『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第二節 根源にかえる

   宗教経験を超えて

しかるに、念仏よりほかに、往生のみちをも存知し、また、法文(ほうもん)等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都・北嶺(ほくれい)にも、ゆゆしき学生(がくしょう)たち、おおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要、よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをこうむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。

 いうまでもなく第一章は、『歎異鈔』の総説でありますが、この第二章も、第一章とちがった意味で、『歎異鈔』の総説として、真宗の大綱を述べられているのであります。ここで、具体的に第二章を『歎異鈔』全体に照らして考えてみますと、次の三つの問題にこたえていると考えられます。
 まず、第六章の「親鸞は弟子一人ももたず」という立場と照らし合せ、教団の問題として読んでみますと、別序・後序の文章と密接な関係がうかがわれるのであります。すなわち、別序は、親鸞聖人の孫弟子ともいうべき人々の異端をなげかれているのであります。また、後序には、第一に、法然門下と親鸞聖人と、また法然上人との対談を述べ、第二には、「一室の行者」と呼ばれているところの、親鸞聖人の教えをうけている人々の異義をなげかれているのであります。この別序、後序の問題は、師と弟子の問題、いいかえれば教団の問題であります。このような別序と後序と、第二章と対照してみるとき、第二章の親鸞聖人のお言葉は、教団にこたえられているものであります。ことに、第二章の後半は、教団の原理を説きあかされているものというべきであります。また次に、別序をとおして、第二章をみますとき、第十一章から第十八章までの異義をうけて、それにこたえるものとしてうけとることもできます。さらに、もう一つは、第九章の「念仏もうしそうらえども」と、唯円房が告白しているところから、ひるがえって第二章を読むとき、法執(ほうしゅう)註7)、すなわち、体験執を超える教えとして、大きな意義を示すことになり、この第二章は、これらの点から、『歎異鈔』全体を引きうけているものと考えられます。

 さて、第二節の文にはいって学んでまいりましょう。
 当時、関東においては、各門弟がそれぞれ、聖人の仰せであるという「証文」をかざして勢力を争い、邪義がはびこり、そのうえ幕府の念仏停止の弾圧も加ったりして、まったく動揺の最中でありました。そこへ善鸞が関東に下り(註8)、「わが聞きたる法文こそ、まことにてはあれ、日頃の念仏は、みないたづらごとなり」(全書・二・七〇五・御消息集第六通)とか、また、「慈信一人に、夜、親鸞がおしえたるなり」(全書・二・七二五・拾遺真蹟御消息)などと、多くの人々にいいふらしたのでありますから、たださえ、動揺のうちにあったこれらの多くの人々は、この善鸞の言葉に、ますます、混乱の拍車をかけることになりました。その結果、代表者をたてて、十余ヶ国をこえて、はるばる、京都にのぼってきたのであります。その人々へ、聖人は「念仏以外に往生の道はありません。そのほかに法文などがあるならば、奈良や比叡山へおいでになればいいでしょう」と答えられています。
 ここで、「念仏」以外に「法文」・「証文」(註9)を求めるということについて考えたいのであります。これらの、各門弟がかざす「証文」とか、また、善鸞の「夜中の法門」ともいうべき「法門」というものが、ここで、大きな問題として考えられるわけであります。『歎異鈔』におきましても、第十章までの師訓は、親鸞聖人のお言葉が「証文」となり、よりどころとされているわけであります。
 人間は、たとえ、その宗教経験がすぐれたものであっても、個人的経験だけでは、落ち着けないものを感ずるのであります。「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」(『歎異鈔』第十二章)という、簡明な教えが本願の宗教でありますのに、「念仏申す」という宗教経験だけでは、何か満足できないものがあるのであります。真の落ち着き、真の救いがほしいのであります。そのために、客観的証明としての教法、すなわち、「法文」・「証文」を求めるのであります。
 古い言葉で、安心(あんじん)と教相ということがあります。安心とは、信心・宗教的自覚ということであり、教相とは、教え・教学といっていいでありましょう。この二つは相関連するのであって、教えによって信心はひらかれ、また、信心は教えによって深められるのであります。教えのない信心は、法執におちいって独断的となり、信心のない教えは、単に理知的理論になってしまって、宗教性をうしなうのであります。この二つの関係を考えますとき、関東の人々が、はるばる上京してきた心情が祭せられるのであります。宗教にとって、法文といい、教え・教学の問題は重要なことがらであって、知っても知らなくともよいというものではありません。このような問題をもって、関東の人々は親鸞聖人をたずねて来られたのであります。

