『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

二 仏弟子・唯円

 今日から、この会でみなさんと『歎異鈔』を学んでいくことになりました。
 『歎異鈔』は、親鸞聖人(一一七三−一二六三)の教えの流れのなかに、『歎異鈔』の時代をつくったといわれている聖教(しょうぎょう)であります。真宗の歴史のなかで、親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』などと別の、『歎異鈔』独自の世界をひらいた聖教であって、蓮如上人(れんにょしょうにん)(親鸞聖人より八代目、本願寺教団を中興される)も「当流(とうりゅう)、大事の聖教」として認め、『歎異鈔』に奥書(おくがき)註1)をしておられます。
 しかし、明治の後期になって、清沢満之・近角常観師などによって、ひろく紹介されるまで、あまり読まれなかったものであります。それまでは、静かに沈黙していたに『歎異鈔』が、清沢・近角両師によって、その沈黙をやぶられたのであります。経典や聖教というものは、静かに沈黙しているものでありますが、課題をもって問いかけるとき、無限にこたえてくるものであります。この会では、今日の課題、現代という時代の問題をもって『歎異鈔』を学んでいきたいと思っていますが、必ずや、『歎異鈔』はこたえてくれるにちがいありません。『歎異鈔』は、今日としては、古い言葉で書きつけられてありますが、今こそ、生命あるものとして、わたしたちの今日的課題にこたえるものであります。わたしたちが、その新しい意義を『歎異鈔』から学びとるか否かは、わたしたちの問題であります。こちらの問いかけが、真剣であるかないかということであり、また、現代を真に課題としているか、否かということにあります。
 このような心がまえをもって、『歎異鈔』を学んでいきたいものと思っております。

