『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第五節 人 間 の 尊 厳

   愚身の信心
 

せんずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々。


 第二章の結びの一節でありますが、本願の歴史を讃嘆された聖人は、ここにきたって、「愚身の信心云々」と、表白を述べられているのであります。第二章に「身」という字が三ヶ所あります。「仏になるべかりける身」、「いづれの行もおよびがたき身」と、この一節の「愚身」と、三ヶ所にあります。が、そのほかに、第二章には「たとい法然上人に」という言葉や、「親鸞におきては」と、実名をだされていますが、やはり「身」の問題であります。第二章だけの問題でなく、『歎異鈔』を一貫しているのは、この「身」の問題であります。
 「身」とは、宿業の身、わが身であります。『観無量寿経』は「機の真実をあかす」といわれていますが、その「機」のことであって、善導大師の二種深信(註39)の文の「自身は、現に是れ、罪悪生死の凡夫」とある「自身」のことであります。いわば、「身」の教学が、『観無量寿経』の伝承であります。すなわち、教理や、法(法則)の問題でなく、実存的主体の問題であることが、『観無量寿経』および『歎異鈔』の伝承であることを、第二章の結びの文にきたって、あらためて思うのであります。

 さて、「愚身の信心」これほど大きく、確かなものはありません。法然上人のおおせとして、親鸞聖人の心にのこった言葉の一つとして、「愚者になりて往生す」(全書・二・六六五)という言葉を、『末燈鈔』に書きつけておられますが、これが、親鸞聖人の言葉となって、「愚身の信心」といわれているのであります。
 賢者の立場にたったり、自力や、人間の理知をよりどころとしているときには、見いだすことができなかったものであります。「愚身の信心」という言葉には、深い静かな感動があります。理知が破られ、自力無効と知らされたとき、いいかえれば、愚者の自覚にたったとき、自己自身の内面に感動の世界がひらかれるのであります。本願の歴史上の諸仏(釈尊・善導・法然)と感動をともにする、仏々相念の世界がひらかれるのであります。「愚身の信心」には、そのような世界をもっているのであります。大きな世界をつつんだ自覚であります。
 また、この信心・自覚こそ、確実なものであります。賢者の立場、理知をよりどころとしている立場の人、この人を、自信のある人と一般的にいっていますが、しかしこの人は、一応、自信がある人のごとく見えますが、それは、砂上の楼閣のごとき自信でありましょう。不安を内にもった自信というべきものであるにちがいありません。それに反して、愚者の自覚にたつ「愚身の信心」こそ、深い強いものを内にもった信心であります。「即ち是れ、堅固(けんご)深信(じんしん)なり……即ち是れ、金剛心(こんごうしん)なり」(全書・二・七二「信巻」)といわれるところの自覚であります。これこそ、からのうえにひらかれたであり、真に、からの内に、深く自覚()することのできる自覚()であります。疑うことのできない、わが身のうえの事実であります。しかも、からのうえにひらかれたでありますが、そのまま、たまわった信であります。本願の歴史よりたまわった、わが身(愚身)のうえの事実であります。これこそ、尊く、厳かな事実であります。かかる「愚身の信心」ほど、確かであり、尊厳なものはないのであります。

 神という絶対者をたて、絶対者に尊厳なるものを見いだしていった、西洋の宗教に対して、東洋の宗教は、人間そのもののうちに、尊厳なるものを見いだそうとしたのであります。
 このような東洋の宗教を代表するのが、聖道門仏教でありますが、人間そのもののうちに、尊厳性を見いだしていった歴史が、聖道門仏教のあゆみであったといえましょう。大乗仏教の伝承であります。しかし、末法の自覚にたつ浄土教の伝承のうちにある人々は、聖道門仏教の教説を、そのままうけとることができなかったのであります。
 この意味において、道綽・善導二師の教学(註40)は、末法の自覚にたって、しかも、人間そのものに尊厳性を見いだしていかれた記念塔であります。すでに学んだ(第一章・第三節)のでありますが、『観無量寿経』の像観の経文を解釈するにあたって、善導大師は、聖道門の立場をきびしく批判しておられます(註41)。自己の内に、尊厳性を、純粋性を見ようとする聖道門を批判することをとおして、人間そのものに、仏・尊厳なるものはないが、仏を想念する心は、仏であり、尊厳そのものであると説かれています。大乗の精神を、理として伝承してきた聖道門を批判することによって、善導大師は大乗仏教の精神を、仏を相念する末法の凡夫のうえに、事実として見いだされたのであります。大乗仏教の、ながい歴史が願いとしてきたものを、事実として見いだされたのであります。この善導大師をうけられて、親鸞聖人は、「信心仏性」と説かれ、如来よりたまわったところの「愚身の信心」こそ、まことに尊厳なるものであると説かれているのであります。
 かくて、聖道門に代表されてきた大乗仏教の歴史は、浄土門、すなわち、本願念仏の宗教によって、わが実存のうえに、動かざる尊厳なるものを見いだしたのであります。本願の宗教こそ、大乗仏教が求めつづけてきた、いいかえれば、人類の歴史が求めてきた、人間の尊厳の問題を判然と説きあかしたのであります。
 

 せんずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし

と、親鸞聖人は述べられていますが、「かくのごとし」の一語に、自信のほどを示されているのであります。自信をもって、自己のうえにたまわった「愚身の信心」を、「かくのごとし」と再確認しておられるのであります。
 親鸞聖人が、自信をもって確認しておられるところの「愚身の信心」を、もう一度ふりかえって考えてみますと、純粋客観にたって、本願の歴史を讃嘆されるところにひらかれた信(自覚)であります。しかも、それは、愚身といわれている実存の身におきた自覚的事実であります。さらに、その自覚は、金剛心と譬喩されるように尊厳なるものであります。堅固深信といわれるごとき、確かなものであります。
 個人的体験を超えて、なにごとも、本願の歴史にさしまかせ、本願の歴史にかえし、本願の歴史を讃嘆するのみであった、親鸞聖人の「愚身の信心」であります。その「愚身の信心」を、また、「かくのごとし」と、再確認することのできる、大きな自信が、親鸞聖人にあたえられるのであります。本願の歴史を讃嘆する自己の自覚を、さらに、讃嘆する。個人の経験をとやかく問題とせず、純粋客観の立場にたって、本願の歴史を讃嘆するとき、その讃嘆することをも、また、純粋客観の立場から、讃嘆することができるのであります。そこには、理知的世界からは考えることのできない、深い静かな、自信があたえられるのであります。このような構造をもっているのが、「愚身の信心」であります。第十七願と呼応した第十八願であります。
 これこそ、純粋客観にたった、真の主体の確立であります。

   主体的選び
 

このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々。

 これは、第二章の最後のお言葉ですが、このお言葉から、たまたま、『正信偈』(全書・二・四四)の 

 応信如来如実言  (まさ)に如来如実の言を信ずべし
 能発一念喜愛心  ()く一念喜愛の心を(おこ)せば

と、あるお言葉を思いおこすのであります。この、応信と能発ということが大切であります。本願の歴史は、釈尊・善導・法然をとおして、親鸞聖人まで、あゆみとどいたのであります。そうして、親鸞聖人は、身をもって愚身の信心は「かくの如し」と本願の宗教をすすめられています。『正信偈』の「応信」であります。「応に信ずべし」と、身をもってすすめられているのであります。
 その「応信」をうけて、「能発」であります。すなわち、「信ずべし」のお言葉をうけて、「能く発す」かどうかが問題になります。信ずるか信じないか。一念の信を、能く発すか発さぬかは、聞く人の自由にまかされているのであります。選びとる自由は、聞く人にまかされています。それまで押しつけないのであります。それまで押しつければ、天下りの信仰になってしまいます。とるかとらぬかは、自由にまかされているのであります。それですから、みずから、「よくこそ、信を得ることができたものである」という、獲信(ぎゃくしん)のよろこびが得られるのであります。もし、天下りの信仰というものがあったなら、その信仰は、狂信のよろこびをあたえないでありましょう。馬を、池の岸までひきつれていくことができますが、水を飲むか飲まぬかは、馬の自由であります。どこまでも信心の問題は、いいかえれば、宗教心そのものは、純粋意欲でありますから、聞いた人が能発するものであります。主体的に選ぶべきものであります。主体的に選びとったとき、獲信の充実感がわくのであります。

 さらに、「面々の御はからいなり」とは、親鸞聖人が、聞く人、つまり、わたしたちを敬うておられるお言葉であります。貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)の煩悩(註42)にまけず、その煩悩のうちから、能く、純粋意欲・願生心をおこすであろうにちがいないと、尊敬しておられるのであります。尊敬の念をもって、すすめ、求める者の意志の自由にまかしておられるお言葉であります。
 しかし、わたしたちの意志の自由にまかすという意味の、ここの言葉は、最後のところへきて、つき離されたという感じをあたえられる言葉と、一応は、うけとられるのでありますが、しかし、よく考えれば、わたしたちの意志を認め、わたしたちの主体的選びにまかされた言葉であります。ここに、本願の宗教の健康性があるのであります。押しつけないのであります。相手の意志を認め、尊敬されているのであります。
 ここにいたって、わたしたちの方に、新しい課題が投げかけられたことになります。新しい勇気をもって、純粋意欲を能く発すことが、課題として、わたしたちにあたえられることになります。
 しかし、「面々の御はからいなり」という、聖人の仰せをうけて、「念仏申さんとおもいたつ心」をおこしたとき、すなわち、みずから選び、能く発し、主体的自覚をもって求め得たことと、不思議に選ぶことができ、発すことができ、求めることができたものであるという自覚があります。これを、獲信のよろこびといいます。宗教心をおこした者にあたえられる充実感であります。さらに、この求道も、この自覚も、この充実感も、本願の歴史からあたえられたものであり、本願の歴史が、わたしのうえに展開したものであるという、さらに、深い自覚があたえられるのであります。

 第二章は、「法の深信を明かす」章(註43)といわれていますが、まさしく、本願の歴史を、身をもって讃嘆されている章であります。また、まさしく、仏の本願という純粋客観の世界をあかされている章であります。
 本願の歴史を讃嘆するとき、本願の歴史上の過去の仏(たとえば善導大師)と、現在の仏、すなわち、親鸞聖人の内面にひらかれた仏(信心)とが相念じあうところの、仏々相念の世界がひらかれるのであります。その世界を、本願の世界といわれるのでありますが、この世界こそ、わたしの中にひらかれた純粋感情の世界であり、また、わたしを超えた純粋客観の世界であります。これが、たびたび申してきました第十七願にちかわれている本願の世界であります。『歎異鈔』の第二章は、「よきひと」・法然上人との出あいをとおして内観された、釈尊・善導・法然という本願の歴史によってたまわったところの本願の世界・相念の世界を述べ、讃嘆されているのであります。まさしく、歴史的世界の讃歌ともいうべきものであります。


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