『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

第一節 人間救済の道理

   経験と道理

弥陀(みだ)誓願(せいがん)、不思議にたすけられまいらせて、往生(おおうじょう)をばとぐるなりと、信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち、摂取不捨(せっしゅふしゃ)利益(りやく)にあづけしめたもうなり。


 第一章・第一節の文にはいっていくことになりますが、この第一節は、「念持の法体を標す」といわれています。まさしく、念仏の法、すなわち、真宗の法・人間救済の道理をあきらかにされている一節であります真この第一節の文は、親鸞聖人の宗教経験から生まれたお言葉であります。(もちろん、師訓十章は、すべてそうではありますが)しかも、宗教経験をそのまま、告白の形で述べられているのではなく、道理として説かれているお言葉であります。『大無量寿経』下巻の、第十八願成就文(じょうじゅもん)註2)にひとしいお言葉であります。
 『大無量寿経』の上巻は、阿弥陀仏の直説で、本願をちかわれているのに対して、下巻の本願成就文は、釈尊が阿弥陀仏の本願を身にうけられた、宗教経験の表白であります。しかし、釈尊はみずからの宗教経験を、単に表白体で説かれないで、道理・教えとして説かれているところに、本願成就文の意義があります。
 もし、釈尊が宗教経験の告白を、表白体のままで説かれますと、それは、個人経験にとどまって、十方衆生、すなわち、人類にこたえる言葉になりません。みずからの経験をとおして、しかも、道理として説かれるとき、すなわち、得た経験から退一歩して、道理として説かれるとき、釈尊はみずから説いている道理を、釈尊みずから新しく聞いておられることになります。そのとき、その道理は人類の道になります。経験とか体験というものと、道理というものとは厳密な関係をもつもののようであります。

 いま、宗教経験ということを問題にしているのでありますが、それは、宗教という特別な、実体的なものがあって、その宗教を経験するというような経験ではありません。仏教では人間がめざめるということであります。この、めざめるという経験は、人間としてもっとも根源的な純粋経験であります。この、めざめるという経験は人間の理知や分別を超えたもので、主客合一の経験であります。また、一念の信といわれるように、それは、一瞬であります。いいかえれば、いつでも、現在であります。いつでも、今であります。また、理知や分別で考えたもののように、つめたい空虚なものでなく、生き生きとした、あたたかなものであります。純粋経験(註3)であります。
 しかし、ここで注意しなければならないことは、かかる純粋経験も、わたしの経験、として話しだされるときは、もう、純粋経験ではありません。それは、わたしの経験というもので、わたしの理知でとらえ、理知で解釈したもので、生き生きしたものでなくなります。「あのとき、このように、わたしが経験した」ものになって、個人的、特殊的経験になってしまうのであります。一般的な、体験談といわれるものに()ちてしまいます。宗教の体験談が、他人にとって無味なのは、それがどれだけすばらしくとも、個人的なものにすぎないからであります。体験談は、いつか、どこか、だれかのものであって、いつでも、どこでも、だれでもに、ひろくひらかれたものではありません。それですから、経験されたそのときは、純粋なものでありましょうとも、話しだされるときは、もう、それは純粋経験ではないのであります。それは、とどまった純粋経験というべきものであります。
 さらにまた、純粋経験を、個人的体験談として説かれないで、論理として説かれることがあります。たとえばすぐれた禅の経験をもった人が、その、禅経験をそのまま話さないで、解説的に、客観的に説かれることがありますが、そのときもまた、それは客観的に説かれた純粋経験であって、純粋経験そのものではありません。その人の経験が如何に純粋経験であったとしても、その経験を、理知的・客観的立場から解説されるとき、すでに、純粋経験はその生命をうしなうのであります。それは、ながめた純粋経験ともいうものであります。
 このような、純粋経験に対する二つの立場、すなわち、体験談などとして話される場合と、理知的・解説的に説かれる場合との二つの立場は、主体的知を、理知的・客観的知でとらえたことになります。無分別智(直観)の経験を、分別智(理知)で話すことになります。このときは、如何に厳密に、正しく、くわしく話し、説明するとしましても、純粋経験(無分別智)の世界とはまったく質のちがった、生命のないものとなってしまいます。人の心に深くうってくるものがなくなります。

