『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

五 前序  悲  歎

(ひそ)かに、愚案(ぐあん)(めぐ)らして、(ほぼ)、古今を(かんが)うるに、先師口伝(くでん)真信(しんしん)に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、(さいわ)ひに、有縁(うえん)の知識に依らずば、(いか)でか、易行の一門に入ることを得ん()。全く、自見(じけん)の覚悟を以って、他力の宗旨を乱ること莫れ。(よっ)て、故親鸞聖人御物語の趣、耳の底に留まる所、(いささか)、之を(しる)す。(ひとえ)に、同心の行者(ぎょうじゃ)の不審を散ぜんが為なりと云々。(定本・親鸞聖人全集・第四巻言行篇1・3・蓮如上人書写本を底本としたものによる。原漢文)



   現在から過去へ――古今をかんがうる――

竊かに、愚案を廻らして、粗、古今を勘うるに、先師口伝之真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思うに。

 西本願寺に、蓮如上人の御直筆の書写本が伝えられていますが、それによりますと、前序は漢文体で書かれています。いまは、それを延べ書にしましたが、いよいよ本文にはいって学んでいくことにします。まず、はじめの言葉の「ひそかに」(註1)とは、善導大師(六一三−六八一・中国)の言葉で、親鸞聖人は本願とか、光明とか、という宗教的世界を述べる場合に、この言葉をもちいられています。また、教学的概念を説かれるときは、曇鸞大師(四七六−五四二・中国)の「謹んで」という文字をもちい、厳密に、それぞれ、使いわけておられます。唯円は、親鸞聖人の使いわけられている心をうけているのでありましょうから、この、前序の最初の「ひそかに、愚案を廻らして」という言葉は、「しずかに、深く、宗教的世界・本願の世界を、うかがってみますと」という意味でありましょう。
 音楽の場合に、「節符(楽譜)は伝えられるが、曲そのものは伝えられない」ということを、かつて聞いたことがありますが、仏道の歴史も、そうでありましょう。「経典はつたえられるが、宗教そのものは、つたえられない」のであります。仏道が展開する原理は、理知的・日常的人間を超えています。しかし、仏法にめざめた人間が、仏道を荷負しなければなりません。たとえ人間が、仏法にめざめたとはいえ、日常的人間の業がまったくなくなったのではありません。やはり、とるに足らぬ人間であります。いよいよ、凡夫であります。その凡夫が、日常的人間を超えた、仏道の歴史を、引きうけて語りかけるのでありますから 

 ひそかに、愚案(愚かな思い)をめぐらして

と述べられるのであります。高い姿勢ではありません。しかし、単に、謙虚であるのではありません。謙遜しているのではありません。小さな人間が、その小さな人間を超えた、大きな世界、大きな問題に向かうのでありますから、この「ひそかに」という言葉は静かでありますが、深く強い意欲を、表白している言葉であります。 

 古今をかんがうるに

 古今とは、親鸞聖人の御在世の「(いにしえ)」と、滅後(めつご)の「今」ということであります。ながくお育てをうけた唯円にしてみれば、御在世の時代ということは、今、異端の人々を前にして、なお、感慨ふかいのでありましょう。
 歴史は、順観すれば、過去から現在へでありますが、歴史に当面するときは、現在から過去への逆観であります。現在に当面したものに、すなわち、現在を引きうけるものには、過去が生きてはたらくのであります。また生きた過去をもつものだけが、現在を、真に、引きうけることができるのであります。過去を否定すれば、それは、歴史否定の立場でありまして、現在の足場もくずれてしまいましょう。唯円は、親鸞聖人なき後を引きうけて、御在世のころに思いをめぐらせるのでありますから、歴史の法則を実証してくれているといわなければなりません。

