『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

註 (補 説)
<八 第三章>


1.縦の関係
 『歎異鈔』の各章は、並列にならべられた語録でなく、立体的に一つの組織をもって整理されている。すなわち、『歎異鈔』の組織自身が、宗教心の展開を示し、宗教心の構造を示しているのである。その意味で第三章・第十章(すなわち、「と云々」の結びの文字のない章)の位置は注意しなければならない。第三章が、
 第四章から第九章までの師訓をひらき、第十章が第十二章以下の歎異八章をひらく分水嶺となるのである。
 ちなみに、了祥師の『歎異鈔』の科文を下記する。(新編真宗大系、第十二巻『歎異鈔聞記』・四)


2.要門
 親鸞聖人は、第十八・十九・二十願を弘願門・要門・真門と名づけられ、第十九願要門は第十八願弘願門に入る要の門という意味である。第三章の自力作善・善悪の問題が、弘願門にはいる「要門」ということになる。すなわち、善悪の問題は、人間の根源的救いの「要門」である。

3.悪いことを・・・人間性がみがかれる
 悪業によって、人間が汚れないで、かえって磨かれるという問題は、『歎異鈔」では
 「罪悪も業報を感ずることあたわず」 (第七章)
 「悪は往生の障たるべしとにはあらず」(第十三章)
 「悪からんにつけても、いよいよ、願力を仰ぎまいらせば、自然の理にて柔和忍辱の心も出てくべし」(第十六章)
 などと述べられている。(註・六・15参照)

4.道徳・倫理の問題
 道徳・倫理は、人間の根源的な問題であること(第一章・第四節・道徳について)、何々するなかれという如きは、誤解された、常識化された道徳であることは、既に学んだのであるが、今は、常識的な意味の道徳として考えるのである。

.七仏通誡偈
 過去七仏が通戒したる偈という意であって、迦葉仏の偈とせられている。この四句は、一切仏教を総括したものとせられ、大小乗八万の法蔵はこの一偈より流出すとせられる。

6.いだけばなり
 「内に虚仮をいだけばなり」と、親鸞聖人加点の高田本(定本・親鸞聖人全集・九・加点篇3・一七〇)には読み切ってあるが、坂東本『教行信証』(全書・二・五〇)には、「内に虚仮をいだいて」と送り仮名されて、次の「貪瞋邪偽姧詐百端にして、悪性侵め難し云々」と読みつづけられている。かくの如く、次下の文と関連して読むとき、聖人の読み方に矛盾がなく、文意も通じ、宗教的感情にも相応することとなる。
 「内に虚仮をいだくことなかれ」という、法然上人の読み方に、かえって矛盾を感ずるのであって、この読み方からも、廃悪修善の残影がうかがわれるのである。浄土の教学樹立に、親鸞聖人をまたねばならね所以の一端を知らしめられるのである。
 なお、「内に虚仮をいだく」問題は、『愚禿鈔』(全書・二・四五五)にも
  賢者の信を聞きて愚禿が心を顕わす
  賢者の信は 内は賢にして外は愚なり
  愚禿が心は 内は愚にして外は賢なり
と説かれている。

7.親鸞聖人のときを待たねばならなかった
 覚如上人の『口伝鈔』(全書・三・三一)第十九章によれば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の言葉は、親鸞聖人が黒谷の先徳(法然上人)より相承されたものであると、如信上人(善鸞の子・本願寺第二代)が仰せられたという意がかかれている。また、醍醐本『法然上人伝記』・第三篇・第二十八条に「善尚以往生況悪人乎事云々」とある。
 それに対して、『和語燈録』巻四に「罪人なおうまる、いかにいわんや善人をや」とあり、同巻二に(全書・四・五九七)「善人なおうまれがたし、いわんや罪人おや」などとあるが、既に述べた如く、法然教学では、善悪の問題は混然としているのであって、「親鸞聖人のとき」を待たねばならないのである。

8.ことに・・・なったのであります
 これらの点は、赤松俊秀著『親鸞』(一六四)に詳説されているが、歴史家としては反論もあろうかと思われるが、今は赤松氏の意見をかりた。

