『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第二節 自覚の自覚

   平等の救い
 

 弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とす、としるべし。


 この一節は、「信心為本(しんじんいほん)(しる)す」と名づけられています。
 本願の宗教は、信心、すなわち、宗教的自覚・宗教的意欲のみが大切であって、その他のことは、一切、必要でない。無条件の救いであり、平等の救いをちかわれているのである――そのことを自覚することだけが肝要である、というのが、この一節であります。
 わたしたちの理知的世界では、無条件とか、平等とかということは、観念的には考えたり、口ではいいあっていますが、現実としては、なりたたないのであります。なにごとについても、条件をならべたてるのでありますが、それに反して、本願の宗教には、人間が理知的に考える条件は、何一つ必要としないというのであります。平等の救いをちかわれているのであります。平等の救いということは、おおよそ、理知的人間にとって現実的には考えることすらできない世界でありましょう。本願の宗教の要点であります。
 親鸞聖人は『教行信証』の「信巻」に、本願の宗教には身分の貴賎、男女、老少、罪の多少、修行の如何とかは問題でないと、具体的に説かれています(註15)。なぜ、条件がいらないかといえば、本願の宗教は、如何なるものもその意味をかえるからであります。「(かわら)(つぶて)の如くなる我等を、(こがね)にかえなさしむ」(註16)るからであります。
 これに反して、人間の理知的世界では、無数の条件をならべたてるのであります。真の平等とか、無条件ということはありません。そのように、理知的世界で考えられる無数の条件というものも、要約すれば、『歎異鈔』の言葉のように、老少と善悪になってしまいましょう。老少は身体的条件、善悪は意識の問題であります。老少は外、善悪は内の問題でありますが、さらにつづめれば、老少も善悪の問題に帰結しましょう。その善悪の問題をしばらく考えてみましょう。

   善悪の問題

 善悪の問題は、人間の世界に根づよく、くいさがっているのであります。どれほど、平等といい、無条件といっても、善悪の問題は、いつの時代でも、どの世界でも最後までのこります。宗教の世界においても、なお、そうであります。正義を要求する宗教、善人往生を問題にする仏教、みな、それであります。
 『観無量寿経』でも、「定善(じょうぜん)()」、「散善(さんぜん)()」といって、善悪を問題にしています。定善とは、雑念をやめて心をこらすこと、機とは、人ということ。散善の機とは、悪をすて、善をおさめるという日常的生活の中の善人ということであります。けれども、いずれにせよ、善を問題にしています。その散善の機を、この経典では、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九品(くぼん)にわけています。そのうちの上品上生の善人の中に、定善の機もいれてあって、図示すれば下のようになります。

  上品上生┐     (定善の機を含む)
      |
  上品中生├ 大乗の行者 ┐
      |      |
  上品下生┘      |
             |
  中品上生┐      ├ 善人
      ├ 小乗の行者 |
  中品中生┘      |
             |
  中品下生― 世間の善人 ┘

  下品上生┐
      |
  下品中生├ 造悪不善 ―― 悪人
      |
  下品下生┘

 このように、『観無量寿経』は、人間を九品にわけて説かれていますが、その九品にわけられている人間を、善導大師は「九品唯凡(くぼんゆいぼん)」といい切っておられます。つまり、善導大師は、経典には、人間を九品にわけてあるがその九品の人間、善悪の人間は、ともに凡夫である、本質をおさえれば、ただ、凡夫ばかりである、と、いわれているのであります。聖徳太子が、十七条憲法に説かれていますところの、「共に是れ凡夫のみ」のお言葉と同じであります。ここに、本願の宗教の人間を見る眼の厳密さがあります。
 さて、このように学んでくるとき、善人も悪人も共に凡夫でありますから、善とか悪とかと、いいはっていること自体が、善とか悪とかを、人間の条件として問題にしていること自体がおかしいことになります。

