『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

八 第三章 無  慚
 

(ひとつ)。善人なおもて往生をとぐ、い()んや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦(いったん)そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣(いしゅ)にそむけり。そのゆへは自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるかひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土(ほうど)の往生をとぐるなり。煩悩具足(ぐそく)のわれらはいづれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ(もう)本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、お()さふ(そう)()き。(定本・親鸞上人全集・第四巻・言行篇1・6)



第一節 宗 教 の 門

   第三章の位置
 

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。
この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。


 第三章を学ぶことになるのでありますが、この第三章は、第二章・第三節の「その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」の文をうけているのであります。本願(第十八願)にたって、善悪の問題を批判され、善悪の問題を超えた、本願の宗教をあきらかにされているのであります。
 この第三章は「悪人往生」という言葉などで、『歎異鈔』を有名にしている章であります。この第三章を、了祥師は、「悪人正機章」と名づけられ、曾我先生は「機の深信を示すもの」であるといっておいでになります。親鸞聖人は第二章において、純粋客観の世界を讃嘆されたのでありますが、この第三章では、主体的自覚を問題にされているのであります。
 了祥師は、他の章とちがって、この第三章と第十章の文の結びには、「と云々」という文字がなく、「とおおせそうらいき」と結んである点から、この第三章までを「安心訓(あんじんくん)」、第四章から第十章までを「起行訓(きぎょうくん)」とわけられております。この了祥師の指示からも、第三章は「安心訓」のなかの一章でありつつ、安心(宗教的自覚)の問題と、起行(宗教的実践)の問題との、分岐点となる重要なる章であることが知らされます。了祥師にしたがって師訓九章の分類を図示しますと、下のようになります。

      ┌ 総 ─ 第一章
      |
  安心訓 ┤
      |   ┌ 第二章
      └ 別 ┤
          └ 第三章 ┬ 第四章 ┐
                |     |
                ├ 第五章 ┼ 利他 ┐
                |     |    |
                ├ 第六章 ┘    │
                │          ├ 起行訓
                ├ 第七章 ┐    │
                |     |    |
                ├ 第八章 ┼ 自利 ┘
                |     |
                └ 第九章 ┘

 安心訓と起行訓、いいかえれば、自覚と実践の問題は並列ではありません。自覚(安心)から実践(起行)が生まれるのであります。自覚のないところからは、真の実践は生まれません。この意味で、自覚と実践の問題は横の関係でなく、縦の関係(註1)であることを注意しなければなりません。
 ふりかえってみますと、第二章では、「地獄一定」の自覚が、「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず、云々」という言葉で話しだされた本願の歴史、純粋客観の世界を新しくひらいたのであります。「地獄一定」の自覚なくしては、本願の歴史をあおぎ、讃嘆することはできません。その意味で、「地獄一定」の自覚は、第二章の眼目であります。それと対応する意味で、「安心訓」の結びの、この第三章の悪人の自覚が、第四章以下の「起行訓」、すなわち、宗教的実践の問題を新しくひらくのであります。第三章が、自覚(安心)の問題を結び、実践(起行)をおこす分水嶺になるのであります。本願の歴史を讃嘆する(第二章)とか、新しく生活にたちあがる(第四章以下の師訓)とかという、新しい歴史の発見は、悪人の自覚のところにたたねばひらかれないことを、第二章の「地獄一定」の言葉、及び第三章から知らされるのであります。