9.いし・かわら・つぶて
 「かようの、あきひと(商人)猟師さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」(全書・二・六二九、『唯信鈔文意』)
 「また、海河に網を引き、釣をして世を渡る者も、野山に猪を狩り、鳥を捕りて命をつなぐ輩も、商をし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり。さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(『歎異鈔』第十三章)
 これらの言葉に、宿業観に徹せられている親鸞聖人の面目がうかがわれるのである。

10.文化
 文化の定義は、近ごろになって甚だ複雑になり、諸説多く、簡単にさだめられないが、語源的には、養育する・耕す・心の培養などの意がある。このことから、「人間が、一つの目的にしたがってその理想を実現せんとする過程」が文化であるといえよう。すなわち、一言にしていえば、人間の歩みといえよう。
 バウル・テーリッヒは、その著『文化と宗教』(一四八)に
 「文化は、精神の次元における生命の自己実現、自己創造であり、宗教は、精神の次元における生命の自己超越である。しかして、宗教は文化の内容であり、文化は宗教の形態である」
という意味を述べて、宗教をひろい意味において考えようとしている。

11.雑行
 「雑行」の名は、善導大師『観経疏』に
 「此の正助二行を除きて、已外の自余の諸善は悉く雑行と名く」(全書・一・五三八)
と説かれている文によるのである。(註・七・34参照)この文を、『選択集』二行章に註釈されて
 「正助二行を修する者は、縦令、別に廻向を用いざれども、自然に往生の業となる。……雑行を修する者は、廻向を用ふるの時、往生の因となる。若し、廻向を用いざる時は、往生の因とならず。……然れば、西方の行者、すべからく雑行を捨てて、正行を修すべし」(全書・一・九三七)
と説かれている。すなわち、諸行(諸善万行)と雑行とは行体は一であるが、能修の機の意志の趣向するところにより、その名がかわるといわれる。いいかれば、浄土に廻向する意志をもったとき、諸行は難行と名づけられることになるのである。善導大師は『観経疏』を結ぶにあたって
 「上来、定散南門の益を説くと雖も、仏の本願の意に望まんには、衆生をして一向に、専ら、弥陀仏の名を称するに在りし(全書・一・五五八)
と説かれているが、この立場にたって、称名以外の行を雑行と名づけられているのである。

12.自力作善の人
 『観無量寿経』の教説によれば、序分の三福の機、及び正宗分の定善の機・散善の機が自力作善の人である。いわば、倫理的宗教の実践者のことを総称するのである。

13.その意志が、いかに純粋であっても、いかに力をつくしても
 第十八願は至心信楽、第十九願は至心発願であり、第二十願は至心廻向である。信楽・発願・廻向という言葉が三願の性格をもっともよく表現していると考えられるが、第十九願の至心発願の意をうけて、「意志が純粋であっても、力をつくしても」という表現を用いた。さらに、この第十九願自力の機の浄土は、懈慢界であり疑城胎宮(註・19参照)であるから、とどまるとか、求道心が停滞するという過失を得るのである。しかも、その自覚をもたないのである。

14.僧伽の意志にそむく人
 第十八願は、必ず第十七願と関連してひらかれるものである。その第十七願は僧伽の原理である。そのとき、第十八願の趣旨にそむく自力作善の人は、第十七願諸仏称揚の願と関係をもたぬ人故に、個人的人間といい得るのである。すなわち、第十八願の意にそむくとき、同時に僧伽の原理(第十七願)にそむくことになるのである。(註・一・2参照)

