『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

一 自覚と実践

 『歎異鈔』をつらぬく精神は、本願であり、僧伽の精神であり、共同体の歴史的意志であります。それがそのまま、われわれの自覚と実践を生みだすのであります。それ故に、また、われわれの自覚と実践は、共同体の歴史的意志の展開そのものであります。われわれ自身を場とするものでありますが、われわれを超えているのであります。

 かくて、われわれは人類の歴史を永遠に荷負していくのであります。

   近代から現代へ

 人類の歴史は、文化の歴史であります。文化、すなわち、精神のいとなみ、精神的歩みをもって、人類の歴史は展開しているのであります。
 その人類の歴史のうちで、古代・中世と区分されている時代の、一般的な人間の精神生活の時代的傾向は、任意発生的な時代であったと考えられます。たとえば、農耕などの日常生活においても、また、宗教的な祭礼に加わったり、また社会の律法にしたがって生活するという精神生活においても、根源的な疑いをもつとか、根本的にその様式を変えてしまおうという意志を、強くもつことはなかったようであります。ただそのままの、いとなみにしたがって無自覚的に生活してきたのであります。この点においては、任意発生的に、自然のままに生きてきた古代人も、絶対者なる神の支配のもとに生きてきた中世人もかわらないといえましょう。
 また、そのあいだには、天災地変もあり、戦いあうこともあり、それなりの無常観ももっていたのでありましょうが、なぜ苦しまねばならないのか、戦争をしなければならないのか、また、人間とは、生きるとは何か、などという根源的な疑問をなげかけることを、一般人は積極的にしなかったようであります。すでに、釈尊とかイエスがでて、教えを説かれていたのでありますが、これらの時代においては、一般的精神生活の傾向は、根源的にとらえようとしなかったと考えられるのであります。

 かかる古代・中世を経て生まれてきた近代人は、まったく古代・中世の人間とは、その性格を異にしております。すなわち、中世末期になって、絶対者なる神につかえる特定の人間が、神の名のもとに、一般大衆を圧迫ししいたげることになり、このために、神の名のもとに、極端にしいたげられた大衆は、逆に、神の存在に疑問をもちはじめることになりました。このとき、中世は終り、近代が頭をもたげはじめたのであります。
 このようにして、神の存在に疑問をもちだした近代人は、既成のあらゆるものに疑問をもちはじめたのであります。そうして、ついに「我思う、故に我あり」といったデカルト(一五九六−一六五〇)によって、疑い得ない「我」の存在を見いだしたのであり、ここに、まさしく近代人が誕生することになりました。無自覚的に、自然に従属し神に従属していた人間が、自我にめざめ、自己自身でたちあがり、働きはじめることとなったのであります。近代人という人間が、人類の歴史上、いまだかつてなかった自信をもつことになったのであり、みずからの意志をもって、自由に考え、自由に行動し、自由に選びとる独立主体が誕生したのであります。
 何ものにも支配されない人間がここにいる、という近代人の自覚は、人類の歴史上、いまだかつてなかったところの歓喜であったにちがいありません。封建的なあらゆる束縛を切りすてて、このわたしが、わたしとして、独立者として、ここにいま存在しているという、そのこと自体が、従来の歴史のうえに考えることもできなかった歓びであったのであります。
 この近代人が獲得した自信と歓喜は、次から次へと、人間が本来もっている力を発見し、物質的にも精神的にも、多彩な近代的世界を築きあげることとなりました。すなわち、蒸気機関の発明によって、古代からの生産活動を根源からかえ、さらに、原子力開発へと、おどろくべき生産力を生むことになったのであります。また、精神的にも、ルネッサンス以来、宗教・哲学・道徳・芸術などあらゆる方面に豊満な花をさかすことになったのであります。
 しかし、永遠に繁栄の道をたどるであろうと思われた近代人の歩みも、時がすすむにつれて、物質的世界にも精神的世界にも、一つの挫折をむかえることになったのであります。このことが、今日の、人類の課題であり、近代人の自信と歓喜が大きかっただけに、また、近代的世界の繁栄が豪華そのものであっただけに、その挫折による傷も深いのであります。その傷は、人類の歴史上、経験しなかったものであると考えられます。封建的なもの、すべてを切りすてて、独立的主体を発見した近代人の歓喜、そして、その自信は純粋そのものであったのでありますが、しかし、時がたつにつれて、近代人の、その純粋な自信は、過信となり、若々しい歓喜の姿は、傲慢な姿勢にかわっていくのであります。
 過信と傲慢さのあるところには、いのちあるものは、すべて失われるのであり、その姿をかくしてしまうのであります。なぜ、近代人の切りひらいた自信と歓喜は、このように自己過信と傲慢な姿勢にかわっていったのでありましょう。人間のいのちに、最も致命的な決定をあたえる過信と傲慢について、その根となるものは、既に学んだところ(上巻・第二章・第三節「宗教的反逆」参照)の、自己の体験に執着する、体験執・法執の問題であります。

 近代人が見いだしたところの、独立的主体、すなわち、何ものにも従属しないで、みずからの意志をもって、みずから考え、みずから行動する人間・我は、たしかに、いま、ここに存在しているのであります。この意味において、デカルトの「我思う」という自覚は正確であります。しかし、つぎに「故に我あり」と言葉を展開していったところに、大きな誤りを犯したのであります。すなわち、「我思う」と純粋直観でうけとったところの我を、「故に我あり」と理知的立場から理解したのであります。いわゆるもちかえたのであります。
 純粋直観(無分別智)は理知(世間的分別智)を、まったく超えたものでありますから、あえて、理知的に分別しようとするときは、純粋直観の世界は失われ、純粋直観でとらえたものは、その姿を消すのであります。でありますから、その理知的分別によってとらえたものは、純粋直観でとらえたものとは、まったく異なったものであって、理知的分別のえがいた虚像であります。
 デカルトの場合も、「我思う」と純粋直感でとらえたところの我と、「故に我あり」と理知的立場によって考えた我とは、まったく異なったもので、「我思う」というときの我は、いま、ここに、かくのごとく実在する主体的我でありますが、「故に我あり」というときの我は、理知的分別が考えている実存しないところの虚像的我であります。しかも、その虚像である我を、「故に我あり」と執着し、分別しているところに、近代人の大きな誤りがあります。近代人は、虚像的我を考え、その我を固執したのであります。
 「我思う」という形で、直観(無分別智)された我は、独立的主体でありますが、ただ、我は我として存在するのでなく、我は独立的主体でありながら、他によって我であります。すなわち、我は我において我であるのでなく、他との関係において我たり得るという自覚を、近代人はひらき得なかったのであります。
 いま、ここに、かくのごとく存在している一人間としての我は、ただ単に、いま、ここに、かくのごとく存在しているものではなく、無数の条件・無数の関係(因縁)によってなりたっているものであります。この確認をうかつにも、近代人はしなかったのであります。無数の条件や関係においてなりたっているとの信順において、真に、独立主体の存在があるのであります。しかし、この無数の条件や関係において、ものはなりたつという法(因縁法)をはずして、ただ、人間は、独立的主体であるという考えちがいをしたのであります。これによって、近代人は致命的悲劇を生むことになったのであります。