   ↑   本願の歴史(過去)の讃嘆 ―― 第二章
  現 在  悪人の自覚(地獄一定)  ―― 第三章
   ↓   宗教的実践(未来)への出発―― 第四章以下

 過去を、真に過去たらしめる、いいかえれば、過去のあゆみを無駄にしないか無駄にするかどうかは、現在の自覚がさだめるのであり、未来にむかって、大地に足のついた出発をするかしないかは、また、現在の自覚にかかっているのであります。過去から現在へ、現在から未来へという歴史の生命を決定するのは、現在を、ただ今のわが身を、どのように自覚するかということにかかっているのであります。すなわち、観念的に、理知的に歴史を考えるときは、歴史は生きた生命をうしないます。それに反して、主体的自覚をもって歴史に関わるとき、歴史は、わたしたちの実存の身をとおして、生命あるものとなります。いいかえれば、悪人の自覚にたつとき、過去の歴史が意義あるものと感せられ、未来の歴史も、かならずひらかれるのであります。
 このとき本願が、わたしたちをとおして過去から未来に、一貫して歩みつづけ、はたらきつづけるのであります。わたしたちが、悪人の自覚をうしなうとき、すなわち、わたしたちが慢心をおこしたとき、過去の歴史も未来も、その生命をうしないます。過去はただ無意味なものとなり、未来は不安なものとなります。しかし、悪人の自覚にたつとき、「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとえに、親鸞一人が為なりけり」(後序)と、過去の歴史をいただきなおすことができ、「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」(第七章)と説かれ、また「六道に輪廻すべからず」(第十五章)などと説かれていますように、絶対自由の、また、不安のまったくない未来をひらくことができるのであります。悪人の自覚、実存の自覚という主体的自覚にたった現在を基点として、過去が生きかえり、未来が明るくひらかれるのであります。
 このとき本願が、わたしたちをとおして、過去から未来へ、一貫して流れていくのであります。本願が、過去から未来へと歩みつづけるのであります。親鸞聖人がこの本願の歩み、本願の歴史について、「大行(だいぎょう)」という表現を用いておられますわけがわかるであります。現在、ただ今のわたしたちが、悪人の自覚、すなわち、主体的自覚にたつとき、本願の歩みは大河のごとく、過去・現在・未来と、大きく行じていくことになります。本願が悪人を機として、大行するのであります。展開するのであります。この、本願の歴史は 

能く、衆生の一切の無明を破し、能く、衆生の一切の志願を満てたもう。(全書・二・八、「行巻」)

と述べられていますように、人間の一切の無明も志願ものみつくして、大きく歩みつづけるのであります。わたしたちの主体的自覚、また言葉をかえますと、わたしたちが宿業を自覚するとき、本願の歴史は、このように、無始の過去から無終の未来へと、大きく行じていくことになります。

 ここに考えられますことは、宿業の身のわたしたちが、本願の歴史をひらく「機」になることになります。本願の歴史を、本願の歴史たらしめる、大切な、欠くことのできない、一点になるわけであります。もし、わたしたちが、宿業の自覚・悪人の自覚という主体的自覚をもたなかったならば、本願は、『大無量寿経』に説かれているだけに終ったことでありましょう。神話で終ったでありましょう。
  如来の本願を説くを、経の宗致(しゅうち)となす。
  すなわち、仏の名号を以って、経の(たい)とするなり。(全書・二・三、「教巻」)
と説かれていますように、『大無量寿経』を釈尊が説かれた所以のものは、「本願」を説かれることにありました。いわば、『大無量寿経』の宗致、要は、本願を説かれることであります。また、この『大無量寿経』の体・根本精神は、仏の名告りである。と、親鸞聖人は『教行信証』のはじめ(「教巻」)に注意しておられますことを思うのであります。
 すでに、『大無量寿経』に本願が説かれ、阿弥陀仏が名告られ、呼びかけられているのでありますが、それにこたえて、わたしたちが宿業の自覚・悪人の自覚をもたなかったならば、本願は、人間の世界に、その姿をあらわしたもうことは、できないで終るでありましょう。わたしたちの自覚は、このような大きな、一点に位置しているのであります。
 実は、悪人の自覚をあかす、『歎異鈔』第三章の位置は、このように、本願の歴史を、真に、本願の歴史たらしめるか、どうかという意義をもっているのであります。第三章は、このような意味から、『歎異鈔』の組織上大きな意義をもつ章であるばかりでなく、本願の歴史、いいかえれば、人類の歴史においても、大きな意義を示す章であります。

