『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第三節 悪 人 成 仏

   他力をたのむ
 

煩悩具足(ぐそく)のわれらは、いづれの行にても、生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるを、あわれみたまいて(がん)をおこしたもう本意(ほんい)、悪人成仏(じょうぶつ)のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。


 人間は、求め歩む存在でありますが、その方向を自覚しないのであります。このような人間に、釈尊は『観無量寿経』を説かれ、浄土を願わしめられるのであります。よって、はじめて、宗教的決断をするのでありますが、やがて、この決断は、本願に呼びかけられ(第十九願)、釈尊の勧め(『観無量寿経』)によることに気づかされるのでありました。「自力の心をひるがえして、他力をたのむ」身にならしめられるのであります。

 さて、「他力をたのむ(註23)」という言葉が、この第三章には
  ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ
  他力をたのみたてまつれば
  他力をたのみたてまつる悪人
と、三ヶ所にでていることを、了祥師は注目されて、第三章は、「他力をたのむ」ということが中心課題であると説かれています。さらに、この「たのむ」という言葉は、聖覚法印(せいかくほういん)の『唯信鈔(ゆいしんしょう)』の言葉であることを指摘されています。「たのむ」という言葉は、親鸞聖人の他の書物には余りなく、『歎異鈔』独自の表現でありますが、それが『唯信鈔』(全書・二・七四八)をうけておられるのであります。『歎異鈔』と『唯信鈔』の関係を、つぶさに、了祥師は検討されているのでありますが、聖覚法印の『唯信鈔』は、法然上人から親鸞聖人への伝承の中間に位置して、親鸞聖人の教学に、大きな影響をあたえています。
 さて、もとにもどって、「他力をたのむ」ということが、第三章の重心ともいうべき問題でありますが、まさしく、「他力をたのむ」をあきらかにしているのが、第三章・第三節の文であります。また、「他力をたのむ」ということは、信心ということであります。いいかえれば、序にありました「先師口伝の真信」でありますから善導大師の『観経疏』に述べられている二種深信であります。この二種深信を『歎異鈔』に配当しますとき、第二章は、法の深信をあかし、第三章が、機の深信をあかすといわれてきています。よって、いま学ぶところの、第三章・第三節は、まさに、「他力をたのむ」すなわち、機の深信をあかしている一節であります。
 

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば

 このような言葉で、悪人について述べられています。第一章・第三節の「罪悪(ざいあく)深重(じんじゅう)煩悩(ぼんのう)熾盛(しじょう)の衆生」をうけて第二章に、「身」の問題が提出されました。その「身」についてですが、第二章に「身」という字が、三ヶ所にあります。今日のいい方にすれば、人間の実存の自覚を、仏法の立場からとらえて「身」と表現しているのですが、その「身」の問題を、第三章では、このような言葉で説かれ、表白されているのであります。
 いま、「身」の問題を
  ①煩悩具足のわれら
  ②いづれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを
と、わけて述べられています。①の方は、善導大師の『往生礼讃』の言葉(註24)によられたものであり、②の方は、おなじく善導大師の『観経疏』の「散善義」の言葉を引かれているのであります。ともに、二種深信を説かれているうちの、機の深信の言葉を、親鸞聖人の言葉として、表白されているのであります。第一章・第三節から展開されてきた「人間」の問題が、第三章では、善導大師の二つの著書の、機の深信の言葉によって、「煩悩具足のわれら」であり、「いづれの行にても、生死をはなるることあるべからざる」ものとして表白されているのであります。
 考えてみますと、自力作善の人は、みずからが修する善根を自認している人でありますが、なお、また、煩悩を具足しているわが身の事実も、自認しないわけにはいかない人であります。『往生礼讃』のお言葉は、このような、人間の現実存、ただ今のわが身を、たとえ、自力作善の人でも認めなければならない現実存在を「煩悩具足のわれら」と説かれているのであります。
 また、『観経疏』の言葉をとおして、この②の文をみますと、この「煩悩具足のわれら」は、そのまま、「曠劫より已来(このかた)、常に没し、常に流転して」(全書・一・五三四)「生死をはなるることあるべからざる」(第三章)存在であるということになります。すなわち、永遠の過去から、今日・現在まで、迷を離れることができなかったわが身であるということになります。いいかえますと、歴史的実存の自覚の言葉であります。この、短い①②のお言葉で、現実存をおさえ、さらに、それを歴史的実存の自覚へと、深く展開されているのであります。親鸞聖人のお言葉の、意味の深いことに驚くのであります。自力作善の人に、諄々と語りかけておられる聖人の面影を想うのであります。
 これが、第三章の「悪人」の内容(註25)であり、本願の宗教があきらかにした、人間の実存であります。

