『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第二節 死して生きる

   実践者の意志――自力作善

 

そのゆえは、自力作善(じりきさぜん)の人は、ひとえに、他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土(ほうど)の往生をとぐるなり。


 前節で、念仏以外のあらゆる実践を修するとき、その実践者の意志が問題になりました。第十八願に、念仏往生をちかわせられているところの、本願の意志を無視して、念仏以外の行を修して、浄土に生まれようとする意志、いいかえれば、第十八願の意志に反した意志。この意志をもった人を、この第二節で、自力作善の人と述べられているのであります。つまり、自力作善の人とは、自己の意志でえらんだ善をもって、本願の世界に生まれようとする人のことであります。つまり、自己の意志に自信をもっている人のことであります。この人は「弥陀の本願にあらず」でありまして、第十八願の人(機)でないことはいうまでもありません。いいかえれば、第十九願の人であります。この人も、「自力のこころ」すなわち、人間的立場にたった意志を転ずるとき、真実の本願の世界に生まれると説くのが、この第二節の問題点であります。
 すでに学んだことでありますが、再び、『観無量寿経』の散善にとかれている、人間の分類を図示しますと下のようになっております。

  上品上生 ┐(定善の機をふくむ)
       |
  上品中生 ├ 大乗の善人 ┐
       |       |
  上品下生 ┘       │
               |
  中品上生 ┐       ├── 善凡夫 ― 自力作善の人 ┐
       ├ 小乗の善人 |              |
  中品中生 ┘       |              |
               |              |
  中品下生 ― 世間の善人 ┘              ├散善の機
                             |
  下品上生 ┐                     │
       |                     |
  下品中生 ├ 造悪不善の凡夫 ― 悪凡夫 ────────┘
       |
  下品下生 ┘

 この図によりますと、上品(じょうぼん)の大乗の行者、及び中品(ちゅうぼん)上生(じょうしょう)と中品中生(ちゅうしょう)の小乗の行者と、中品下生の世間一般の善をもって、本願の世界に生まれようとする人、これらの人を善凡夫といい自力作善の人というのであります。これらの人たちは、大乗仏教や小乗仏教などの行を行ずることができる環境にある人であって、いわば、順境の人であります。自分は順境によっているから、行じられているのであるということを知らず、自分の努力、自分の力で行じていると思っている人、すなわち、自己の意志がとおったように思っている人であります。いわばそのような人は、おひとよしであります。これが、自力作善の人(註12)であります。また、本願の意にそむいて、本願の世界に生まれようと考えるのでありますから、勝手気儘といってもいいでしょう。それが、自力作善の人であります。
  

わが(はからい)の心をもって、(しん)()()の乱れ心をつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんと思うを、自力と申すなり。「わが心の善ければ、往生すべし」と思うべからず。自力の御計(おんはからい)にては、真実の報土へ生ずべからざるなり。 (全書・二・六五八、『末燈鈔』第二通)

と、『未燈鈔』に述べられていますが、「わが計」・「自力の御計」、すなわち、自己の意志にたよって、真実の世界を求めようとしても、それは不可能なことであるといわれているのであります。さらに、たとえ、その意志が、いかに純粋であっても、いかに力をつくしても(註13)、本願真実の世界に生まれることはできないのであると説かれているのであります。しかし、自力作善の人は、そのことを知らないのであります。「自己の意志をたよりにして、真実の世界に生まれることはできないのだ」という教えを知らない人であります。このような教えに耳をかたむけないのであります。また、そのうえに自力の計らい、すなわち、自己確信を立場とする故に、とどまるとか、独断におちいるとかの過失をおかすことになるのでありますが、その自己の過失を過失とすら自覚することのできない人であります。このような人を、自力作善の人といいます。きびしい批判をうけなければならない人であります。
 善導大師は、その著『般舟讃(はんじゅさん)』に 

(いか)んが、今日、宝国(ほうこく)(浄土)に至ることを期せん、実に、是れ、裟婆(しゃば)本師(ほんじ)(釈尊)の力なり。若し、本師知識の勧めにあらずば弥陀の浄土、云何してか入らん。 (全書・一・七〇一、存覚師『浄土真要鈔』第一章に引用)

