『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

一 共同体の意志

   ――序にかえて――

 『歎異鈔』をつらぬく精神は
 本願であります。
 僧伽(さんが)の精神であり
 共同体の意志であります。

   現代をひらくもの

 歴史学者は、人類の歴史を、古代・中世・近代・現代と区分しております。それを、簡単に説明しますと、古代は、自然的人間の時代、すなわち、人間が自然のままに生きた時代であり、それに対して、中世は、宗教の時代、すなわち、自然のままに生きることに一つの壁にぶつかって、神を見いだした時代といわれます。次の近代は、再び、人間の時代といわれますが、古代の自然的人間とちがって、人間が自覚をもって動いた時代であります。この近代的自覚をもった人間によって、いわゆる、科学が発見されることになり、こんにちのごとき、人間の繁栄をもたらした時代が近代であると考えられています。次の、現代という時代は、再び、宗教の時代であるといわれます。しかし、中世的な宗教の時代ではありません。中世を宗教の時代ということは、神の時代ということですが、現代を宗教の時代というのは、神の時代ということでなく人間が内面化する、人間が内観の眼をひらくという意味の、宗教の時代であるといわれます。
 こんにちは、近代から現代への転換の時といわれますが、もうすでに、現代という時代に、ふかくはいりはじめている時でありましょう。

 いま、この、現代という時代を考えてみましょう。近代という時代の特徴をあらわす言葉として、歴史・社会・人間、という言葉がもちいられ、現代をあらわすものとして、世界・人類という問題かとらえられています。
 たとえば、そのうちの、人間という言葉一つをとってみましても、人間という言葉は、近代以前では、最高度に発達した、有機体であり、万物を支配するものというのが、人間の概念であったのであります。つまり、動物に対する概念であったものが、近代になって、人間そのもの、人間性という意味をもった言葉になりました。また、人類という言葉も、もとは生物学の言葉で、哺乳類の一種が人類であったのですが、第一・第二次世界大戦を経て、共同の運命のために、互いに手をとりあって行動をともにするもの、という意味に理解される言葉になっています。現代という時代において、人類という新しい人間の形態が問題になり、出現してきたのであります。
 もう一度、言葉をかえて、近代・現代という時代を考えてみますと、近代は、個人の自覚、個人的人間を見いだした時代であり、現代は、共同体の自覚の時代ということができます。
 しかし、実際問題として、もうすでに、現代は、足もとにきているのであります。と申しますことは、もはや個人とか、一つの国とかでは背負いきれない、人類共同の運命ともいうべき問題が、山づみになっており、ともに、心配しあっているからであります。
 近代科学が生んだところの原子力の問題といい、公害の問題というも、単なる一国、一地方の問題ではないからであります。

 現代ほど、深刻、かつ、全体的危機の時代は、歴史上いままでになかったといえます。現代ほど、人類共同の歴史的運命を意識している時代はありません。その、共同の運命のために、互いに手をとりあって行動をともにしなければならない時代であります。
 宗教においても、政治や経済・科学・学問・芸術においても、信仰・言語・主義・民族・国籍などの相異を超えて話しあい、努力しあわなければならない時代であります。そのような動きが、すでにはじまっているのであります。
 信仰を異にし、言語・民族などを異にする多くの人たちが、世界のすみずみから、人類の一員という自覚をもって参加し、人類共同の運命について、話しあいの努力をおしまないのでありますが、これは、現代という時代がもっている、大きな実践であります。こんにち、科学者会議だとか、平和会議だとか、大きな、または小さな会が、世界のあちこちにひらかれているのであります。そこに、現代という時代に、人類という新しい人間が、すでに出現し、動いている証を見るのであります。
 そこでは、共同体の自覚をもって共同の運命をひらくために、共同体の意志が見いだされ、その意志にそって行動されていくことでありましょう。