 そのころ、法然門下で勢力をもっていた浄土宗の西山派(註10)は、天台教学をもって、念仏の信心の証明としていたのです。法然上人の宗教は、どちらかといえば、直観的宗教でありますから、他の聖道門仏教から批難をうけ、法然門下は混乱することになります。そうして、多くの弟子たちは、聖道門の教学に接近したのでありますが、その一人の西山派の証空(しょうくう)上人も、聖道門からの批難にこたえようとして、「ただ念仏」の教えに、天台教学をもって肉づけしたのであります。いわば、天台教学を念仏の法文としたのであります。ところが、この『歎異鈔』第二章の第一節には、念仏以外に、法文を求めるならば、奈良や比叡山へいけと、関東の人々に答えられています。念仏の教えには、聖道門の教学(法文)の裏づけは必要としないのであって、若し、それが必要ならば奈良や比叡山の聖道門をたずねよと、おおせになっているのです。
 考えてみますに、日本の仏教は、鎌倉時代を一つの境として、大きな質的なちがいが生みだされました。鎌倉以前の仏教は、いわゆる奈良・平安時代の仏教で、学問・学芸としての仏教、すなわち、解学(げがく)としての仏教であったといえましょう。それに対して、鎌倉時代にはじまる仏教、すなわち、鎌倉仏教といわれる法然・親鸞(浄土宗・真宗)、日蓮(日蓮宗)、栄西・道元(禅宗)などの仏教は、実存的な課題をもって、主体的自覚を求めた実践仏教、行学であります。この行学としての仏教が、日本仏教の特徴でありまして、鎌倉時代にはじまる日本仏教は、純粋に、主体的自覚を求める宗教として、宗教の本来の面目をひらき、そうして、それを果したのであります。
 しかるに、鎌倉仏教の法然門下でありながら、西山派は、平安仏教の天台教学に証明を求めたのであります。この西山派が、念仏以外に、法文を求めた、その求め方に大きな矛盾があるわけになります。西山派の人々の存じている念仏は、鎌倉仏教の一つの主流で、行学(ぎょうがく)でありますから、西山派が天台教学(解学)をもって、西山教学を形つくろうとしたところに、混乱があります。また、念仏の宗教・本願の宗教の客観的証明として、たとえ鎌倉仏教であっても、禅や日蓮の聖道門の教学を用うることはできません。
 ここに、さきにふれました、安心と教相(註11)、いいかえれば、宗教心と教学、直観と反省の関係は、宗教の問題においては重要な問題であることを知らされるのであります。その関係が純粋に結ばれない限り、宗教は、純粋に展開していかないのであります。
 関東の人々は、西山派の教学に刺戟されたのかもわかりませんが、親鸞聖人からうけ教えられたのは、念仏一行(いちぎょう)、ただ念仏でありました。それでは、直観的宗教にとどまるようであり、神秘的経験におちいるようで、落ち着けなかったのでありましょう。それらの問題をかかえて、はるばる法文を求めて上京してきたものと考えられます。さて、この問題を、親鸞聖人は、どのように答えられたのでありましょうか。

   親鸞におきては

親鸞におきては、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と、よきひとのおおせをこうむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。

