。
 しかし、この永遠ということは、時間・今を超えたものということで、しかも単に、今と無関係に彼方の問題ということではなく、真実なる永遠であります。つまり、永遠の問題とは、純粋感情の世界の問題であり、ただ今のわが身のところに感ぜられるものであります。ただ今のわが身と無関係に滅度(すなわち、仏の世界・仏そのもの)を考えるとすれば、それは、理知的・分別的理解であります。滅度は永遠であるとともに、しかも、ただ今(この身・この土)の問題であります。

 この第四章の「いそぎ仏になりて」という言葉は、第二章に 

たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候。その故は、自余の行をはげみても、仏になるべかりける身が、念仏を申して、地獄にもおちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という後悔も候わめ、いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

と説かれているところの、仏になるべかりける身いづれの行も及びがたき身とある言葉に対応するものと考えられます。すなわち、滅度とか、涅槃、仏とかは身の問題であります。われわれは、自余の行によって仏になる可能性をもつ存在ではなく、「いづれの行も及びがたき身」であり、如何なる可能性もない。宿業・実存の身であります。滅度とか涅槃・仏とは、かかる宿業・実存の、この身の問題であります。
 聖道門の諸家は、滅度・涅槃を、智慧の問題とするに対して、親鸞聖人は、涅槃は信心を因とするものであるいいかえれば、いづれの行も及びがたき身という自覚(信心)をもつ身のところに感ぜられるものとされているのであります。いわば、地獄一定の宿業・実存の身のところに感知せられるものであって、必至滅度の必至・必ず至るという言葉がこの意味を物語っているのであります。宿業・実存の身のところに、滅度とか、仏という永遠の問題が現在するのであります。
 「念仏して、いそぎ仏になりて」と説かれているごとく、念仏する。すなわち、往相道にたつとき、滅度とか仏とかいわれる永遠の世界が、往相の証果として宿業の身にひらかれるのであります。「往相廻向の証果なれば本願相応のひと、現身に、みな得たり、信心歓喜の輩、これそのひとなり」(『深解会通』三九の左)と説かれているごとく、仏という永遠の問題が、現身にひらかれるのであります。また、「いそぎ仏になりて」と説かれているところの、『歎異鈔』のいそぎという言葉は、第十一願の言葉にすれば、必至ということであります。さらに押せば、即・ただちにということであります。念仏する、すなわち、往相道にたちかえったとき、宿業の現身にただちに、仏の世界が感知せられ、ひらかれるのであります。 

浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

と説かれているごとく、念仏する、すなわち、往相道にたちかえったとき、ただちに「大慈大悲心をもて、おもうがごとく衆生を利益する」という仏の力用がひらかれるのであります。仏になるという永遠の問題が、往相道にたつとき、ただちにひらかれ、そこに、仏の力用・還相が成就されるのであります。「往相あるがゆえに還相あり」(『深解会通』一の左)であります。
 仏となる(成仏)ということ、また、仏の働き(還相)をするということ、これは、人類の永遠の課題でありますが、念仏する、すなわち、往相道にたつとき、ただちにひらかれるのでありますから、いそぎといわれているのであります。本願念仏の往相道にたつとき、宿業の身のうえに、ただちに、純粋感情の世界がひらかれ、そこから、人間的立場を超えた、大乗的・菩薩的働き(仏の力用)が自然に働くのであります。これが、浄土の慈悲と名づけられるものであり、かかる浄土の慈悲を、大慈大悲と名づけられているのであります。

 慈悲ということは、『論註』には「苦をぬくを慈といい、楽をあたうるを悲という」と定義されていますが、また、慈悲とは、菩薩の四無量心であります。慈無量心・悲無量心・喜無量心・捨無量心、これを四無量心といいます。慈とは楽をあたえること、いわば、慈育する心であります。悲とは苦を抜くこと、つまり、苦悩の人をあわれみ悲しみ同体するのであります。次に、他人が楽を得るのを見て喜ぶのが喜、すなわち、随喜することであります。捨とは平等感情ということで、他人に対して愛憎親怨の心がなく、つまり、個人的な人間的な関心をすてて、平等に対することであります。この四無量心を代表して慈悲というのでありますが、無量というところに、慈・悲・喜・捨の四つの感情は、人間を超えたものであることをあらわしています。人間的感情ならば、必ず、限界があって、無量とはいえないのであり、「助けとぐること、きわめてありがたし」であります。末法の凡夫の世界にあっては果たしとげることができないのであります。無量という点から押してみますと、四無量心、すなわち、慈悲という感情は、本来的に人間的立場・自力的立場からは果たしとげることができない、なりたたないものであることを物語っています。すなわち、慈悲というものは、もともと、浄土の慈悲といい、大慈大悲心といわれるものに転ぜられるべき性格をもつものであります。
 考えてみますと、慈悲という言葉は、愛といいかえてもいいのでありますが、日常的世界における、人と人との純な感情をあらわす関係概念であります。しかし、無量心と名づけられることによって、その人間的立場・自力の立場が根源的に否定されることになり、このとき、日常的関係概念は、宗教的関係概念に転換されることになります。また、転換される性格をもつものであります。このように慈悲ということは、人間的感情を超えて、すなわち、「助けとぐること、きわめてありがたし」という自覚をとおして、純粋感情の世界に転入せしめる課題をもっているわけであります。慈悲という問題は、本来的に、大慈大悲といわれる浄土の大慈悲心へ、すなわち、如来の大悲心へと、人間的立場の慈悲の限界を知らしめられ、展開せしめられる性格をもつものであります。