 このように考えてくるとき、純粋経験を純粋経験のまま、言葉にすることの至難さを思います。経験をとおし経験を超えて、道理として説かれることの厳しさを思わしめられます。純粋経験をはずさずして表現するには、純粋客観(註4)にたつ以外に、方法はありません。この意味から、『大無量寿経』の本願成就文や、『歎異鈔』第一章・第一節のお言葉の尊さを思うのであります。

   純粋客観にたつ

 『大無量寿経』の本願成就文のお言葉は、釈尊の経験をとおして説かれたものであり、『歎異鈔』第一章・第一節は、親鸞聖人が、阿弥陀仏の本願にめざめ、救われた経験をとおして述べられたものであります。しかし、ともに、経験をとおして、その経験を超えて、道理として 教えとして説かれているところのお言葉であります。すなわち、純粋客観の立場にたって述べられたものであります。
 いま、その純粋客観にたつということを考えてみようと思います。
 単なる客観的立場は、分別の世界であり、理知の立場でありまして、宗教の世界には、一応、無関係な立場であります。宗教の世界はどこまでも、理知をやぶらなければひらかれない世界であります。無分別智といわれるところの、直観的立場でなければ、宗教にふれることはできません。さらに、そのようにしてふれることができた、宗教的世界を純粋に表現する場合には、後得分別智(註5)といわれる認識作用、つまり、智慧によらなければなりません。その、後得分別智とか、智慧といわれる立場は純粋客観の立場であります。

 ┌ 分 別 智 ― 知 性 ― 客 観 的 立 場 ― 客観的知
 |
 │ 無 分別 智 ― 感 性 ― 直 感 的 立 場 ┐
 |                      ├ 主体的知
 └ 後得分別智 ― 理 性 ― 純粋客観的立場 ┘

 このように、試みに図示してみるのでありますが、後得分別智を、信心の智慧とうけとってみます。

 さて、純粋客観ということでありますが、わたしたちが得たところの経験・純粋経験を、ひるがえって、本願の教え(本願の道理)に照らして再吟味する、そうして、あらためて本願の教えを仰ぎ、聞いていくという立場であります。『教行信証』の「総序」に「ただ、この信をあがめよ」(註6)とありますが、自身の心にひらかれたところの、この信心・純粋経験をそのままうけとって、ただちに悦ぶのではなく、本願の教え、すなわち、「よきひと」をとおしてたまわった信である、他力廻向の信心であるという確認をとおして、その信心を仰ぎ、讃嘆する立場であります。得た信心をたまわった信心と、いただくのであります。そうして、この信心をあたえたもうたいわれ――本願の道理を仰ぎ、讃嘆するのであります。この立場を純粋客観といいます。
 すでに学びましたように、信心を得たところにとどまりますと、とどまった信心になります。そのときは信心でなく、純粋経験ではなくなっています。主観的なものになってしまいます。道理は、決して主観的なものではありません。道理は、だれでも、どこでも、いつでも、うなずかれるものでなければなりません。本願の道理は万人のもの、いや、十方衆生、すなわち、生きとし生けるものに呼びかけているものであります。本願の道理は生きとし生けるものを、成りたたせている原理であります。本願の道理が、あってもなくても、わたしたちは生きることができるというようなものではありません。わたしたちは、本願の道理のうちに生き、本願の道理のままに生かされているのであります。いいかえれば、わたしたちは、呼びかけられ、願いかけられて生き、生かされているのであります。ただ、個人的・主観的自己を没したとき、その、本願の道理を自覚することができるのであります。わたしたちを呼びかけている本願の声を聞くことができるのであります。
 道理を自覚する、道理をうけとる、うなずくということは、理知の力でなく、智慧のはたらきであります。さらに、もう一歩しりぞいて、この智慧は、わたしのうえにひらかれたものでありますが、ひらいたものは、まさしく、本願の道理そのもののはたらきであったと、ふりかえるのであります。本願の道理に目覚めたとき、その自覚をとおして、本願のはたらきを再確認するのであります。つまり、わたしたちに自覚をあたえた本願の道理を讃嘆するのであります。この立場を、純粋客観の立場というのであります。
 かかる、純粋客観にたったところから話しだされる、本願の道理こそ、個人を超えた万人の道となるのであります。さらに、話しているものが、話しだしているその本願の道理に、新しく教えられ、深められるのであります。
 くどくどと申してまいったようですが、釈尊の本願成就文や、親鸞聖人の『歎異鈔』第一章のお言葉を、真に純粋客観にたって、道理をあかされているものとうけとるのであります。

