『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

四 『歎異鈔』の組織

 『歎異鈔』は、「安心(あんじん)の書」といわれています。「信仰の書」という意味であります。従来から、安心と教相(きょうそう)ということがありまして、それは、信仰と教学と、いいかえられるのでありますが、この意味からすると、『歎異鈔』は、「信仰の書」ではあるが、「教学の書」ではないということになります。しかし『歎異鈔』は、単なる「信仰の書」でもなく、ただ、宗教的世界を述べた「語録」でもありません。
 『歎異鈔』は、親鸞聖人の『教行信証』をうけついで、約百年後の覚如・存覚両上人の著述が生まれるまでの時代をになったものであり、『歎異鈔』独自の教学的組織をもった書物であります。
 その『歎異鈔』の組織について、了祥師・曾我量深先生などの指示によりながら、学んでまいります。『歎異鈔』の本文は、左のように、三序と十八章からなりたっています。
  前序        (原文は漢文)
  前編・師訓十章   (第一章から第十章まで)
  別序
  後編・異義八章   (第十一章から第十八章まで)
  後序
そのあとに、附録のように、法然上人と門弟たちの流罪、ならびに、親鸞聖人の愚禿の命告(みょうこく)についての記事(原文は漢文)があり、最後に、蓮如上人の奥書(原文は漢文)があります。

   『歎異鈔』の三つの序

 まず、『歎異鈔』は、『教行信証』と同じように、序分(じょぶん)が三ヶ所にあると考えられます。はじめの序、これは「前序」ともいうべきもので、本文の最初に、漢文体で書かれています。最後には、第十八章のあと、行をあらためて、「右条々は……」と、書きだされている「後序」といわれるものがあります。了祥師は、この文を「後序」といっておられます。この、「前序」と「後序」の別に、もう一ヶ所、第十章の後半、「そもそも、かの御在生のむかし……」とある文、これを「別序」と名づけてみます。この三ヶ所の文が本文とは別であって、しかも、それぞれに任務をもった文であります。

  ┌ 前序 ―― ひそかに、愚案をめぐらして云々
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  │ 別序 ―― そもそもかの御在生のむかし云々
  |
  └ 後序 ―― 右条々はみなもて云々

 このうち前序を、了祥師は、「序述」といっておられますが、まさしく、『歎異鈔』制作の意を、原理的に述べられているのであって、『教行信証』の「総序」にあたります。後序は、法然上人の門下と親鸞聖人の問答の問題、親鸞聖人の「つねの仰せ」、親鸞聖人滅後の問題など、具体的な歴史的事情にたって、『歎異鈔』制作の意図を述べられています。この後序は、やはり『教行信証』の「後序」に相応するものであります。別序は、了祥師は「初叙由(はじめにゆをじょす)」といわれ、第十二章以下の異義を述べるに先だって異義を批判する動機ともいうべきものを表白されている文であります。第十一章以下の、歎異を説きだすところの序であります。やはり、『教行信証』の「別序」にあたるものであります。
 いま、『歎異鈔』の三つの序を、『教行信証』の三序と相応した内容をもったものとして、書かれている点を述べたのであります。いずれ、それぞれの章にはいってくわしく述べることでありますが、いろいろの点から、『歎異鈔』と、親鸞聖人の主著『教行信証』とは、相関係するところが多い(註1)と考えられるのであります。

   『歎異鈔』本文の組織

 『歎異鈔』の本文は、大きく、別序を中心に、前編と後編にわけられています。その前編十章を、了祥師は「師訓」と名づけられていますが、師・親鸞聖人の仰せのうち、唯円の「耳の底にとどまるところ」を書きつけているのであります。この十章は、唯円自身のよりどころであり、また、『歎異鈔』のよりどころでもあります。また、この師訓十章をよりどころとして、後編の歎異編が生みだされるのであります。
 後序に「大切の証文」とありますものが、種々問題になっているようでありますが、この、親鸞聖人の仰せ、すなわち、師訓十章が、「大切の証文」と、うけとっていいでありましょう。唯円が、親鸞聖人の最後まで、お教えをいただいたことは、数かぎりもないことであります。しかし、耳の底にとどまったところのもの、身にしみて、いまも聞こえるお言葉が、この十章であります。関東の門弟たちは、それぞれ、親鸞聖人の仰せというものをかかげ、それを背景にして争ったのであります。仰せでないものを仰せといって、争いあっているその抗争に責任を感じ、直弟子として、耳の底にとどまった仰せを、「大切の証文」として、前編にかかげているものがこの師訓十章であります。他の門弟たちは、断片的なものをかかげていたのでありましょうが、直弟子の責任として、親鸞聖人の教法を、さらには本願念仏の教団をうけつぐ責任を感じている唯円として、本願念仏の道理をあかすものとして、この十章を、まさしく師訓・「大切の証文」(註2)としてかかげたのでありましょう。
 この、師訓十章のうち、第三章と第十章の結びの文だけが、「と仰せそうらいき」と結ばれている点を指摘して、了祥師は、十章のうち前三章を「安心訓(あんじんくん)」、後七章を「起行訓(きぎょうくん)」と、わけておられます。安心訓とは、信心・宗教的自覚についての師訓であり、起行訓とは、宗教的実践の問題を説かれた師訓というわけであります。了祥師の説を、略図に示しますと