   無縁の大悲

 さきの『観無量寿経』の「仏心とは大慈悲これなり、無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂す」という文について、もう少し考えてみたいのであります。大慈悲心とは仏心であります。まったく、理知・自力を立場とした人間を超えたもので、すなわち、宿業の身・煩悩具足の身を自覚したところに感ぜられ、また、ひらかれるものであります。でありますから、それと同時に、煩悩具足・罪悪生死の凡夫に対して、どこまでも同感していく無縁の大悲であります。
 自己の宿業を自覚するとき、この宿業と共に歩みつづけ、この宿業の身を大悲したもうてきたという歴史感情がひらかれるのでありますが、この歴史感情が無縁の大悲であります。無縁の大悲とは歴史感情であります。すなわち  

「まさしく、彼の阿弥陀仏因中に、菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、皆、これ真実心の中に、なしたまいしによりてなり。」(全書・一五・三三、『観経疏』・至誠心釈)

と、善導大師が説かれており、法蔵因位の行として物語られている歴史感情であります。自己の宿業を自覚するところに、この無縁の大慈悲と説かれている歴史的純粋感情を感ずることができるのであります。さらにいえば聖道門自力の慈悲の限界を知るとき、浄土門他力の慈悲、すなわち、歴史的宿業の自覚のところに、自己自身が大悲されてきたという、歴史的純粋感情の世界を感ずるのであります。
 われわれは、宿業のままに流転をかさねてきた身でありますが、かかる歴史的宿業の身を自覚するとき、この歴史的宿業の身に即して、歩みつづけられ、願いかけられてきた法蔵因位の行を感ずるのであります。それは、真実心(純粋感情)をもって、歴史をつらぬかれてきたものであります。これが、浄土の大慈悲心であり、四無量心と説かれている無量――すなわち、人間の理知をまったく超えた大慈悲心であります。歴史的純粋感情であります。われわれのうえに、われわれを超えてひらかれた、この純粋感情は、また、われわれを機として、一切衆生の宿業に響感して、未来際をつくすのであります。この響感の世界において、一切衆生は開化(かいけ)され、利益されるのであります。

 さらに、実践・行の問題は、意志の問題であります。「いそぎ仏になりて、思うがごとく、衆生を利益するをいうべきなり」と説かれていますが、この「思うがごとく」とは、理知的人間の思い・意志ではありません。理知的人間の立場をまったく超えた意志、いいかえれ、は、仏の意志・歴史的感情に根ざした意志のままに、「思うがごとく、衆生を利益する」のであります。これが、大乗的・菩薩的人間の還相行であります。
 ただ、還相行において、純粋感情をうしなわずして意志する、実践するということが大切であります。『論註』に、四種の菩薩行の第一・不動応化(おうけ)の徳を説かれていますが、その中に、「身、本処(ほんじょ)を動ぜずして」(全書・一・三三五)と説かれていて本処、すなわち、純粋感情をうしなわずして、よく十方衆生に働きかけると説かれているのであります。
 そうすれば、どうして純粋感情をうしなわずして意志、実践する、すなわち、不動応化することができるか、いいかえれば、不動応化せしめるものは何かということが問題となります。
 その一つは、純粋感情そのものの徳・働きであります。少し、ふりかえって考えてみますとき、宿業の自覚のところに、無縁の大悲と説かれる歴史的純粋感情を感ずるのであります。この歴史的純粋感情に生きるとき、一切衆生の宿業に響感するのであります。宿業の自覚のところにひらかれる純粋感情そのものが、かかる働きをもっているのであります。いわゆる、浄土の徳であります。純粋感情の世界そのものが、純粋なる実践・純粋行を生む徳をもっているのであります。しかし、この純粋感情の世界は、本願の歴史から生みだされた歴史的世界であります。歴史的純粋感情の世界であります。この意味から、不動応化は、本願の歴史の所産であります。いいかえれば、如来の願力であります。すなわち、本願の歴史(法蔵精神の展開)によってひらかれたという自覚をうしなうとき、純粋感情の世界はくもり、消えるのであります。歴史的自覚をもつとき、純粋感情の世界そのものが、みずからの展開として、純粋行を生むのであります。
 『論註』には、つづいて『維摩経』の「高原の陸地には蓮華を生ぜず、卑湿(ひしつ)游泥(おでい)に、いまし、蓮華を生ず」(註7)という譬喩を述べられて、煩悩の泥の中に、菩薩の開導によって、仏の正覚の華を生ずると説かれています。この譬喩は、衆生の煩悩の泥の中に入って、大悲同感するとき、衆生の心はひらかれて、泥の中に、正覚の華・本願の華を生ずるというのであります。すなわち、本願の歴史によってひらかれた純粋感情のみ、自己をうしなわずして、よく、衆生の煩悩・宿業と響感し、衆生の煩悩・宿業のうちに、純粋感情の世界をひらくのであります。

 第四章に説かれている浄土の慈悲というは、すでに学んできたところの、歴史的純粋意志が展開する純粋行であります。かかる純粋行こそ、衆生の項悩・宿業と響感し、煩悩・宿業の中に、よく、純粋感情の世界をひらくのであります。


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