と、格調の高い言葉をもって、今日、本願真実の世界を求める身になったことは、ひとえに、裟婆(人間的世界)に、自分と生をともにしてくださった、本師・釈尊の力であり、釈尊の勧めのたまものであるとうたっておられるのであります。地上の教主・釈尊の恩徳を謝しておられるのであります。『歎異鈔』の序の
  幸いに、有縁の知識によらずば、いかでか、易行の一門に入ることを得ん哉。
という、唯円房の感激にひとしいものであります。本願の道は、かならず地上の教主によらねばなりません。すなわち、よき師をたまわらねばなりません。よき師と、よき友の導き(意志)によって、求め・歩む心(意志)を起こすのであります。ここに、本願の道を、他力の道といわれる所以があります。
 しかし、自力作善の人は、「本願他力の意趣にそむけり」といわれているように、本願の意にそむく人でありますが、本願他力の意にそむくとは、よき師・よき友の意志にそむくことであります。師と友とによって、自己が弟子になることができるのでありますが、師と友と弟子、それを僧伽(教団・真の共同体)といいます。つまり、本願の意にそむくということは、師と友の意志をうけつけないことであり、僧伽の意志にそむくことになります。このように考えてきますと、自力作善の人は、僧伽の意志にそむく人(註14)ということになります。
 すなわち、自力作善の人とは、個人的意志の人であり、たとえ師もあり友があっても、その師・友の意志を自覚しない、個人的、主観的で、独断的な人といわねばなりません。たとえ、その人が、意欲的・活動的に、何かの集団に属しているとしても、内面的には、個人的な人であり、その人の周辺には、真の和もなく、また、真に和することを知らない人であり、真に和することのできない人であります。

   自力の御計――第十九願について・一

 『歎異鈔』は、法然上人の伝承をうけている聖典でありますから、『大無量寿経』の本願のうち、第十八願の一願を立場にしているのであります。この立場からするとき、自力作善の人は、本願の機でなく、非本願の機、すなわち、第十八願の趣旨にそむく人という批判をうけることになります。しかし、親鸞聖人の『教行信証』の教学に照らすときは、自力作善の人は、第十九願の機であります。その、第十九願について、しばらく考えてみたい(註15)と思います。 

たとい、われ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を(おこ)し、諸の功徳を修し、心を至し、発願して、我が国に生ぜんと欲わん、寿終(じゅじゅ)の時に臨みて、仮令(たと)い、大衆と囲繞(いにょう)して、その人の前に現せずば、正覚を取らじ。(全書・一・九、「化身土巻」所引)

 これが、第十九願の願文(がんもん)でありますが、通念(菩提心)をおこし、もろもろの功徳を修めて、至心に発願して阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願う者があったならば、その人の臨終の時、聖衆とともにその人を囲み、浄土へ迎えようとちかわれているのであります。
 この本願を、親鸞聖人以前から、「修諸功徳の願」・「臨終現前の願」・「現前導生の願」・「来迎(らいごう)引接(いんじょう)の願」と名づけられているのですが、さらに、親鸞聖人は「至心発願(ほつがん)の願」という名をつけ加えられました。すなわち、第十九願は五つの願名をもっているのであります。本願に、願名をつけるということは、同じ一つの第十九願でありますが、それぞれ、違った立場から、違った意味をうけとって、それぞれ、願名をたてるのであります。いま第十九願は五つの願名をもっていますが、まず、はじめに、「修諸功徳の願」という願名から、第十九願をうかがい、『歎異鈔』第三章を学ぶことにします。

 「修諸功徳の願」という意味をもつところの第十九願は、もろもろの功徳を修して、浄土に生まれんとおもえという本願でありますから、第三章の自力作善の問題は、まさに、第十九願の問題であります。さきには、自力作善の人を、第十八願の立場から、非本願の機と名づけて批判したのでありますが、このような、第十九願の意味をうかがうとき、自力作善の立場が、阿弥陀仏の本願のうちに、第十九ヶ条目に位置づけられているのであります。自力作善の問題が、本願の宗教において、位置づけられて、意味があたえられているのであります。
 自力作善、すなわち、みずからの力をもって、善をえらび、善を修めるということは、いかなる人間においても、勢一杯のおもいであります。すでに学びましたように、人間は、求め・歩みつづけるものであります。人間がいきているということは、意志をもって、歩みつづけているということであります。如何なる人間でも、歩みつづける存在であります。そのような、歩みつづけている人間が、「わが、はからいの心」をもって、いいかえれば、自覚的に、善をえらび、善を求めるということは、唯一の真面目(しんめんぼく)であります。その人は、虚像を追う者であると、笑いすてることはできないのであります。善を求めるということは、人間の真面目であります。自力作善ということは、このような大きな意味をもつものであります。自力作善ということは、自己の欲望をすててたちあがった人間の姿であります。煩悩になじみ、煩悩海に沈んでいる人間が、煩悩になじむ心をすてて、煩悩海よりたちあがらんとしたのであります。無自覚の道から、自己決断をなして、自覚の道へたちあがったのであります。しかるに、「化身土巻」に説かれているように 