   悪をなすなかれ

  「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
 善悪の問題は、すでに学びましたように(第一章・第二節・善悪の問題第一章・第四節・再び善悪について)人間にどこまでもつきまとってくるのであります。それほど、善悪の問題は、人間の根源的問題に関係しているのでありましょう。善悪の問題が、そのまま人間の根源的問題ではありませんが、人間の深い問題にくいいる門であります。いわば、「要門(註2)」であります。大切な門であります。善悪の問題は、直接に深い人間性に結びつく問態ではありません。悪いことを犯したから、その人の人間性が汚れるとは、きまっていません。悪いことを犯したことによって、その人の人間性がみがかれる(註3)という場合もありますから。しかし、善悪の問題は、人間をつまずかせ、考えさせる問題であります。「悪をなすなかれ」という命題は、人類のはじめから、人間の血となって、心の底に流れているようであります。たとえ、善悪を否定する人にも、悪にはしる人にも、その潜在意識には、「悪をなすなかれ」というささやきが聞こえているものであります。意識の底に、うずきとなっているものであります。「死」の問題とひとしく、善悪の問題は、人間にふかくくいいっている問題であります。それで、人間の根源の問題、すなわち、宗教の問題をひらく門になるのであります。
 このように、善悪の問題は、直接に宗教の問題ではありませんが、人間の精神生活と密接な関係をもっているので、宗教の問題と、善悪の問題とは、混然とした形で、伝えられてきています。善悪の問題は、いわば、道徳・倫理の問題(註4)で、真の宗教の問題ではありません。道徳と宗教は、そこに、判然とした境界線がなければなりません。

  諸悪(しょあく)莫作(まくさ)  もろもろの悪をなすなかれ
  衆善(しゅぜん)奉行(ぶぎょう)  もろもろの善を行じたてまつれ
  自浄(じじょう)其意(ごい)  自ら、その意を浄めよ
  是諸(ぜしょ)仏教(ぶっきょう)  是れ、もろもろの仏の教えなり
 これを、七仏(ひちぶつ)通誡偈(つうかいげ)註5)といって、古来から伝承されているものであります。しかし、さきに学びましたように、この偈は、宗教そのものと、道徳・律法(りっぽう)と未分の仏教といわねばなりません。廃悪修善(しゅぜん)――悪を廃して善を修する――という実践的規持をかかげる聖道門も、同じく道徳と宗教が末分の形をとっている宗教といわねばなりません。さらには、自力の立場(定散自力の立場)にたって念仏する浄土門、すなわち真宗(親鸞聖人の宗教)をのぞく異流、また、真宗の流れをくむものであっても、『歎異鈔』第十二章以下の異義のうち、賢善精進計(第十三・十四・十六・十八章など)におちているものも、やはり、宗教と道徳を混乱しているものといわねばなりません。このように考えてくるとき、善悪の問題は、どこまでも人間にくらいつき、人間は、この問題につまずかされる運命をもっていることを知らされるのであります。道徳と宗教の分限を厳密に区別する真宗(本願の宗教)にまで、『歎異鈔』で、まさしく歎異されている異義となってまでつきまとってくるのでありますから、この善悪の問題は、人間の存在するところには、どこまでも、まといつき、その人間をつまずかせるものであります。
 かかる善悪の問題は、「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なき故に。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」(第一章)という、善も悪もともにつつんで、ひとしく、願いかけられる阿弥陀仏の本願に出あわないかぎり、超えることはできません。善悪ともに、本願にさしまかせたとき、善悪にしばられる心がとかれ、善悪の問題を超えるのであります。善を求め、悪をにくむという道徳的立場から、直接に、直線的に、純粋な宗教の世界へ、すなわち、深い人間性の問題へはいることはできません。道徳的な立場、これを、自力的・理知的立場といいますが、この立場を否定しないかぎり、宗教そのものの世界にはいる道はありません。この立場をすてて、はじめて純粋な宗教の世界にはいることができるのであります。
 ここにきたって、人間に限りなくつきまとってきた善悪の問題は一転して、それを超え、それをすてて、純粋な宗教的世界にいらしめる契機・機としての意味をもってくることになります。超えすてていらしめるという意味で、善悪の問題は、宗教の門であります。かなめの門という意味で「要門」といわれるのであります。順次、くわしく学ぶことでありましょうが、親鸞聖人は