   
 初めの三章をもって、「弘願正信(ぐがんしょうしん)」、いいかえますと、他力の信心を示すとされていますが、その他力の信心・宗教的自覚も、第一・第二・第三章と展開しているのであります。また、このような宗教的自覚から、起行、つまり、実践の問題が生まれてくるのでありますが、その、宗教的実践も一つの組織をもって展開していることをこの略図から知らされるのであります。
 もう一つ、起行訓・宗教的実践の問題でありますが、了祥師は、「邪人異執(じゃにんいしゅう)に対す」と述べられています。邪見な人の、まちがった(とら)執え方を批判された、親鸞聖人の仰せが述べてあるということであります。『歎異鈔』のまさに、「歎異」――異を歎く文は、後編の異義八章でありますが、すでに、師訓のうちの起行訓に、親鸞聖人の「歎異」が述べられていることを、了祥師は示しておられるのであります。そのように見ますとき、初の三章をよりどころとして、いや、第一章をよりどころとして、第二・三章も、起行訓も、異義八章も、さらに後序もすべて、歎異、すなわち、信仰批判を説かれていることを、改めて思うのであります。『歎異鈔』は全巻、歎異の精神でみち、一貫されている書であることになります。しかも師訓は、安心訓も起行訓も、一つの構造をもってそれぞれに、厳密な関係をもちつつ展開されているのであります。この点からも、『歎異鈔』を、単なる「信仰の書」と、見すごすことができないのであります。
 つぎに、後編の異義八章であります。これは、唯円の時代の真宗教団――親鸞聖人門下のなかの異端に対する批判の言葉であります。いわば、「一室(いっしつ)行者(ぎょうじゃ)」(後序)に対する言葉であります。
 しかし、この異義八章も、『末燈鈔・御消息集』などに見られる親鸞聖人の時代の異端や、また、覚如・存覚上人の時代の異端(『口信鈔』・『改邪鈔』『浄土真要鈔』などに、あらわれているもの)などと、その趣を異にするものがあります。『歎異鈔』独自の面目が、うかがわれるのであります。なお、すでに学んできましたように、これら異端に対して、唯円は、単なる批難・否定の態度ではなく、異端者のうちに唯円自身を見いだし痛み惜しむ心から言葉をつくしているのであります。
 なお、思いますことは、これらの異端の意識・反逆する心は、ただ、唯円時代のものと見すごすべきものではなく、今日の課題として考え、学ばねばならないということであります。

   『歎異鈔』を読むについて

 ついでに、『歎異鈔』には、問題のとらえ方、表現など独自のものがあります。各章にはいって、それぞれ述べることでありましょうが、一つ、『歎異鈔』は、『教行信証』とちがって、称名念仏でとおされていることであります。「能信(のうしん)全体を、所行(しょぎょう)の法の上にたてる」説き方が、『歎異鈔』の説き方の特徴であると、注意されている点であります。この言葉は、いいかえますと、宗教的自覚の問題を、称名念仏という形で表現されているということであります。この点を、よくよく注意して読まなければなりません。この点は、『歎異鈔』ばかりでなく、『末燈鈔』などの和語のものは、凡そ、そのようであります。
 称名念仏・念仏申す、という形ですすめられているところは、信心・自覚の問題であると、注意して読みとらねばならないということでありますが、『教行信証』・『和讃』の系列とちがって、『歎異鈔』などの和語の系列になる書物は、いわば、親鸞聖人の「つねの仰せ」であり、「つね」の親鸞聖人であります。だからといって、『教行信証』は論理的で、『歎異鈔』は論理的でなく、直観的であるという区別は、すでに、学びましたように、簡単に肯定し、うけとることはできません。
 ただ、門弟たちに、直接あわれて述べられましたときは、称名念仏が表面にでているということであります。直接に対面される門弟たちは、法然上人の吉水教団の流れをくむ人々であるという心から、法然上人のすすめ方を、そのままもちいられたように思われます。法然上人のお言葉を引いて、仰せになったように思われます。そういうところから、称名念仏が、表面にでているのでありましょう。
 しかし、今日、『歎異鈔』を読む場合には、その点を特に注意して読まねばならないのであります。

 もう一つ、了祥師が「仮名書は、義をよく見て、文はザット通すべし」と、教えられていることも、注意しなければなりません。このことは『教行信証』「化巻」に、『大智度論』の言葉を引用して「義によりて、語によらざるべし」(全書・二・一六六)と、述べられていることからも、仏法の伝統の読み方でありましょう。
 しかし、了祥師が注意をうながされているように、とくに、和語の場合は考えなければならないことであります。一つの和語の言葉を、自己流にいそぎ理解しないよう、原典にかえして考えてみるとか、先輩の指示や了解されているところをとおして、うけとるということが大切であります。


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