 近代人が発見したと考えた独立者は、地上に存在しないのであり、ただ、近代人が考えた虚像にすぎなかったのであります。しかも、この虚仮にすぎない独立者こそ、真の自己であり、真の人間像であると考え、それを、一切の出発点としたところに、近代人の犯した大きな錯誤があります。人類の歴史上なかった自信と歓喜と繁栄をもった近代人は、また、人類が、この歴史上いまだ経験しなかった大きな、おそるべき過失を犯したのであります。
 如何なる存在も、如何なる経験も、必ず、歴史的・世界的背景をもって存在するのでありますが、近代人はその経験の偉大さに気をとられて、その背景の確認をしなかったことになります。いわば、与えられてある経験を、わたくししたのであり、体験執におちこんだのであります。
 このことが、現代人類の、最も大きい課題であります。体験執におちこんでいる自己自身を、確かに認識し、自覚し、新しく出発するところに、新しい時代はひらかれるのであります。この新しい時代を、歴史家は、現代と名づけており、現代こそ、この意味で内面的にひらかれる世界でなければならないのであります。
 『歎異鈔』は、この人類の今日的課題にこたえる聖教であり、『歎異鈔』の初三章は、歴史的背景をあきらかにすることによって、体験執を超え、真に実在する我を見いだし、自覚する道を説いているのであります。このことは、既に、学んだところでありますが、第四章以下には、他への働きかけ、つまり、社会的実践をとおして近代から現代へという、人類の今日的課題を実証し、こたえているのであります。
 『歎異鈔』にはいって学ぶこととします。

   自覚と実蹟

 『歎異鈔』は、親鸞聖人のつねのおおせであったところの師訓十章と、その師訓をとおして、弟子・唯円の歎異である後八章とにわけられるのであります。さらに了祥師は、その師訓十章のうち、第一・第二・第三章を安心訓、第四章以下を起行訓とわけられています。安心と起行、すなわち、自覚と実践の問題を、『歎異鈔』は、師訓のうち、初三章と後七章とに説きあげていると注意されているのであります。
 自覚と実践の問題は、宗教においては重要な問題であって、安心と起行、信と行、また、往相と還相(註1)、自利と利他などという言葉で、古来から注意されてきた課題であります。宗教においてばかりでなく、自覚という問題また実践という問題は、それぞれ、人間が生きていくうえに重要なる問題でありますが、ことに宗教において、その自覚と実践の関係をあきらかにすることが、最も大切なことであり、これによって、人間救済の根源的原理を説きあかすことができるのであります。こんにちの、あらゆる分野において、おろそかにできない、人間の根源的課題であり、人類・世界につながる、大きな課題であります。
 この意味から、師訓のうち、初三章に自覚の問題を、後七章に実践の問題を説きわけている『歎異鈔』は、よく、こんにちの、人類・世界の現代的危機に、真の指針をあたえる聖教であるというべきものであります。かかる意義をもつ『歎異鈔』の第四章以下を、了祥師の指示によりながら読んで参りたいと思います。

 さて、自覚と実践という問題でありますが、そのうち、自覚ということについて、人間の根源的な問題として『歎異鈔』は、第三章までに説きあかしているのであります。ふりかえってみますと

 第一章に、「念仏申さんとおもいたつ心のおこるとき」と説かれているところの自覚的にたちあがった純粋意欲
 第二章に、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といわれている絶対的自己の自覚、すなわち、実存の自覚。さらに、その自覚をとおして、弥陀・釈尊・善導・法然という本願の歴史への絶対帰依による歴史的主体の自覚
 第三章に、「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば」と説かれているごとく、人間的立場(自力作善)の絶対否定をとおして、「他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」と説かれているところの、悪人成仏の確認。さらに、その確認をとおした本願他力の絶対帰依の感情

 これらが、本願の宗教における自覚、すなわち、『歎異鈔』の初三章に説かれている安心(自覚)の問題点であります。さらにいえば、『歎異鈔』の自覚の問題は、第二章の「地獄一定」と、第三章の「悪人正因」の自覚にきわまるのであります。
 そのうち第二章で、「地獄一定」という絶対的自己否定の自覚をとおして、本願の歴史(弥陀・釈迦・善導・法然の伝承)を見いだされていること、それに対応して、第三章の「悪人」の自覚から、第四章以下の実践の問題が展開されていることを注意したいのであります。つまり「地獄一定」とか「悪人」とかと説かれているところの絶対的否定を自覚するとき、過去の歴史が見いだされ、未来の歴史がはじまるのであります。地獄一定の悪人が本願の歴史の機となるのであります。歴史的主体となるのであります。絶対的否定の自覚の一点が、本願の歴史の分水嶺になるのであって、少しでも、自己肯定の心のあるところ、自力作善の心のある立場にたつとき、本願の歴史は見いだすことはできず、また、未来への歴史ははじまらないのであります。
     
