『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第三節 人間というもの

   人間凝視の確かさ
 

 そのゆえは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんかための願にてまします。


 この第三節は、「悪人正機の信相をあらわす」といわれる一節であります。
 この一節が、阿弥陀仏の本願の独自の意味をあらわしているのであり、まさしく、悪人正機を問題にするところの、第三章をひらく根拠でもあります。
 前の、「弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず」と仰せになっている第二節で、本願の宗教は、善人とか、悪人とか、聖者とか、凡夫とか、愚人とかを選ばず、平等に救われることを学んだのでありますが、その阿弥陀仏の本願を、古来から「別願」と呼んでいます。阿弥陀仏の本願は、諸仏――たとえば、薬師如来とか観音菩薩――の本願とちがって、特別の本願であるという意味から「別願(べつがん)」というのであります。なぜ、阿弥陀仏の本願を、特別の願というのかといえば、「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」であるからであります。
 本願の宗教は、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生を救済せんとちかうているということは、人間の実存のとらえ方が甘くないということであります。人間の実存を、罪悪深重、煩悩熾盛ととらえ、その人間の実存が、阿弥陀仏の本願の根になるのであります。すなわち、かかる人間の実存を根とし、場としてたてられた本願であるから、「別願」というのであります。

 その、人間の実存ということについて考えてみましょう。
  悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
  修善(しゅぜん)雑毒(ぞうどく)なるゆえに
  虚仮(こけ)の行とぞなづけたる(全書・二・五二七)
と、『愚禿(ぐとく)悲歎(ひたん)述懐(じっかい)和讃』に述べられているように、人間の実存は、には、悪性さらにやめがたく、には、雑毒、虚仮の行ばかりであると説かれています。
 『歎異鈔』のこの第三節の文には、人間の実存を、罪悪深重、煩悩熾盛と、とらえられていますが、には、煩悩熾盛であり、には、罪悪深重ということになります。また、存覚上人は、『六要鈔』に、は悪性、三業(さんごう)とおさえられています(註16)。この『歎異鈔』、『六要鈔』と『和讃』によってみますと
   罪悪深重 …… 外 …… 身口意の三業 …… 雑毒・虚仮の行

  煩悩熾盛 …… 内 …… 悪 性 …………… 蛇 蝎
    ||          ||        ||
  (歎異鈔)      (六要鈔)     (和讃)

と、いうことになります。
 そこで、内なる煩悩の問題を考えてみますとき、煩悩の問題は、やめたり、おこしたり、できるものではありません。煩悩は、人間にとってやめがたいもの、捨てられないものであります。煩悩をとれば、人間でなくなる(註17)というものであります。まことに人間は、煩悩具足して、いま、ここにあるという存在であります。今日の問題として、人間の主体的な面を、実存という概念(註18)でとらえるのですが、煩悩具足の凡夫という形で存在しているのが、人間の実存であります。このように、内に煩悩をもって存在している人間でありますから、外には、身業・口業・意業の三業にあらわれて、悪業、罪悪深重。これが、人間存在の事実であります。現実の、わが身であります。この意味で、「実業(じつごう)の凡夫」といわれるのであります。実業の凡夫とは、聖者と区別された言葉でありますが、また、観念的人間と区別した言葉でもありましょう。観念的には、人間を如何ようにも考えられますが、事実としては、内に煩悩、悪性をもち、外には悪業をもって、いま、ここに、こうしてある身、すなわち、実業の凡夫であります。
 ここに、本願の宗教の、人間凝視の確かさと、現実性を知らされるのであります。一点の観念もゆるさない本願の宗教は、この、実業の凡夫、煩悩具足の凡夫を場として、本願をたてるのであります。

   悲   願
 

 仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と、おおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの、われらがためなりけり。