 いま、過去と現在を、唯円は問題にして、「古今をかんがうるに」と述べていますが、古今をかんがうるところに、未来の場がなりたちます。過去・現在、いいかえれば、現在から過去へのふりかえりがないところには、未来の方向は生まれないのであります。未来を先取するためには、どうしても過去をふりかえり、過去に聞かねばなりません。過去が生かされるよりありません。退一歩が、真の前進を生む原則であります。
 現在から未来へは、断絶あるのみであります。ただ、過去の方向に退一歩すれば、そこをとおして未来は、おのずからうかがわれるのであります。また、未来は直線的に、現在に来ることはなく、過去をとおして、現在するのであります。未来と現在は、このように過去を媒介として、接しあうのであります。
   

 この、過・現・未の問題を、唯円は前序に述べているのであります。すなわち、眼の前の、異義に走っている友を見て、なんとか同じく親鸞聖人のところまで、お互いにはげましあって道を求めあった友を……と、願いかけるとき、おのずから、思いおこされるところのものは、「先師口伝の真信」であります。また、先師のところにふりかえって、はじめて、後学相続の疑惑をはらす方途が生まれるのであります。唯円は、この前序に歴史の法則を、身をもってあきらかに示しておられるのであります。

   伝承されたもの――先師口伝の真信――

 そこで、「先師口伝の真信」をかえりみるということになりますが、すなわち、過去に退一歩するということであります。「先師口伝の真信」とは、「親鸞聖人が、身をもって伝えてくださった、真実信心」ということであります。
 口伝とは、秘密に伝授するというのではなく、身をもって伝承(註2)されたものという意味であります。また、真実信心・純粋な宗教心は個人的生産のものでなく、かならず伝承されたものでなければなりません。個人的立場において作られたものならば、私的なものであって、真実とか、純粋とかという文字はつけられません。
 さきに、歎異の精神のよりどころは、修多羅――釈尊の説かれた経典であるということを注意しておきましたが、修多羅・経とは、縦糸という意味であります。ここに、伝承という意味があります。仏教の教えは、縦糸のように、伝承されるべきもの、伝承されてきたものという意味を、修多羅・経という文字があらわしているのであります。このように伝承されてきた教えが、歎異の精神の、よりどころとなるのであります。この伝承されてきた教えが、唯円にとっては、とりもなおさず、「先師口伝之真信」であるわけで、親鸞聖人が身をもって伝えてくださった、真実信心であります。
 伝承とか、歴史とかということを、具体的に「先師」として、あおぐことのできるところの、「よきひと」をたまわっている唯円において、伝承・歴史、いいかえれば、過去が真に生きてくるのであります。観念性をやぶって、真実信心・純粋なる宗教心が、唯円に生きてくるのであります。ここに、『歎異鈔』の特徴があります。『歎異鈔』の文章が生きている原因が、ここにあるわけであります。「先師」に面授(めんじゅ)し、口伝をうけたところに仏道の歴史すべてが、生命をもつのであります。宗教が、観念をやぶって、具体的事実となるのであります。
 その、真実信心という、真実の二字は、さきにもふれましたように、純粋という意味ですが、他力という意味歴史的という意味であります。すなわち、真実信心とは、他力の信心・伝承された信心ということであります。善導大師・法然上人・親鸞聖人・唯円房と伝承されたのでありますから、他力よりたまわった信心であります。
 その内容となるものは、善導大師の『観経疏』に説きあかされている、二種深信(にしゅじんしん)であります。これが、『歎異鈔』をつらぬいている精神でありますから、たびたび、学ぶことになりましょうが、いまはとりあえず、少しふれておくことにします。この善導大師の説かれました二種深信が、法然上人をとおし、親鸞聖人の身をくぐって唯円にまで伝えられてきたのであります。
 しかし、唯円は直接おあいして育てられた、親鸞聖人の身からうけたのでありますから、唯円にとっては、善導大師の二種深信ではありません。ひとえに「先師口伝の真信」であります。唯円にとっては、経、すなわち、縦糸は親鸞聖人となって、いまここにあるのであります。人類の歴史・仏道の歴史は、「先師口伝」として集約し、語りかけられているのであります。それをうけて、唯円の心に、身に、深く自覚せしめられた、これが、真実信心であるわけであります。