 上図のごとく、第二章では、「地獄一定」の自覚をとおして、釈迦・善導・法然という還相(げんそう)の本願の歴史をあおがれており、第三章の「悪人」の自覚から、第四章以下の、他に働きかけるという還相廻向の利他行が展開されるのであります。第二章は第十七願の諸仏の利他行、第四章以下は第二十二願の菩薩の利他行と名づけられましょう。この利他行の二重性をひらく鍵が、いいかえれば、宗教的実践を展開する一機点が、自覚の問題であります。「悪人」の自覚が、すなわち、本願他力の絶対的信が行になるのであります。「悪人」の自覚を機として本願の歴史が過去から現在へ、さらに、未来へと展開するのであります。
 第二章の問題点は、よきひと(法然)のおおせに出あって、親鸞聖人が「地獄一定」に気づかされたことにあります。この「地獄一定」の自覚においてのみ、本願の歴史は見いだされるのであります。すなわち、現実存の寸分の甘さもみとめぬ自己凝視のあるところに、釈迦・善導・法然に代表される諸仏の利他行の働きかけを仰ぐことができるのであります。よきひと・法然に代表されるところの第十七願の諸仏の利他行によって、「地獄一定」という第十八願の信・他力の絶対信(自覚)がなりたつのであり、また、第十八願の信をとおして、第十七願の諸仏の歴史が見いだされるのであります。ここでは、自覚と実践(諸仏の実践・利他行)とは、円環関係をなすのであります。
          
 さらに、本願の歴史を見いだしたとき、その人は、「地獄一定」のまま、本願の歴史をうけつぐ一機点として位置づけられるのであります。個人を超えて、歴史的意義をあたえられるのであります。歴史的主体とならしめられるのであります。偉大なる人物が歴史的意義をあたえられるのでなく、「地獄一定」の凡夫が、さらにいえば、反逆的存在である凡夫が、本願の歴史の中に位置づけられるのであります。いいかえれば、仏道に反逆している者を機として、本願の歴史が歩み、展開するのであります。そのために、「地獄一定」の凡夫は、そのままに、思いもよらぬ本願の歴史が歩む機点となるのであります。かかる問題を提起しているのが、『歎異鈔』の第二章であります。

   実践の道理

 さて、『歎異鈔』の第三章と第四章以下の問題として、自覚と実践の問題を学ぶこととします。了祥師は師訓十章を

 ┌ 初三章 ― 弘願正信を示す ― 安心訓(第一・二・三章)
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 |                  ┌ 初三章 ― 利他(第四・五・六章)
 ├ 次六章 ― 邪人異執に対す ― 起行訓 ┤
 |                  └ 後三章 ― 自利(第七・八・九章)
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 └ 後一章 ― 深信終帰を示す ― 結(第十章)

とわけられ、さらに、起行(きぎょう)とは大行(だいぎょう)であると説かれています。かくのごとく、師訓十章を、安心訓・起行訓・結と組織だてられていることは、『歎異鈔』領解における了祥師の偉大なる功績であります。
 すなわち、起行訓は安心訓の展開であることを示されているのであります。初三章(安心訓)に説かれていたところの、地獄一定・悪人の自覚、すなわち、本願の自覚を機として、その悪人のうえに、本願が歩み、展開するのであります。起行とは本願が、悪人、すなわち、本願の機を機として展開する本願の力用であります。
 本願の働き、本願の実践であります。いいかえれば、われわれのうえに生まれた宗教心――それは本願念仏によってひらかれたものであり、本願そのもの、本願心でありますが、この宗教心そのものが実践するのであります。
 第四章以下の起行訓は、前の三章の安心訓の実践であります。安心訓によってひらかれた安心(宗教心・自覚)そのものの展開であります。安心と起行、信と行、自覚と実践という二つのものが別々に、実体的にあって、その二つのものが関係しあうのでなく、一つのものの展開であります。一人の人間が、宗教心をもち、また、実践もするという関係でなく、一人の人間を機として、場として、宗教心――すなわち、本願心そのものが展開し、利他の行を行ずるのであります。これ、道理であります。実践の道理であります。

 いま、たまたま、道理という言葉がでてきたのでありますが、親鸞聖人の教えの特徴は、道理をあかすことにあると考えられます。純粋客観にたって、純粋に道理をあきらかにすることに、その特徴があります。
 宗教において、自覚、すなわち、宗教経験ということも大切でありますが、しかし、その自覚が自覚にとどまらず、自覚をとおしたところから、道理をあきらかにするということが、最も大切なところであります。しかもその道理は、身・主体的自己をとおした道理であって、身をとおし、実証されたものでなければ、それは、単に理論にすぎないのであります。単なる理論では、深い人間性の救いにならないものであります。その人の自覚・経験をとおしてあかされた原理・道理であれば、必ず、その人のごとく、自覚・経験をあたえられるものであります。親鸞聖人のお言葉は、かかる意味を持った道理を説かれたものであります。(上巻・第一章・第一節第二章・第四節参照)
 純粋なる道理は、自覚・経験をとおしたところにあきらかにされるものであります。さらに、その実証された道理は、自覚・経験を超えてあるものであります。自然(じねん)の道理・純粋道理であります。
 『歎異鈔』は、一応、安心の書・自覚の書といわれていますが、再応すれば、教学の書であり、道理をあかしている書であります。第二章は、まさしく、本願における人間救済の道理を説き、第二章では、自覚と歴史、すなわち、第十八願と第十七願の円環関係を説き、第三章では、人間的立場(自力作善の心)の絶対否定を、第十九願と第十八願の関係において説きあかされてきたのであります。第一・二・三章において、自覚の道理を説かれているのであります。これから学ばんとする第四章以下の起行訓は、第十一願(必至滅度)と第二十二願(還相廻向)の関係において、実践の道理を説かれているのであります。次第に、順をおって学んでいくことにします。

 話を少しもどして、第三章に説かれているごとく、「煩悩具足」であり、「いづれの行にても、生死を離るること」のないわれわれに、呼びかけ、願いかけた「弥陀の本願」は、われわれを目覚めさせ、目覚ませられたわれらを機として、さらに、十方衆生に呼びかけ、願いかけていくのであります。具体的には、絶対信に目覚めた者が、黙していることができず、やむにやまれぬ心から話しかけ、呼びかけるのでありますが、そのやむにやまれぬ心が、そのまま、本願の呼びかけであり、本願の働きであります。
 また、目覚めたわれわれとは、自力作善の心をひるがえして、煩悩具足の自覚をあたえられた者であります。かかるわれわれにおいてのみ、自力の心に迷い、煩悩具足の自覚をもたないで苦悩する人々に、呼びかけねばおけぬ感情がわくのであります。しかし、そのままが、本願の働きであって、起行、すなわち、純粋なる実践は絶対に、目覚ませられたわれわれの側に属する事柄ではないのであります。この点の問題を提起し、こたえているのが第四章以下の起行訓であります。