  ┌弘願門――『大無量寿経』―― 第十八願開説― 他力信― 他力行
  |
  ├要 門――『観無量寿経』―― 第十九願開説― 自力信― 自力行
  |
  └真 門――『阿弥陀経』 ―― 第二十願開説― 自力信― 他力行

と、法門を分類されていますが、要門は、第十九願の問題であります。いまは、一応、上図を示すだけにして、後の機会にゆずることとします。

 もとにもどって
  もろもろの悪をなすなかれ
  もろもろの善を行じたてまつれ
という命題は、善導大師、法然上人の教学においても、宗教の問題として、不分明のままであります。善導大師・法然上人では、聖者と凡夫のちがい、いいかえれば、凡夫の自覚にたつということはあきらかであります。また、賢愚は問題にされていますが、善悪の問題は不分明のままであります。
 善導大師の『観経疏』の至誠心釈のなかに
  不得外現賢善精進之相、内懐虚仮(全書二・九三)
という文があります。それを、法然上人は『選択集』(全書・一・九五七)に、そのまま引いてその三心章の私釈に註釈を加えて「外相と内心」とは調和しなければならないという意味に了解しておられます。また、『往生大要鈔』(全書・四・五七三)にも註釈をされて、真実(賢善精進)と虚仮の問題を
  一には、外をかざりて、内にはむなしき人
  二には、外をもかざらず、内もむなしき人
  三には、外はむなしく見えて、内はまことある人
  四には、外にもまことをあらわし、内にもまことある人
  かくのごときの四人の中には、前の二人をば、ともに、虚仮の行者というべし、後の二人をば、ともに、真実の行者というべし。
といって、外面の真実、不真実(賢愚善悪)の問題はさておき、自己の内面の虚仮(邪正迷悟)の問題を「わが心をかえりみて、いましめをなすべき事」と説かれています。いわば、真実の行者たれ、ということが法然上人の立場であります。
 ですから、さきの善導大師の至誠心釈の文も
  外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮(こけ)いだくことなかれ(全書・四・五七三)
と読みくだしておられますが、同じ文を、親鸞聖人は  

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮をいだけばなり註6)(全書・一・五三三)

と読まれれているのであります。漢文の読みくだし方としては、法然上人の読み方が一般的であるかもわかりませんが、法然上人のこの読み方ですと、道徳と宗教と区別がはっきりしないことになります。純粋な宗教的感情をうしなうことになります。親鸞聖人の読み方はまわりくどい読み方のようですが、宗教的感情から、純粋に読まれたのであり、また、善導大師の文の前後をくみとって読みとられたのであります。
 いいかえますと、道綽禅師が『安楽集』(全書・一・四一〇)に問題にされている末法の自覚を、善導大師はまさしく、自己の問題として、自覚(機の深信)されたのでありますが、親鸞聖人は、この末法の自覚の伝承をはずさずして、この『観経疏』の文に、訓点をほどこされたのであります。さらに
  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし(全書・二・五二七、『愚禿悲歎述懐』和讃)
と、愚禿の表白を述べておれるのが、親鸞聖人の、善悪の問題に対する答えであります。問題は、外のすがたでなく、内に不真実をいだいた存在が、自己そのものであるから、その内心は、おのずから外にあらわれているものであって、外をつつしみ、かざることなどは、まったく不可能である、及びもつかぬことである、といわれているのが親鸞聖人の立場であります。末法の自覚にたって、自己における事実(実存)を表白されているのであります。
 第二章において、阿弥陀仏の本願の世界、及び、本願の歴史に真実を見出された親鸞聖人は、ひるがえって、自己の中に虚仮を見いだされたのであります。本願にふれて、いいかえれば、浄土真宗に帰して、はじめて「虚仮不実のわが身」を見いだされたのであります。末法の事実を、自己のうちに見いだされたのであります。
 内心の悪・虚仮をすてて、真実になるのでなく、かえって、本願の真実にふれたとき、内心の虚仮があきらかに自覚されるのであります。この点から考えるとき、本願に出あうことによって、虚仮が真実(本願)の内容になり虚仮が、新しい意味をもつことになります。なぜかといいますと、阿弥陀仏の本願は、「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」(第一章)であるからであります。悪・虚仮が自性である人間のためにちかわれた本願であるからであります。すなわち、わが身の虚仮こそ、仏の本願をたたしむるものという意味をあたえられることになります。虚仮こそ、仏の本願の眼になるのであります。
 阿弥陀仏の本願に照らし見ないときには、人間の虚仮を否定して、真実に向う努力が必要でありましょうが、本願に目覚め、本願にすべてをさしまかせたとき、悪・虚仮は、本願の象徴になります。古人のいい方では、本願のカゲになります。ここにはじめて、善悪の問題を超えるのであります。善を求め、悪をにくむ必要がなくなるのであります。悪・虚仮をどうかする必要がなく、悪・虚仮のまま、本願に指向するとき、悪・虚仮が新しい意味をもつことになります。悪・虚仮がなければ、阿弥陀仏の悲願(本願)が無意味になるという、新しい意味を、悪・虚仮があたえられることになるのであります。
 人間に、つきまとってきた、善悪の問題は、親鸞聖人のときを待たねばならなかった(註7)のであります。その点からみれば、真に、本願の宗教、すなわち、純粋なる宗教が地上に、その頭角をあらわすまでには、ながい歴史がかかったわけであります。
 その課題をかねてもっているのが、『大無量寿経』の第十九願であります。その決算報告書ともいうべきものが、この『歎異鈔』の第三章であります。