   人間そのもの――機の深信

 すでに学びましたように、大乗仏教は、人間そのものに尊厳性・純粋性を求めてきた歴史であります。このような仏教の歴史のうえにあって、末法の自覚にたって、人間そのものの事実をあきらかにし、人々に自覚をあたえたのが、善導大師の二種深信、とくに、機の深信の教説であります。
 善導大師のころ、聖道門は、人間の本来性は、清浄であり、純粋であるという考えにたっていたわけでありますが、わが国においても
  聖道の諸教は、さかんに、生仏(しょうぶつ)一如の理を談ず(全書・二・二八一、「六要鈔』)
 聖道門の人々は、生仏一如、衆生と仏とは一つということを、さかんに語りかけていると、存覚上人が歎かれるほどでありました。聖道門ばかりでなく、浄土門・法然門下の西山派さえ、その流れをうけていたのであります。しかし、存覚上人の言葉にもあるように、それは、理であります。聖道門は、理の宗教であります。それに対して、本願の宗教は、どこまでも、事実にたつのであって、ことに、親鸞聖人は、もっとも純粋な現実主義者(註26)というべきでありましょう。一点の観念も、思弁もゆるさず、現実を凝視されたのであります。つまり、本願の宗教は、事の宗教であります。
 この、事の宗教によって、考えてみるとき、人間の現実存は、まったく自力無効であります。人間の自力も、理知も、現実の世界そのものには歯がたたないのであります。現実の世界は、人間を超えているのであります。人間は、その世界に、おかれてあるものであり、しかし、仏としてでなく、すなわち、純粋性をもってでなく、煩悩具足の凡夫として、おかれているのであります。理の宗教からみれば、理論としては、煩悩は客塵煩悩といって、客分であり、主人でなくて、煩悩は汚れとしてついた塵のようなものであり、人間そのものは、仏であり清浄そのものであると説くのであります。しかし、現実には、人間存在は煩悩そのものの身であり、まったく生死(まよい)をたちきることができないところの身であります。人間は、不純粋そのものだと、いいはるのではありませんが、たとえ、純粋・清浄なものがあるとしても、現実には、まことに煩悩賊に害せられていて、流転をたちきることも、迷を離れさることもできないのであります。生死そのものの身であります。『歎異鈔』の、このところの文は、一片の自己肯定もゆるさぬ、親鸞聖人の内観の眼を感せしめる表白であります。

 実は、その内観の眼は、また、この身にかけられている、阿弥陀仏の大悲を仰いでいる眼でもあります。かって学びましたように、阿弥陀仏の本願を、別願といい、悲願といいます。人間に純粋性があるのならば、阿弥陀仏の本願は、ちかわれなかったにちがいありません。別願といい、悲願といわれるような本願は、たてられなかったのであります。たてる必要がなかったでありましょう。
 『大無量寿経』に説かれている、その本願が、親鸞聖人にとってみますとき、釈尊・善導をへて、法然という「よきひと」となって、現前している本願の事実があります。太悲の願が、いま、わが身の前に来たっているのであります。この事実は、予想だにし得なかった現前の事実であり、人間の理知的理解を超えたという意味で、無縁(むえん)大悲(だいひ)註27)であります。この尊厳な事実を前にして、一片の自己肯定も認めるわけにいかぬではありませんか。そこから、この阿弥陀仏の大悲を仰ぐ眼は、一転して、自己そのものを、誤りなく見ぬく内観の眼となるのであります。根源的に、自己を見ぬく眼となります。
 この眼――これを信心の智慧といいますが――この眼によって、自己そのものが、何であるかを見いだして、第一章には、「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」と述べられ、第二章には、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と表白され、第三章においては「他力をたのみたてまつる悪人」とおおせになっているのであります。『歎異鈔』の、はじめ三章は、宗教的自覚をあかしているといわれる所以は、この第一・第二・第三章の表白によるものといえます。
 『歎異鈔』をつらぬく自覚は、善導大師の、機の深信であります。さらに、本願の宗教をつらぬく精神は、まさに、機の深信であります。善導大師の、機の深信を伝承する本願の宗教によって、仏教は、その観念性をやぶり、実存的教説となり、新しい生命をもりかえすのであります。

   他力をたのむ悪人――唯除の問題

  他力をたのみたてまつる悪人、もとも、往生の正因なり。
 悪人とは、宗教的自覚の言葉であります。いわゆる、道徳的・倫理的・理知的立場で、もちいる場合の意味とは、まったく意味のちがった言葉であります。本願の宗教にめざめた、いいかえれば、他力をたのみたてまつったものの、自覚の言葉であります。自己そのものの存在を悪と見いだしたものの、自覚・懺悔の言葉であります。悲歓の言葉であります。宗教的実存にめざめたものの言葉であります。