   大乗ということ

 人間というものは、その字の示すごとく、人と人との関係において人間であり、さらにいえば、自と他との呼応関係において、人間であり、そこに、自己がなりたっているのであります。人間は、利己的で自己のみを問題にしているようでありますが、人間そのものは、他との問題なくしてはなりたたない存在であります。
 かかる人間の構造にこたえているのが、大乗の法であります。自利のみを求める小乗の法では、人間そのものをつつみ、つくすことはできないのであります。自利々他の二利(にり)円満(えんまん)の大乗の法によってのみ、人間存在がつつまれ、つくされて、人間は真の救いにあうことができるのであります。この意味において、本来的に、人間は大乗的存在であります。

 人間は、それが、如何なる人間であっても、真実の世界を求め願う存在であります。つまり、「彼の国に生まれんと願う」願生者であります。自覚する、自覚しないにかかわらず、人間は願生者であり、求道者的存在・菩薩的存在であります。これを往相と名づけられています。俗に「三界に家なし」といわれるように、この人間の世界は、煩悩生死の国であって、安住の地ではないのでありますから、人間は何かを求めるのであります。迷うていること自身が、求めている姿であります。その人間の根源にあるものが「往相欲(註2)」といわれるものであります。この意味において、人間は往相的存在・菩薩的存在であります。
 それとともに、人間は、真実の世界にふれれば、ただちに、眼前にみられる迷いの人々に語りかけねばおけぬ願いをもつのであります。煩悩生死の薗林に還来(げんらい)せんと欲する願求をもつのであります。これを「還相欲」と名づけられています。これは、まさしく、真実の世界にふれた人間にあたえられた願いであります。もともと人間は単独者でなく、他との関係のうえになりたっているのでありますから、真実の世界にふれた人間からは、なお他に語りかけねばおけぬ願いが生まれでるのであります。その他へ働きかける関心が、還相欲といわれるものであります。この往相(自利)・還相(利他)の二相(註3)を全うする法が、大乗の法であり、この二相を果たすことによって、人間は真の人間、すなわち大乗的、菩薩的人間になり、人間成就するのであります。

 ことに、親鸞教学の特徴は  

謹んで、浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。(ひとつ)には往相、(ふたつ)には還相なり。(全書・二・二)

と、『教行信証』の「教巻」の冒頭に宣言せられているように、往相と還相の二廻向を教学の大綱とするところにあります。本願の宗教を大道と名づけられる所以(ゆえん)は、ここにあります。往相的意欲と還相的意欲とを満たしてよく、人間成就をなさしめるところにあります。もし、本願の宗教が、人間の往相のみにこたえるのであれば、それを大道と名づけることはできないのであって、小路と名づけられるべきであります。小路と名づけられる宗教は、真に人間成就をなさしめる宗教とはいえず、人間の構造にこたえつくすことはできないのであります。この往相・還相は、釈尊や七高僧のごとき方々にのみあるものではなく、人間の意識の底に流れている、人間本来の願求であり、欲求であります。往相・還相は、人間そのもののもつ純粋本能であります。この事実を身をもって語っているのが、『観無量寿経』の韋提希夫人であります。
 すなわち、悪子・アジャセ太子のために、父のビンバシャラ大王は、七重の牢獄に閉込められ、餓死させられようとしており、母の韋提希(いだいけ)夫人も、また、一室に幽閉せられる身となったのであります。『観無量寿経』の欣浄縁(ごんじょうえん)註4)に述べられているごとく、とらわれの身となった韋提希(いだいけ)夫人は、釈尊に向って五体投地して、教えを求めるのであります。このように、夫人が求める往相は、ひたすら、己れの苦悩を除かれたい一途の念によるものであります。しかし、その夫人の願いに、釈尊はただちにこたえられないで、突然に、微笑されて口より五色の光をだされ、七重の獄につながれているビンバシャラ大王を照らし、大王の心眼を開かしめられるのであります。
 かくのごとく、釈尊が夫人の願求に、ただちにこたえられないで、大王の心眼を開かれたということは、夫人の往相的意欲の内面に、ビンバシャラ大王を案んずる還相的意欲がひそんでいることを見ぬいておられたからであります。夫人は苦悩のあまり、ひたすら、己が救いをのみ求めたのでありましょうが、無意識のうちに、餓死されようとしているビンバシャラ大王の苦悩をも苦悩していたのであります。愚痴の凡夫であり、実業(じつごう)凡夫(ぼんぶ)である韋提希夫人の往相的意欲の内面にすでに、還相的意欲が潜在しているのであります。これが、人間の願求の心の構造であります。このように、表面的には、韋提希夫人が個人的救いを求めているように思われるところの 

我、今、極楽世界の阿弥陀仏の(みもと)に生まれんと(ねが)う。唯、願わくは世尊、我に思惟を教え、我に正受を教えたまえ。(全書・一・五〇『観無量寿経』欣浄縁)

という韋提希夫人の言葉のうちに、往相・還相、すなわち、個人的願求を超えて、自利々他の大道を求めていることを洞察された釈尊は、いままでの沈黙を破って、大乗の法である『観無量寿経』を説きだされることになったのであります。
 かくのごとく考えてくるとき、還相の働きは教主である釈尊にのみあるものでなく、苦悩の凡夫の韋提希夫人の内面にも秘められていることを知るのであります。それでありますから、釈尊の説法によって目覚めることのできた韋提希夫人は、ただちに、「仏滅後の、もろもろの衆生は濁悪不善にして、五苦にせめられることでありましょうが、どうして阿弥陀仏の極楽世界を見いだせばいいのでしょうか」と願うのであります。女性であり、実業の凡夫である夫人が未来の人類に願いかけるのであります。すなわち、人間は本来的に大乗的存在であることを物語っているのであります。
 ここに、「謹んで、浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり、一には往相、二には還相なり」と、「教巻」の冒頭に述べられている、親鸞聖人の語調の高く、確かであることを思わしめられるのであります。すなわち、浄土真宗・本願の宗教こそ、大乗的・菩薩的人間の問題に的確にこたえるものであるという確信が表白されているのであります。