   著者・唯円房

 この『歎異鈔』に、妙音院了祥(みょうおんいんりょうしょう)(一七八八−一八四二)という方が、その生涯をかけられて、『歎異抄聞記』(註2)という名註釈書をのこされました。その了祥師により、その『歎異鈔』の著者は、従来、親鸞聖人の孫の如信(にょしん)上人であるとか、曾孫の覚如(かくにょ)上人といわれてきたものを、親鸞聖人の直弟子の、唯円房であると断定され、今日では、これが定説となっています。
 親鸞聖人の門下に、唯円は二人あって、その一人は、鳥喰(とりばみ)(茨城県常陸太田市)の唯円と、もう一人は、河和田(かわだ)(水戸市河和田)の報仏寺の開基である唯円であります。このうち、『歎異鈔』の著者は河和田の唯円であると、了祥師はいっておられます。この唯円は、俗名を平次郎といい、正応二年(一二八九)二月六日、六十八才で死んだといわれています。その年は、親鸞聖人滅後二十七年でありますから、この説を信ずることにすれば、親鸞聖人がなくなられた時は、唯円は四十一才であって、親鸞聖人と唯円房とは、四十九才ばかりの差があることになります。聖人が、関東から京都へ帰洛されたと思われる文暦年間は、唯円は十余才ということになって、関東において、入門したとは考えられないのであります。唯円は、関東から京都に上京してきて、晩年の親鸞聖人のおそばに、ながくつきそって育てられたのでありましょう。
 また、『慕帰絵詞(ぼきえし)』(註3)によりますと、唯円は、正応元年冬の(ころ)、上洛して、若い覚如上人にあい、善悪二業の問題などを親鸞聖人の直弟子として、お教えしたようであります。『最須敬重絵詞(さいしゅうきょうじゅうえし)』(註4)によると、覚如上人の叔父にあたる唯善房は、河和田に唯円を訪ねて真宗に帰したとあり、『親鸞聖人門侶交名牒(もんりょきょうみょうちょう)』(註5)には、唯円は、常陸河和田の住として、直弟子の中に記せられ、唯善は唯円の門下になっています。
 さらに、いつのころからか、唯円は吉野(奈良県吉野郡下市・真宗本願寺派竜光寺)に居をさだめて、念仏の教えをひろめていたようで、墓がいまものこされています。
 このように、おおよそ、唯円の生涯をたどってみて、そこから考えてみるわけであります。親鸞聖人は、六十二、三才ころ、関東から京都にかえられましたが、その後、関東の人々の求めによって、親鸞聖人にかわって慈信房善鸞(じしんぼうぜんらん)(聖人の長息)が関東に下られました。しかし、かえって関東教団を混乱におとしいれることになり、ついに、建長八年(一二五六)五月二十九日、善鸞義絶(註6)ということになりました。そこで再び、関東教団の人々の願いによって、晩年の聖人のもとで、青年時代からずつと教えをうけていた唯円が、聖人にかわる人として、関東に下っていったものと考えられます。そのとき、唯円は四十三才ばかりでありました。聖人の門下で「大徳(だいとく)」という称号がついているのは、唯円ひとりであるところからも、唯円を迎える関東の人々の心のほどがうかがわれるわけであります。
 その唯円は、いつのころか、関東をはなれて吉野あたりにきて教えをひろめることになったようであります。考えてみますと、もともと、関東の漁師たちには航海の神として、熊野信仰(三重県の熊野神社)があって、熊野参詣をしていましたし、唯円の兄も、地方の代表者として熊野参詣をしたことが、『本願寺聖人伝絵』(全書・三・六五一)にもかかれています。そこでそのとき、弟の唯円も同道して、そのまま関西にとどまったとも考えられます。そのうちに、親鸞聖人もなくなり(弘長二年・一二六二・十二月二十八日・九十才、全書・三・六五三)、その後、聖人の遺族が、聖人の墳墓を中心に争いをつづけていましたが、覚如上人(一二七〇−一三五〇)が聖人のあとをうけつがれることによって、それも落ちつくことになりました。その覚如上人に、唯円は親鸞聖人の教えをつたえたのであります。
 京都の近く吉野にいて、京都のことも、はるか関東の同行のことなども耳にしながら、親鸞聖人の直弟子としての責任を感じていたことと思われます。このようにして唯円は、『歎異鈔』を書きのこさなければならない心情をもたれたのでありましょう。

   教団(僧伽)というもの

 仏と法と僧の三宝が生きているとき、教団(僧伽)の生命はさかえるのであります。釈尊が在世の時代には、釈尊という仏を中心に光をはなっていました。しかし、釈尊がなくなりますと、釈尊の説かれた教え、すなわち、法が中心になることになりました。法とか理といわれるものを中心とする仏教を、聖道門(しょうどうもん)といいます。その聖道門仏教は、ついに法とか理をこまかく探究する姿勢になって、観念的な煩瑣哲学を生むことになりました。このときは、その仏教は堕落したといわなければなりません。親鸞聖人の時代の比叡山の仏教は、このような状態であったと考えられます。『教行信証』の「後序(ごじょ)」(全書・二・二〇一頁)に、「聖道の諸教は、行証(ぎょうしょう)、久しく(すた)れ」と、歎いておられますように、教・法はあっても、その教えの如く、行ずる人もなく、(さとり)をひらく人は、さらになかったのであります。聖道門仏教が、いわば、研究室の研究の対象になってしまって、現実に生きてはたらかなくなったのであります。
 親鸞聖人は、このように堕落した聖道門の比叡山をすてて、法然上人の門下に参加されました。身をもって、本願念仏を説かれる法然上人の教団を、吉水教団といいますが、その吉水教団では、法然上人を中心に、僧俗があつまり、僧伽の精神が生きていたのであります。吉水教団(よしみずきょうだん)は、今日世尊(こんにちせそん)――こんにちの釈尊――である法然上人を中心に、仏法僧の三宝がいきいきとしていたのであります。『教行信証』後序に、「浄土の真宗は、証道、今、盛んなり」と、たたえておられますが、法然上人の門下に加わるということは、このような、真の仏教々団真宗仏教に召されることでありました。親鸞聖人の真宗仏教は、この自覚から出発した仏教であります。
 個人的なことは、まったく書きのこされなかった親鸞聖人が、法然上人との出あいについてのみ、『教行信証』の後序に、くわしく述べられて  

