『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

六 第一章 道   理

(ひとつ)弥陀(みだ)誓願(せいがん)、不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと、信じて念仏まふ(もう)さんとおもひたつこころのおこるとき、すな()ち、摂取不捨(せっしゅふしゃ)利益(りやく)にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪(ぜんまく)のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆ()は、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆ()に。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆ()にと云々。 (定本・親鸞聖人全集・第四巻・言行篇1・3)



   絶対他力の大道

 この、第二章を了祥師は、「弘願信心章(ぐがんしんじんしょう)」と標せられ、曾我先生は、「念仏の大道を明す」とおおせになっています。つまり、「真宗とは、何ぞや」ということをのべている章であり、親鸞聖人の宗教の大綱が述べられている章であります。すなわち、本願念仏の大道、これが親鸞聖人の宗教であります。清沢満之先生の言葉では、「絶対他力の大道」であります。いま、念仏の大道・他力の大道ということを申しましたが、親鸞聖人は『教行信証』「信巻」に、「道」と「路」をわけて、念仏の大道、他力の大道をあきらかにせられております(註1)。
 すなわち、「路」とは小路、こみちのことで、仏教以外の教えと、小乗仏教、さらには、本願念仏以外の大乗仏教の教えのことであり、「道」とは、本願の大道のことであります。つまり、仏教であろうと、仏教以外の教えであろうと、人間的関心のある教え、自力の心がのこっている教えは、すべて、「路」と示されています。それに対して、本願念仏の宗教のみを、「道」と示しておいでになるわけであります。このように、「道」と「路」をならべわけておられるのを見ますと、「わが道のみ、尊し」と、いっておられる感じがして、独断のように思われるのですが、実は、そうではないのであります。

 本願の大道といわれるものは、わたしたちのうえに、いま事実としておきているところの求道心であります。これを、願生心(がんしょうしん)――浄土に生まれんと願う心――といいます。この、願生心・求道心、いわば信心であり、宗教心であります。この、わたしたちの宗教心(願生心)は、わたしたちの日常性に流される心、すなわち、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚痴(ぐち)に代表される煩悩のうちに、生まれるものであり、しかも、その煩悩に汚されない、清浄な、純粋な心であります。煩悩のうちにあっても煩悩に汚されないところの、清浄、純粋な心である、この宗教心を、善導大師は、「白道(びゃくどう)」とたとえられ、「道」といっておられます。
 宗教心とは、人間の日常性を超えたものであります。しかし、もし日常性をたち切ったところに、宗教心を求めるならば、永遠に、彼方の問題になります。けれども、日常性のまま、すなわち、煩悩のまま、急ぎ求道にたちあがるとき、宗教心そのものが、今、ここに、求める心として開かれているという、この事実に気づかしめられるのであります。その時日常性をもったままの自己がそのままに、宗教心のうちにつつまれるのであります。わたしのうえにおきた宗教心でありますが、わたしをつつむものであり、わたしより大きいのであります。煩悩のたえない、煩悩そのもののわたしのうえにおきた宗教心が、わたしをつつむのであります。と申しますことは宗教心がおきたそのとき、煩悩を苦にし、邪魔にすることがいらぬことになるのであります。煩悩を、そのままうけとっていくことができるのであります。
 このようなはたらきをもつのが、純粋・清浄なる宗教心であります。このような宗教心・求道心を、大道と象徴的にいいあらわしているのであります。わたしのうえに生まれたものでありますが、そのわたしをつつむような心でありますから、広大な道であり、大道であります。
 さらに、この宗教心によって、わたしたちが歩まされるのであります。わたしたちのうえにひらかれた宗教心でありますが、この宗教心が、わたしたちを歩ませるのであります。わたしたちを場として、宗教心自身が展開し、歩むのであります。そのために、わたしたちも、歩まされるということがあります。宗教心は、わたしたちのうえに生まれたものでありますが他力の大道であり、本願の大道といわれるように、他力や本願によって生まれたものでありますから、わたしたちを超えています。ですから、わたしたちを超えて歩むのであります。わたしたちの意志の自由にならないのであります。しかも本願の大道でありますから、わたしたちを乗せて歩み、展開し、深まっていくのであります。本願念仏の宗教心は、それ自身が必ず展開し、深まるものであります。ひらかれたところで終るものではありません。ひらかれたときが出発点となりて、展開し、深まり、それとともに、わたしたちをも展開させ、深まらせるのであります。その意味でも、本願念仏の宗教心は「道」であり、大道であります。
 「道は理なり」と、存覚上人は述べておられます(全書・二・二八九・『六要鈔』)が、わたしたちのうえに、ひらかれているその宗教心を理として、「道」と名づけるのであります。どこかに道・大道があるわけではなく、ただ理として名づけるのであります。わたしたちのうえに生まれ、しかもわたしたちをつつみ、歩ませる宗教心の構造的理由によって、「道」と名づけるのであります。このように「道」と名づけられる構造をもった心は、本願の宗教以外にはありません。それ故に本願の宗教の宗教心を「道」といい、大道というわけであります。