   二種の廻向あり・一

 蓮如上人以後、いつの時代かに本願寺教団に「五ケ寺」という制度が設けられ、その「五ケ寺」に伝承されてきた非公開の教学の書があると聞いていました。たまたま、その一部である『深解会通(じんげえつう)』を、大阪・慧光寺住職・近松暢誉師の御好意により、書写する機を得たのであります。
 美濃紙一紙十六行・三十枚の写本でありますが、教・行・信・証・真仏土巻の概論ともいうべきものであります。その説かれているところ、簡明直哉にして、従来の伝統教学といわれているものと相違するところ多く、教示されるところ、また、多いものがあります。すでに、この「中巻」の原稿の大半を書きあげていたのですが、『歎異鈔』第四章以下に、直接関係するところを、『深解会通』によって書き加えたのであります。
 

私に案ずるに、往相とは、弥陀如来、願を発して浄土を荘厳し、衆生を彼国へ往生せしめたもうすがたなり。相は相貌のこころなり、或は悪也というは、恐らくは、今の宗意にあらざるなり。すなわち、往生の相なり。これ浄土門の大要なり。
往相廻向にあらずんば、凡夫さとりをとることなし、往相あるがゆえに還相あり。この二種の廻向は異にして離れず、一にして同じからず。このゆえに、実は、不前不後、また、前後あらざるにもあらざるなり。浄土真宗の元源とする廻向なり。(『深解会通』一帖左――原文は片仮名であるが、現代仮名にかえる)

 人間は、本来的に求道的・菩薩的存在であります。しかし、本願の宗教に出あうことによって、いいかえれば宿業の身を自覚するとき、よく、その本来性を自覚し、求道・願生の意欲をおこし、そのとき、はじめて、その本来的に菩薩的存在であることを全うするのであります。すなわち、往相道にたちあがるとき、はじめて、自己自身の本来性を成就することができるのであります。ここに、本願の宗教たる浄土教の面目があります。
 

廻はめぐらすという、向はむかうという。如来の功徳をめぐらして、衆生を他力にむかえしめたもうならむ。(『深解会通』三の左)

と説かれているごとく、廻向とは、流転の方向をもっている人間をして、まったく方向を転換せしめる自覚であり、決断であります。この点をおさえて考えてみるとき、往相廻向とは、流転の淵にあって、方向を見うしなっている人間を、浄土の方向に自覚・決断せしめ、願生せしめる如来の自覚・決断であります。その如来の決断に出あうとき、人間は、その本来性である菩薩的人間にかえらしめられて、往相の相をとるのであります。それは単なる想(おもい)でなく、菩薩的人間となるのであって、人間が根源的に変革されるのであります。
  

往生、すなわち、無生の生なれば、往もまた、無往の往なり。無生無往の相なれば、相もまた、無相の相なり。無相の相、これを実相という。実相の相、これ往相なり。即ち、清浄国土の荘厳の相なり。これを光明土といい、実報土という。即ち、『論』に究竟如虚空等といえり。身相荘赦功徳智慧みな不可思議なり。実相は無相なれば、これ相ならずというところなし。(中略)無相の相、これ往相なるがゆえに、難思議往生といえりと云々。(『深解会通』二の右)

と説かれているごとく、菩薩的人間となる、すなわち、往相の相をとるといっても、人間そのものが、どこかに場所を変えるのではないのであります。内面的自覚の問題でありますから、無往の往であります。また、観念的な問題でなく、往相の相をとるのであり、人間が根源的に変革されるのであるといっても、人間そのものが、何ものかに変わるのではないのであります。内面的に変革されるのでありますから、無相の相であります。無相の相こそ実相、すなわち、内面的・根源的あり方であって、人間が、往相道にたち、本来の菩薩的人間にたちかえるといっても、かくのごとく、無往の往であり、無相の相であります。外面的にどうかなるというものではないのであります。

 それならば、なんともならないのであるかといえば、まったく変わるのであります。方向を見うしなっていた人間が、宿業の自覚をとおして、本来の、菩薩的人間にたちかえるということは、人間そのものが、根源的・内面的に、まったく変わって「清浄国土の荘厳の相」をとるのであります。浄土を荘厳する身相となるのでありますから、その人のいるところは、清浄国土・浄土となるのであります。宿業の身のままに、罪悪深重・煩悩熾盛の身のままに、浄土を荘厳する身、すなわち、本願の歴史的世界の象徴となるのであります。『論註』に「すなわち、これ、煩悩を断ぜずして、涅槃分を得」(全書・一・三一九「証巻・真土巻」等所引)と説かれているところであります。
 さらに、「身相荘厳功徳智慧みな不可思議」であります。菩薩的人間にかえるとき、まったく、不思議に、その身相も、その功徳も、その智慧も変革されるのであります。「みな不可思議」そのものになるのであり、人間的・理知的立場を超越したものとなるのであります。「真仏土巻」に「安楽仏国に到れば、即ち、必ず仏性をあらわす。本願力の廻向によるが故に」(全書・二・一四〇)と説かれているごとく、本願力の廻向によって、すなわち、本願の歴史の働きによって、清浄の身となるのであります。人間的・理知的立場からは思議することのできない存在となるのであります。

 根源的・内面的に変革された菩薩的人間は、本願の歴史的世界を荘厳する身となるのでありますが、さらにまた、「実相は無相なれば、これ相ならずというところなし」と説かれているごとく、無限に展開するのであります。
 煩悩成就の宿業の身をうしなわぬままに、その宿業の身の自覚をもつとき、往相道にたつ菩薩的人間となるのでありますから、しかも、無往の往であり、無相の相でありますから、水の方円の器にしたごうがごとく、いつでもどこにでも行くことができるのであります。どこにでも行き、いかなる相をもとって、なお、己れをうしなわないのであります。
 理知的に考えるところの固定的な、実体的存在ではないのであります。かかる菩薩的人間こそ、真の人間そのものであり、純粋主体であります。無碍自在人であります。本願の宗教である浄土教は、真の人間そのもの、すなわち、純粋主体をかくのごとくとらえているのでありますが、驚くべきとらえ方であるといわねばなりません。まったく、固定的・実体的にしか、ものをとらえようとしない理知的立場からは、かかる菩薩的人間の歩み(往生)は思議を超えたものであります。難思議往生といわれる所以が、ここにあるわけであります。
 『深解会通』は「無相の相、これ往相なるがゆえに、難思議往生といえりと云々」と結んでいるのであります。つまり、菩薩的人間の歩みは、まったく、理知的人間の思議を超えて、絶対自由であります。菩薩的人間の往相は、無往の往であり、無相の相でありますから、往相と還相の間を劃する一線がないのであります。往相と還相との間に一線がしかれることがあれば、すでに、それは、思議されたものであって、無往の往、無相の相の往相ではないのであります。
 