真なる者は甚だもって難く、実なる者は甚だもって希なり。偽なる者は甚だもって多く、虚なる者は甚だもって滋し。(全書・二・一四三)

であります。これが人間の事実であります。自ら決断して、自覚道にたちあがるのですが、真なるもの、実なるものは少なく、偽なるもの、虚なるものは多いと、なげかれているのであります。折角、たちあがりながら、たちあがりきれないのであります。折角、たちあがりながら、挫折するということは、人間の現実であります。この人間の現実にこたえられているものが、第十九願・「修諸功徳の願」であります。「諸の功徳を修し、心を至し、発願して、我が国に生ぜんとおもえ」と、呼びかけられているのが、第十九願であります。
  既にして、悲願います。修諸功徳の願と名く。(全書・二・一四三)
と、親鸞聖人は説かれているのでありますが、「既にして、悲願います」という言葉に、人間の現実に対する、仏の大悲の深きことを思わしめられるのであります。いいかえれば、仏は既に、人間の悲の自覚に先んじて、悲願、すなわち、第十九願をちかわせられているのであります。

 いま、学んだごとく、自力作善の道は、理知的人間が、理知的立場から、真実の世界を求める、ただ一つの道であります。それを、「本願の趣旨にそむく」からといって、拒絶されれば、理知的人間の道は、まったく絶えるばかりであります。なお、その道にたちあがっても、道をつくすには道は遠くながいのであります。「ここをもって、釈迦牟尼仏は福徳蔵(ふくとくぞう)顕説(けんせつ)」(全書・二・一四三、「化身土巻」)したもうのであります。福徳蔵とは、万善諸行、すなわち、善なるあらゆる実践は、人間の精神生活を豊か(福)にするものであるという教え(蔵とは法蔵の意・教えの意)であります。いいかえれば、『観無量寿経』の教えであります。しかし釈尊が、この福徳蔵といわれる『観無量寿経』を説かれたということは、何を意味するのでしょうか。考えてみなければなりません。
 それは、一つは、道に戸惑うているところの、偽なる行者、虚なる行者を誘引するためであり、他は阿弥陀仏が既にちかわれている第十九願・修諸功徳の願にこたえるためであります。ここに、自力作善の人に対する、釈尊と阿弥陀仏という、二尊のまことを思うのであります。「非本願の機」と拒絶された自力作善の者に、二尊のまことが、ちかわれ、説かれているのであります。その立場が、自力的であれ、理知的であれ、善を求めて歩む人間が、すなわち、宗教以前の人間が、このように、本願の宗教の中に位置づけられているということは、宗教の歴史の上において、大きな意味をもつのであります。本願の今日的意義を物語るものであります。

   死ということ――第十九願について・二

 次に、親鸞聖人は、この第十九願に、「至心発願の願」という独自の願名をたてられました。この願名は、第十九願に「諸の功徳を修し、心を至し、発願して、我が国に生ぜんと(おも)わん」とちかわれている、阿弥陀仏の本願(純粋意志といっていいでありましょう)にこたえ、さらに、この阿弥陀仏の本願をうけて、『観無量寿経』を説かれた、釈尊の説教にこたえて、親鸞聖人が、第十九願の自覚(信心・願心)を表白された願名であります。さきの、「修諸功徳の願」という願名は、第十九願の行についての願名であり、この「至心発願の願」という願名は、第十九願の信についての願名であります。