15.第十九願について、しばらく考えてみたい
 了祥師は、つまるところ、第三章を第十九願諸行往生の問題とされている。念仏に自力を加えるならば、第二十願の雑修の問題であるが、第三章は諸行・雑行のこととされている。第三章の問題を浄土異流の諸行本願義にあたるとされ、専修賢善計の異義としてとらえられている。(『歎異抄聞記』・九六)この点から、既に述べた如く、了祥師の『歎異鈔聞記』は第十九願の『歎異鈔』というべきものである。
 また、第十九願は、世間と仏法との接点になる膜である。修諸功徳の願といわれる題名が、そのことを示しているのであって、諸善万行・万善万行といわれるものを媒介として、仏法に転入せしめる願である。すでに、少しふれた如く万行、いいかえれば、人間の歩み、すなわち文化の問題と宗教(仏法)の接点になるところの、この第十九願は、新しい今日的課題をもつものと考えられよう。この意味から、第三章のもつ課題は、今日的課題といえよう。

16.発願・宗教的決断
 『教行信証』化巻に、深心釈を引用するにあたり、二種深信などをぬいて、第三、観経深信、すなわち忻慕浄土の深信を
 「又決定して釈迦仏、此の観経に三福九品・定散二善を説いて、彼の仏の依正二報を証賛して、人をして忻慕せしむと深信す」(全書・二・一五〇)
及び第七深信を左のように引用されている。
 「又深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除いて云々」
 また『往生礼讃』の引用にあたっても、深心釈をぬいて
 「……凡そ三業を起すに、必らず、真実を(もち)うるが故に」(至誠心釈)
 「……所作の一切の善根、悉く皆、廻して往生を願ずる云々」(廻願心釈)
と述べられて、自己における宗教的決断を説かれている。第十九願に対する聖人の見解をうかがい得るのである。
 すなわち、第一章の「信じて念仏申さんとおもいたつ心のおこるとき」というお言葉を、純粋意欲という言葉にかえて了解したのであるが、今、また、第十九願の意を、宗教的決断・求道的決断・修道的決断ととらえてみたのである。第十九願の意は、世間(日常的世界・外面的世界)から出世問(内面的世界・精神的世界)へ転入せしめる意志であるから、このような言葉をもってとらえてみたのである。

17.親鸞聖人における来迎
 『唯信鈔文意』に
 「来迎というは、『来』は浄土へきたらしむという、是れ即ち若不生者の誓をあらわすみのりなり、穢土をすてて真実の報土にきたらしむとなり。即ち他力をあらわすみことなり。また、『来』はかえるという、かえるというは願海に入りぬるによりて必ず大涅槃にいたるを『法性のみやこへかえる』と申すなり。『法性のみやこ』というは、法身と申す如来のさとりを自然にひらくなり。さとりをひらく時を、『法性のみやこへかえる』と申すなり、……この利益におもむくを『来』という、これを『法性のみやこへかえるというなり。」(全書・二・六二四)
 「迎はむかうるという・まつという、他力をあらわす意なり。『来』はかえるという・きたるという・法性のみやこへむかえてかえらしむとなり。法性のみやこより衆生利益のために、きたりたもう故に、『来』をきたるというなり。」(全書・二・六二六)
と説かれ、また、『御消息』第十一通には
 「来の字は衆生利益のためには、『きたる』と申す。方便なり。覚を開きては『かえる』と申す。時にしたがいて、『きたる』とも『かえる』とも申すと見えて候」(全書・二・七一七)
と述べられている。すなわち、親鸞聖人は、「むかえ・きたり・かえる」という表現をもって、仏々相念の世界・出あいの世界を述べられているのであって、いわゆる、臨終来迎の意味と解しておられないのである。