往相あるがゆえに還相あり、この二種の廻向は、異にして離れず、一にして同じからず、このゆえに、実は不前不後、また、前後あらざるにもあらざるなり。浄土真宗の元源とする廻向なり。

と説かれている『深解会通』の言葉は、往相・還相の二種の廻向のいのちを、よくいい得ているのであります。この言葉は、よく「教巻」冒頭の
  謹んで按んずるに、浄土真宗に、二種の廻向あり、一には往相、二には還相なり。
という親鸞聖人の言葉の内面的いのちを、よくとらえ、表現しつくしていると考えられるのであります。すなわち、「一には往相、二には還相なり」と説かれている往相・還相の関係は、「往相あるがゆえに還相あり」すなわち、往くものは還える道理であって、往相・還相は相離れないのであります。実体的に固定したものでもなく概念的にとらえられるものでもなく、その二種の廻向の関係は、有機的関係であり、生きたものの関係であります。厳然たる真理・道理であります。理知的に裁断して考えられるものではないのであります。
 「異にして離れず、一にして同じからず」すなわち、不一不二・不即不離の関係であります。さらに、「不前不後、また、前後あらざるにもあらざるなり」と説かれているごとく、往相・還相の関係は、往相が先にあってそれから後に還相がひらかれるというごとく、固定的に定められる関係のものではなく、同時生産的であり、また、前者なくして後者なきものであります。
 かくして、「浄土真宗に、二種の廻向あり」と「教巻」に説かれているのでありますが、いいかえれば、不一不二・不即不離にして、互に、響感的いのちの関係にある往相・還相のあるところに浄土真宗はなりたつのであり、かかる往相・還相は「浄土真宗の元源(根源)とする廻向なり」であります。

   二種の廻向あり・二
 

還相とは、還来穢国人天なり、往くものは、また、かえることあり。ゆいてかえらずということなし。往もと無往なれば、還も、また、無還の還なり。かたちのゆきかえるにはあらず、こころのゆきかえるなり。形のゆきかえると思うは迷なり。
形にもと実の体あることなし、みな夢の相なり。されば、夢の中の往来は、共に夢なり。何ぞ実のゆきかえることかあらん。心また姿なし。姿なければ、如何ぞ、往き還ることあらん。
しかるを、往くことなくしてゆき、還ることなくしてかえる。されば、ゆくともしらず、かえるともしらずこれを、まことの往相・還相というなり。(『深解会通』二の左)

 罪悪深重・煩悩熾盛の宿業の身のままに、その身を自覚するところに、往相にたち、菩薩的人間となるのであります。しかるに、この菩薩的人間は、宿業の響感あるままに、穢国の人天のところに還来するのであります。穢国の人々と宿業響感し、還来するとき、菩薩的人間は、さらに、大乗的人間となるのであります。
 人間は、本来的に孤独的存在でなく、大乗的・菩薩的存在でありますから、ひろく、一切と宿業響感するのであります。宿業響感するとき、人間は大乗的・菩薩的人間を成就するのであります。人間は、本来、求道的存在・菩薩的存在でありますから、無往の往のままに、往くのであります。往相・願生道を歩むのであります。また大乗的存在でありますから、「往くものは、また、かえることあり、ゆいてかえらずということなし」であります。宿業の響感するままに、どこまでも還るのであり、平等感情に生きるのであります。 

しかし往もと無往なれば、還も、また、無還なり。かたちのゆきかえるにはあらず、こころのゆきかえるなり。

と説かれているごとく、還相廻向は無還の還であります。実体的に考えられた往還でなく、宿業の響感でありますから「こころのゆきかえるなり」であります。「証巻」に、「如を体として行ずれば、すなわち、是れ不行なり。不行にして行ずるを如実修行と名く」(全書・二・一一〇『論註』)と説かれているごとく、往も還も、一如を立場とする、一如の行でありますから、こころのゆきかえりであります。一如の行でありますから、実体的に考えられたものでなく、如実修行であり、純粋行であります。
 宿業の響感であり、こころのゆきかえりでありますから、「往くことなくしてゆき、還えることなくしてかえるのであります。宿業の自覚のところに、無往の往がなりたち(往相)、宿業の響感のところに、無還の還(還相)が成就するのであります。
 さらにまた、宿業の響感でありますから、実体的な往還があるのでなく、それ故に、理知的立場からは、まったく、うかがい知れない働きであります。理知的立場からは、知ることも考えることもできないところに、大乗的・菩薩的人間は存在するのであり、理知的世界を超えて、大乗的・菩薩的力用(はたらき)を発揮しているのであります。
  ゆくともしらず、かえるともしらず、これを、まことの往相・還相というなり。
といわれているごとく、まことの往相・還相は、理知的世界を超えた自然法爾の世界の出来事であります。往相も還相も、人間の理知的意識によってなされる行為ではないのであります。まことの往相・還相は仏の境界であって、凡夫のあずかり知らぬところの行為であります。
 

安楽浄土にいたるひと、五濁悪世にかえりては、釈迦牟尼仏のごとくにて、利益有情(ママ)はきわもなし。此の土の教主なれば、化度すること、たれか釈尊にすぐれん。勝れたるを以てしめしたまえり。これみな、他力自然の徳なり。
されば、往いて往くところなきを知り、還って還ることなきをしる。不到千般眼末消、しるといえども知ることもなく、知ることもなしとしる。これ、まことのしれるなり。
思うに、夫れ、ただ不思議と信じつるうえは、とかくのはからいなく、慶んで念仏すべし。このこころ、すなわち、二極の廻向の御利益なり。(『深解会通』二の左)

