『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第三節 師 に 遇 う

   法然との出あい

念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また、地獄におつべき(ごう)にてやはんべるらん。惣じてもて存知(ぞんち)せざるなり。たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりともさらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余(じよ)の行をはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりてという後悔もそうらわめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。


 「ただ念仏して、弥陀にたすげられまいらすべし」という法然上人のおおせは、本願の法を、みずからの言葉としておおせになったものと、親鸞聖人はうけとられたのであります。本願の法とは、念仏・南無阿弥陀仏であります。本願の呼びかけであります。本願は罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫に呼びかけられているのであります。親鸞聖人は、法然上人のおおせによって、かかる本願のこころを聞きとられたのであります。問題はただ信心・ただ本願のこころをうけ、わが身の事実を照らされ、自覚することであります。まさしくこの一節は、親鸞聖人におけるただ信心ということ、つまり、自覚ということを具体的に、あきらかにされている一節であります。
 すでに学びましたように、関東時代の親鸞聖人は、法然上人の教えをそのままうけて、念仏に信心を摂めて、往生之業(おうじょうしごう)念仏為本(ねんぶついほん)。すなわち、わたしたちが真に救われる道は、念仏であると説かれていました。
 それに対して、関東に下った日蓮上人は、念仏者無間地獄業といって、念仏は無間地獄へおちる業であると説かれたのであります。このような、法然上人と日蓮上人の教えの矛盾に迷って、「念仏以外に、何か法文があるのではないか」と、どちらかといえば、非難の思いさえもって上洛してきた、関東の門弟たちにむかって、「親鸞におきては」と、みずから名告って述べはじめられたのが、この一節であります。まさしく、親鸞聖人の表白であります。
 さて、このような、日蓮上人と法然上人との教えの矛盾、すなわち、念仏は、浄土往生の行か、無間地獄の行業かという問いに対する、聖人のお答えが
  
惣じてもて、存知せざるなり
であります。「すべて、わたしの、あづかり知らないところである」と答えられているのであります。常識的立場からいえば、答えにならぬ答えというべきものであります。「存知せざるなり」とは、わたしには知ることを必要としない、わたしには用事のないこと、わたしには問題でないこと、という意味を含んでいる言葉でありましょう。いいかえれば、もっともっと必要なこと、知らねばならないこと、問題とすべきことが、わたしにはあるというのであります。

 念仏は法、人間救済の法則であります。
 その法を、よき師・法然上人から親鸞聖人はいただかれたのであります。その法によって、法然上人が救われておられます事実を、親鸞聖人は、己れの眼で見、己れの身で感じとられたのであります。念仏の法によって、現に救われている人に、現に、出あわれたのであります。比叡の山をくだり、聖道門という旧仏教をすて、「愚痴の法然・十悪の法然」と、みずから名告り、大衆とともに念仏して、今、救われている人に、親鸞聖人は出あわれたのであります。その人、法然上人がよっておられるところの念仏の法を、とやかく、理知的に分別することよりも、もっと大切な問題があると、親鸞聖人は述べられているのであります。
 日蓮上人には、日蓮上人のよりどころとされている法がありましょうが、親鸞聖人には、よき師から賜った念仏の法があるのであります。親鸞聖人には、その法を比べ、批判し、分別する必要がないのであります。真実の法に出あえば、機が問題となるのであります。法然上人という、よき師に出あわれた親鸞聖人にとって、急ぎ問題にしなければならないことは、その法を、どのようにうけとるかという、自己自身の問題であります。ここにあたえられ、出あったものを、理知的にうけとるか、主体的にうけとるか、観念的に理解するか、身に実存的にうけとるかの分岐点があります。
 法を比べ、法を理知的に分別しようとすることは、いまだ、法に出あわないからであります。しかし、たとえ法に出あおうとしても、かかる理知的分別の立場からは、永遠に、法に出あうことはできません。それは、方法的に誤りをおかしていることになります。しかも、なお、法の象徴である、よき師に出あいながら、その法を理知的に分別しようとすることは、大きな矛盾であり、申訳ないと慚愧しなければならない、大きな過失をおかしていることになります。宗教の問題は――というよりも、生命の問題は、直観から直観へ、感動から感動へ伝わり、深められ、展開していくものでありまして、理知とか、分別のはいる余地はありません。理知・分別がはいれば生命は消えてつめたいものになってしまいます。
 親鸞聖人の、ここの「存知せざるなり」の一言は、このような理知・分別を拒絶した言葉であります。「わたしには、もっと大切な問題がある」と、主体的・実存的な新しい深まりをさぐりはじめようとされるお言葉であります。法に照らされて、自己の問題を掘りさげていく場にたたれたお言葉であります。それがそのままに、するどい日蓮上人の折伏(しゃくぶく)に対するもっとも強い答えになるわけであります。