   展開する宗教心――二種深信――

 さて、善導大師の二種深信(註3)は、宗教心の展開をあかすものとして、大きな課題をもつのでありますが、やはりいまはとりあえず、二種深信の文を引いて、少しふれておくことにします。
 善導大師の二種深信の文は、『観経疏・散善義』の三心釈のうちに説かれているものであります。()深信(じんしん)、法の深信の二つにわけられているので、二種深信といいます。本文を引用しますと 

一つには、決定(けつじょう)して、深く、自身は、現に是れ、罪悪生死(ざいあくしょうじ)凡夫(ぼんぶ)曠劫(こうごう)よりこのかた、常に(もつ)し、常に流転(るてん)して、出離(しゅつり)(えん)、あることなしと信ず。

これが、機の深信の文であります。これを第一深信といいます。第二深信の法の深信は 

二つには、決定して、深く、彼の阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑なく、(おもんばか)りなく、彼の願力に乗じて、(さだ)んで、往生を()と信ず。(全書・一・五三四)

と、述べられています。
 仏教における宗教心・帰依の心を、天親菩薩(てんじんぼさつ)(五世紀頃・印度)は、「我一心(がいっしん)」と述べられていますが、この一心をうけて善導大師が、二種深信をひらかれたのであります。天親菩薩は、自己の宗教心の告白として「我れ一心に」――我一心――と表白されたのでありますが、善導大師はそれをうけて、自己における宗教心の展開を、二種深信と説かれたのであります。第一の機の深信とは、歴史的実存(註4)の自覚であります。第二の法の深信とは、実存の自覚のところにひらかれる、宗教的感情の世界といっていいでありましょう。
 天親菩薩が、我一心と表白された宗教心を、善導大師が、二種深信にひらかれますと、宗教心は、実体的・観念的に理解されて、二種に表白しなければならないという誤解を生むことになりました。そこで従来から、「二種一具(にしゅいちぐ)」と、二種別々のものではない、一つのものだと、注意されてきました。が、この二種の深信が、どう一具、どう一つであるかということはあかされておりませんでした。
 この点を、曾我先生が『歎異抄聴記』に、「二種深信の開顕に於ては、機の深信が眼目である」と教示(註5)されていることは注意しなければなりません。この教示から考えますとき、『歎異鈔』後序(註6)に、親鸞聖人が「本願のかたじけなさよ云々」と仰せになっているお言葉をうけて、唯円は、善導大師の、機の深信に照らして自身の機の深信を述べられております。そこには、法の深信の言葉はひいてありません。機の深信に法の深信をおさめられて、機の深信のみを述べられているのであります。
 考えてみますと、人間としての歴史的実存の自覚のあるところに、おのずから、宗教的感情の世界はひらかれるのであって、機の深信の内面にひらかれるのが、法の深信であります(註7)。荒い言葉づかいですが、二種深信を、自覚と内なる感情(純粋感情)という表現を用いて考えてみます。(実は、二種深信は、ともに、信・自覚の問題ではありますが)そのとき、自覚と感情の関係は、自覚のあるところに、感情の世界がひらかれるのであって、自覚から感情へと展開する関係にあります。自覚と感情が、二つ、別々にあるのではありません。それともう一面に、わたしたちのうえに、まず、生まれでるものは自覚であります。自覚のあるところに、おのずから、ひらかれるのが内なる感情の世界であります。この意味で自覚を論ずるとき、感情の問題をあげつらう必要はありません。自覚の一点をおさえるとき、感情の世界はおのずから、ひらかれるのであらますから、いま、二種深信の問題を、自覚と感情の世界という表現を用いて、その関係を考えてみたわけであります。(法の深信とは、感情の世界を深く自覚するという意味で、深信と説かれていることは、いまふれませんが、別の問題として、注意しなければなりません)
 このような関係にある、善導大師があかされました二種深信を、唯円は「先師口伝の真信」として、親鸞聖人からたまわったのであらます。この二種深信が、唯円の生涯の求道をつらぬいて働き、また、『歎異鈔』制作の立場となり、歎異の精神の基準になっているのであります。
 このように、唯円の生涯をつらぬいた二種深信が、『歎異鈔』全体の課題となっているのであります。とくに第二章は法の深信、第三章は機の深信を詳説しています。また、法の深信を「称名念仏」、機の深信を「悪人正機」としてとらえている点が、『歎異鈔』の説き方の特徴でありますことも、一言つけくわえておきます。

