『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

七 第二章 讃  嘆

一。おのおの十余ヶ国のさか()をこえて、身命(しんみょう)をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ(もう)(おん)こころざし、ひと()に、往生極楽のみちをと()きかんがためなり。
しかるに、念仏よりほかに、往生のみちをも存知(ぞんち)し、また、法文(ほうもん)等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしてお()しましてはんべらんは、お()きなるあやまりなり。もししからば、南都・北嶺(ほくれい)にも、ゆゝしき学生たち、お()く座せられてさふら(そうろ)うなれば、かのひとにもあ()たてまつりて、往生の要、よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられま()らすべしと、よきひとのおほせをかふりて、信ずるほかに、別の子細(しさい)なきなり。
念仏は、まことに浄土に()まるゝたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。(そう)じてもて存知せざるなり。たとひ、法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆ()は、自余(じよ)の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をまふ(もう)して、地獄にもおちてさふらはゞ(そうらわば)こそ、すかされたてまつりて、とい()後悔もさふ(そう)()め。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。
弥陀の本願まことにお()しまさば、釈尊の説教、虚言(きょごん)なるべからず。仏説まことにお()しまさば、善導の御釈(おんしゃく)、虚言したもふべからず。善導の御釈まことならば、法然のお()せそらごとならんや。法然のお()せまことならば、親鸞がも()すむね、またもて、むなしかるべからずさふら(そうろ)うか。
(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)の信心におきてはかくのごとし。このう()は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の(おん)はからがなりと云々。(定本・親鸞聖人大全集・第四巻・言行篇1・4)


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