   鎌倉時代の悪

 善悪の問題は、人間についてまわる問題でありますが、その一面、絶対的なものでありませんから、時代によって変化するのであります。今日このごろでは、何を悪というのか知りませんが、左翼的考え方、右翼的考え方など、いろいろの立場がありますから、一言にいいつくすことはできません。それぞれの人によって、また、同一人であっても、そのときそのとき、何を悪といい、何を善というかはさだまらないでありましょう。
 しかし、宗教を立場とするとき、悪の問題は、どこまでも、主体的自覚の問題として考えられねばなりません。第三者の立場、傍観者の態度で、悪を問題にすべきでもなく、また主観的な、自己中心の心から、悪を問題にしてはなりません。
 さて、『教行信証』(全書・二・七〇)に、親鸞聖人は、元照律師(がんじょうりっし)の『弥陀経義疏(ぎしょ)』および、中国(宗)で出版されて新着したばかりといわれている戒度(かいど)師の『聞持記』を引用して、「具縛(ぐばく)の凡愚・屠沽(とこ)下類(げるい)」を問題にしておられます。その「屠沽の下類」とは、『唯信鈔文意』に 

屠は、よろづのいきたるものをころし、ほふるもの、これは猟師というものなり。沽は、よろづのものをうり、かうものなり、これはあき人なり。これらを下類というなり。(全書・二・六二九)

と註釈されています。これからみるとき、猟師・商人が、悪人といわれ、下類といわれていたようであります。なお、「具縛の凡夫とは、よろづの、煩悩にしばられたる、われらなり」とのべられています。

 そのころ、関東で、親鸞聖人の教えをうけたものは、農民・下級武士・漁民・猟師・商人であったといわれています。そのうち、農民・下級武士は、罪悪観よりも、自己の無常観や、煩悩の問題をもって、親鸞聖人を訪ね漁民・猟師・商人は、まさしく罪悪観をもって教えをもとめたのであろうかと推察するのであります。
  具縛の凡夫――無常観――農民・下級武士
  屠沽の下類――罪悪観――漁民・猟師・商人
 そのうち、後の商人・猟師などを、一般に、下類・悪人と呼びいやしめていたのでありましょうし、また、商人・猟師などはみづからも罪の意識をもっていたのでありましょうか。
 ことに、鎌倉が京都とならんで、政治の中心となり、都市として発展するとともに、いわゆる鎌倉商人が生まれ、地方との交流もはげしくなって、商工業者の活動は活撥化したのであります。さらに、日本商人が中国・朝鮮との貿易に進出するようになり、中国(宗)の貨弊が、日本において公認されることになったりしたのであります(註9)。そのように急速な、商工業の発達によって、商人の意識も、異状な展開をすることになったにちがいありません。すなわち、そのような情勢のもとにある商人は、田畑を耕やして、村落という共同体をいとなんでいる農民とは、おのづから異なる意識をもったことでありましょうし、財をもとめてはげしく争う商人として、罪悪の自覚をもったことでありましょう。一般の第三者からみても、商人を悪人・下類と呼ばしめるものが、商人の生き方に、にじみでていたのでありましょう。また、商人・猟師などを、「いし・かわら・つぶて(註9)」「瓦礫」と人々はみていたようであります。