18.「我が国に生まれんと欲え」
 『教行信証』信巻の欲生心釈に
 「欲生とは、則ち、是れ、如来諸有の群生を招喚したもうの勅命なり」(全書・二・六五)
と説かれていて
  至心信楽、欲生我国……第十八願
  至心発願、欲生我国……第十九願
  至心廻向、欲生我国……第二十願
と、三願ともに「欲生我国」の文字があるが、法よりいえば、すなわち、仏の側から「欲生我国」と呼びかけられる心が、第十八・十九・二十願と三願のつかいわけをされているのではない。第十八願の機にも、第十九願の機にも、ひとしく「欲生我国」と呼びかけられているのである。その「欲生心」を「信巻」に上のように註釈されている、と了解される。(『歎異鈔聴記』三二、註・六・9参照)
 さて、この点から考えて、第十九・二十・十八願の「三願転入」が、親鸞聖人によって表白されている(全書・二・一六六、『教行信証』化巻)ことから、「三願転入」が凡夫入信の必然的過程の如く考えられているようである。しかし、入信の自覚においては、三願の次第をふまねばならないものとは思わぬのである。「三願転入」は、真実信心のひらかれる、論理的解明であると考えられる。(この点は、また機を得て詳説することもあろうと思われる)
 ただ、自覚的には、第十九願から第十八願へ、第二十願から第十八願へと転入するのであって、『歎異鈔』は処々に、かかる転入を述べられているが、第三章・第二節の「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば」というお言葉も、第十九願から第十八願への転入を述べられているのである。すなわち、自力の心を自覚したことが、他力の自覚であり、第十九願の自覚が、そのまま、第十八願の「欲生我国」の自覚である。

19.真実報土と方便化土
 そもそも、浄土は環境の問題であるが、その浄土を、真化二土にわけられ、その化土をあかされているのは、『教行信証』化巻本であるが、親鸞聖人の化土(主観的環境)については
  「化巻」  (全書・二・一四三)『處胎経』の懈慢界・『大無量寿経』の疑城胎宮
  『愚禿鈔』上(同・四五六)疑城胎宮・懈慢辺地
   同   下(同・四七八)胎宮辺地・懈慢界
  「化巻」  (同・一五四)辺地胎宮・懈慢界
  『三経文類』(同・五四七)懈慢界・胎宮
  『末燈鈔』 (同・六五七、第一・二通)懈慢辺地・胎宮疑城
  『浄土和讃』(同・四九三)辺地・懈慢
  『疑惑和讃』(同・五二三)辺地・辺地懈慢・胎生辺地・辺地七宝の宮殿
  『歎異鈔』 (同・七八〇、第十一、十七章)辺地・懈慢・疑城・胎宮
等と、その説かれるところは、まことに多い。「真仏土巻」にも
 「良に、仮の仏土の業因千差なれば、土も、また、千差なるべし、これを、方便化身土と名く」(全書・二・一四一)
と述べられているように、願生者の機に応じて、展開する故に複雑をきわめているのである。しかしそれらは、源信僧都をうけて『處胎経』から引かれている「懈慢界」と、『大無量寿経』をうけて、親鸞聖人の名づけられた「疑城胎宮」との二つに大別し得られる。そして、前者(懈慢界)を第十九願の浄土、後者(疑城胎宮)を第二十願の浄土と、一応、分担し得らるるのである。――『三経文類』・『末燈鈔』の説相から――
 しかし、これらのことは、次の機会をまって詳説することとして今は、『歎異鈔』第三章における第十九願の問題として仮土を整理すれば

 ┌諸行往生―善人往生―非本願の機―臨終来迎―体失往生―第十九願―方便化土
 |
 └念仏往生―悪人往生―本願の機―現生不退―不体失往生―第十八願―真実報土

となろう。なお、また考えられることは、源信僧都においては
  霊山聴衆とおわしける
  源信僧都のおしえには
  報化二土をおしえてぞ
  専修の得失さだめたる(全書・二・五一一『源信讃』)
と説かれているように、専修の者は報土往生、雑修の者は化土往生と並列的に弁立したもうたのである。しかし、それをうけられた親鸞聖人にあっては
 「然るに、願海に就きて、真あり仮あり、是を以て、復、仏土に就きて真あり仮あり」(全書・一四二、「真仏土巻」)
と分類されると共に、つづいて
 「真仮みな、是れ、大悲の願海に酬報せり、故に知んぬ、報仏土なりということを」(全書・同右)
と説かれていて、報化二土の関係を、真実・方便の関係とせられ、転入・転回の問題とされたことは重要なことである。
 すなわち、報化二土は、土(環境)のものがらが二つあるのではなく、土体一である。願生者の主観によって、報化の二にわかれるのである。さらに、一たび、真仏土の光明にふれれば――いいかえれば、本願の宗教における報化二土の構造・関係を学べば――化土は方便化土という意味をもつことになって、かえって真実報土の具体的内容となるのである。化土は、単なる化土でなく、方便化土、すなわち、化土と名づけ呼ばれることとなって、真実報土と同じく、大悲の願海に位置づけられることとなるのである。
 たとえば、色は光によって色となる。また、光は色によって光となる如く、化土(人間が主観的に画いている環境)は、大悲の願にふれたとき、真実報土と転ぜられるのである。転ぜられてみれば、化土は、真実報土に対応する方便化土と名づけられることになるのである。この意味から、真実報土は、無限の化土を、その内容として、それぞれに、方便化土という位置をあたえるものとして、無量光明土である。