   よき師にあう――有縁の知識――
 

幸いに、有縁(うえん)の知識に依らずば、(いか)でか、易行の一門に入ることを得ん哉。全く自見の覚悟を以て、他力の宗旨を乱ること(なか)れ。

 唯円は、先師口伝の二種深信をかえりみながら、本願の宗教の道を、後学の人々に述べるのであります。
 さて、ここに、「有縁の知識」とあるところの知識とは、善知識(ぜんちしき)といって、よき師ということであります。さきの「先師」も、ここの「有縁の知識」も、唯円にとっては、次にでてくる「故親鸞聖人」であります。親鸞聖人が法然上人を、よき師「よきひと」(『歎異鈔」第二章)とあおがれたように、唯円もまた、親鸞聖人を「よきひと」とあおがれたのであります。宗教の世界ばかりではありませんが、とくに、本願念仏の道は、「よきひと」にあうかあわないかが、すべてを決定するといってもよいでありましょう。よき師にあうとき、本願念仏の道は、易行の一門となり、大道となるのであらまして、よき師にあわねば、本願念仏の道も、また、難行道であるにちがいありません。この点を強調しているのが『歎異鈔』の特徴であり、仏弟子・唯円の面目であります。
 『歎異鈔』後序に、唯円が述べておりますが、書物一つをえらぶことについても、よき師が必要であります。(註8
 すなわち、親鸞聖人は、門弟の人々に、聖人の法友の聖覚の著『唯信鈔(ゆいしんしょう)』、隆寛(りゅうかん)の『自力他力事(じりきたりきのこと)』・『後世物語(ごせものがたり)』・『一念多念証文(いちねんたねんしょうもん)』などを写して、あたえられておられ、また、『唯信鈔』・『一念多念証文』などの註釈書をつくってわたされておられます。このことを唯円は、後序に、数おおい聖教のなかから、親鸞聖人がすすめられるもの(註9)をうけて、自己の独断で、えらんではならないと注意をあたえております。聖教には、真実と方便がまじりあって説かれているので、師がえらび、あたえたもうものをうけていかなければならないというのであります。さらに、言外に、親鸞聖人のお言葉であっても、そのなかには、真実と方便とがあるので、心してもちいねばならないということをも、いっていると考えられます。

 このように、書物をえらぶということのえらび方が、大切でありますが、それとともに、読み方ということがまた、大切であります。それをあやまりますと、方向がつかなくなり、どれだけ力をそそいでも、それが、すべて徒労におわってしまうことになります。
 いま、読み方ということを問題にしたわけでありますが、求道における方法論の問題であります。方法は、必ず、その危機・目標とするものによって、定まるのであります。こちらが定めている方法でもって、目標とするものに達することは、絶対にできないものであります。すなわち、仏法を目標とする場合には、仏法が定めるところの方法によらねばならないのであります。でありますから、真の方法が見つかったときは、もう、目標が手元に来たのと、ひとしいのであります。目標を達したに、ひとしいのであります。
 自然科学や人文科学が発達したといっても、科学的方法でもって、宗教にはいることはできません。しかし、明治以来、科学的方法でもって宗教を学ぶという、誤りがつづけられてきたのであります。ようやく今日になってその反省期に至ったといってよいでありましょう。しかし、なお、本願の宗教にはいるための真の方法について、本願の宗教を求める人の中の多くの人々には、まだまだ、考えようとされておらないと思われます。
 唯円は、「わたしは、仕合せにも、よき師にあい、道を教示された」という感動をもって、その感動から、「自見の覚悟」をもって、他力の教えを乱してはならないと、自己の独断をいましめているのであります。「有縁の知識による」・「よき師のみちびきによる」、これが、本願の宗教の方法であります。「よき師」によるとき本願の宗教は、易行となるのであります。人間的努力を不用とするのであります。しかも、その「よき師」は、「さいわいに縁をもつ」ものであります。人間の予定や、計画や、期待を超えたものであります。「よき師」に出あうということは、不思議の世界の問題であります。他力の世界の事件であります。「さいわいに」と、唯円を心から感動せしめ、感嘆の声をあげしむるものであります。親鸞聖人が、『教行信証』の総序に 