 このような商人や猟師は、みずからの生活にも疑問をもって、親鸞聖人をたずねたのでありましょう。親鸞聖人はその人々に対して「さるべき業縁(ごうえん)の催せば、いかなる振舞もすべし」(第十三章)とうけられ、迎えられたのであります。親鸞聖人をたずねた人々は、猟師・商人を悪人という世間の一般的な考え方をうけてたずねたのでありましょうが、親鸞聖人は、主体的な自覚にたって、すなわち、宿業の身という自覚にたって、「悪人」をわがこととして、うけとり、迎えられたのであります。同体感情をもって、迎えられたのであります ここに、歴史家が問題にする、鎌倉時代特有の「悪人」の意味を超えて、商人や猟師に代表される「悪人」の問題は本願の宗教の問題に転せられるのであります。いわば、鎌倉時代の「悪人」の問題は、当時の人間の生活様式の問題でありますが、それを宗教の問題に高めこたえられるのが、親鸞聖人の「悪人」の問題であります。

   生きるということ――文化の問題

 さきに述べましたように、鎌倉時代の商人や猟師などは、宿業のままに生きてきたのであります。宿業をうけて、生きている人間を、誰か、善悪で非難する権利がありましょうか。たとえ、誰かが非難することがあるとしても、その非難に関係なく、その人の生活は、その人として絶対でありましょう。しかるに、その人たちはどうして自己の生活様式に苦しみ、罪の意識をもったのでありましょうか。それは、その人たちの心の底に、何らかの意味の理想主義的なものがあったのではないでしょうか。
 理知的人間は、ありのままの現実をそのままにうけとることができないで、一つの善なるものを求めて歩む、つまり、理想主義にたつものであります。その意味でも、人間は歩みつづける存在といえましょう。人間は、現実をそのままにうけとり、現実に落在することができないで、どこまでも、新しい何かを求めて、歩みつづけるものであります。理想主義的存在であります。このように考えてきますと、人間は、各々の生活の仕方をもちながら、何かを求めて歩みつづけるのであります。歴史をつくっていくのであります。鎌倉時代の人間も、武士は武士として、商人は商人としての生活をもちつつ、新しいものを求めて、生活の歴史をきざみつづけていたのであります。この意味から、人間の歴史は人間生活の歴史であります。すなわち、文化(註10)の歴史であります。さらにいえば、文化ということは、人間の歩みそのものであります。