 さて、この願名の至心発願とは、宗教的決断ということであります。親鸞聖人は、第十九願の自覚を、発願・宗教的決断(註16)としてとらえられたのであります。浄土を忻慕せんともとめて決断する。それが自力の立場であろうと、理知的立場であろうと、ただ決断する。この決断の一点に、第十九願をしぼっておられるのであります。これが釈尊と阿弥陀仏の二尊のまことにこたえることになります。決断・信をもってこたえられているのであります。宗教心は、決断にはじまる、といわれているのであります。すなわち、宗教心における、決断の意義を重要視せられているのであります。決断のあるところに、宗教心はひらかれ、そこから、その宗教心は、宗教心自身が展開するのであります。決断のないところには、宗教心も生まれず、展開もありません。いま、宗教的決断という言葉をもって、第十九願の至心発願の意を学びとろうとしたのでありますが、求道的決断、さらには、純粋決断ともいうべきものであります。宗教心(信)を決断の問題とするのが、第十九願であります。
 この決断は、自力であるからとおそれ、ただ、他力の決断をもとめ、他力を論じていたのでは、何一つ生産しないでありましょう。このことを考えても、いかに、宗教的決断が、まず要請されねばならないかを思うのであります。第二の意味において、第十九願は、決断をせまる本願であります。
 さらに、第三の意味において、この第十九願を、「臨終現前の願」とか、「現前導生の願」・「来迎引接の願」とかと、呼んでいます。命おわるとき、諸仏が、その人の前に現ずる、という願名であります。皮肉な願名だと思うのであります。なぜかといえば、修善をすすめ、宗教的決断をもとめた第十九願が、ここに、臨終の救いをちかわれているからであります。言葉をかえれば、「死なねば助からぬ」というのであります。自己のうえに、みずからの決断によって起こした宗教心を、いいかえれば、人間的立場からの宗教心ではありましょうが、いまにいたって、「死なねば助からぬ」というのでありますから、どうしたことでしょうか。『歎異鈔』第三章は、この第十九願の機微を、「自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば」と述べられているのであります。
 考えてみますと、第十九願の行も信も、釈尊と阿弥陀仏の、すなわち、二尊のまことからたまわたったものであります。たびたび申したことですが、人間は本来、求め・歩む存在であり、意志的存在でありますが、意志は、何かの刺戟をうけて活動する受動的なものであらます。この、人間の意志の本来的な性格にこたえてちかわれているのが、阿弥陀仏の本願であります。『悲華経(ひけきょう)』に 

 我を見るをもっての故に、(もろもろ)障閡(しょうげ)を離れて、即便(すなわち)、身を捨てて我が界に来生(らいしょう)せん。(全書・二・一四四、「化身土巻」所引)

と説かれていますように、「我を見るをもっての故に」すなわち、仏を見ることによって、はじめて、幾多の障害をこえて「身を捨てて」という自覚的決断がなりたち、「諸の功徳を修」するのであります。第十九願の信も行も、すなわち、それが、なお自力的要素・人間的臭みをのこしているとしても、その決断も実践も、釈尊と阿弥陀仏からたまわったものであります。呼びかけ(阿弥陀仏)られ、勧め(釈尊)られた、受動的なものであります。さらにこの、第十九願の阿弥陀仏の呼びかけに、大きな問題がふくまれています。それは、第十八願にも、第二十願にもないものであって、すなわち、臨終来迎の問題と、「仮令(註22)」の一問題であります。
 まず、臨終来迎の問題を重点として、第十九願の意をとらえているのが、講師であり、「臨終現前の願」などの願名が、それであります。来迎とは、もろもろの功徳を修する自力作善の人、つまり、第十九願の機を、その臨終のとき、聖衆とともに迎えとるというのであります。聖衆来迎といいます。わが国では、平安時代に、この来迎信仰が盛んであって、来迎仏、来迎図などの勝れたものが残されており、浄土教信仰の特徴を端的に示すものとされていました。しかし、すでに少しふれましたように、来迎は、第十八願念仏往生を立場とするときは、来迎を要しないのであります。「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なる汝に。臨終ということは諸行往生の人にいうべし」(全書・二・六五六、『末燈鈔』第一通)であります。
 けれども、親鸞聖人においては、来迎(註17)をまったく否定されているのではなく、仏に迎えられて、浄土へかえるという―― 一つの出あいの世界とうけとられているのであります。問題は、「臨終」ということにあると思われるのであります。「臨終ということは諸行往生の人にいうべし」であります。諸行往生の人・自力作善の宗教心は、かならず、大きな転換をとおさなければ、本願他力の世界にふれることはできないということを、臨終という表現をもって述べられているのでありましょう。まさしく、「死なねば助からね」ことを述べておられるのであります。つまり、廻心(えしん)懺悔(ざんげ)をとおして、はじめて、真実の世界に生まれると、説かれているのであります。
 この意味において、「既にして、悲願まします」(「化巻」)と述べられていましたように、第十九願は、自力作善の人に、まず、決断をおこさせ、やがて、その人を方向転換せしめようという、まさしく、仏の悲願であります。大悲方便の願であります。一つの屈折をもった本願であり、この願がちかわれておらなければ、自力心が離れ難い人間・理知的人間の救いは望めなかったでありましょう。