深く、如来の矜哀(こうあい)を知りて、まことに、師教の恩厚(おんこう)をあおぐ、慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(全書・二・二〇三)

と、結ばれています。この『教行信証』後序の、法然上人との出あいの記録は、身をもって、生命ある教団に加わった喜びを述べられているのであり、真宗仏教の意義を宣言された文であります。法然上人を中心とした真宗仏教こそ、釈尊を中心とした仏・法・僧の生きている教団の再興である、その教団に加わることができたのである、と親鸞聖人は感動をもって、書きつけておられるのであります。
 かかる教団・僧伽の精神の生きている教団に参加し得たことを、生涯の喜びとされていた親鸞聖人に、身近くつかえていた唯円は、真の共同体の精神・僧伽の生命に聖人の身をとおして、じかにふれていたにちがいありません。

 また、親鸞聖人が八十余才にもなって、関東にのこした門弟の、信仰の動揺に苦悩されていたこと。その門弟の動揺をしずめるために関東に下られた善鸞が、かえって、関東門下を混乱せしめる結果になったため、ついに義絶されることになったことなど。唯円は、聖人のかたわらにあって、教団の重みを感じていたことでありましょう。親鸞聖人が、関東の人々へくばられる配慮や、長息の善鸞を、私情を超えて義絶される聖人の苦悩と決断などをとおして、親鸞聖人が、願いとされる教団の生命・僧伽の精神の、重大さを感じとっていたにちがいありません。その唯円が、善鸞のあとをうけて、関東教団へ派遣されたのであります。けれども、唯円が関東へ下っていっても、関東の問題は、解決されたようではありませんでした。

 やがて、親鸞聖人もなくなります。いよいよ、親鸞聖人の教えを誤解し、教えに反逆していく人々も多くなってきました。

まことに、われもひとも、そらごとをのみ、もうしあい候なかに、ひとつ、いたましきことのそうろうなり(全書・二・七九三)

という書きだしで、『歎異鈔』後序に述べられていることがあります。
 それは、関東に鹿島門徒(かしまもんと)(茨城県)とか、横曾根(よこぞね)門徒(茨木県)、高田門徒(栃木県)などが地域的に生まれ、その門徒が、各々、自派の勢力を強めるために、「親鸞聖人の仰せ」というものをかかげて、はげしく争っていたのであります。しかし、その人々がかかげている「親鸞聖人の仰せ」は、唯円からみれば、まことの仰せではありません。また、このような教団の動きそのものが、親鸞聖人が教団にかけられた願いとは、まったく異なるものでありますから、唯円は、いかりなげくのであります。遠く関東をはなれ、身は吉野の山中に住して、年老いた身で力およばぬこととはいえ、黙しておれない唯円の教団への願いが、『歎異鈔』を生むのであります。『歎異鈔』は、唯円が、親鸞聖人から身をもってうけてきた教団の願いが、表白されているのであります。真の共同体の意志が、表白されているのであります。

()親鸞聖人のおおせごとそうらいし趣、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいだしまいらせて、かきつけそうろうなり。
かなしきかなや、さいわいに、念仏しながら、ぢきに、報土(ほうど)にうまれずして、辺地(へんじ)にやどをとらんこと。
一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなく筆をそめて、これをしるす。名づけて歎異鈔というべし。外見あるべからずと云々。(全書・二・七九三)

と、『歎異鈔』を結んでいる言葉に、唯円の願いが表現しつくされています。このようにして、聖人滅後二十年から二十五年前後の間、唯円房の六十余才ごろに『歎異鈔』は制作されたのであります。


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