   絶 対 的 信
  

たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候。

 これは、大変な惚れ方であり、絶対憑依(ひょうえ)の感情の吐露であります。これが信であり、帰命であり、帰依であり宗教心の表白であります。『大無量寿経』の第十八願の信心、そのものであります。
 親鸞聖人の妻、恵信尼(えしんに)公が、その娘、覚信尼におくられている書簡(全書・五・一〇四『恵信尼公文書』第六通)によると、敬愛する夫、親鸞が、その師、法然上人の教えをもとめて、百日のあいだ、降るにも照るにも、いかなる大事のなかでも、一すじに、人はいかに申せ、たとい悪道にひかれようとも、と歩みをはこびつづけられたことを、書きおくっておられますが、女性であり、妻である恵信尼公の、また、母から娘へ、夫のことをつたえる書簡の言葉をとおしてみるとき、親鸞聖人の「よきひと」に対する、信順の絶対的であり、純粋であったことを、身近に知らされるのであります。
 本願念仏が、いまここに、師法然上人となって、わが身一人に呼びかけたもうている、その師を得て、いまさら、なぜ、念仏について、法について詮索する必要があらましょうか。ただ、この師に絶対信順し、この師の求められるものを、求めていくのみであると、親鸞聖人は、いいきっておられるのであります。法然上人は、念仏は「往生の業」と説かれ、日蓮上人は「無間地獄の業」といわれていますが、親鸞聖人の立場は、念仏の法をとやかく問題にしないのであります。念仏の法を縁として、自己がめざめるかめざめないか、自己が求道にたつかたたないかを問題とされているのであります。法の問題を機の問題としてうけておられるのであります。
 しかも、はじめに「たとい」という、断り書きが付してあります。恵信尼公の書簡にも、そう書いてありますところから、親鸞聖人がまちがいなく、「たとい」と前置きをしておおせになっておられたと思います。このお言葉によって、法然上人に対する絶対信順の感情を、さらに深くしずめて、謙虚にいただいておられることが推察されるのであります。この「たとい」という三字によって、法然上人との出あいは狂信的なものでなく、健康的なものであったことが、表現されているとうかがわれるのであります。
 前の一節には、「よきひと」と、名がかくされてありましたが、ここでは、「法然上人」とその名がそのままだされているのであります。「この、法然上人にあうことがなかったら、わたしは、いまごろは……」という感動をしずめて、「たとい」といわれているのであります。この意味で、この「たとい」の三字は、親鸞聖人の宗教の健康性、純粋性をしめす、大切な文字といえましょう。

   必らず不可なり
 

そのゆえは、自余の行をはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。


 「とても、地獄は一定すみかぞかし」という一言は、まったく、おそろしい言葉ではないでしょうか。自己の可能性を、どこかに、もたねば生きられないわたしたちにとって、このひと言は衝撃的なものといえましょう。絶対自己否定の表白であります。宗教の世界にふれるには、絶対自己否定(註20)ということが必要であります。理知的・日常的人間の世界は、自己肯定の世界であります。このような人間世界を、まったく超えた世界が、宗教の世界であります。かかる、人間の世界から宗教の世界にはいるには、絶対否定をくぐらねばなりません。しかしながら其の絶対自己否定ということは、日常的、理知的人間の世界では、まったく不可能でありましょう。「必らず不可なり」であります。親鸞聖人は、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし」と自己のうえに、一点の可能性も、期待もみとめられなかったのです。この地獄一定という絶対自己否定は、親鸞聖人が、本願念仏の象徴であるところの法然上人に、おあいになりましたとき体得されたのであります。第十七願の仏にあわれましたとき、第十八願の信・地獄一定の自覚をひらかれたのであります。