 これが、親鸞聖人の答えであります。関東の人々の問題を、「親鸞におきては」と、わが身の問題として答えられているのであります。わが身という実存的自覚にたつときは、「弟子一人ももたず」(第六章)という、いわゆる指導者的地位にたつのではなく、ただ、師あるのみ、弟子の位のみであります。「親鸞におきては」という言葉に」聖人が弟子の位にたたれて、師をあおがれる姿勢がうかがわれるのであります。
 『歎異鈔』には、何回も、親鸞という名告りがでていますが、『歎異鈔』の親鸞という名告りは、本願に召された親鸞であり、御同朋・御同行としての親鸞であります。『教行信証』に名告られている親鸞(註12)とはちがうものがあります。『教行信証』のなかの親鸞という名告りは、仏道荷負の自覚をもつものであり、『歎異鈔』における親鸞という名告りは、仏道に呼ばれた応答の親鸞であります。この第二章の対話は、親鸞聖人の八十余才のころのことであろうと想像されるのであらますが、その年令になっても、仏道に呼ばれ、本願に召された弟子の位をもちつづけられた、若い親鸞聖人であります。この第二章の「親鸞におきては」とか、唯円の悩みにこたえられている第九章の「親鸞も、この不審ありつるに」とかと、実名をもって名告られ、こたえられている親鸞聖人に、年令を超えた若さを感ずるのであります。
 このように、年を超えて若い感覚をもちつづけておられた親鸞聖人は、関東の人々(同朋・同行)によってあたえられた問題を、あらためてわが身の問題としてうけ、あらためて「よきひと」・法然上人との出あいを思い、「よきひと」のおおせをあおがれたのであります。かえりみますと法然上人との出あいは、この第二章の時からさかのぼって、五十余年以前のことであります。しかし、聖人にとってみれば、五十余年のへだたりも超えて、昨日・今日のこととして感ぜられているのであります。さらにいえば、関東の人々とともに、ただ今、法然上人との出あいをなさっておられる――そのように、いつも新しいものが宗教の出あいであり、共に生きたものの出あいでありましょう。「よきひと」・法然上人との出あいも、また、「よきひとのおおせ」も、親鸞聖人にとってみれば、ただ今、まのあたりの事柄であったのであります。ですから、関東の人々の心にうつものがあり、今日・現在のわたしたちにも、共感をあたえられるのであります。
 このような意味をもつ、「よきひとのおおせ」が、聖人のよりどころであり、客観的証明となる法文であります。西山派の人々が、天台教学に求めたような、理知的・理論的なものではありません。ただ、念仏に生きている法然上人が、客観的証明となるところの、身をもった仏(第十七願の諸仏)であり、法然上人の「おおせ」が、また、客観的証明となる法へ第十七願にちかわせられる南無阿弥陀仏であり、すなわち、本願の道理)であります。

 よきひとのおおせをこうむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。

と、結すばれているところの「別の子細なきなり」という言葉に、また、聖人の確信の程を知らされるのであります。
 「別の子細なきなり」とは、「格別な、わけがらがあるのではございません」という意味の言葉でありましょう。いってみれば、親鸞聖人にとって客観的証明となるものは法然上人そのものであり、また法然上人のおおせが、事実としてよりどころであるのであります。他に、これ以外に、何の法文など求める必要がないのであります。疑い得ない事実として、眼前にまします証明であるわけですから、「格別な、わけがらがあるのではございません」と、はっきり答えられているのであります。客観的証明を他の何かに求める必要がない、眼前の事実としてたまわっているのが、本願の宗教であります。

   ただ念仏して

 ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし

とは、法然上人のおおせでありますが、とりもなおさず法然上人の第十八願加減(かげん)(もん)註13)ともいうべき言葉であります。
 第十八願加減の文ということを、少し説明しなければなりません。『大無量寿経』の第十八願には、三信(さんしん)十念(じゅうねん)、いいかえれば、信心と念仏が説かれています。その第十八願の文を、道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)(五六二−六四五・中国)以来、信心を念仏につつんで、読みとってきたのであります。また、善導大師にしても、第十八願文から信心(三信)の字句をはぶいて、みずからの言葉を加えて、第十八願文を作りかえられています。また、それらの伝承をうけられて、親鸞聖人は、第十八願の意を信心(三信)を中心に読みとられ、念仏(十念)の問題は、凡夫の問題でなく、第十七願の諸仏の問題とされました。
 このように、第十八願の文は、古来から、それぞれ加減して読みとってきた伝承があるわけですが、その道綽・善導二師の加減された第十八願文を、第十八願加減の文と名づけられているのであります。それぞれに加減の文が生まれたということは、第十八願に含まれている問題が深く大きいからでありましょうし、それぞれの時代の問題をもち、それぞれの実存をとおして、経典を読みとってきたということであります。