 今ここに、文化という問題をとらえましたことは、人間生活、すなわち宗教・教育・芸術・政治・科学などすべて、今日、とりあげられる人間の問題は、文化の問題であるからであります。この文化の問題をぬきにして、今日の人間を問題にすることはできないのであります。いいかえますと、文化という概念で、人間が語られ、論ぜられるのが、現代であります。このように考えてくるとき、仏教は、この問題に如何にこたえているのでありましょうか。歩みつづけるところの本願の宗教は、この、人間のあらゆる分野における問題の、今日的とらえ方に、どのようにこたえているのであろうかということを学びたいのであります。
 人間は歩みつづけ、求めつづけるものであります。求める心をうしなったときは、人間とはいえないのであります。求めつづける人間ということは、人間は理想主義的存在であり、理想に向って歩みつづけるものであるということであります。
 たとえば、その人が、世にいうような快楽主義者であって、その人が、快楽を求めて歩むとしても、求め・歩む人であることに異論はないでしょう。たとえ、その人が、虚無的な人間であったとしても、その人は、何かを求め歩んでいるのであります。また、善を求める(廃悪修善)とき、その動機が、たとえ、個人的欲望に根ざしていようと、社会的建設を願った動機であろうと、求め・歩むということには、かわりがありません。もっと、身近く、健康とか知識を求める、ということがあります。ちょっと考えれば、人間は、健康や知識が満たされたならば、真に満足するかといえば、そのようなもので、満足できないのであります。しかし、人は、もっとも身近い問題として、健康を求め、健康をよろこぶのでありますが、この人といえども、求め・歩んでいることにおいては、善を求め修行する人と、なんら、かわるところがないのであります。その動機が何であっても、その目的とするところが、如何なるものであっても、求め・歩むという点においては、同じであります。如何なる人間であっても、求め・歩みつづけていることだけは、間違いのない事実であります。
 この点から考えますとき、今日の文化の問題、すなわち、宗教・教育・芸術・科学などは人間が、求め・歩んだ足跡であり、これらの宗教・教育などの問題を契機として、人間は、求め・歩むのであります。宗教・教育などばかりでなく、人間は、生活のあらゆる分野において、求めつうけるのであります。人類のはじめから、人間は求め・歩みつづけてきたのであります。すなわち、人類の歴史のはじめから、生活(文化)してきたのであります。

 今や、何が、人間をしてこのように歩ませたのであるかということを、考えるときがきたようであります。人間を、求め・歩ませたものは、実は、人間の内面にあるものであります、それは「意志」と名づけられるものであります。言葉をかえれば、「(がん)」でありましょう。この、意志といわれ、願といわれるものが、その人間の内面にひそんでいるのでありますが、その人は、その、意志といわれ、願といわれるもの正気づいているかどうか、自覚しているかどうかは、その人、そのときで相異がありましょうが、いずれにしても、意志の力によって、人間は、歩み・求めつづけるのであります。
 しかし、その意志(願)といわれるものは、衝動的に起きるということが、その本来のあり方であります。意志は、何かの刺戟によって衝動的に起きるものでありますから、受動的なものでもあります。人間が、ながい歴史をとおして、生活し、いきつづけてきた、その内面の意志のはたらきは、自己の経験などからうけた刺戟によって、衝動的に、歩みつづけてきたのであります。

 この人間の内面の意志、何かの刺戟などによって起こされた意志が歩みつづけてきた、その人類の歴史の事実に、こたえ呼びかけられているのが、第十九願の本願であります。
 宗教・教育・芸術などの文化活動における人間の意志のはたらきを、否定することなく、左右することなく、真理の側から呼びかけ、その意志を気ながく、真理の方向に転回しようとする、真理の意志へ仏の本願)が、第十九願であります。いま、真理という言葉を用いたのですが、いわば、法・道理であります。仏法であり、仏の道理であります。仏法が、まさに、生きている人間、自然のままに、意志のおもむくままに生きている人間の意志に、呼びかけたものが第十九願であります。このように、自然的人間に、直接呼びかけている第十九願は、自然的人間にとって宗教的世界にはいる唯一の門になるのであります。また、このような意味において、第十九願は宗教的世界における独自の意義をもつものといわねばなりません。『歎異鈔』第三章は、かかる意義をもつ第十九願を課題としているのであります。第三章の文にしたがって、順次、学んでいくこととします。