 かかる、第一章・第一節の文があって、はじめて、第二章の「親鸞におきては」とか、第九章の「親鸞も」という、個人の問題がつつまれるのであります。第十一章以下の「歎異」――異端への呼びかけも、個人的感情を超えて、願いかけられるのであります。
 『歎異鈔』を、人類の書となさしめるところの、大きなスケールも、この第一章・第一節の純粋客観の立場から生まれるのであります。

   本願の事実
 

 弥陀の誓願、不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと。


 いよいよ、第一章・第一節の文にはいって学ぶこととします。
 「弥陀の誓願」とは、『大無量寿経』に説かれている「四十八願」のことでありますが、『歎異鈔』では、とくに、第十八願(註7)をさします。 

たとえ、我れ、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し、信楽(しんぎょう)して、我が国に生まれんと(おも)うて、乃至十念(ないしじゅうねん)せん。()し生まれずば、正覚(しょうがく)を取らじと。唯、五逆(ごぎゃく)誹謗正法(ひぼうしょうぼう)を除くと。(全書・一・九)

 これが、第十八願の本文であります。ふかい課題をもっている第十八願の文でありますが、この第十八願の文を、『歎異鈔』第十二章に 

 本願を信じ、念仏申さば、仏に成る

と、一言にうけとっておられます。第十八願にふくまれている課題は別として、いまは、第十八願を「本願を信じ、念仏申さば、仏に成る」と、ちかわれている本願であると、うけとって話をすすめていくことにします。
 この第十八願を、『大無量寿経』の四十八願のうちで、根本になる本願、人類の根源的問題にこたえた本願という意味で、別願(特別の本願)と呼び、王本願ともいいならわしています。が、その第十八願は「本願を信じ念仏申さば、仏に成る」という、直截簡明なものであります。素朴そのもの、とも考えられるものであります。
 「本願を信じ、念仏申さば、仏に成る」とちかわれているのでありますが、しかしこのままでは、わたしたちには、もう少しはっきりとうけとれないのであります。本願を信じ、念仏申して、「かくの如く、不思議に仏に成った、不思議にたすかった」という事実に出あうことがありませんと、はっきりとうけとれないのであります。親鸞聖人にとってみれば、法然上人という、不思議にたすかっている「よきひと」に出あわれて、はじめて、信ずる身になられたのでありましょう。
 つまり、親鸞聖人にとっては、法然上人を「弥陀の誓願」そのもの、としてあおがれたのであります。「弥陀の誓願」は、どこかに実体的に、また、単なる原理としてあるのでなく、「不思議にたすけられまいらせて、往生をはとぐるなり」と、わたしの前に、とげてみせてくださっている方、として現前するのであります。不思議にたすかった人間像、「よきひと」として、「弥陀の誓願」は事実となってくるのであります。

 さらに、「たすけられる」という表現は、『歎異鈔』独自の表現ですが、「たすけられまいらせて」とは、受け身の表現であります。同じく、『歎異鈔』第十三章に、「願の不思議にて、たすけたもう」という言葉がありますが、本願(誓願)の不思議に、たすけられまいらせたのであります。煩悩を断じつくして、本願にあうたのではありません。罪業の身、すなわち、実存的存在のまま、不思議に、本願にあい、不思議に、本願にめざめ、不思議に、たすけられたのであります。実存の身が、不思議に、たすけられたことが、そのまま本願の不思議であります。このように本願の不思議のはたらきによって、「不思議にたすけられまいらせ」た、その人のうえに「弥陀の誓願」は、疑えぬ事実となってはたらくのであります。
 親鸞聖人にとっては、師の法然上人が、みずから、不思議に、本願にたすけられることによって、本願を現前の事実として証明されている本願の証明者であることに気づかれ、法然上人のうえに本願が事実としていきている事実に出あわれたのであります。このように「不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなり」と、身をもって示してくださった「よき師」に出あわれたとき、親鸞聖人の精神生活の方向は決定したのであります。すなわち、法然上人の「ただ念仏して」という仰せをうけることによって、つぎの「念仏申さんとおもいたつ心」という意欲が生まれたのであります。