 この『歎異鈔』第九章の文から見るとき、「煩悩具足の凡夫」とは、人間の側から、すなわち、凡夫みずから告白するのでなく、仏の側から、かねて洞察されており(註19)、いいあてられていることを知らされるのであります。
 人間の側からは、「煩悩具足の凡夫」とはいわないのでありましょう。人間は、本来的には、純粋だと考えているのであります。『観無量寿経』の「是心是仏(ぜしんぜぶつ)」を解釈するにあたって、善導大師以外の諸師は、人間は、本来純粋だという立場にたって、唯識(ゆいしき)法身観(ほっしんかん)自性(じしょう)清浄(しょうじょう)仏性観をたてるのでありました(註20)。すなわち、人間の内面に、人間は本来的に、仏性をもつというのであります。人間の本来性は純粋だというのであります。
 これらの立場を、善導大師は、「虚空を、仏身と考えるようなものである」と、きびしく批判されています。
 自分のことは、自分がよく知っている、ということは、日常生活のうちでよく聞く言葉でありますが、そうではありません。人間は、何かの機会に、ひらめくように自己の内心深く、悪性といわれるもの、蛇蝎(じゃかつ)(へび・さそり)のごとしといわれるものを見いだすことがあります。そうして、深い驚きを感ずることがあります。それは自分が、まったく、知らなかったものを見いだすから驚くのであります。自己の内面におそろしいもの、ふれたくないものを見いだすから驚き身ぶるいするのであります。
 しかし、光に出あわねば、闇はわからぬのであります。光を知らぬ深海魚や、地下に住む動物は、闇の自覚もないように、光に出あわぬものには、闇を闇と知ることはできないのであります。いま、自己の内面にひそんでいた悪性、すなわち、闇に気づき驚くことは、そのまま、光に出おうたことであります。何処かに、何かの形をもった光を考えるのでなく、闇を闇と気づいたことが、光のはたらきてあります。闇の自覚に先んじて、光のはたらきがあったことを感ずるのであります。
  仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と、おおせられたることなれば
と、いう『歎異鈔』のお言葉は、かかる、光と闇の関係を述べられているのであります。光に出あわねば、闇はわからぬのであります。わが闇に気づいてみれば、闇の自覚に先んじて、光があったのであります。阿弥陀仏の智慧の光明に照らされて、煩悩具足の凡夫と知らされるのであります。本願の宗教は、仏の側から、すでに、人間自身よりも、人間の現実存在を深く見きわめ、いいあてているのであります。

 さらに、仏が人間の現実を見きわめ、いいあてているときは、その人間を、仏自身のうちにつつんでいるのであります。煩悩具足の身を、煩悩具足と知らずして、苦悩している人間を、仏は、かえって、我が苦悩とされるのであります。人間自身は、無自覚でありますが、その人間の無自覚なるが故の痛みを、仏が、我が痛みとしてたちあがられる(註21)のであります。煩悩具足の凡夫に、仏はその全生命をかけてちかいをたてられるのであります。それで、阿弥陀仏の本願を「悲願(ひがん)」というのであります。
 この本願をえらびたてられるのに、仏は、「五劫思惟(ごこうしゆい)」されたと、神話的表現をもって『大無量寿経』に説かれていますが、阿弥陀仏の本願は、五劫という人間の理知では考えられない、ながい時をかけられた「別願」であり、「悲願」であります。また、この「五劫思惟」に対して、「永劫修行」ということがあります。五劫のあいだ思惟して、仏の手のもとで本願をえらび、そのえらばれた本願を、煩悩具足の凡夫のもとに、いたりとどけるため、仏は、永劫(ようごう)修行されていると説くのであります。

 ┌ 五劫思惟 …… 法成就のため …… 第十七願
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 └ 永劫修行 …… 機成就のため …… 第十八願

 五劫思惟は、法成就のため、すなわち、人間救済の道理を成就されるためであり、永劫修行は、機成就のため、いいかえれば、煩悩具足の凡夫を救済するため、仏は、永劫に修行されたと、『大無量寿経』に説かれているのであります。この、五劫・永劫ということは、宗教における永遠の問題を、神話的に表現されているのであります。純粋な歴史感情の世界を、このように表現されているのであります。