 次に、「仮令」の問題でありますが、仮令とは、「たとい」と読みます。また、「かならず」という意味をもった言葉であります。道に惑うている、偽なる行者、虚なる行者である、自力作善の人は、仏に呼びかけられ、勧められて、決断し、たちあがるのであります。阿弥陀仏の浄土・真実の世界という方向を見いだしてたちあがったのであります。方向がさだまったのは、仏が身をもって「かならず」と呼びかけたもうたからであります。「仮令(もし)……その人の前に現ぜずば、正覚を取らじ」(第十九願文)と、本願をかけられていたからであります。この「かならず、迎えとる」という呼びかけによって、「身を捨てて」たちあがることができるのであります。
 阿弥陀仏は、自力のもの(第十九・二十願の機)にも、他力(第十八願の機)のものにも、別なく、「我が国に生まれんと(おも)え」(註18)と呼びかけられるのであります。願生心・求道的決断を求められるのであります。たとえ、それが自力的立場からの決断であろうと、自力を超えた心からの決断であろうと、仏の呼びかけに応じて決断したという事実は、一つであり、同じであります。仏に呼びかけられて求道にたちあがるということは、大きな意味をもつのであります。その立場が、自力であろうと、他力であろうと、関係なく、大きい意味をもつのであります。ですから、仏は「かならず、迎えとる」と、第十九願におちかいになっているのであります。第十九願の「仮令(けりょう)」・かならず、という言葉は、仏の自信を物語っている言葉であります。
 そこで、自力の立場にたって、急ぎ、「所作(しょさ)の一切の善根(ぜんごん)、ことごとく、皆、()して」(前掲)といわれているように、あらゆる善なる実践を、かきあつめるようにして、決断をなしたのであります。が、ふりかえってみれば、その決断そのものが、「わが国に生まれんと欲え」という、阿弥陀仏の呼びかけによるものであったことを、いまになって気づかされるのであります。わが身のうえにおきた決断が、自己を超えたものであることを自覚せしめられるのであります。この自覚が起きたことが、「死んで助かった」事実であります。第十九願のちかいによる、廻心懺悔であります。このように、第十九願は、自力をたのむ人間に、大きな転換をあたえ、自覚をあたえる本願であります。そして、この自覚は、もうすでに、第十九願を超えているのであります。
 「しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば」と、『歎異鈔』の第三章・第二節の言葉が、このところの機微をよくいいあらわしているのであります。「自力のこころをひるがえして」他力廻向の信であったこと、たまわった決断であったことを自覚するのであります。
 そこに、はからすも、本願真実の世界がひらかれるのであります。

   本願真実の世界――浄土の二重性

  真実報土の往生をとぐるなり。
と、『歎異鈔』の第三章・第二節は結ばれています。
 この「真実報土に生まれる」・「純粋感情の世界に生きる」ということは、あらゆる人間が、昔から、求めてきたところのものであります。人類の歴史をつらぬいた願いでありましょう。人間存在は、浄土をもとめて生きるものであります。浄土をもとめて、浄土に生まれ得た人は、さらに、浄土をねがい、求めて求め得なかった人は、なお、願い求めつづける、というものが、浄土であります。人類の歴史は、浄土・真実の世界を求めてあゆむ、歩みそのものであります。
 しかるに、自力作善の人、すなわち自己に自信をもった人、いいかえれば、その人は、理知的人間でありましょうが、その人の立場からは、真実の浄土は、絶対にひらかれないのであります。第十九願にちかわれている大きな方向転換を経なければ救われない。すなわち、「死なねば助からぬ」ことを学んできたのであります。このことは、人間にとって、いたましいことであります。理知的立場にたつ人間は、脚下の事実を見る眼をもたず、理知で考え、理知でえがいた虚像の世界のみを見ているからであります。真実の浄土は、脚下にひらかれている世界であり、純粋感情の世界でありますから、理知の立場を「ひるがえ」きないかぎり廻心懺悔しないかぎり、感ずることはできないのであります。さらに、この浄土ということについて、もう少し、話をすすめることにします。

