『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第四節 真 実 の 救 い

   再び善悪について

  
しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なき故に。
  悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々。


 この一節は、「現生(げんしょう)不退(ふたい)(けっ)す」と名づけられて、第一章を結ぶ一節であります。
 本願の宗教の救済を、現生不退(註23)――ただ今の救い――として、このように、簡明に説かれているのが、『歎異鈔』の特徴であります。
 阿弥陀仏の本願は、煩悩熾盛の凡夫のために、煩悩を本願の場としてたてられたのでありますから、善悪の価値は、はじめから問題ではないのであります。人間の実存、現実存在は、善とか悪とかの批判をこえて、ただ、ここにこのようにしてあること、その事実だけであります。煩悩のもえている人間として、ここに、いま、生きている人間、その実存を場としてたてられたのが、本願の宗教であります。だから、その本願のいわれをはっきりうけとってみれば、善をもとめず、悪をにくまない、善悪を超えた、平等の世界を体感することができるのであります。それが、本願の宗教の救いであります。善悪が平等につつまれる、深いしずかな充足感の世界であります。
 善悪の問題は『歎異鈔』のもっている主題の一つでありますが、それは、どこに根があるかといえば、当時の宗教界の事情から申しますと、第一には、聖道門自力の宗教に根ざし、第二には、浄土門のうちにあって、なお自力の心から、本願の宗教を了解しようとする人々がいた(註24)からでありましょう。聖道門の人々が、善悪を問題にすることは、一応、やむを得ないとしましても(しかし、聖道門といえども、仏教そのものにたてば、善悪を超えるのであります)、他力本願の宗教である浄土門においてさえも、なお、善悪の問題につまずき、本願の宗教を誤解し、いがめていく人々がありました。そのような、当時の宗教界の事情が『歎異鈔』の主題に、善悪の問題をとらしめているのでありましょう。
 ですけれども、この善悪の問題は、親鸞聖人のころの問題だけではありません。善悪の問題は、つねに、人間をつまずかせるのであります。人間が、常識的・理知的立場にたつとき善悪が問題になり、その善悪の問題に、人間は汚されることになるのであります。善悪を問題にするとき、その人の人間性が貧しくなり、善悪を超え、善悪をつつむとき、その人間性は豊かになります。
 善悪の問題は、つねに、人間の今日的問題であるわけであります。

 さて、聖道門自力の教えでは、廃悪修善(はいあくしゅぜん)断悪修善(だんあくしゅぜん)などといって、悪を否定して善を修せんとします。それに対して、浄土門他力、すなわち真宗では、転悪成徳(てんまくじょうとく)といって、悪を転じて徳となす、というのであります。
  ┌ 聖道門自力 …… 廃悪修善
  |
  └ 浄土門他力 …… 転悪成徳

 了祥師は、この聖道門の立場を賢善精進計(けんぜんしょうじんけい)註25)と名づけられています。計とは、考え、また、はからいということです。賢善精進とは、賢人・善人になろうと願い、精進する、はげむということでありますから、自力の立場であります。つまり、賢善精進計とは、賢善精進の立場をとる考えということであります。この賢善精進を求める自力の考え方が、『歎異鈔』の第十一章から第十七章までの、異義の大半の根底になっているのでありますが、このことからも、悪をにくみ、善を求めるという善悪の問題は、人間の問題として、ふかい問題であることが思われます。
 「悪」という字は、「アク」ともよみ、「オ」、「ニクム」とも読みます。「オ」とは、おそれる意味です。悪は、にくみ、おそれるというところに、悪の悪たるゆえんがありましょう。が、どれほどおそれ、にくもうとも、「今生(こんじょう)においては、煩悩(ぼんのう)悪障(あくしょう)を断ぜんこと、きわめてありがたし」(『歎異鈔』第十五章)であります。そこで、聖道門の人々のなかには、廃悪修善といいながら、ついに、救いを未来に求めることとなります。また、浄土門の中にあって自力の立場から、本願の宗教を求める人々も、臨終の救い(註26)をたのむことになって、現生不退の救いにならないことになるわけであります。現実の自己から眼をそらすことになり、未来にのぞみを托することになります。しかし、現生不退、いいかえればただ今の救い、これをはずせば、聖道門・浄土門にかかわらず真の仏教とはいえないのであります。聖道門であっても、本願の宗教であっても、その根に、自力の心をもつときは、悪をにくみ、善を求めるのでありまして、やがて、現実の自己から逃避することになります。
 しかし、人間がどれほど善を求め、悪をにくもうとも、求め、にくむ人間の心にまったく無関係に、善も悪もわいてきます。これが、現前の事実であります。人間の力では、如何ともしがたい、厳粛な現実存であります。善を求めたり、悪をにくむという選択の自由は、人間にあたえられてはおらないのであります。善や悪は、人間に自由に選択できるものという考えは、自分勝手な考えであります。聖道門などに代表される、理知的人間の甘さともいうべきものでありましょうか。善や悪にむかって、甘い考えをもったものは、その善や悪に拒否されて未来にのぞみを夢みる以外にはありません。