   逆説的表現か

 もとにもどって、第三章の第一節の文にはいって学ぶことにします。第三章のはじめには
  ①善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。……悪人往生(本願の立場)
  ②悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。………善人往生(自力の立場)
 この二つの考え方が、問題になっているのであります。そのうち、第二の考え方が、世のつねの考え方、すなわち、理知的考え方であり、廃悪修善の立場であります。善人往生の立場であり、聖道門・自力の立場であります。これを批判して、親鸞聖人は、この考えは一応は理にあっているが、しかし、本願他力の趣旨に反するといわれるのであります。
 ここで、本願他力の趣旨とは、序にありました「他力の宗旨」でありまして、直接には、『大無量寿経』の第十八願の正意であります。すでに、第一章で学んだのでありますが、第十八願の意は、「本願を信じ、念仏もうさば、仏になる」(第十二章)ということであり、この第十八願を、古来、「念仏往生の願」と名づけるのであります。すなわち、「念仏すれば往生する」とちかわれているのが、第十八願であります。すなわち、第二の善人往生の立場は、この第十八願「念仏往生の願」の趣旨に反することになると、本願にたって批判を加えられているのであります。すなわち、第十八願には「念仏すれば往生する」とちかわれているのであって、善を行ずれば救われるとちかわれていないからであり、第一の悪人往生の立場こそ、本願の道理にかなうと述べられているのであります。それを
  ①悪人往生……念仏往生………本願の機(第十八願)
  ②善人往生……諸行往生………非本願の機(第十九願)
と、了祥師は説きわけておられます。
 この第三章の、第一節の文を、逆説的表現であるといわれているようでありますが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という考え方は、常識的立場、理知的な考えからは、逆説とうけとられるかもわかりませんが、本願の宗教からは、判然としているのであります。第十八願の意から考えれば、至極・当然なことであり、理にかなっているのであります。しかし、この点も、『歎異鈔』に生涯をかけられた了祥師をまってはじめて、あきらかにされたことであると思われます。その了祥師によれば、法然上人門下の西山派が、鎌倉幕府の帰依をうけ、諸行往生(念仏以外の、あらゆる行を修して往生せんとする立場)を説いたのが、善人往生の根本になったといわれています。
 法然上人は、「ただ念仏」と、諸行を廃して、念仏一行(いちぎょう)をたてられたのでありますが、その門下は、法然上人の真意がくめず、鎮西派は、念仏も諸行も救われることができるといって、二類(念仏と諸行の二類)往生の義を説いたのであります。明恵(みょうえ)上人などの聖道門からの批判に妥協したというべきでありましょう。もうひとりの西山(せいざん)上人の西山派は、念仏往生の一類(いちるい)往生を説いているのですが、その実は、複雑な教学をたて、諸行往生をつつむのであります。ただ、念仏往生を強調して、諸行を徹底的に廃するのは、親鸞聖人と、聖覚・隆寛・信空の三師のみであります。
 ここで考えねばならないことは、念仏以外のあらゆる実践を、いま、諸行といい、これを、善導大師は「難行(註11)」と名づけられておられます。しかし、あらゆる実践、すなわち諸行を、無意味にけなし、不純な実践であり無駄ごとだといわれているのではありません。ただ、念仏以外のあらゆる実践をもって、浄土往生の行とするとき、問題を生むことになります。すなわち証の世界・純粋清浄の世界・本願の世界に生まれるための実践として行ずるとき、念仏以外の行を雑行、すなわち、不純なる行と名づけて批判されるのであります。浄土の行としないときは、念仏以外の実践は、それぞれの意味をもつのであります。つまり、古来からの言葉をもちいますと、「能修(のうしゅう)の機の意志の趣向」するところにより、雑行といわれることになって、批判の対象になるのであります。いいかえますと、「実践する人の意志の方向」が問題の中心になることになります。念仏以外の実践(これを諸善万行(まんぎょう)といいます)をもって、本願の世界に行くためのものとするか、しないかという実践する者の意志が問題になるわけであります。

 第十八願には、「念仏申すものを、浄土にむかえる」とちかわれているのでありますから、念仏をもって、浄土の行とするとき、その念仏は、第十八願の本願の行となり、修する人は本願の機となるわけであります。それに対して、念仏以外の諸行は、第十八願にちかわれていないから、非本願の行であり、それをもって浄土に生まれようとするとき、それは雑行と名づけられ、それを行ずる人は非本願の機となるのであります。そこで問題の中心となることは、諸行すなわち雑行をもって、「浄土に生まれようとする」という、その実践する人の意志が問題になることになります。実践の問題が一転して、意志の問題になるわけであります。問題が、一つ深められることになります。
 ここから、第二節の文に展開していくことになるのであります。


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