 まことの往相・還相は、凡夫・理知的人間を超えた仏の境界のことがらであります。よって『深解会通』は、ここに『讃阿弥陀仏偈和讃』の一首を引いて、教主・釈尊の還相廻向の働きのごとく、安楽浄土に至る人(往相人)は、きわもなく利益有情(還相行)をなすのであると説かれているのであります。そして、「勝れたるをもってしめしたまえり」と注意されているのであります。すなわち、まことの往相・還相は、理知的人間の世界を超えたところの仏の世界のことがらでありますから、いま、『和讃』には教主・釈尊という勝れた方を例証とされているのであって、勝れた例証をもって、如何なる人間にもひらかれてある道であると、注意されているのであります。
 いずれにしても、往相・還相は「これみな・他力自然の徳」であります。自然法爾の徳用(とくゆう)であります。
  されば、往いて往くところなきことをしり、還って還ることなきをしる。
と説かれているごとく、自然法爾の徳用・力用でありますから、実体的にとらえることも、執着することもできない世界のことがらであります。

   感覚・感情・意志

  しるといえども知ることもなく、知ることもなしと知る。これ、まことのしれるなり。
と、さらに、つづけて説かれていますが、この「しるといえども知ることもなく、知ることもなしと知る」ということは、理知・分別智を超えた自覚ということであります。すなわち、無分別智による自覚、純粋直観ということでありますが、往相・還相は、無分別智・純粋直観の世界のことであると説かれているのであります。しかし、ここで考えねばならないことがあります。それは、自然法爾の世界と、われわれの純粋直観(無分別智)の世界との関係であります。その関係をひらく鍵が、「これ、まことのしれるなり」という言葉であります。この意味から、「これ、まことのしれるなり」という確認の言葉、つまり、念をおした言葉が加えられていることを注意したいのであります。
 すなわち、往相・還相は、理知・分別智を超えた、出世間的無分別智によって直観的に感ずる世界のことがらであります。この、いわゆる、純粋直観で感じとるということこそ、「これ、まことのしれるなり」であって、真の自覚であり、真の認識であると、『深解会通』は確認を述べているのであります。理知的自覚や理知的認識は「夢の中」のことがらであって、真の自覚・認識ではなく、純粋直観による認識こそ、真の自覚・認識であると、われわれに再確認をあたえて、「これ、まことのしれるなり」と述べているのであります。「これ、まことのしれるなり」という言葉は、退一歩して純粋客観の立場(出世間的分別智)にたって、純粋直観の世界を再確認している姿勢が示されているのであります。ここにはじめて、自然法爾の世界の風光がひらかれるのであります。
  しるといえども知ることもなく、知ることもなしとしる。
   ――純粋直観――出世間的無分別智――純粋感覚の世界をひらく
  これ、まことのしれるなり。
   ――純粋客観――出世間的分別智 ――純粋感情の世界をひらく
 すなわち、自然法爾・他力自然の世界は、純粋直観の世界を深くうけとる、いいかえれば、直観の世界を信知・再確認する、直観の直観、自覚の自覚のところにひらかれる純粋感情の世界であります。
 

法性法身に由りて方便法身を生ず、方便法身に由りて法性法身を(いだ)す。(全書・一・三三六「証巻」所引)

と、曇鸞大師は説かれていますが、この法性法身は純粋感情、方便法身は純粋感覚(註5)(曽我量深選集・第九巻・八二)でありますから、法性法身(純粋感情)から方便法身(純粋感覚)は生まれるのであります。それでありますから、「これまことのしれるなり」と法性法身(純粋感情)へかえるとき、すなわち、純粋客観にたって信知するとき純粋感情の世界は、われわれのうえにひらかれるのであります。
 純粋感覚の世界は浄土の一つ一つの荘厳であり、具体的にいえば、生活の一つ一つのことがら(業)からうける法悦(よろこび)・感動であります。禅の境地や勝れた芸術の世界がこれにあたりますが、この、純粋感覚の世界は時間性も空間性もなく、性質と強度とのみがあるのであります。しかし、それを基礎づけているのが純粋感情(法性法身)であります。純粋感情の世界は、他力不思議の世界であり、平等感情の世界であり、一切万物を照らしつつんでいるものであります。その世界のうえに、われわれの業に応じて、純粋感覚の世界はひらかれるのであります。
 しかし、また、「方便法身(純粋感覚)に由りて法性法身(純粋感情)を出す」と説かれているごとく、われわれの純粋感覚のうえに、純粋感情は顕出しているのであります。あらわれているのであります。純粋感情は、色もすがたも、かたちもない自然の世界であって、われわれの意識を、まったく超えたものでありますが、それが、われわれのうえの純粋感覚(自覚の内面の世界)として形をとってくるのは、ひとえに、本願力廻向であります。純粋意志(本願)の働きであります。すなわち、純粋意志の働きによって、色も、かたちもない法性法身(純粋感情)が方便法身(純粋感覚)として、われわれの業に応じてあらわれてくるのでありますから、われわれのうえの純粋感覚は、そのまま、純粋感情の投影であります。
 以上のごとく、法性法身(略)と方便法身(広)、純粋感情と純粋感覚が相関係しあうこと、これを、広略相入というのであります。この広略相入について、曇鸞大師は 

菩薩、若し広略相入を知らざれば、則ち、自利利他する能わず。(全書・一・三三七「証巻」所引)

と説かれています。われわれを、まったく超えた法性法身が、われわれの業に応えて方便法身として形をとってくるのは、ひとえに、本願力廻向であるという関係、すなわち、純粋感情が、われわれの生活のうえに純粋感覚としてあらわれてくるのは、純粋意志によるということ(広略相入)を、はっきり、自覚するとき、個人性を超えて自利利他円満するのであります。つまり、われわれのうえにひらかれた純粋感覚は、われわれを超えた本願(純粋意志)の力であるということを自覚するとき、個人性を超えて、大乗的働きをもつのであります。自と他はそれぞれ主体性をもちつつ、響感しあう世界がひらかれる。すなわち、われわれのうえに、純粋感情の世界がひらかれるのであります。感覚・感情と意志は、かかる課題を、われわれにうったえているのであります。曇鸞大師、親鸞聖人が二種法身、すなわち、感覚・感情の関係を詳細に説かれてきたことは、ただ、本願力廻向(純粋意志)によってのみ、はじめて、大乗的響感の世界がひらかれることを明かされるためであります。
 ここに、われわれのうえにひらかれた実践である往相・還相が、真に、われわれを超えた本願(純粋意志)の実践であり、しかも、真に、個人性を超えた大乗的実践となるのであります。
 