  罪きえざれば、往生は、かなうべからざるか。(「歎異鈔』第十四章)
と、『歎異鈔』の作者唯円は、悲痛な問題を提起しているのであります。この言葉は、聖道的・理知的人間の足をとどめしめる言葉であります。人間につきまとってくる善悪の問題をもちながら、求道するものの痛みの言葉であります。
 悪を廃して善を修せんと、求めてきたものが、善悪は、人間の意志の自由にならないものであることがわかってきた、その時点で、唯円は、「罪が消えなければ、救われないのか」と、この言葉を提起しているのであります。この問いかけの言葉は、人間が転換せしめられる転機をふくむ言葉であります。善を求め、悪をにくんできた、理知的人間の足をとどめ、その人間の精神生活の方向を、まったく、転換せしめるところの転機となる問いかけの言葉であります。「罪きえざれば、往生はかなうべからざるか」と、みずからに問いかけた唯円は、一転して「摂取不捨の願をたのみたてまつらば」と、本願にかえるのであります。このように、この自己に対する問いかけを転機として本願に転ぜられるのであります。
 さて、唯円は言葉をつづけて  
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありてか、罪業をおかし、念仏せずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。
と、述べています。煩悩具足の凡夫を、「汝よ」と呼びかけつづけている、阿弥陀仏の「悲願」にたちかえるとき、善悪を超えて、現生不退の救い、が、不思議に凡夫のうえにひらかれるのであります。罪業をおかした身であっても、念仏さえ称えない身であっても、本願の不思議によって、ただちに人間が生まれかわるのであります。
 このように、善を求める心が一転して、本願にたちかえるとき、本願の救いをたまわるのでありますが、ここで、考えたいことがあります。善を求め、悪をにくむ、理知的立場、いいかえれば、自力の心がかえって、わたしたちを本願にたちかえらしめる、すなわち、転換をあたえる一つのキーポイントになっているということであります。悪をにくみ、善を求める心さえも、本願の宗教においては、大きな意義をあたえられているのであります。本願の宗教によって、善悪の問題を超えるといいますが、悪をにくみ、善を求める心にさえ、大きな意義を見いだすような、超え方をするのであります。前にも申しましたように、これを転悪成徳、悪を転じて徳と成すと説かれているのであります。

 
 念仏にまさるべき、善なきゆえに……本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと、云々。
の、第一章を結ぶこの強い言葉は、本願の宗教に出あったものの内面からほとばしりでる歓喜の叫びでなくて、何んでありましょう。
 善導大師のお言葉に、「すべて、水(貪愛)火(瞋憎)の難に堕することをおそれざれ」(註27)とおおせになっていますが、煩悩具足の凡夫が、貪欲・瞋恚の煩悩の世界に、転落することをおそれる必要がなくなるのであります。また、あれほど、人間につきまとってきた善悪の問題を、真に超えることができるのであります。本願の宗教によって、善を求めず、悪をにくまずという世界に生きるのであります。善悪にとらわれることさえも、新しく、本願にたちかえる転機になるのですから、善悪にとらわれることに、おそれおびえる必要がなくなるのであります。絶対自由の世界に生まれ、生きるのであります。
 かくて、本願の宗教によってはじめて、人間は解放されるのであります。ここに「真宗とは何ぞや」の課題にこたえてきましたところの、『歎異鈔』第一章は結ばれることになります。