20.第十九願の機が生まれる浄土
 「化巻」に
 「真に知んぬ、専修にして雑心なる者は、大慶喜心を得ず、故に、宗師(善導)は、彼の仏恩を念報することなし、業行をなすと雖も、心に軽慢を生じ、常に、名利と相応するが故に云々」(全書・二・一六五)
と説かれている。この言葉は、第二十願の問題として説かれているのであるが、今は、第十九願の機の往生の問題として信用したのである。

21.真実報土に転じていく道程
 先の註・19において学んだことであるが、『歎異鈔』第十七章において問題にされている。すなわち
 「辺地の往生を遂ぐる人、ついに地獄に堕つべしということ、この条、何の証文に見え候うぞや……信心欠けたる行者は、本願を疑うによりて、辺地に生じて、疑いの罪をぬぐいてのち、報土の覚を開くとこそ承り候へ、信心の行者すくなき故に、化土に多く勧めいれられ候」
と述べられている。この問題は、次の註・22と関連して考えることとする。

22.自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつる
 第十九願を、仮令の願といい、また、仮門の教・忻慕の釈といわれている。(全書・一・一五六、「化身土巻」)
 仮令とは、たといということ。この仮令の文字の解釈に、古来、三義があげられている。すなわち
 ①必らず……『望西疏』
 ②仮益――仮りの利益……『六要紗』
 ③不定――たといというはあらましなり……『口伝鈔』
であるが、この三義とも、道程的意味をあらわしているのであろう。「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつ」らねばならぬところにおかれているのが、第十九願の意義である。いいかえれば、第十九願は宗教における道程的意義をもつのである。
 そのことをあかし、こたえているのが、第十九願成就文(『大無量寿経』下巻・三輩文、と『観無量寿経』定散九品の文)である。三輩の文は上輩は沙門、中輩は修善・斉戒等をなし得る人、下輩は諸の功徳をなし得ぬけれど、ただ、深法を聞くことを得る人と、その三輩の機相は、それぞれ興ると雖も、その底に「一向専念無量寿仏」をもっているのである。いわば、念仏往生の本願、大悲の選択本願のうえにありつつも、その願意を自覚し得ないのである。いいかえれば、やがて願意を自覚するであろう機の三つの名を三輩とあげられているのである。
 なお、経典の文面から見れば、沙門の上輩の機が最上位で、順次、中・下輩とさがっていくことになるが選択本願の意から見れば、最も下位の、聞法すること以外に取りどころのない下輩が、最も本願に近いことになる。すなわち、上・中輩の修諸功徳の人は、下輩への道程となるのである。最も貧しい者が、最も富める者という意義をあたえられることになるのである。諸の功徳を修することは、やがて、本願念仏の世界に転入される道程的意義をもつことになるのである。これが第十九願のもつ、本願の宗教における独自の意義である。
 『観無量寿経』は、正宗分に定散二善を説くのであるが、その正宗分の教説は、散善の下三品の「称南無阿弥陀仏」への道程である。「化巻」に
 「二善・三福は報土の真因にあらず、諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず、如来の異の方便・忻慕浄土の善根なり」(全書・二・一四七)
と説かれている如くである。