 しかし、ここで考えなければならない問題があります。
 それは、一つの願いをもって、人類共同の問題について話しあいをつづけるとき、その話しあうそれぞれの立場が問題であります。たとえば、平和の問題を話しあうとき、争わぬものから争っているものへ、という形では真の話しあいは生まれません。たとえ一つの願いをもっているとしても、苦しめられているものたちと、苦しめているもの、また、被害者と加害者、正義の者と異端者など、という意識――それが、たとえ無自覚的であっても――そういう意識がある場合は、人類という共同体の運命はひらかれません。
 ここにいたって、現代という時代をひらくところの、共同体そのものの問題を考えねばなりません。どのような共同体が、人類のために新しい世界をひらくのか、ということを考えなければならないのであります。

   真の共同体――僧 伽――

 真の共同体とは、人々が多くあっまったもの、烏合(うごう)の衆でないことは、勿論であります。願いを一つにするもの、共同の意志をもったもののあつまりであります。
 いうまでもなく、人が多くあっまっただけでは、群衆というべきものであります。また、個人的な趣味とか利益とかを目的にあっまった団体も、真の共同体とはいえません。群衆とか、団体とか、単なる社会約・国家的などの問題について要求をもったあつまりなどと区別して、真の共同体ということを考えたいのであります。
 そこで考えられますことは、こんにちの人類の課題を、深く自覚した人々のあつまりでなければ真の共同体とはいえません。しかしまた、そのあつまり方が問題であります。さきにあげました平和問題の会とか、科学者会議とかがそれにあたりましょうが、いわば、それらの会は、自覚者と自覚者のあつまりであります。しかし、自覚者と自覚者のあつまりは、たしかに、一つの願いを共同にする共同体でありますが、それだけでは、無自覚者をつつめないという問題がおきてくるのであります。無自覚者をつつめないところの、自覚者と自覚者のあつまりだけならば、それはただ単に、偏狭な、閉鎖的なものになります。それが、どれだけ勝れたものであっても、自覚をもたないものとは関係のない、特別の団体になってしまうのであります。
 そこで、仏教は、この共同体の問題を、どのように考えてきたかを、学んでみようと思います。

 仏教では、共同体を僧伽(そうぎゃ・さんが)と名づけています。僧伽とは、和合(わごう)と訳する言葉であって、仏の教えに統理されたあつまりであります。こんにちでいえば、教団(きょうだん)であります。
 仏教で、三宝(さんぼう)註1)ということを申しますが、仏宝(ぶっぽう)法宝(ほうぼう)僧宝(そうぼう)であります。

    ┌ 仏宝 − 法にめざめ、法を説法する師
    |
 三宝―┤ 法宝 − 人類の根源的課題にこたえる法則
    |
    └ 僧宝 − 法をもとめ学ぶ、仏弟子の集団

 この三宝のうち、まさしく、僧宝を僧伽というのでありますが、この三宝、すなわち、仏と法と僧が生きてあるところを僧伽といいます。仏とは、人類の根源的課題に、根源的にこたえる法・法則・道理にめざめ、その法を説き、人類を導く人すなわち師であり、教主であります。僧とは、その師に導かれる弟子であり、友であります。この、仏と法と僧とは人類の宝物とすべきものであるという意味から、三宝と名づけられているのであります。この三宝が生きているところを僧伽(註2)、と名づけますが、この僧伽こそ、仏教の説く共同体であり、現代の課題であるところの、真の共同体のあり方を示していると思うのであります。
 しかし、僧伽の場合、僧・仏弟子は一応、出家者・求道者であります。そのときは、さきに述べましたところの、自覚者と自覚者との共同体にひとしく、閉鎖的なものとなり、特別なものになります。この点から、もう一度、僧伽の問題を考えてみなければならないと思うのであります。
 仏教の共同体(僧伽)の場合、仏は法を求める僧に呼びかけ、願いかけるのであります。いや、『大無量寿経』(註3)では、法を求める友(僧)に呼びかけるばかりでなく、十方衆生(じっぽうしゅじょう)に、さらに、一切の恐懼(くく)(おそれおののくもの)に呼びかけられています。仏が呼びかけ、願いかけるのは際限がありません。
 この仏の願いかけがあるところに、真の共同体はひらかれるのであります。この仏の願いかけを、本願といいますが、仏の本願のところにひらかれる共同体こそ、閉鎖性をやぶった、広大にして無辺なる共同体というべきでありましょう。この共同体は、仏の教え(法)に、いま、帰依しているもの(僧)も、やがて、帰依するであろうものも、また、仏に無関心であるものも、いや、仏に反逆しているものも、ひとしくつつまれる共同体であります。『大無量寿経』に説かれている本願は、かかる問題を提起しているのであります。