 さて、この第十七願と第十八願の関係でありますが

 ┌ 第十七願 …… 念仏 …… 行 …… 法 …… 仏 ……… 師 ……… 呼
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 └ 第十八願 …… 信心 …… 信 …… 機 …… 凡夫 …… 弟子 …… 応

この二願は、いずれの場合でも、離れないのであります。『大無量寿経』の場合でも、『教行信証』の場合でも、離れてはおりません(註21)。すなわち、念仏のないところには信心はなく、信心のないところには、念仏はないということであります。いいかえれば、師にあわないで、弟子の自覚はなく、弟子の自覚のないときには、師にあったとはいえないのであります。
  弥陀仏の本願念仏は
  邪見憍慢の悪衆生
  信楽受持すること甚だ以って難し
  難の中の難、斯れに過ぎたるはなし(全書・二・四四)
この『正信偈』の四句の文は、難信の理を述べて、獲信の情を表白されているのであります。すなわち、悪衆生のわたしが、本願念仏の法(教法)にあうことは、まったく、不可能であり、あり得べからざることであります。道理にあわないことであります。しかし、理にあわない事実が、この悪衆生のわが身の上に、事実としてなりたっているのであります、という表白の文が、この『正信偈』の四句であります。
 『歎異鈔』の「とても地獄は一定すみかぞかし」の言葉も、『正信偈』のこの四句の表白と、ひとしいものであります。「地獄一定」のわが身が、法然上人という「よきひと」にあうことができた、あうことができたいま今さらのように、あい得る可能性のなかった身、「地獄一定」の身であったことを知らされるのであるという、表白の言葉であります。つまり、懺悔の言葉であり、歓喜の表白がこの第二章の言葉であります。さきに述べましたところの、第十七願と第十八願の関係、循環関係を、聖人のなまの言葉をもって述べておられるのであります。

 第十七願と第十八願の関係は、円環関係であります。相互にかみあっていく関係であります。師と弟子とは、相互に照らしあい、照らされていく。念仏と信心とは呼ばれ、応える関係であります。互いに呼びあう、互いに応えあう関係であります。その関係が、無限に永遠に連続していくのであります。それを憶念(おくねん)というのであります。そのような、永遠の円環関係、すなわち、呼応関係の世界を、南無阿弥陀仏の世界というのであります。このような世界に出おうて、はじめて、「とても地獄は一定すみかぞかし」という、徹底した懺悔が生まれるのであります。いま、懺悔という言葉を用いたのですが、あり得べからざることに、あうことができた。まったく、無資格のものが、いまこの事実に出おうているのであるという、深い感動をもった懺悔であります。しかも、この懺悔!これが、第十八願にとかれている信心の体験でありますが――、このように深い懺悔は、明るいものであります。真の宗教の懺悔は、まったく明るいカラッとしているのであります。くらい懺悔、ジメツイた懺悔は、個人的主観がはいっているので、単なるセンチメンタルで、真の宗教的懺悔ではありません。「とても、地獄は一定すみかぞかし」というような、徹底した懺悔を、古来から「白昼の懺悔(註22)」というております。仏教の懺悔とは、このようなものであります。
 このような懺悔が、世間と仏法、日常的世界と純粋な世界、理知的世界と真の宗教的世界、この二つの世界を裁断します。善導大師は、世間と仏法、人間のあらゆる実践(諸行)と、宗教的実践との分岐点は、慚愧(ざんき)・懺悔の心があるかないか(註23)――その一点にあると、おさえられています。
 今日、平和を願い、人類のための、純粋な心からと思われる行動、実践が求められ、実動されていますが、それが真に、純粋なる実践か否かは、ひとえに「懺悔の心」、絶対自己否定があるかないかに、かかわることであります。今日の平和運動、学生達動などに悲愴感がともなっているのは、底に自己関心があるからであります。「わたし」がはいっているからであります。そのような実践を批判して、善導大師は「雑行(ぞうぎょう)雑修(ざっしゅう)」と名づけておられます。不純粋な実践、不純なる実践意識であると批判しておられます。そのような、不純なる実践や実践意識では、新しい人間像も、新しい歴史も、新しい世界も生みだせないことを、わたしたちは心に銘記しなければなりません。