23.他力をたのむ
 了祥師は『歎異鈔』における「たのむ」という言葉に注意されて、次の十三文をあげられている。
 ①他力をたのむ心のかけたる
 ②自力の心をひるがえして他力をたのむ
 ③他力をたのみたてまつる悪人――以上・第三章・三文
 ④誓願不思議をばたのまずして――第十二章・一文
 ⑤ひとえに本願をたのみまいらすればこそ
 ⑥本願にほこる心のあらんにつけてこそ、他力をたのむ――以上・第十三章・二文
 ⑦摂取不捨の願をたのみ
 ⑧いよいよ弥陀をたのみ――以上・第十四章・二文
 ⑨願力をたのみたてまつる
 ⑩他力をたのみまいらすこころかけて
 ⑪本願をたのみまいらするをこそ(了祥師は、この文を引かれず)――以上義六章・二文
 以上の十文(実は十一文)と
 ⑫いよいよたのもしく
 ⑬いよいよ大悲大願はたのもしく――以上・第九章・二文
 ⑭他力に心をかけて信心ふかくば――第十八章・一文
 という言葉も、同じく「たのむ」ことであるからと、『歎異鈔』における「たのむ」の十三文(実は十四文)をあげて、二種深信の、機をすてて法にすがるが、「たのむ」・帰命ということであると解釈されている。しかして、「たのむ」が、『歎異鈔』の体(根本精神)であるといわれている。(『歎異鈔聞記』・一〇七)

24.『往生礼讃』の言葉
 『往生礼讃』深心釈に機の深信を
 「自身は、是れ、煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知す」(全書・一・六四九、「行巻」・「信巻」所引)
と述べられ、『観経疏』の機の深信の文には
 「決定して、自身は現に、是れ、罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと深信す」(全書・一・五三四、「信巻」・『愚禿鈔』所引)
と述べられているが、『六要鈔』に、この二文の関係を説いて
 「『礼讃』の方の文は、薄少の善根ありとも、煩悩賊に害せられて、生死を載ることを得ずと説き、『疏』の方は、出離の縁となる諸善は成ぜざることを直ちにいう」(取意・全書・二・二六一)と述べられている。この『六要鈔』の註釈の意が、『歎異鈔』第三章に期せずして述べられているのではないか。すなわち、第三章は、諸行往生の機・自力作善の人であるから、薄少と雖も、みずからの善根を自認している人といわねばならない。しかし、その人と雖も、「煩悩賊に害せられて、生死を載ることを得」ない人である。さらにまた、『疏』の説の如く「出離の縁となる諸善は成ぜざること」を認めない人ということになる。『歎異鈔』第三章は、『礼讃』と『疏』の文を結合して、このような、自力作善の人にこたえられているのであって、聖人のお言葉の説得性に驚くのである。ついでに、『観経疏』の機の深信の言葉を、『六要鈔』に釈して
 「無有等とは、正に、有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離、偏に、他力に在ることを明かす。聖道の諸教は、盛んに、生仏一如の理を談ず。今の教は、自力の功なきことを知るに依って、偏に仏力に帰す。之に依って、此の信、殊に最要なり」(全書・二・二八一)
と、他力浄土教における機の深信の重要性を押えておられるのである。

25.第三章の「悪人」の内容
 『六要鈔』では、『観経疏』の二種深信の文を註釈するにあたって
 「深等というは、能信の相を明かす。亦有等とは、所信の事を顕わす」(全書・二・二八一)
と説かれている。すなわち、機・法二種深信は、機の事実、求道者のうえに自覚せられる事実、さらにいえば、人間の実存であると説かれているのである。