()(がた)くして、今、遇うことを得たり。聞き難くして、(すで)に、聞くことを得たり。(全書・二・一)

と、法然上人との出あいについて、述べられている感動と同じく、有縁の知識にあい得た感動を、弟子・唯円はここに、「さいわいに」という表現で述べているのであります。

 唯円は、この感動から「自見の覚悟をもって、他力の宗旨をみだるることなかれ」と、人々に、自己の独断をいましめているのであります。本願の宗教・他力の宗教にはいるには他力の方法によらなければなりません。自見の覚悟・自己流の独断では、他力の宗教の根本義を乱すことになるとなげきいましめているのであります。
 さて、この自見の覚悟ということでありますが、自己の独断という意味であり、ひいては、理知的立場にたった認識という意味であります。他力の宗教を、自力の立場にたってひらこうとすることでありますから、自力的見解ということでもありましょう。
 人間が、考えたり、見たり、知ったりするところの認識に、大別して、二面あります。つまり(註10

  ┌客観的知−理知的認識−知識−分別智
  |
  │             ┌無分別智
  └主体的知−理性的認識−智慧┤
                └後得分別智

であって、この二つの認識の別をとりちがえますと、宗教そのものにはまったくふれられないことになります。客観的知・理知的認識の立場から、主体的知の世界をうかがい知ることは、不可能であります。しかも、近代的教育では、主体的知の問題は、きれいさっぱりと忘れ去ったといってもいいのでありましょうから、事は大きいのであります。さらに、智慧の世界は二乗・三乗といわれる小乗仏教からも、うかがい知ることはできないところの、仏智の境界でありますから、事は大きく、かつ、深く重いのであります。
 いまや、自見の覚悟というものを、急ぎひるがえして学ばねばなりません。そうでありませんと、宗教・仏教を学ぶとしても、救済の問題とは関係なくなってしまいます。宗教そのものから、かえって遠ざかることになってしまいます。しかし、わたしたち人間は、客観的知の立場は離れ難く、また、おちいり易いのでありますから唯円は、この、客観的知の立場は離れ難く、おちいり易い――という痛みをもって、「あやまりをおかしてはならぬ」と呼びかけているのであります。

   耳の底にとどまるところ
 

 故親鸞聖人御物語の趣、耳の底にとどまるところ、いささか、之を(しる)す。ひとえに、同心の行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