   純粋意欲について

 つぎに 

 信じて念仏申さんと、おもいたつ心のおこるとき

と、いうお言葉であります。これだけの言葉で、信心・一念帰命(いちねんきみょう)を述べられているといわれています。
 このお言葉から了祥師が、「義をうけとって、語はザッと流せ」と注意されたことをおもいおこします。一々の言葉にとらわれずに、この言葉のいわんとするところをとらえねばなりません。そうしますとき、一念帰命(一念の信心)ということを、これだけの言葉で表現されていることになります。
 さて、一念帰命ということは、簡単にいえば、宗教的意欲ということであります。「念仏申さんと、おもいたつ心」であります。
 単に、個人的体験談とか、経典のうえの理論・教義として語りかけられるときには、純粋な求道心は、湧かないのであります。親鸞聖人の場合の、師・法然上人のごとき本願の人ともいうべき人に出あうとき、いいかえれば、本願が生きている事実に出あうとき、宗教的意欲は、自然に湧くのであります。その宗教的意欲を
  信じて念仏申さんと、おもいたつ心のおこるとき
と、『歎異鈔』独自の表現をもって述べられています。本願成就文の言葉にしますと、「彼の国に生まれんと願ずる」と、いう言葉にあたります。これを「願生心(がんしょうしん)」といいます。宗教心は、自覚の面からいうときと、意欲の面からとらえる場合とがあるわけでありましょうが、ここでは、意欲の面として述べられているのであって、「念仏申さんとおもいたつ心」とは、宗教的意欲・純粋意欲の問題であります。

 この純粋意欲、すなわち、願生心には、一つの内面的構造があります。わたしのうえにおきた事実でありますが、厳粛な内面的構造をもっております。『大無量寿経』の上巻は、そのことをあきらかにしているのであります。
 それは、『大無量寿経』の発起序(ほっきじょ)に、「釈尊が、この世に出られたのは、仏の教えを説き、名もなき人々を救い、真実の利をあたえんという、おぼしめし(欲)からである」と説かれている(註8)のでありますが、その文の中に「欲」という一字があります。これを、釈尊の「欲」と呼ぶことにします。
 また、さきに引用しました、第十八願の本文にも、「我が国に生まれんと欲え」(註9)、すなわち、「欲生我国」と、わたしたちに呼びかけられる言葉があります。これは、阿弥陀仏の「欲」でありましょう。この、釈尊の「欲」と、阿弥陀仏の「欲」という、二つの「欲」の字に、古来、注意がはらわれているのであります。
 さきに申しましたところの『大無量寿経』下巻・本願成就文の、願生心と、この上巻の二つの「欲」とは、密接な、切りはなせない関係があります。この願生心の「願」と「欲」の字が、純粋意欲の、内面的関係を物語っているのであります。すなわち、わたしたちのうえにおきた願生心は、その背景に、釈尊がわたしたちに真実の利をあたえたいというおぼしめしの、釈尊の「欲」と、阿弥陀仏が、「我が国に生まれんと欲え」と、呼びかけられている阿弥陀仏の「欲」とがあるということであります。
 要するに、わたしたちの心のうえにおきた純粋意欲は、わたしたちからおきたものではなく、釈尊と、阿弥陀仏が、わたしたちにかけられている、大悲の意欲によっておきたものであるということであります(註10)。事実は、わたしたちのうえの意欲でありますが、呼びかけ、願われておきたという、わたしを超えたものによって、わたしのうえにおきたという意味を物語っているのであります。
 『大無量寿経』の下巻の願生心ということから、上巻の二つの欲の字をかえりみて、わたしたちのうえにおきている、願生心の内面的意味の深さを、再確認するのであります。さて、ここまで学んできて、自己の、願生心・純粋意欲の背景には、阿弥陀仏の呼びかけと、釈尊の願いかけとがあったことを知らされ、ふりかえるとき、心の底に深い充実感を感ずるのであります。