 この『歎異鈔』は、道綽・善導・法然の伝承をそのままうけられて、念仏に信心を摂めて説かれています。それで『歎異鈔』の説き方を「能信を所行に摂める」(註14)と、注意されているのであります。
 このようにして、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と、第十八願の文を、法然上人は、善導大師の指示をうけて、読みとられたのであります。ですから、この法然上人の言葉は、ただ単に、法然上人の言葉であるだけではなく、法然上人自身が、善導大師をとおしていただかれた、『大無量寿経』の本願の言葉であることになります。すなわち、法然上人自身があおがれた、阿弥陀仏のおおせであります。親鸞聖人はかかる伝承をうけて、本願の歴史的背景をもった法然上人のお言葉を客観的証明とされたのであります。すなわち、本願念仏の体験は、本願念仏の歴史をよりどころとせよ。念仏の体験の証明を、「念仏」以外の「法文」に求めるなといわれているのであります。序分で学んだごとく「自見の覚悟を以って、他力の宗旨を乱ることなかれ」であります。
 すでに学びましたところの『歎異鈔』の序の「幸いに、有縁の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得ん哉」の言葉のごとく、行学の宗教、すなわち、実践仏教には、よき師、善知識を必要とするのであります。
 「よきひと」法然上人との出あいを、ここに強調される親鸞聖人は、実践仏教、本願念仏の宗教の証明者が、いま、己れのまえに生きていますという感動がつよかったからでありましょう。師なくして救われ得なかった、――それほど、己れは迷いふかく、疑いのつよい人間であった――法文や、解学では、理知的了解はできるけれど、それは救いではなかった――善知識という、わたしの耳をひらかせ、わたしの、聞き、求めるべき方向をさししめしてくださる人に出あわなかったならば、この道は、ひらかれて来なかったのであると、親鸞聖人は、身をもって吐露されているのであります。
 「よきひと」という表現(註15)は、他の親鸞聖人の著述には余りみられない表現であります。法然上人は、単に、法然という人物ではなく、わたしにとっては、かけがいのないよき師であり、善知識であり、今日世尊であり、わたしのために、世に生まれたもうた本願の仏であるという意味で、「よきひと」といわれたのであります。

 本師(ほんじ)源空(げんくう)世にいでて
 弘願(ぐがん)の一乗ひろめつつ
 日本一州ことごとく
 浄土の機縁あらわれぬ

 善導・源信すすむとも
 本師源空ひろめずば
 片州濁世(じょくせ)のともがらは
 いかでか真宗をさとらまし

 曠劫(こうごう)多生のあいだにも
 出離の強縁(ごうえん)しらざりき
 本師源空いまさずば
 このたびむなしくすぎなまし

 阿弥陀如来来化(らいけ)して
 本師源空としめしけれ
 化縁(けえん)すでにつきぬれば
 浄土にかえりたまいにき (全書・二・五一三)


 『高僧和讃』のうち、法然上人(源空)には二十首をもって、その行徳のみがうたわれているのであります。他の高僧和讃は、それぞれの高僧の教義がうたわれているのに比べて、法然上人の和讃だけが、上人の行徳のみをたたえておられるところからも推察できるごとく、親鸞聖人にとっては、法然上人は、「ただびと」ではなくまさに「よきひと」であったのであります。
 このような親鸞聖人の、法然上人に対する姿勢が、聖人の言葉になってあらわれ、その座に列席していたにちがいない若い唯円房に感動をあたえ、唯円房の耳の底にのこってはなれなかったからこそ、『歎異鈔』の第二章として書きのこされたにちがいないのであります。また、唯円房にとっては、わが眼の前にみる親鸞聖人こそ、「よきひと」であり、「本師」でありました。
 以上のごとく、聖人は、関東の門弟の念仏と法文についての問いに、「よきひと」法然のおおせこそ、わがよりどころとする法文であると答えられたのであります。