   宗教的反逆――第二十願の問題――

 いま、第十七願・第十八願の関係において、第二章の第三節の文を学んでまいりましたが、少し角度をかえて第九章をとおして、考えてみたいと思います。
 さきに、親鸞聖人の法然上人に対する態度は、絶対帰依の感情であるといいました。「法然上人にすかされまいらせて……地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」という聖人の宗教経験の純粋さは、いわば、美しいものでありましょう。これほどの美はないといってもいいでありましょう。しかし、ここに、もっとも危険なものがひそんでいるのであります。といいますのは、その経験に酔う、とどまる。その経験を「わたくし」する、つかむ、執着するという問題が、新しく生まれるのであります。このような問題は、宗教経験をくぐったものに新しく生まれる問題でありまして、宗教経験をもたないものには生まれないものであります。この問題を問題とするのが、本願の中の第二十願(註24)であります。純粋な経験、すなわち本願念仏を経験し、体得する。法然上人に信順する。そのような経験をくぐって、その経験に執着するという問題、これを「法執(ほうしゅう)」(註25)、言葉をかえれば「体験執」といいます。第二十願は、この法執(体験執)を問題にしているのですが、『歎異鈔』第九章は、まさしくこの問題を、唯円房が親鸞聖人にたずねているのであります。ここでは、第九章の本文について述べることはひかえまして、第九章に、唯円房が提起しているところの、法執の問題をとおして、「とても、地獄は一定すみかぞかし」という絶対自己否定の意味を考えてみたいのであります。
 仏教は、執着をやぶること、それを真に破るのは、智慧のはたらき、仏智であると説くのでありますが、その執着を二つにわけて考えます。これは大乗仏教の、人間凝視のたしかさが生んだものでありましょう。

 ┌我執……日常的執着……小乗仏教でやぶる
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 └法執……宗教的執着……小乗仏教では問題にならないで大乗仏教の課題となる

いや、小乗仏教によって我執を破る、すなわち、自我的・理知的関心をやぶって、一つの世界をひらいたのであります。しかし、そこになお残るもの(法執・体験執)がみつかり、仏教の新しい課題となり、その課題が新仏教すなわち、大乗仏教を生んだのであります。その大乗仏教の使命を、原理的に、かつ、主体的に答えているのが『大無量寿経』の第二十願であり、その原理を、まさしく、身をもってあきらかにしたのが、親鸞教学の使命であります。

 法執――と申しますのは、「念仏申しそうらえども」と、唯円房が『歎異鈔』第九章に告白している問題であります。宗教経験を得たという思いに執着する、すなわち、経験に執着する心であります。これを、本願の宗教では「罪」(註26)といい、また、仏智疑惑(ぶっちぎわく)の罪というのであります。
 たとえば、極端な例でありますが、殺人罪を犯すとします。殺人ということは、日常的世界では、その理由が如何ようであれ、重い罪でありましょう。しかし、本願の宗教では 

善き心のおこるも宿業(しゅくごう)の催す故なり、悪事の思われ()らるるも悪業の計うゆえなり。
故聖人の仰せには、()の毛・羊の毛の(さき)にいる塵ばかりも造る罪の宿業にあらずということなしと知るべしと候いき。(「歎異鈔」第十三章)