 さらに、人間は善をなさんとすれば、善をなすことができるという考え――これを、定散(じょうさん)自力(じりき)の立場といいます。定善・散善、すなわち、善悪を問題にするのは自力の立場、理知的立場でありますが、その立場が問題であります。この、善悪を問題にする考え方をもつことが、問題となるのであります。善悪を、人間の意志によって自由に選び得るという考え方、これは、人間の勝手気儘な解釈であります。この考え方、この立場が人間を迷わすのであります。
 『歎異鈔』第十三章に、この問題をとらえて
  よき心のおこるも宿業のもよおす故なり、悪事のおもわれせらるるも悪業のはかろうゆえなり
と説かれて、兎の毛、羊の毛の先の塵ほどのことも、宿業であり、業縁であって、人間の自由選択を、まったく超えたものであると述べられています。絶対他力を強調されているのであります。現実存在は、このように『歎異鈔』に説かれているように、絶対他力であります。でありますから、善悪は、人間の意志によって、自由に選ぶことができるという考え方を、いわゆる自力の立場を、捨てなければならないと述べられているのが、この一節のお言葉であります。
 善悪を考える立場は、阿弥陀仏の本願を疑うことになります。その、本願を疑い、善悪をたてねばおけぬ自力の心を捨てる。いいかえれば、理知の立場をひるがえして、「善悪の凡夫人」を摂取される本願念仏の大道が、ひらかれてあることを自覚することを、ここで強調されているのであります。

   信心を要とす
 

 ただ、信心を要とす、としるべし。


 この短いお言葉は、「本願の宗教には、善人とか、悪人とかの条件があるのでなく、善人も悪人も、平等に救われるということを、自覚することだけが、必要である、と、確認せよ」という、命令法の表現をとられているのであります。自覚を自覚せよ、と命令されているのであります。
 ここに「ただ信心」とありますが、信心・宗教的自覚ということは、客観的な理知を立場とする心、定散自力の心をすてる、本願を疑う心を選び捨てることであります。しかし、捨てて、別に、何かを信ずるというのではありません。疑いの心を捨てることが、信心であり、宗教的自覚であります。理知を立場にしていたことを、自覚することが主体的な知にたったことであります。本願を疑う心を、自覚することが、本願を疑う心を捨てたことであり、本願を信じたことであります。捨てる、自覚する、信ずるといっても、別に、三つのことがらがあるのではなく、ただ、一つであります。ここに、本願の宗教の、大切な点があります。何か、対象的なものをたてて、それを信ずるという信心は、「ただ信心」ではないのであります。「ただ信心」とは、自覚であります。
 「ただ、信心を要とす、としるべし」であります。理知的立場から、善悪を問題にする必要がないのであります。善も悪もそのままにしておいて、まず、本願の宗教は、平等の救いをちかわれているのであったことを心にふかく自覚することが肝要である、と知るべきである、と仰せになっておられるのであります。「要とす、と、しるべし」、この点をしっかり納得せよと、念をおされているのであります。

 「ただ信心」ということを、もう少し考えてみますと、「ただ信心」とは、唯信(ゆいしん)。これは、法然上人の「ただ念仏」、すなわち、唯称(ゆいしょう)に対応する言葉であります。
 法然上人の教えは、「ただ念仏」であります。諸行(しょぎょう)(自力の行、あらゆる実践行)をして、称名(しょうみょう)念仏(ねんぶつ)の一行を、立てられました。これが、法然上人の「ただ念仏」で、行の廃立といいます。唯とは、あれもこれもでなく、あれか、これか、の選択(せんじゃく)、選びであり、決断であります。法然上人の宗教は、諸行をすてて念仏をとる、聖道門の行を廃して、浄土門の行、本願の行をとる、という選びの宗教であり、本願の行の宗教であります。
 この法然上人に対して、親鸞聖人の宗教は、「ただ信心」であります。定散自力の心、疑心(ぎしん)自力の心を廃して本願他力の信をとられるから唯信であります。理知的立場を捨てて、純粋なる自覚をあきらかにされたのであります。 

(ゆい)は、ただ、このことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。……信は、うたがいなきこころなり。(全書・二・六三・『唯信鈔文意』)

と、仰せになっています。さらに、この唯信は、「他力の信心」と仰せになっています。親鸞聖人の唯信は、他力にめざめた信であり、また、他力からたまわった信であります。人間の自力の心、理知的立場を超えているのであって、この意味からも、「ただ信心」といわれているのであります。
 この、第一章・第二節の文は、第二章にひらかれていくのであって、「ただ信心」の問題も、第二章で詳説したいと思っています。


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