『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

結  び

 この書を、善導大師の「集記」という用語をいただき、『歎異鈔集記』と名づけました。
 この上巻において、『歎異鈔』の師訓十章のうち、第一・第二・第三章を学んだのであります。この三章を、了祥師は、安心訓と名づけられておられますが、この三章に、宗教的自覚の問題が、如何に具体的に、生き生きと語られてきたかをふりかえるとき、生命の躍動ともいうべきものを感ずるのであります。
 まず「前序」において、著者・唯円は、静かに、深い悲歎の心をもって、『歎異鈔』制作の意志を表白するのであります。
 しかるに、第一章にうつりますと
  弥陀の誓願、不思議にたすけられまいらせて往生をば逐ぐるなり。
と、本願の宗教の荘重な原理を、格調の高い筆致をもって書かれています。いうまでもなく師訓であり、親鸞聖人のお言葉をそのままに述べられているのでありますが、それが、そのまま唯円の表白になっています。
  悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故にと、云々。
と、第一章は結ばれているのでありますが、この、「と、云々」という結びの言葉をもって、師訓が、それぞれ結ばれているのであります。「云々」とは、まだ、いうべきことがあるが省略するという意味の文字であります。しかし、『歎異鈔』の師訓を結ぶ言葉として、「と、云々」と書かれている文字は、弟子・唯円が、師訓をうける姿勢をうかがわせる言葉のように感ぜられ、他の聖教に見られぬ、深みをあたえられるのであります。
 第二章にはいり、第一章の荘重さを破るが如く、親鸞聖人と関東の門弟との対面が述べられているのであります。さらに、劇的な法然・親鸞二師の出あいが「親鸞におきては」という言葉にはじまって述べられるのであります。そのなかの「地獄は、一定すみかぞかし」の一語によって、第二章は、一転して、仏々相念の本願の歴史を讃嘆されることになります。
 その、結びの「面々の御許なりと、云々」という言葉をうけて、第三章には、力強く、「いわんや、悪人をや」と本願の意を述べられています。第三章は、自力作善の人の廻心をとおして、悪人救済という表現で、本願の宗教を、すなわち、如来の本願の深重なることを讃嘆されているのであります。
 以上の三章でもって、本願の宗教における信・主体的自覚をあかされているのであります。この三章は、第一章に説かれている、人間救済の原理から、第二章の本願の歴史、すなわち、純粋感情の世界(法の深信)が展開され、その歴史的感情の世界は、第三章にはいって、さらに、主体的自覚(機の深信)の表白となっているのであります。この師訓三章は、このように、教学的組織をもって展開しているのであり、また、この三章の各一章一章が、それぞれ緻密な展開をもちながら、主体的自覚の構造を、立体的に、よく語りつくされているというべきものであります。
 このような『歎異鈔』は、親鸞聖人のいのちをうけ、独自の『歎異鈔』の時代を生みつづけながら今日の世界に叫びかけているのであります。


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