   道徳について

 本願の宗教は、真に、善悪の問題を超える道であることを学んだのでありますが、それに関連して、道徳・倫理の問題を考えてみたいのであります。
 道徳とか、倫理とかという言葉は、もっとも誤解されている言葉の一つであろうと思われます。言葉の生命をうしなって、使用されているところの言葉のようであります。
 道徳とは、何々してはならぬとか、何々しないようにしましょうとか、という、何かの規則などに服従するようなことではないのです。もっと内面的な、人間そのもの、いいかえれば、人間性・人格に関する問題であります。人間にとって、厳粛な行為であります。義務とか、法則とかといって、人間の要求をおさえ、活動を束縛するのが、真の道徳の意味ではなく、も一つと根源的な、人間そのものの問題であります。
  自己自身を統一する意欲
  自己統合への衝動
ともいうべきものが、道徳と名づけられるものであります。人間は、自己の内面に、この「自己統一の意欲」をもつものであります。たとえば、困難な問題につきあたり、自己そのものが、ばらばらになりますと、かえってそこから、真剣にたちあがろうとする緊張感が生まれるものであります。それは理知的に考えて生まれるものでなく、衝動的なものであります。自己がばらばらになればなるほど、いいかえれば、自己が統一をうしなえばうしなうほど、「自己統一の意欲」は、本能的に強くなるものであります。
 これが、先に学びましたところの純粋意欲であり、道徳の徳という字が、この純粋意欲をあらわしているのであります。
   ┌ 彳 → 行
 徳 ┤          直心をもって歩むこと
   └ 悳 → 直心

 かかる意味の徳は、人間性の問題として、また、教育、すなわち、人間形成の問題として考えられてきました。この意味の純粋意欲、すなわち、「思いたつ心」のあるところに、深い人間性、いいかえれば、真の人格は形成されるのであります。
 今日、人間疎外とか、人間喪失とかということが問題にされていますが、疎外されている人間の内面にこそ、疎外感をもつ人間の深い内面にこそ、かえって、この純粋意欲は、深く深く秘められた形で、はたらきつづけるのであります。その人自身は、まったく無自覚でありますが、純粋意欲は本能的に、衝動的にその人の中心からおこっているのであります。このように考えてまいりますと、内面的な純粋意欲を問題にする立場からは、人間疎外とか、人間喪失とかということは、問題にならないことになります。
 儒教の陽明学派に、「良知に致る」という言葉があります。良知とは、理性・主体的智慧ということでありましょうか。自己そのものの世界といってもいいかと思いますが――その「良知にいたる」、いいかえますと、自己統一の意欲・純粋意欲の問題を述べているのであります。このような意味において、倫理・道徳を考えたいのであります。倫理・道徳は、本来このような意味をもつ言葉であります。
 かく、考えてきたとき、聖道門仏教に代表される廃悪修善といい、断悪修善ということも、また、善を求め、悪をおそれにくむという問題も、自己を統一しょうとする内面的な純粋意欲のあらわれであると考えられます。
 悪を廃して善を修する、また、悪をにくみ善を求めるという、廃し修する、にくみ求めるというところに、自己統一の意欲をうかがうのであります。いいかえれば、聖道門仏教も、正しい意味における道徳性・倫理性にたっているのであります。深い人間性の課題にこたえようとしているのであります。

 ただ、ここで注意しなければならない問題があります。
 「自己統一の意欲」は、その人、自身のうちに生まれるものであります。その人の、中心からおこるものであります。第三者的な、絶対者である神などから、天下りにあたえられるものではありません。また、たとえば、半自力・半他力などというような不真面目な事柄ではありません。どこまでも、自己そのものの内面の問題として、真剣さ、純粋さを要求されるものであります。
 聖道門の人々は、絶対者なる神を問題にしない東洋人であり、仏教徒であります。また、他力を間近にせず、自力にたつ宗教でありますから、断悪修善の道を(ぎょう)じて、(さとり)をひらかんとするところに、真剣そのものが感じられます。倫理性をうかがうことができます。しかし、甘さを感ずるのであります。
 と申しますことは、理知的思惟の世界に、分裂している自己自身をとりもどして、自己統一を遂げようとする意欲が、聖道門の人々に動いていることは推察できますが、分裂した自己を、分裂した自己の力で、自己統一することができるものであろうかという疑問がおこるのであります。理知的思惟のために、分裂している自己を、みずからの力でとりもどし、自己統一しようとするのは、自力の立場、すなわち、理知的立場であります。聖道門仏教は、理知に流され、分裂している自己自身の回復を、自力的立場にたりて、なし遂げようとするのであります。そこに、大きな誤りがありましょう。聖道門仏教を難行道といい、歴劫修行(りゃくこうしゅぎょう)の教え(『愚禿鈔』・全書・二・四五五)、すなわち、永遠に修行しつづけなければならない教えであると、批判される所以でありましょう。すなわち、方法論的誤りがあるといわねばなりません。