と、説かれていて、どのような小さなことでも、また、大きなことでも、宿業――宿世(しゅくせ)の業、つまり、理知の解釈をこえた業――であると説かれるのであります。いいかえれば、兎の毛や羊の毛のさきについた塵ほどのことも、無数の条件(因縁・御縁)によってそうなったのであって、その人の罪の問題ではないと説くのであります。つまり、たとえ殺人ということでも、本願の宗教では罪としないのであります。宗教的罪と世間的罪とは異なるのであります。
 この法執こそ、本願の宗教において罪というのであります。宗教的罪悪・深い人間性の上の罪といいますと、この法執のことであります。これは、大乗仏教があきらかにした、人間における根源的罪悪であります。人間はいろいろの罪を犯しますが、この法執こそ、もっとも深い罪であります。この自覚――法執にとどまっているという自覚にふれませんと、求道者としての人間(人間は求道者的存在であり、求め・歩まねばおれない存在であります)は、真理にむかう統一力をうしない、真の意味の倫理性をうしなうのであります。この自覚を、常にもっているかいないかによって求道生活・精神生活に、深い倫理性が生まれるか生まれないかということになります。
 法執にとどまっているという自覚を、常にもつところに、常に、その求道心は新しくよみがえり、新しい充実感をもつことになります。そのとき、法執を超えることができるのであります。
 「念仏申さんとおもいたつ心」、すなわち、純粋意欲は、つねに反復されるところに、日々に新しい生活がひらかれるのでありますが、法執にとどまるとき、その意欲をうしないます。宗教の神秘性におちこんで、新しく教えを聞く耳をうしない、社会性をうしなうのであります。ある意味の狂信者になるのであります。傲慢(ごうまん)高挙(たかあが)りの姿勢を生み、いつのまにか、宗教的純粋性をうしなうことになります。宗教的純粋性をうしないながら、その純粋性をうしなっているという自覚がありませんから、己れは、純粋であるという思いあがりをもち、他の不純性を攻撃することになります。実は、自己の内に、無自覚の形でひそんでいる不純性を、他の人の上にみるものですから、攻撃的となるのであって、いよいよ、純粋な宗教性をうしなっていくことになるのであります。このような姿は、宗教生活にかぎらず、人間生活のあらゆる面にでているのであります。法執、すなわち、体験執をもつものの心理のあらわれであります。この問題が、今日の宗教であれ、政治であれ、芸術であれ、集団であれ、個人であれ、真剣に考え、純粋に行動している人々のもつ、悪魔性でありましょう。この法執・体験執の問題は、単に宗教経験の上の問題であるばかりでありません。今日では、この問題があらゆる分野における重大な問題であり、人類の歴史における最大の危険な問題であり、この問題の克服こそ、現代の人類的課題であります。まさしく、『歎異鈔』第二章は、この課題にこたえているのであります。
 自己自身がこのような問題を、かかえていた存在であったことの自覚の言葉が、「とても、地獄は一定すみかぞかし」という告白であります。第二十願の機の自覚の言葉であります。『歎異鈔』の第二章の文面には、直接にあらわれておりませんが、第九章をとおしてみるとき、この「地獄一定」の告白が、第二十願の機の自覚の告白と、うけとられるのであります。親鸞聖人の宗教が教学的課題として、あきらかにしているところの、重い、深い自覚の言葉であります。
 第二十願というのは、第十七願とともに、親鸞教学を、独自の教学とする意義をもつものであります。「本願の嘉号(かごう)をもって、己が善根とする」(註27)と、述べられていますように、本願念仏に、「わたくし」を入れる。他力の宗教に、自力心を加える。純粋な宗教的世界を、人間的関心の世界に引きおろすという問題を、阿弥陀仏の本願のうち、第二十願にとりあげているのであります。つまり、さきに学びましたところの法執の問題が、まさしく第二十願の問題であります。この第二十願の心境を、「大慶喜心を得ず」(註28)と、親鸞聖人は説かれていますが、宗教的世界に一度はふれたのでありますが、その体験にとどまる、経験をもったという高挙りをする、すなわち、その宗教経験を「わたくし」するのでありますから、大慶喜心を得ないのであります。喜びがないのではないが、大きな、純粋な慶喜ではないのです。純粋な宗教的世界にはいることができないのであります。唯円が第九章に告白しているように、「念仏申しそうらえども」という、「ども」という言葉がつく心境であります。純粋な宗教心ではないのであります。