思うに、ただ、不思議と信じつるうえは、とかくのはからいなく、慶んで念仏すべし。このこころ、すなわち、二種の廻向の御利益なり。

 他力不思議の世界、すなわち、純粋感情の世界は、大乗的・菩薩的人間の実践(往相・還相)のところにひらかれる世界であります。しかも、この世界をひらくには、「浄土真宗に二種の廻向あり」と「教巻」に、親鸞聖人が宣言されているところの、浄土真宗の教法、すなわち、『大無量寿経』に説かれている本願の教法によって、はじめて、万人に公開されているのであります。その教法によって、ひらかれた他力不思議の世界でありますから、その世界を自己のうえに見いだすことのできた大乗的・菩薩的人間は、感動をもって、いよいよ、本願の教法を学ぶべきであります。すなわち、いよいよ、往相道にたつことであります。よって、『深解会通』は、「とかくのはからいなく、慶んで念仏すべし」と、往相道にたちかえることをすすめているのであります。そのとき人間が、本来性としてもっている大乗的・菩薩的性格は見いだされ、成長せしめられるのであります。
  このこころ、すなわち、二種の廻向の御利益なり。
と、『深解会通』の文は結ばれていますが、大乗的・菩薩的人間の往相・還相の働きは、他力不思議の世界、すなわち、純粋感情の世界をひらくのであります(註6)。この世界こそ、四海みな兄弟の一如平等の世界であります。さらに、悉有仏性を説く大乗の教理が成就された世界であります。悉有仏性の大乗の理は往相・還相によって、ここに、単なる理でなく、事実の世界となるのであります。本願他力、すなわち、一如に根ざす往相・還相は、かかる世界をひらくところに、その面目があるのであります。これこそ「二種の廻向の御利益」であると説かれているのであります。この『深解会通』の結びの文は、親鸞聖人が『教行信証』の「証巻」の総括に 

(しか)れば、大聖の真言、誠に知んぬ。大涅槃を証することは、願力の廻向によりてなり。還相の利益は、利他の正意をあらわすなり。(全書・二・一一八)

と説かれているお言葉に対応するものと考えられるのであります。
 すなわち、本願における実践の問題は、利他(他力)の正意をあらわすところに帰結し、他力不思議の世界をひらくことにあるのであります。

   本願力なり

 このように、二種の廻向を結んで、さらに 

次に、廻向とは、弥陀仏の本願力なり。曇鸞の『論註』にくわしくあらわせり。聖人の御釈に、弥陀超発於誓広開法蔵致哀凡小選施功徳之宝也と。往・還の利益は、皆、この廻向によるゆえに、往還廻向由他力と云々。
真宗の教行信証は、この廻向より煩われたり、故に、みな他力なり。
廻はめぐらすという、向はむかうという。如来の功徳をめぐらして、衆生を他力にむかえしめたもうならむ。(『深解会通』三の右)

 「廻はめぐらすという、向はむかうという」と、『深解会通』は廻向の名義を説いているのでありますが、また、『論註』に 

廻向の名義を釈せば、いわく、己れが所集の一切の功徳を以って、一切衆生に施与して、共に、仏道に向えしめたもうなり。(全書・一・三四〇「証巻」所引)

と説かれています。廻向とは、己れの一切の功徳をもって、一切衆生に施与して、共に、仏道に向うのであります。すなわち、自己をもって、自己への関心をすて、一切衆生と共に、仏道に向うということは、個人的人間が自己そのものを絶対的に否定することであります。それは、方向転換であり、絶対的捨身であり、自覚であり、決断であります。かかる意味の廻向を、『深解会通』は「廻はめぐらすという、向はむかうという」と説いているのであります。
 しかし、いま、廻向と説かれているごとき自覚・決断は、まったく人間を超えたものといわねばなりません。よって、『深解会通』が廻向の名義をあかす最初に「廻向とは、弥陀仏の本願力なり」と説いているのでありますが、この「廻向とは、弥陀仏の本願力なり」という言葉は、大乗的・菩薩的人間、すなわち、純粋主体の問題において重要なる言葉であります。
 自己そのもの・純粋主体は、本来的に、大乗的・菩薩的構造をもったものであります。しかし、その構造が事実として働き、力となるためには、自覚を必要とするのであります。絶対的捨身といわれるごとき自覚、「廻はめぐらすという、向はむかうという」と説かれているごとき自覚・決断がなければなりません。考えてみるときこのような廻向・自覚・決断は「弥陀仏の本願力なり」であって、自己そのものを超えた力用によるのであります。すなわち、『深解会通』が説いているごとく、「如来の功徳をめぐらして、衆生を他力にむかえしめたもうならむ」であります。如来の絶対的捨身であり、如来の決断であり、自覚でなければならないのであります。
 廻向とは自覚であり、捨身でありますが、理知的人間のよくなし得るものでなく、如来(本願の歴史)によるものであります。如来の自覚によって、衆生の自覚がひらかれるのであり、如来の自覚が衆生の自覚となるのであります。すなわち、如来の自覚が衆生の自覚そのものとなっているのであります。本願力の廻向でありますから如来の本願の廻向(自覚)であり、それが、衆生のうえに仏力として成就している廻向(自覚)であります。事実として現在しているのは、衆生のうえにひらかれている衆生の自覚のみでありますが、その衆生の自覚は、衆生を超えた本願そのものの自覚であります。衆生のうえにひらかれた自覚でありますが、衆生を超え、本願そのものに属するものであります。大乗的・菩薩的人間は、このような自覚のあるところに、はじめて存在するのであります。
  往・還の利益は、皆、この廻向によるゆえに、往還廻向由他力と云々。
と説かれているごとく、往相・還相は、如来の自覚が衆生の自覚(廻向)となったところの自覚による力用であり、本願他力の力用であります。それ故に「往・還の廻向は他力に()る」と説かれているのであります。
 往相・還相の力用をもった純粋主体、すなわち、大乗的・菩薩的人間は、本願他力の力用そのものであります。
  


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