   方法の問題

 宗教的世界は、理知的・日常的世界を超えた世界であります。その、宗教的世界を、理知でもってひらくことは、不可能であります。純粋なる宗教的世界は、純粋なる宗教的方法によらなければ、絶対にひらかれないのであります。
 そのひらかれる世界と、ひらく方法とは密接な関係があります。そのことを、はじめから、はっきりしておかねばなりません。ひらく方法は、ひらかれる世界から定まってくるのであります。このひらかれる世界から、定まってきた方法によってのみ、その世界はひらかれるのであります。本願の宗教は、本願の方法によらなければ出あうことはできないのであります。この問題は、先に少しふれた(五前序悲 歎「よき師にあう」参照)のですが、改めてまた、考えてみようと思います。
 宗教の世界は、絶対に宗教の外からはいることはできないのであります。何か別の世界から宗教の世界へはいることも、また宗教に関係のない別の方法で宗教の世界にはいることもできないのであります。このことを見だし実験し、証明して、純粋なる宗教の世界を展開してきたの示、浄土教の歴史であります。本願の宗教の歴史であります。『歎異鈔』第二章からうかがえば、釈尊・善導・法然の伝承であり、歩みであります。この本願の歴史からの呼びかけによってのみ、本願の世界にはいることができるのであります。つまり、親鸞聖人は法然上人のごとき、「よきひと」に出あうことによって、純粋なる宗教の世界にはいることができたのであります。もっとも現実的方法であり、唯一の方法なのであります。

 わたしたちは、日常生活の中にあって、分裂をかさねて苦しみ、その苦しみをほとんど日常的方法によって解決しようとしているのであり、すなわち、その苦の、正しい根源を知らないから、自己の苦の原因を、外に求めて解決しようとしているのであります。外に求めても苦は永遠に解決されるものではなく、苦は次から次へと生まれてたち切ることはできないのであります。かかる苦に坤吟する人間に、仏の側から、すなわち「よきひと」によって、煩悩具足の凡夫――「日常的世界に流転しているものよ」と呼びかけられるのであります。そして、その呼びかけにより、その声が聞こえたとき、はじめて、自己の煩悩具足という、わが身の事実に気づき、たちあがることができるのであります。「念仏申さんとおもいたつ心」が生まれるのであります。純粋意欲がわくのであります。そのとき、真の意味の倫理性をもつのであります。この「よきひと」、さらには、この「よきひと」の呼びかけが、純粋なる宗教的世界をひらく方法になるのであります。
 この「よきひとしの問題にこたえている原理が、第十七願であります。この第十七願は、存覚上人によって
  四十八願の中において、此の願、至要なり。(全書・二・二二八)
と、述べられていますが、本願の中で至要なる願であると、注意されているのであります。というのは、この第十七願(註28)は、南無阿弥陀仏という法をちかわれている願であり、すなわち、人間救済の法則をあかしている願であります。さらにいえば、本願の宗教の、方法をあかしている、唯一の本願であります。次の『歎異鈔』第二章にこの問題をくわしく述べられてありますので、そちらへゆずることにしますが、ただ、『大無量寿経』にちかわれている、第十七願にのっとった、「よきひと」を方法としてのみ、純粋意欲は引きだされるものであり、純粋な宗教的世界をひらく、唯一の方法であることを注意したいのであります。

 たびたび申しますように、親鸞聖人は、法然上人という「よきひと」を得られました。しかし、このことは、ただ、法然・親鸞二師だけの問題でなく、また、鎌倉時代の歴史的事件だけの問題ではありません。人類の歴史上、また、仏教史上において法然・親鸞二師のごとき、出あいがなされたのは、この二師だけであったかもわかりませんが、この出あいは、第十七願の原理が、地上の事実としてあらわれた大きな意義をもつものであり、人類の救いの象徴の意義をもつものであります。わたしたちにも、このような出あいが、道を求めるものにとって可能であることの証明であります。
 この法然・親鸞二師の出あいによってはじめて、真の宗教的世界をひらく方法を、実証してくださったのであり、また、第一章の結びである、善を求めず、悪をにくまず、という絶対自由の世界、純粋宗教の世界を身をもってひらいてくださったのであります。
 『歎異鈔』第一章は、「真宗とは何ぞや」という課題を、親鸞聖人の個人的経験を超えて、道理として説かれているのであります。そのために、『歎異鈔』は、人類をつつむ大きなスケールをもち、人類の歴史にこたえる「聖典」として、今日、なお、その生命を脈々としてかがやかせているのであります。
 次の第二章は、この第一章に説かれている道理をうけて、法然・親鸞二師の出あいという歴史的事実をとおし真宗仏教の世界をひらかれることになります。


もくじ に戻る / 七 第二章 讃  嘆 に進む