   共同体の意志――阿弥陀仏の本願――

 ここにいたって、共同体の問題は、僧伽に願いかける、仏の本願そのものの問題になります。仏の本願のあるところに、平等一味の共同体がひらかれます。願いかける仏と、願いかけられるものとは、本願のところに一味の関係になるわけであります。いいかえれば、願いかけられるものは(註4)、仏の本願のうちに、すでに、位置しているのであります。仏が本願される、そのこと自体のところに、すでに、願いをうけるものは存在しているのであります。本願をおこされた仏のうちに、本願をうけるものが、すでにつつまれ、仏のもとにむかえられている、このような本願が、『大無量寿経』にとかれる、阿弥陀仏の本願であります。
 また、その反面、本願をうけるもののうちに仏は来っているのであります。苦悩をもつものを救わんという本願は、苦悩するものをわがこととしているのであって、苦悩するもののところに、本願の仏は、すでに、来りたもうているのであります。

 本願をおこす仏と、本願をうける人間との関係は密であります。本願を媒介として、人間は仏のところに行き仏は人間のところに来る、という相互関係をもちます。そのような、仏と人間の関係を生むことができるかどうかは、仏の本願が、どれほど深く人間の苦悩を見ぬき、同体感情をもっているかどうかに、かかわるのであります。仏は、人間の苦悩を、人間自身よりも深く感知し、人間自身は無自覚であるにもかかわらず、人間よりも悲しみ願いかけるものであります。かがる内面的関係を、本願という形で象徴しているのであります。いわば、裸と裸の関係であります。純粋本能(註5)の世界の関係であります。
 仏の本願として、仏教における、共同体の相互関係について学んだのでありますが、本願とは、言葉をかえますと、純粋意志(註6)であります。その共同体が、真の共同体であるかどうかは、その共同体の意志が、純粋であるかどうかにかかわってくることになります。
 ここに、共同体の問題は、その共同体の意志という問題になります。

 近代から現代への転換期にあらわれたところの、人類の歴史上、いまだかつて見られなかった全体的危機を克服するためには、その危機の性格をどれほど深く認識しているか、認識していないかが大切な問題となります。
 こんにち、少なくとも広い視野をもって――個人的関心をふりすてて、一つの動きに参加し、また、関心をもっている人々は、その人の認識が深いとか、浅いとかは別として、なんらかの形で、世界的危機の問題に関係していると考えられます。たとえそれが、暴力をふるう若者の団体であっても、また、冷静な大人たちのあつまりであっても、世界の全体的危機を、どうして克服するかの問題に、つながっていると考えられます。それが、政治家の動きであっても、科学者の運動であっても、教育家の研究の会合であっても、みな、そうであります。それほど現代という時代のなかに、わたしたちは、すでに引きこまれているのであります。
 しかし、ここで考えねばならないことは、それらの危機を克服するという、一つの祈りをもった動きによって真に、こんにちの、現代史に課せられた人類的危機が超えられるかどうかということであります。一つの例として、暴力をふるう若者の団体を問題にして考えてみますとき、それらの若者の動きによって、現代の危機が超えられるでしょうか。彼等がもし、現代の危機を、自分たちの手で超えられると心の底から思うているのならば、そのこと自体が問題とされなければなりません。彼等の、「いさみ足」ともいうべき行動によって、この、歴史的転換期の問題が、真に、解決されるとは誰も思っておらないでありましょう。「いさみ足」はやはり「いさみ足」であって、新しい何かを生み出すということは、めったにありません。「いさみ足」は必ず、自己否定いいかえれば自己転換を必要とするのであります。
 「いさみ足」の彼等自身が、その「いさみ足」の自覚をもっていない――このことが、実は、根源的問題であると思います。