   本願の救い――摂取不捨――

 このように考えてきますとき、「すなわち、摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」という、第二章・第一節の結びのお言葉を、そのままうけとることができます。
 くりかえし申しますと、たとえば、親鸞聖人が法然上人の如き、「よきひと」に出あわれたとき、「ああ、そうであったか」と、深く納得する心ともいうべきものをおこして、その人について、求め、学ばんとする意欲がおきるのであります。このようにしておきた意欲を、親鸞聖人は「よきひとの仰せをこうむりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(第二章)と表現しておられます。しかし、その意欲は、わたしのうえにおきたものとはいえ、わたしを超えて、釈迦・弥陀二尊の願いかけによってあたえられたもの。わたしを超えた、大きな、はたらきによるものである――ということに、深く考えおよんだとき、ただちに、内面的充実感を得る(註11)のであり、そして、この内面的充実感こそ、「摂取不捨の利益」と説かれているものであります。
 この摂取不捨を、『一念多念文意(いちねんたねんしょうもんい)』に、「摂は、おさめたもう、取は、むかえとる」(註12)と、註釈をくわえられていますが、これは、仏におさめとられ、むかえとられたという、感情をいいあらわしておられるのであります。摂取不捨とは、本願の宗教の救いでありますが、その、救済された感情を、おさめとられ、むかえとられるという言葉で表現されているのであります。仏に、おさめとられ、むかえとられる、いいかえれば、深い安心感、充実感をあたえられることを、「摂取不捨の利益」といわれるのであります。
 しかも「すなわち、摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」とあって、「すなわち」と説かれています。「すなわち」とは「ただちに」ということです。宗教的意欲・求道心がおきたとき、ただちに深い充実感をあたえられると説かれているのであります。罪業の身のままに、ただちに救われると説かれているのであります。

 この、「摂取不捨」の問題、救済の問題でありますが、『大無量寿経』は、法の真実、いわゆる、救済の道理をあかされています。しかし、機の真実、すなわち、救済の事実については、『観無量寿経』・『涅槃経(ねはんぎょう)』をまたねばなりません。『観無量寿経』は、愚痴の女性、韋提希夫人(いだいけぶにん)の救いを説き、『涅槃経』は、父を殺し、母を牢獄にとじこめた、悪逆の太子・阿闍世(あじゃせ)の救いが説かれているのであります。善導大師は、愚痴の女性でありますところの韋提希夫人に、自己を見だされていますが、親鸞聖人は、どちらかといえば、『涅槃経』の阿闍世太子に、自己を照らし、見ておられるのであります。善導大師の『観無量寿経』の読み方をうけて、親鸞聖人は、『涅槃経』を読みとって、悪人の自覚にたっておられるのであります。
 「摂取不捨」(註13)という言葉は、『観無量寿経』の第九真身観(しんしんかん)にある言葉でありますが、救済の事実が、『観無量寿経』や『涅槃経』に説かれていることを考えてみるとき、道理を説かれる『大無量寿経』だけでは、わたしたちの救いは得られないのでありましょう。本願の救いの事実を説きあかされねばならないのであります。そこで救いの事実(機の真実)を説く『観無量寿経』の主人公の韋提希夫人は、煩悩具足の凡夫として、また、『涅槃経』の阿闍世太子は、五逆の悪人(註14)として説きあかされているのであります。韋提希夫人は、愚痴の人、弱い凡夫でありますが、悪人とはいえません。この点からすれば、『観無量寿経』だけならば、凡夫は救われても、悪人は救われないことになります。ここに、親鸞聖人が『教行信証』「信巻」に、ながながと阿闍世太子を主人公とする『涅槃経』を引用されている意義があります。悪人の救いをもとめて、『涅槃経』をお読みになったのであります。
 真実の救いとは、凡夫も、悪人も救われなければ、真実の救いとはいえません。また、そうでなければ、このわたしが救われないことになります。また、そうでなければ、「弥陀の誓願、不思議」とは申せません。もし、本願(誓願)が、救済する対象をえらばれるのならば、不思議ではありません。阿弥陀仏の本願が善人だけを救うということならば、その本願は、人間的臭味を離れないものというべきで、そのような本願の救いは、不思議の救済ではありません。「えらびのない救い」、凡夫も悪人も救われるということは、人間の理知では考えることができません。しかし、その人間の理知をこえた、大きな救いこそ、本願の教えの救いであります。真の救済であります。このような大きな救いが、純粋意欲がおきたとき、ただちに、わたしたちにたまわるというのであります。
 かかる、偉大な救済の問題を提起して、『歎異鈔』の第一章・第一節は結ばれます。


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