 煩悩具足の凡夫、すなわち、いま、ここに現に、このように、煩悩をもって苦悩しているわたしたちを場として、本願をおこされた。そのことのために、五劫というながい時をかさねられたのであります。それで、阿弥陀仏の本願を「別願」といいます。諸仏の本願とちがい、特別に、煩悩の人に願いかけられているので特別の願、すなわち「別願」というのであります。それに、五劫という時をかさねられたと説かれるのは、その、本願の深さをいいあらわすのであります。諸仏の本願は、煩悩をもつ者という限定がありませんが、阿弥陀仏の本願のみが、煩悩の人に願いかけるのであります。その願い、すなわち、阿弥陀仏の大悲の心を、五劫という時間であらわされているのであります。
 しかし、次に永劫という問題であります。五劫は、ながい時間をあらわしていましても、五劫という限界がありますが、永劫ということは、限界のない、ながい時間をいうのであります。この、永劫という問題は、自覚のところに感ずる人間の実存の重みをあらわしているのでありましょう。実業の凡夫といいますが、人間の業の深さを、このような、永劫という表現をもって、あらわしているのでありましょう。仏の大悲の深さを五劫というのに対して、人間の(ごう)の重みを、永劫という時間であらわしているのであります。
 まったく、闇を闇とも知らず、煩悩を煩悩とも知らず、ただ、苦をのがれ、楽を求めてあけくれしていたわたしたちが、闇に気づかされ、煩悩の身の自覚をもったとき、ただちに、本願の救いにあうのであります。本願の救いにあったとき、自己の煩悩業の深さ、流転・迷いの生活のながさを感ずるのであります。そのように実感される、流転の重い歴史のながさを、永劫と説かれているのであります。わたしたちの、永劫といういい方でより表現し得ないほどの流転の歴史のながさ、それは、そのままに、阿弥陀仏の流転の歴史でもあります。阿弥陀仏は、流転する人間の苦悩を、わが苦悩とされるのでありますから、人間の苦悩の歴史、流転の歴史は、そのまま阿弥陀仏の流転の歴史であり、苦悩の歴史であります。このように実感される歴史感情を、永劫という表現によって、いいあらわされているのであります。
 さらに、阿弥陀仏が、煩悩具足の凡夫のために永劫修行されたという永劫という言葉に、永遠の「悲願」というものを感ずるのであります。わたしたち無自覚な人間――動物的・自然的人間を自覚的人間にせしめるための仏の大悲の深重なることを、永劫という無限の時間数であらわされているのであります。永劫、すなわち、わたしたちがめざめるためには、永劫という無限時間を必要としたのでありますが、その永劫というところに、人間の業の深く重いことを感ぜしめられるとともに、仏の大悲を感ずるのであります。永劫の仏の修行の根源に、すなわち、凡夫へのはたらきかけの根に、仏の「悲願」を思うのであります。阿弥陀仏が、凡夫のためにおこされた本願は「別願」といわれるものでありますが、その「別願」をおこしただけで、なお足らず、永劫に呼びかけ願いかけねばならなかったところに、その「別願」は、そのまま「悲願」でもあります。五劫ということに「別願」を思い、永劫という数に「悲願」を思うのであります。
 そうしてまた、阿弥陀仏の「悲願」というところに、わが煩悩の身、それ自身の「悲願」を感ずるのであります。阿弥陀仏が、永劫に願いかけ呼びかけられてきた「悲願」に出あい、めざめるとき、無始曠劫(こうごう)以来、流転に流転をかさねてきた、わが内面にひそんでいた、わが「悲願」を思うのであります。仏の「悲願」にあうことがわが「悲願」であったわけであります。仏の「悲願」にめざめたとき、わたしたちの内面に、純粋感情の世界がひらかれます。この世界、この純粋感情の世界こそ、わが生命が、人類の精神史が無自覚ながら、求めに求めてきたものであったことに気づくのであります。人類の祖先から流れてきている願い、すなわち「悲願」が、いま満足することができたという感動を生むのであります。考えてみますと、阿弥陀仏の「悲願」と、人類の「悲願」と、ながい間交叉する一点が見つからなかったものが
  罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
の一句のお言葉を、深くのみこむとき、あざやかに交叉するのであります。阿弥陀仏の願いと、人類の内面に無自覚のままにかくされていた願いとが交わるのであります。
 なお、また、わたしたちは未来永劫に、流転を重ねることでありましょう。煩悩のつきない限り、流転が人類の宿命ともいうべきものであります。しかし、流転をかさねねばならないわが身のうえに、煩悩具足の凡夫に願いをかけて、永劫修行されるにちがいない仏の「悲願」を感ずるのであります。未来永劫に、流転の凡夫に、願いかけ呼びかけられるであろう、仏の「悲願」を仰ぐのであります。

 五劫・永劫の阿弥陀仏の「別願」を思い、「悲願」を感ずるとき、人間にしつように、つきまとってきた善悪の問題を超えるのであります。ここに、次の第一章・第四節の文の問題がひらかれることになります。


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