 最初に、「現代は、人間が内観の眼をひらくという意味で、宗教の時代である」と申しましたが、「いさみ足」である自己自身が、「いさみ足」であることを自覚しない――ということは、その立場がすでに、内観的でない、現代的でないということになります。若者ばかりの問題ではなく、冷静な大人たちの動きも、そうであります。暴力をふるう若者と少しもかわらないところにたっているのであります。
 「現代は、内面的・内観的である」という定義が了解されるならば、現代の危機の性格も、近代などになかったところの、深いものをもっていることが了解されましょう。たとえそれが、平和の問題であっても、公害の問題であっても、そうであります。もし、そうであるならば、それら現代の危機を超える動きも、内面的な深い立場をとらねば、克服してみようがありません。平和の問題、公害の問題についての具体的な認識が、あるとかないとか、深いとか浅いとか、という外面的なことは、どうでもいいのであります。
 内面的・内観的立場にたった願い、内観的意志(これを、純粋意志とよびたいのであります)をもつか、もたぬかが現代の危機を克服する唯一のポイントであります。そのような純粋意志によらなければ、真に、克服することができないところに、現代の危機の性格があります。
 しかし、さらに考えるとき、このような「いさみ足」とも思われる行動が、世界のいたるところに展開しています。内観的でない、いいかえれば、現代的でない立場から、現代の危機を克服しようとしている姿が、世界のあちこちに見られるのであります。このこと自体が、現代の危機の深さ、克服の困難さを物語っているといっていいでありましょう。

 さらにまた、このように、世界のあちこちにみられる浅薄ともいうべき現実の姿を非難し、評論することは容易でありましょうが、そのこと自体が、また、はなはだ浅薄な、傍観的行為といわねばなりません。
 そうでなく、こんにちの世界の現実から眼をそらさないで、また、どのような問題も、行動も否定しないで、いま、世界人類の意識の底の底に流れつづけ、ふきでようとしている祈り・願いをくみとって、世の人々に、未来の人々に呼びかけ、願いかけていく純粋意志をあきらかにし、確認することこそ、急ぎ着手しなければならないことでありましょう。
 現代芸術を批評して「混沌の中の静けさ」といいます。このごろの芸術作品ほど、混沌に混沌をつみかさねている時代はないと思うのでありますが、その混沌の底に、静かな祈り・意志がきざしているのを感ずるのであります。芸術はもっとも、時代の問題を、いちはやく反映するものでないかと思われますが、このような現代芸術をはじめ、世界のあらゆるところに、こんなところにと思うところに、かえって純粋な祈り、すなわち、純粋意志がふきでようとしているのであります。その、純粋意志を急ぎくみとり、うけとって、人々に呼びかけねばならない時がきているのであります。
 かかる純粋意志が動きはじめるところに、かならず、真の共同体は生まれるにちがいないのであります。

 その共同体が、真の共同体であればあるほど、静かに、深く、呼びかけ、願いかけていくものであり、その動きは、もっとも着実な、強い力をもっているものであります。しかしそれは、一見、非常に静かな動きであります。故に、日常的な、理知的な立場からは、いまのところ、眼にみえないような存在かもしれません。
 要するに、新しい歴史をひらくかひらかないか、こんにちの、世界的・人類的危機を超えることができるか、超えられないかは、純粋意志に根ざした真の共同体が、生まれるか生まれないかの一点にかかわることであります。さらにいいかえれば、わたしたちが、急ぎ、真の共同体の意志を見いたすことにあります。
 このような其の共同体の意志、これが『歎異鈔』をつらぬいているのであります。
 親鸞聖人と、その弟子の唯円房(ゆいえんぼう)によって、真の共同体は、すでに地上につくられていたのであります。また、その共同体の意志は、『歎異鈔』という形で表現されていたのであります。現代史をひらくカギとして、すでに『歎異鈔』は、地上にその姿をあらわしていたのであります。
 わたしたちは、この『歎異鈔』を学ぶことによって、真の共同体の確立に参与し、その共同体の意志をうけて現代という新しい時代をひらかねばなりません。わたしたちに、その力量があるかないかは問う必要がありません。ただ『歎異鈔』を、いかに学び、それをつらぬいている共同体の意志を、いかにうけていくかどうか、ということにかかっているものと思います。


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