 さきに、「よき師」にあうことが、本願の宗教にはいる、唯一無二の方法であると説いた唯円は、まさしく、師の親鸞聖人から教えられたお言葉を述べはじめるのであります。聖人のお言葉は、少年の頃から数多くお聞きしていたことでありましょうが、いま、「耳の底にとどまるところ」という、ただし書きともいうべき言葉をつけ加えているのであります。
 この「耳の底にとどまるところ」という言葉に対応するのが、さきの「先師口伝」であります。親鸞聖人が、身をもって伝えてくださった教えだからこそ、客観的立場でなく主体的立場にたって教示されたお言葉だからこそ、耳の底にとどまっているのであります。唯円の身をうごかし、身について離れないのであります。また、「耳の底にとどまるところ」と、唯円が述べているのは、『歎異鈔』の言葉は私の言葉に非ず、というのであります。このような言葉だけが、また、道を同じくし、心を同じくするものの、心をひらくのであります。
 自分が、もっと自由な立場から、自主的に道を求め、教え学んでいくことこそ大切であるように思われ、「先師口伝」によるようなことは、封建的なあり方と一応、考えられるのでありますが、しかし、ここで、人間存在ということについて考えてみたいと思います。
 人間存在は、歴史的存在であります。と申しますのは、歴史を無視しては存在し得ないものであります。「古今を(かんが)うるに」という言葉が、この前序にありましたが、現在からひるがえって、現在を過去に照らして、はじめて今日が確認されるのであり、過去をうけてこそ、現在に生きることができるのであります。また、現在に、真に生きるものこそ、過去を引きうけることができるのでありましょう。この意味で、人間は歴史的存在であります。またさらに、たとえば過去を否定して、新しい方向をうちたてるとします。そのときも、否定するという形で、過去に影響され、過去をうけているのであって、過去がなければ、否定もできず、新しいものも生まれようがありません。この意味で如何なる場合も、過去があって現在、であります。人間は歴史的存在というわけであります。ここに、唯円が「先師口伝」といい、「耳の底にとどまるところ」といっているところの、唯円の表白のうちに、人間は歴史的なものであるという、歴史を、すなわち、本願の歴史を自覚した、感銘を物語っているのであります。
 また、「耳の底にとどまるところ」という表白に、自見の覚悟・客観的知を超えた、深い自覚の世界、すなわち、仏智の世界の伝承の仕方を、示しているといえましょう。理知的立場からは推察することのできない、深層の認識こそ、本願の宗教の伝承の方法であります。真に、生命あるものの伝承の方法であります。
 このような、過去と現在との、深い呼応関係のなりたつところからのみ、未来への祈りは、生まれるのであります。
 関東にいた、それぞれの指導者たちは、親鸞聖人の門弟ですから、それぞれ、親鸞聖人の教え・仰せをかかげて、その勢力の拡張をはかったと思われます。ただ、唯円をして「先師口伝」であるところの、親鸞聖人の教えを中心に、『歎異鈔』を書かしめたものは、あいがたい師にあい、聞きがたい仏法を聞くことを得、この真実教団の弟子の一人に加えていただいたという感動に、根ざしているのであります。自己の勢力を維持し、自己の道場の繁栄をのぞむ心からではないのであります。唯円はこの感動から、志を同じくする人々に願いかけ、呼びかけるのでありました。
 『歎異鈔』の言葉も、唯円の個人的な立場から生まれ出た言葉でなく、『歎異鈔』を制作する意志も、唯円の「わたくし」を超えたものであります。

 『歎異鈔』は、「前序」からみますと、「同心の行者」に、「別序」からみると、唯円の友にみちびかれている数おおくの人々、すなわち、唯円の友の弟子、親鸞聖人の孫弟子に、呼びかけているのであります。また、「後序」からうかがうと、「一室の行者」に、呼びかけているのであります。「同心の行者」といい、「一室の行者」というも、親鸞聖人の伝承のなかに位置している人々であります。いいかえれば、唯円の周辺の人々であります。その周辺の人々に対する祈りが、『歎異鈔』の言葉となっているのであります。しかし、そのまま、今日の人類に願いかけている言葉でもあります。
 たとえ、その言葉が、身近な特定の人に対するものであっても、個人的立場を超え、本願念仏の伝承をうけて願いかけられるものは、また、時代を超えて、永遠の生命を尽すのであります。
 ふりかえってみますとき、この「前序」は、仏道伝承の道理を、人間の深い生命に関する歴史的原理を宣言しているのであります。「前序」に、すでに『歎異鈔』をつらぬく、いや、仏道をつらぬく、歎異の叫びがあげられているのであります。
 つまり、個人的立場から、また、客観的・理知的立場から述べられる言葉は、それが、いかに多言であり、雄弁であっても、人の心に深くきざみ込まれるものではなく、人間の生命を生産しないものであるといわれているのであります。仏道は、そのような立場からは、伝承されないものであると、純粋なる宗教の伝えられる原理を述べて、『歎異鈔』制作の立場をあきらかにされているのであります。


もくじ に戻る / 六 第一章 道理 に進む