 そうするとき、なぜ、宗教的実存を、悪というのであるかという、疑問が生まれるのであります。本来、仏教(聖道門)では、迷、無明、不覚――迷うもの、めざめないものとして、人間の実存的面をとらえています。本願の宗教の『歎異鈔』では、なぜ、悪人ととらえているのでありましょうか。
 純粋な宗教心(第十八願の宗教心)は、それに反逆する二面をもちます。その一面が、善をもとめ、悪をにくむという、いわゆる、自力作善の方向であり、また、これにこたえるものが、第十九願であります。もう一つの面が、純粋な宗教そのものにふれたのではあるが、それに酔い、とどまるという、法執・体験執の問題であり、これを救う本願が、第二十願としてちかわれているのであります。
    ┌→19願:自力作善・定散自心―五逆―悪――世間的反逆―『歎異鈔』第三章
 18願:真実信心
    └→20願:法執・自性唯心―――謗法―罪―出世間的反逆―『歎異鈔』第九章
 いま、第十八・十九・二十願の問題を、おおよそ、図示したのでありますが、自力作善の人、自力に自信をもつ人を、純粋なる宗教心の世界へ誘引するためにちかわれているのが第十九願であり、第十八願にそむいている人を、悪人といい、五逆(ごぎゃく)の人というのであります。それに対して、法執をやぶり救わんとちかわれているのが、第二十願であり、この願の対象になる人を、罪びとというのであります。
 いま、ここでは、第二十願のことはさておき、第三章は、第十九願の問題にこたえている章であり、悪人が問題になっているのであります。
 善をもとめ、悪をにくむ(作善・廃悪修善)ということは、もっとも常識の世界のことであり、世間の問題であります。宗教的世界・出世間の問題ではないのであって、常識の世界に生きる人間として、あるべきことであります。それとは、反対に、善をもとめず、悪をにくまずということは、常識的人間の世界においては、「あるべくも候わず」(註28)であります。また、善をもとめず、悪をにくまずというように、善悪を無視すれば、人間性をうしなうことになってしまいます。しかるに、さきに述べましたところの自己そのものの事実は、「いづれの行にても、生死をはなるることあるべからず」の身であります。まよいを離れるための因となるような善根は、いまだかって、あったことがない、という存在であり、まことに悪そのものであります。このように、人間における事実として、悪の問題から、人間は、離れることができないから、事の宗教である本願の宗教は、人間の実存を悪ととらえるのであります。
 『大無量寿経』の第十八願の本文に
  唯、五逆と誹謗(ひぼう)正法(しょうぼう)をば除かん。(全書・一・九)
という、一句がつけくわえてあります。すなわち、「唯、五逆罪を犯した者と、真実の教法をそしる者は本願の救いから除く」という文であります。この文を、古来、釈迦の抑止文(おさえ、とどめる文の意)といって、釈尊がつけくわえられたものといわれています。いまは「誹謗正法」の問題はさておいて、五逆の問題を考えたいのであります。
 親鸞聖人は『教行信証』「信巻」の最後に、この五逆について、小乗の五逆と大乗の五逆をわけて述べられています。このうち、小乗仏教の説いている五逆の問題は、「ことさらに思うて父を殺す。ことさらに思うて母を殺す」などというものでありますから、存覚上人も述べておられるように、「人、皆、すべからく、之を犯かさずとおもえらく」であります。凡そ、自分には無関係な徳目であると見すごすことができます。しかし、大乗の五道になりますと、「人々、一々に、此の罪のがれ難し」(全書・二・三一九、『六要鈔』)であります。すなわち、大乗の五逆の一つをとってみますと  

五には、(ぼう)して因果を無みし、長夜(じょうや)に、常に、十不善業を行ず。(全書・二・一〇二)

とあって、因果の道理を無視し、つねに、十不善業(註29)をなしている、これが、世間的逆悪であるというのであります。因果を無視するということは、簡単にいえば、過去・現在・未来の歴史を無視することであります。歴史的展開を否定することであります。しかし、この、歴史を無視するという考え方は、わたしたちの身辺に数多く見られるのであります。このことは、わたしたちの身近に、たびたび経験する問題でありますが、しかし、この因果無視・歴史否定ということが、仏教に照らすとき、重い問題となるのであります。すなわち、戒律の行者が一念(一瞬)、因果を無視することがあれば、戒体(かいたい)(戒そのもの本質)が破壊すると説かれています。また、源信僧都の『往生要集』には、因果無視の人は、無間地獄におちると説かれています。これらの教説から考えてみますとき、わたしたちが、まったく、悪として、自覚していなかったところの、因果無視・歴史否定ということが、人間の根源の問題につながる悪であることを知らされるのであります。
 また、『教行信証』の「信巻」を結ばれる最後のところに、小乗と大栗の五逆の項目を列記して、もって結びとされていることに注意しなければなりません。五逆の一々の項目の内容よりも、大小乗の五逆を並べ記せられて、「信巻」の結びとされていることから、因果の道理を無視して、おのが作善と考えているところの、自力作善の心を、深く懺愧(ざんき)・懺悔(註30)せしめられるのであります。五逆の罪の重さを知らされるのであります。