   我 と 汝――二尊のみこと――

 さらにこの宗教心は、釈迦・弥陀二尊のみことに、たまわったものでありますから、他力の大道といわれるのであります。 

汝、一心に正念して、直ちに来れ。我、よく、汝を護らん。善導大師「二河譬』・全書・一・五四〇)

と、阿弥陀仏から呼びかけられるところにひらかれる道であります。わたしたちは、自己のことを、「我」といっておりますが、その「我」を、「汝よ」と阿弥陀仏から呼ばれるのであります。「我」が「汝」に転換せしめられるところの心、これが宗教心であり、求道心であります。まったく、わたしたち自身を、根源から質的に変えるような心であります。その心は、呼びかけられる形でおきるのであります。わたしたち自身からは、おきるものではありません。
 もう一面に、このような心は、釈尊のすすめによらなくては生まれないのであります。釈尊とは教主のことであり、『歎異鈔』のいい方では先師であり、「よきひと」であります。阿弥陀仏の呼びかけ、すなわち、本願の念仏を身にうけた人のことであります。釈尊、つまり「よきひと」とは、たとえば月をゆびさす指であります。指によってさし示された月を、わたしたちは見ることができるのでありましょう。釈尊の勧めとは、月をさす指にあたります。たとえ、阿弥陀仏に呼ばれていても、釈尊の勧めがなければ、わたしたちに、求道心・宗教心はおこらないのであります。一つの例をとってみますと、この『歎異鈔』という書物(教法)となって阿弥陀仏が呼びかけられていても、だれかの勧めがなければ、『歎異鈔』を真に読もうとする心はおきません。そのように釈尊のすすめと、阿弥陀仏の呼びかけ、つまり、釈迦(釈尊)・弥陀二尊によって、はじめておきる宗教心でありますから、他力の大道といわれ、本願念仏の大道といわれるのであります。
 さらにまた、わたしたちが以上のような他力の大道という意味をもつところの宗教心にたちあがったとき、このわたしたちが人類の象徴になる、そういう道であります。宗教心をもった人間が、人類の求道の象徴になるのであります。いいかえれば、宗教心をもった人間が、人類の道となるのであります。煩悩つよく、日常性を離れることのできないところの、まさしく、凡夫であるわたしたちが、他力の大道を求め、歩むとき、凡夫そのまま人類の求道心のめじるしとなり、道となるのであります。個人的人間が求道にたつとき、個人性を超えて、人類的意義をあたえられるのであります。かかる意味からも、純粋なる宗教心は「路」ではなく、「道」であります。
 以上、ながながと、わたしたちのうえにひらかれた、宗教心・求道心、すなわち、願生心というものの広く、大きく、かつ深い意味のあることについて学んだのであります。この心を、以上の意味から、善導大師は白道と名づけられております。親鸞聖人はこの善導大師をうけられて、さらに「道」と「路」にわけ、本願一実の大道、または無上の大道とたたえられているのであります。

 『歎異鈔』全体、とくに第一章は、かかる本願の大道を説かれているのであります。この第一章を、曾我先生は
 第一節・念持の法体を標す…………「弥陀の誓願」以下の文
 第二節・信心為本を標す………‥…「弥陀の本願には」以下の文
 第三節・悪人正機の信相を顕す……「そのゆえは罪悪深垂」以下の文
 第四節・現生不退を結す……………「しかれば本願を」以下の文
の四節にわけておられますので、その指示にしたがって学んでいくことにします。



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