   念仏と信心

 念仏と法文、いいかえれば、宗教経験と客観的証明ということを学んできたのでありますが、次に、念仏と信心について考えてみたと思うのであります。
 さきに、少しふれましたように、本願の第十八願の文には、念仏と信心とならべて説かれていますが、法然上人は、善導大師の伝統をうけて(註16)、第十八願文から念仏だけを読みとり、念仏申す、称名念仏する、余行をまじえずただ称名念仏することを、すすめられるのであります。
 そもそも、念仏、すなわち、南無阿弥陀仏は、もともと釈尊以前は陀羅尼(だらに)(呪文)として伝えられていたのでありましょうが、釈尊の自覚をとおして、その陀羅尼性をやぶって、人間救済の法(法則)として浄土教の歴史をつらぬいてきました。その法を、純粋に行ぜられてきたのが浄土教の歴史であり、その歴史をうけられたのが法然上人であります。
 これは、『大無量寿経』の本願成就文に「乃至(ないし)一念」とある「一念」を、善導大師の指南をうけて法然上人は『観無量寿経』の下々品(げげぼん)にある「南無阿弥陀仏を称」(註17)して、悪業の愚人が救われたという文から読みとって、本願成就文の「一念」は、「南無阿弥陀仏を称する」ことであると解釈されています。この解釈にたって法然上人は、「ただ念仏」することをすすめ、称名の行が往生の業(往生之業・念仏為本)であると説かれてきたのであります。この流れをうけて『歎異鈔』をはじめ、和語の聖典のうちの、多くの聖典の親鸞聖人は、称名念仏をすすめられるのであります。
 しかし、この第二章では、「親鸞におきては」と名告って、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上人のおおせを、「ただ、信ずるほかに、別の子細なきなり」とうけられています。「ただ念仏」という法然上人のおおせを、「ただ信ずる」とうけとられているのであります。「ただ念仏」という法然上人の教えを、そのままうけて、「ただ念仏申す」では、ただしく本願の歴史をうけついだとはいえないのであります。この第二章によって、伝承のうけとり方を、聖人から知らされるのであります。

 さきの、本願成就文の「一念」の問題でありますが、親鸞聖人は、法然上人とちがって、『大無量寿経』の異訳の『無量寿如来会』には、「一念の浄信」(全書・二・四九、「信巻」)とあるのであります。その句に照らして、本願成就文の「一念」は、念仏でなく信心であると読みとられ、「信心為本」の教えを説かれたのであります。
 この法然上人と親鸞聖人の、念仏と信心の問題を並記しますと

 ┌ 法然 …… ただ念仏して …… 行 …… 唯称 …… 法の立場 …… 師
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 └ 親鸞 …… 信ずるほかに …… 信 …… 唯信 …… 機の立場 …… 弟子

ということになります。法然上人は、念仏(法)を行ずる、ただ念仏する、唯称であるのに対して、親鸞聖人にとっては、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という「よきひとのおおせ」が本願の法であり、その「おおせ」によって、本願のこころを信ずる、本願のこころをただ聞く、唯信の道が救済の道になるわけであります。

 智慧光のちからより
 本師源空あらわれて
 浄土真宗ひらきつつ
 選択(せんじゃく)本願のべたもう(全書・二・五一三)

と、源空和讃に聖人はうたわれていますが、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上人のお言葉は、そのまま、第十八願(善導の第十八願加減の文)にちかわれている本願そのものであり、選択本願と名づけられる本願そのものの和語というべきであります。第十八の本願が、法然上人の身をとおし、法然上人の言葉となって、呼びかけているのであります。ですから親鸞聖人は法然上人の言葉をとおして、本願にかえり、本願にうなずかれたのであります。煩悩具足の凡夫に呼びかけている、阿弥陀仏の本願の意をうけられたのであります。
 人間の深い根源から出た言葉は、聞く者をして根源にかえらしめるのであります。法然上人の言葉の根源となっているものが、阿弥陀仏の「別願」であり、「悲願」(第一章第三節参照)でありました。仏に背く者に、永劫に願いかけられる阿弥陀仏の本願の願意に、かえるとき、理知的な意識は破られ、自力をすてて、本願のこころにうなずく唯信の道がひらかれるのであります。
 このようにして、法然上人までは、本願の宗教は「念仏の宗教」でありましたが、聖人によって、本願の宗教は「信心の宗教」(註18)と新しく展開したのであります。ここに、念仏を称えるか、称えぬかが問題でなくて、信心・教えを信ずる・教えを聞く、すなわち、宗教的自覚ということが問題になることになります。行の宗教から信の宗教へ、実践の仏教から自覚の仏教へ、新しく展開することになったのであります。
 これは、法然教学に対する、前述の日蓮上人など、聖道門の人々からのきびしい批判(註19)をうけて、親鸞聖人がこたえられたところから生まれた、本願の宗教の展開であります。


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