26.親鸞聖人は・・・現実主義者
 『教行信証』の親鸞聖人は、仏道を荷負された公人であるが、「信巻」末の悲歎述懐の表白に
 「誠に知んぬ、悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥づべし、傷むべし矣」(全書・二・八〇)
と述懐されている。
 仏道・本願の歴史を荷負する自覚をもった愚禿釈親鸞は、「真の仏弟子」と名づけられ、「便ち、弥勒に同じ」といわれるものでなければならぬのである。しかるに、自己の現実存を見るとき、釈の一字をとりさり愚禿鸞と名告り、悲歎述懐しなければならないことになる。しかも、注意して読むとき、その悲歎の表白の前半は、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑」する、わが現実存の悲であり、また、「定聚の数に入ること喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず」という後半の言葉は、未来に向う嘆である。つまり、本願の歴史を荷負する責任を自覚し、願いとした者は、己れの現実にも、さらに、未来にも、「いづれの行にても、生死をはなるることあるべからざる」(第三章)身を感じ、悲歎せざるを得ぬこととなる。
 しかし、この悲歎の表白は、単に自信を失った愁憂ではない。『六要鈔』に述べられている如く
 「悲痛すと雖も、また、喜ぶ所あり、まことに是れ、悲喜交流というべし。……潜に自証を表す、喜快なきにあらず」(全書・二・三一五)
 内に、自証を、すなわち、深い確信をもった悲喜交流する感情である。かかる感情をもった者によってのみ、よく、本願の宗教は伝承されていくことになるのであろう。すなわち、本願の機となるのである。本願の正機となるのである。

27.無縁の大悲
 慈悲に三縁の慈悲を説く。第一は、衆生縁の慈悲(小慈)、人間が人間に対しておこす慈悲。第二は、法縁の慈悲(中悲)、これは真理をさとっておこす慈悲ともいうべきもので、菩薩の慈悲である。次は、無縁の慈悲(仏の大悲)、これは差別をはなれ、縁なき者をも救わんとする絶対平等の慈悲である。
 「信巻」信楽釈に
 「斯の心は、即ち、如来の大悲心なるが故に……如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄心を以て、諸有海に廻施したまえり、是れを、利他真実の信心と名く」(全書・二・六二)
と、「信心仏性」を説かれているが、他力廻向の真実信心が無縁の大慈悲心である。人間の宿業を感じたもうのが、如来の無縁の大慈悲心であるが、人間みづからが、その宿業を自覚するとき、その自覚のうえに、如来の無縁の大慈悲心を成就されるのである。すなわち、「大信心は仏性なり」である。
 しかし、今は、その自覚をとおして、第十七願・本願の歴史のうえに、無縁の大慈悲の歩みを見ようとしたのである。

28.「あるべくも候わず」
 『末燈鈔』第十九章(全書・二・六八六)のお言葉であるが、『末燈鈔』では、念仏するからとて、僻事(ひがごと)をこのむなどは「あるべくも候わず」と用いられているお言葉である。今は、それを逆の意味に用いたのである。
 ちなみに、『末燈鈔』第十六・十九章、『歎異鈔』第十三章など、倫理と宗教、世間と出世間の関係をあかされているものであって、この第三章の善悪の問題の背景となる章である。

29.十不善業
 殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌(二枚舌をつかうこと)・悪口(きたないののしりの言葉)・綺語(汚れた心からの言葉、散語・無義語などともいう)・貪欲・瞋恚・邪見(愚痴)をいう。
 すなわち、人間性を貧しくする行為のことである。

30.慚愧・懺悔
 「よって、且は、慚愧・悔過の心を生ぜんがため。且は、済度の大悲・深重の仏恩を念報せしめんがために、之を引かるか」(全書・二・三一九、『六要鈔』)
と存覚上人は、「信巻」の結びに、大小乗の五逆を引用されている意味を述べられている。
 以上、本文によりながら、註を作製しつつ、五逆を学んだのであるが、五逆は、語法の問題とともに、親鸞聖人の宗教においては、重要なる問題である。いま、「信巻」末に、大小乗の五逆をあげられるは、ただ、五逆の何たるかをあきらかにする補註と見るべきものといわれているが、まさしく、「信巻」を結ぶにあたって、人間性の内奥にせまる大乗の五逆を説いて、存覚上人のいわれるごとく、慚愧・懺悔の心をおこし、深重の仏恩を念報せしめんがための、大悲心によるものであろう。(註・六・14参照)


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