『歎異鈔集記(中巻)』  高原覚正著 本文へジャンプ

   

ま え が き

 人類の歴史は、始めなき過去から、終りなき未来にむかって歩みつづけているのであります。
 科学的立場からみれば、遠い過去に、この太陽系の宇宙が誕生し、その中の地球は、氷河時代を経て、生物が生まれ、動物が生まれ、やがて、人類が誕生したと考えられているのであります。さらに、これから幾億年かたてば、第二の氷河時代がきて、人類は滅亡するであろうと予言されているのであります。しかし、かかる科学的歴史観とは別に、われわれは現実的実感として、この人類の歴史的歩みを、すなわち太陽系の宇宙が誕生した、もっと以前からの業(ごう)を、わが業のうえに、わが身のうえに感じとっているのであります。また、終りなき未来も、人類の業の世界・業の歴史として、ただ今の、わが業のうえに実感されているものでありましょう。
 かかる業の自覚によって、人類の歴史は始めなく、終りなく、歩みつづけているのであるという歴史のとらえ方が生みだされるのであります。

 この意味において、人類の歴史は、どこまでも、つねに、歩みつづけているものであり、また、流転の歩みをつづけているものであります。この人類の流転の歴史にこたえているものが、本願の歴史であります。

 弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈 虚言したもうべからす。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。

と、『歎異鈔』第二章に説かれているところの、釈尊・善導・法然という仏は、人類の流転の歴史にこたえた、本願の仏であり、本願が、釈尊・善導・法然という流転の世界の身をもって、人類の流転にこたえられているのであります。

 この本願の歴史に気づくとき、われわれの流転の歩みは、一転して、本願の歴史の展開になるのであります。われわれの一歩一歩が、本願の歩みになるのであり、流転の歴史が、そのままに、本願の歴史の上に位置づけられ、展開するのであります。迷いの歩みが、求道の歩みと転じ、一つ一つ、新しいいのちが見いだされていく精神生活がはじまることとなります。それは、われわれの流転の歩みを場として、本願が展開するからであり、かかる本願は、永遠の未来にむかって歩みつづけるものであります。
 しかし、われわれは、その本願の歩みを容易に見いだすこともなく、また、たとえ見いだされたとしてもときに、うみ、つかれ、やすむ心がおきるのであります。純粋意欲にたちあがっても、歴史感情をうしなうとき、かえって、流転の世界にひかれ転落するのであります。そのとき、人類の真の歴史を荷負する意志・意欲をうしなうことになります。『歎異鈔』の作者・唯円は、かかる、われわれの流転の心を歎異するのであります。
 『歎異鈔』の第一章・第二章・第三章は、「有縁の知識」のみちびき、いわゆる「よきひとのおおせ」によって、新しく、本願の歴史を引きうけてたちあがる純粋意欲をおこす道を説いているのであり、この道にたつときわれわれは、小さき存在であるままに、人類の歴史を荷負することができ、歴史的実存として、人類の象徴となるのであります。これを、真の人間成就というのであります。『歎異鈔集記』の「上巻」において、この点を学んだのであります。

 いま、「中巻」では、『歎異鈔』の第四章から第十章までを学ぶのでありますが、人間関係における根源的課題である慈悲(愛)の問題、父母兄弟、また、師と弟子などの具体的実践問題をとおして、真の人間成就の道を学びとろうとするのであります。
 われわれは、「上巻」において学んだごとく歴史的存在であるとともに、さらに社会的・世界的存在であります。すなわち、縦の関係をもつとともに、横の関係をもった存在であります。『歎異鈔』の第四章以下は、かかる横の関係において、真の人間成就を果たす道を説いているのであります。かかる意味をもつ第四章以下にしたがって、この中巻は、『歎異鈔』の今日的課題を学びとろうとしたものであります。
 「上巻」と同じく、名古屋の時照会の講義をもととして、筆を加えたものであります。業ふかき身に、幸いにもよき師・よき友をたまわって、今日あることを得ている筆者の、学習の報告書であり、表白の書であります。「上巻」と同じく、きびしい御批判をあおぎたいと念ずる次第であります。この「中巻」も、まことに多くの人々の手をわずらわしてなったものであり、ここに深く謝意を表します。

      昭和四十八年七月

                       高 原 覚 正


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