 ここに、ただ浄土といわず、真実報土といわれていますが、これは、方便(ほうべん)化土(けど)に対する浄土であります。親鸞聖人は、源信僧都の『往生要集』に引かれている『菩薩処胎経』によって、浄土を、真実報土と方便化土(註19)にわけられました。
 いわゆる、いままで学んできました、自力作善の人の生まれる浄土は、方便化土(懈慢界(けまんがい)疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)辺地(へんじ))で真実報土ではないというのであります。化土とは、実体的に考えられた浄土といってよいでありましょう。『大無量寿経』の終り(全書・一・四二)に説かれているのをはじめ、『観無量寿経』の浄土が、これにあたるのであります。
 ただ、注意したいことは、親鸞聖人が『菩薩処胎経』によって、懈慢界として、化土をみておられるということであります。この経典によれば、懈慢界は、阿弥陀仏の浄土、いいかえれば、真実報土にいたる、その途中にある浄土であって、そこに生まれたものは、その環境に執着して、懈怠・憍慢になって、真実の世界に生まれることを必要としない世界であります。いわば、一つの忘我の境地といわれるごとき世界でありましたう。ある意味では、慶喜心を得るのでありますが、本願真実の世界において、たまわるような、大慶喜心を得ない世界のことであります。
 自力作善の人、第十九願の機が生まれる浄土(註20)は、真実報土でなく、化土であります。すなわち、自己肯定の心がのこっている人には、救いはないとはいえませんが、純粋な救いとはいえないということであります。そのような救いの世界を、化土というのであります。その世界を、懈慢界というのでありますが、一つの自己満足・自己陶酔の世界のことであります。
 しかし、さきにもふれましたように、その懈慢界は、阿弥陀仏の浄土への、途中にある世界ということで、懈慢界には、阿弥陀仏の真実報土への、道程となるべき意義があるわけであります。この点を、注意したいと思います。化土を、方便化土といわれるのは、化土は、ただ化土としてあるのでなく、真実報土に転じていく道程(註21)としてあるという意味から、方便化土の名がつけられているのであります。
 親鸞聖人は、『教行信証』の「真仏土巻」に 

真仮(しんけ)みな、是れ、大悲の願海に酬報(しゅうほう)せり、故に知んぬ、報仏土(ほうぶつど)なりということを。(全書・二一四一)

と述べられているごとく、化土は、方便化土という名をあたえられるとき、本願のうちに位置されるのであります。方便化土は直接的に真実報土ではありませんが、本願の浄土である真実報土のなかの浄土となるのであります。つまり、報土も化土も、大悲の願海につつまれることとなります。
 自力作善の人の生まれる浄土・第十九願の浄土は、このような構造になっているのであります。その点から考えますとき、自力作善の人も、「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつ」(註22)らねばおけぬ仕組みになっているのであります。
 親鸞聖人の説かれている本願の宗教は、自力の立場・理知の立場を、このように、拒絶しないのであり、かえって、第十九願のちかいをたてて、その立場を認め、つつむのであります。そして、理知によってひらかれる世界をも、理知の人が気づき得ないような意義を認めて、仏は、理知の人の臨終まで、すなわち、最後まで待たれるのであります。大悲され、待たれるのであります。すなわち、第十九願が「臨終現前の願」と名づけられる所以であります。理知の立場は、かならず、大きな転回のときがあるという、人間の構造を、はっきり理解しているが故に、本願の宗教は、人間の理知が破れるまで待つのであります。

  自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
という、第二節の結びの文を、もう一度、読んでみますと、「ひるがえして……たのみたてまつれば」とあります。これが、第十九願の機の構造であります。「転じて、たちあがる」、「否定をとおして、新しい意欲をうむ」これが、理知の立場の仕組みであります。
 さらに、自力の心をひるがえしたときが、他力をたのむ心のおきたときであります。一念同時であります。また、ひるがえしたことが、たのんだことであります。自力無効と、自力の心がまったく否定されたときが、他力の大道を歩みはじめる純粋意欲がわきあがるときであります。


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