 以上、悪の問題について、学んでまいりましたが、悪の問題を、第十三章から照らしますと、悪は宿業の問題となります。悪は悪業のもよおしであって、わたしのうえに、悪の縁がもよおしたことになります。いわば悪の成立原理の問題としてあきらかにする立場であります。第一章の第二・四節などでは、このように、宿業の問題として、善悪について、学んだと思うています。しかし、いま、五逆の問題として考えられる悪ということは、罪の自覚をあたえんための教説であります。仏教では、徳目をあげることは、徳目にあらわれないほどの徴(かすか)なるものを畏れしめ、また、その徳目にしたがって実践するかしないかの問題でなく、心に反省せしめんがためであると、徳目を列記する意義について注意されています。この注意から考えてみますと、大小乗の五逆の項目をつぶさに、「信巻」に列記しておられることは、「いづれの行にても、生死を離るることあるべから」ざることを自覚せしめんための教説であります。
 ここに、わが自力作善の心を、懺悔せしめられ、仏恩の深重なることを思うのであります。
  

願をおこしたもう本意・悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも、往生の正因なり。

と、第三章のお言葉はつづけられているのであります。さきのごとき「信巻」の結びの、五逆の教説の意義を開き、学ぶとき、改めて悪人の自覚をあたえられるのであります。ここに、「他力をたのみたてまつる」と仰せになっていますが、まことに、五逆の問題は、たとえば、因果無視・歴史否定ということは、本願の教えに出あうことがなければ、悪として、自覚し得なかったであろうほど、身近な、人間悪です。さらに五逆の問題は、本願他力の教えによって、捨ておけぬ問題であることを自覚せしめられるのであります。
 このように、本願の宗教の説く悪(五逆)の問題を学ぶとき、この、自然のままに生き、日常的に生活している、うかつな、わたしたちの生活のままが悪、いいかえれば、存在そのものが悪であるということになります。
 本願による悪の自覚、これが、すなわち、機の深信であります。これこそ、往生の正因・救いの正因であります。悪人の自覚こそ、本願の救いの正因であると説かれているのであります。
 ここに、「他力をたのみたてまつる悪人、もとも、往生の正因」・悪人正因と述べられていますが、これは『歎異鈔』独自の表現であって、古来、問題になっているのであります。真宗の教義からいえば、信心正囚であって悪人正因ということはない、悪人といった場合は、悪人正機というべきであるといわれています。しかし、『歎異鈔』の言葉を、そのままうけとればよいのであって、「他力をたのみたてまつる悪人」が「往生の正因」であるというのであります。わたしたちは、本願他力の教えを求めずにはおれない悪人であります。本願の宗教がなければ、救われる見込みのつかない悪人であります。悪人こそ、本願の宗教の正機であり、本願の救いの正因となるものであります。「他力をたのみたてまつる悪人、もとも、往生の正因なり」という『歎異鈔』の言葉に感動をおぼえるのであります。

  よて、善人だに往生す、まして悪人は、と仰せ候らいき。
という言葉によって、『歎異鈔』第三章は結ばれています。善悪の問題は『歎異鈔』をつらぬく問題でありますが、第一章は、本願念仏は、善悪を超えたものであると、本願の法を讃嘆する形で結ばれていました。しかし、第三章は、悪人往生・悪人こそ救われる身であると、本願の機の問題として、善悪の問題を引きうけて、結ばれているのであります。
 善悪を超えた本願の法なる故に、よく、悪人である本願の機を救うことができるのであります。超えたものこそ、超えられぬ者をつつむことができるのであります。善悪を超えた本願の法なる故、悪人をよく救うのでありますが、また、善人もともに救うことができるのであります。善悪を超えた本願の宗教は、善人・悪人の区別を問題にしないのであります。しかし、わたしたちは、存在そのものが悪である悪人であります。実存的存在であります。また、他力の本願は、別願といわれ、悲願といわれる本願であることを思うとき、悪人こそ、本願の宗教の正因であります。ここに  

願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも、往生の正因なり。よて、「善人だに往生す、まして悪人は」と仰せ候らいき。

と唯円房は悪人の全存在をもって、阿弥陀仏の本願を仰ぎ、よき師・親鸞聖人のおおせを述べられているのであります。


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