 この問題を克服するにはどうしたらよいのか、その課題を親鸞聖人は、『教行信証』「化巻」に「彼の仏恩を念報する」(註29)か、しないかにかかわっていると説かれています。第二十願の法執を自覚し、その罪を克服するか、いなかは、「彼の仏恩」を感ずるか、いなかにかかっていると説かれているのであります。
 「彼の仏恩」を感ずるとは、第十七願に説かれているところの、仏の呼びかけの歴史・本願の歴史を感ずるということであります。
 第十七願は、すでに学んだところでありますが、迷いの衆生のために呼びかけ、願いかけられる諸仏のはたらきをちかわれている願であります。いいかえれば、諸仏が身をもって願いかけてくださる、本願の歴史をちかわれている本願であります。この第十七願にちかわれている、本願の歴史(註30)を感ずるとき、法執、すなわち、第二十願の問題を超えることができるのであります。
 いま、第十七願・第二十願の問題を学んでいるのでありますが、これは、宗教問題として特別なことがら、特殊な問題ではないのでありまして、深い人間性の問題であります。真の人間の問題であります。そこで今すこし考えてみますと、人間は、ただ一人孤独者としてあるのでなく、人類の歴史から生み出され、歴史を背負うているところの、歴史的存在であります。たとえば、一つの経験も、歴史的条件がそろってはじめて、わたしの経験となるのであります。しかるに、歴史的存在であることを忘れ、歴史をかえりみなくなりますと、自己の経験を個人的経験と考え、執着し、独断におちいることになります。歴史的存在であることに気づくとき、一つの経験を個人的経験としている思い、体験執(法執)を超えるのであります。また、体験執を自覚するとき、歴史的感情によみがえるのであります。このように、人間の経験の問題について、個人と歴史の関係をあきらかにしているのが、第十七願・第二十願の問題であります。

 いま、『歎異鈔』第九章の問題・法執(体験執)の問題、すなわち、本願の文によれば第二十願の問題から、第二章を照らし学んでいるのでありますが、その第二章・第三節を結ぶお言葉が、「とても地獄は一定すみかぞかし」の表白でありました。この親鸞聖人の表白は、単なる自己否定の言葉でなく
  あい得ないものが、あい得た。
  得るはずでないものを、得ることができた。
  資格なくしてたまわった。
という、懺悔と歓喜の言葉、悲喜交流の感情の表現であることを学んできたのであります。
 このように、「資格なくして、たまわった」のは、ひとえに、第十七願に説かれている、本願の歴史・仏の本願力、すなわち、他力によるものであると、みずからが得たところの経験をたまわったものであると、本願の歴史へかえしていくとき、法執の問題を超えるのであります。「彼の仏恩を念報する」とは、本願の歴史へかえすということであります。まさしく、その本願の歴史をあかされるのが、次の第二章・第四節であります。
 「地獄一定」という、親鸞聖人の表白は本願の歴史を新しく見いだす、重要なる転機になる言葉であります。本願の歴史を感ずるという、歴史感情をもたないときは、人間は、法執(体験執)におちいり、自己自身を悪魔の淵においやることになります。古人の言葉に、「御苦労のかかった、この身」という言葉がありますが、素朴な、この言葉にふかい、すぐれた歴史感情がうかがわれ、健康な人間性を感ずるのであります。

 いままで、第十七願・第十八願の関係、および、第十七願と第二十願の関係を学んだのでありますが、この三つの願の問題が、親鸞教学の大きな問題点であります。また、くりかえし、ふれることでありましょう。では、第十七願、すなわち、本願の歴史を述べられている、第四節にうつることにします。


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