『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

註 (補 説)
<六 第一章>


1.念仏の大道、他力の大道
 『教行信証』「信巻」には、「道の言は路に対せるなり。道は、則ち是れ、本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。路は、則ち是れ、二乗・三乗万善諸行の小路なり」(全書・二・六七)と述べられて、小乗及び、諸行に対して、他力の大道を説かれている。
 『歎異鈔』第七章には、「無碍の大道」とあって、諸の神々も、魔界外道も、罪悪もさえることができず諸善をも超えた道が、念仏の法であると説かれている。また『総序』には、「如来の発遣を仰ぎ、必ず、最勝の直道に帰して云々」(全書・二・一)と述べられ、『六要鈔』は、それを註釈して、「如来の発遣とは、是れ、釈尊の指授、最勝の直道とは、是れ、弥陀の願力」(全書・二・二一一)と説かれ、二尊のみことによる道であるとされているのである。
 しかし、善導大師は、『二河譬』の合法段の釈では、親鸞聖人の「信巻」などとちがって
 「中間の白道四五寸とは、即ち、衆生の貪瞋煩悩の中に、能く、清浄願往生心を生ぜしむるに喩うるなり」(全書・一・五四〇)
と述べられ、衆生の願生心を道とされている。
 『六要鈔』(全書・二・二八八)は「其の白道は是れ信心なり。……所行の行体、是れ大善なる故に、能信の信亦復広大なり信心の白道は広大無辺にして、実に辺際なし、……所発の信心、他力に由るが故に、是れ広大云々」と註釈されているが、これは、善導大師をうけて、親鸞聖人にかえしておられる註釈というべきである。
 すなわち、われわれの、直接の問題としては、善導大師の釈の如く、衆生の貪瞋煩悩の中におきた、清浄願往生心あるのみである。その願往生心が、衆生の道となるのである。さらに、親鸞聖人によって、この道が、そのまま、大道であり、二尊のみことによった、本願の道という意味・道理があかされており、『歎異鈔』第七章には、その大道の、利益(はたらき)が述べられているのである。

2.第十八願成就文
 「諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に廻向したまえり。彼の国に生まれんと願ぜば、即ち、往生を得、不退転に住せん」(全書・一・二四)
 これが、第十八願成就文であるが、本願文は、弥陀の直説であるのに対して成就文は、古来、釈尊の体験をとおした言葉、釈尊の説教といわれている。法然上人などは、本願文をよりどころとされ、親鸞聖人は、この成就文を立場にされているので、従来から、成就文の解釈はくわしくされているが、成就文そのものの意味は余り考えられておらないのではないかと思われる。その中で、曾我先生は、『大無量寿経聴記』(『曽我量深選集』・第七巻・三二五)に
 「本願成就というものは一つの現実といいますか、歴史的現実とでもいうのでありますか、本願成就という一つの事実を把んで、そこに立場を置いて、翻ってもう一ぺん本願というものの思召を領解して行く、そこにわれわれの安心というものを築く、言ってみれば、如来廻向の信心というものをそこに明らかにして行く、云々」
と述べられている。また、『信巻聴記』(『曽我量深選集』・第八巻・一一七)に
 「本願成就文は、勿論、世尊の教えのお言葉であることは申すまでもないが、……領解はこうであろうと教えに即して述べてくださった。勿論教えと領解と二つ別々というものではない。……教えのままが聞いた人の安心領解となる。……またその教えの上にご自身の領解を表現されてある」
と述べられている。さらに言葉をついで
 「本願成就の意義」それはただ本願が成就したということではなく、本願の廻向成就という意義をお述べになったのである」
と説かれていることを注意したいのである。

 また、西田幾多郎博士が『善の研究』(『西田幾多郎全集』・第一巻・一三三)で
 「自己の思想が客観的真理となった時、即ちそが、実在の法則であって、実在は、これに由りて動くことを知った時、我は、我理想を実現し得たということができぬであろうか」
と、いわれていることなどから、成就文の意義を考えるのである。
 『歎異鈔』第一章・第一節は、『大無量寿経』下巻の本願成就文に等しい文であると考えられるが、また教行信証の四法を述べられている如くにも了解される。すなわち
 「弥陀の誓願」は教・「不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなり」は行・「信じて念仏申さんとおもいたつ心のおこるとき」は信・「すなわち、摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」は証にあたると考えられる。

3.純粋経験
 西田幾多郎博士の『善の研究』(『西田幾多郎全集』・第一巻・七)の序文に
 「フェヒネルは、或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗に花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽ったと自ら云って居る。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、所謂物質の世界という如きものは此から考えられたものに過ぎないという考をもっていた」
とのべ、第一編・第一章には
 「毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。……真の純粋経験は何等の意味もない事実其儘の現在意識あるのみである」
 と説きだされて詳説されているが、これらによって、純粋経験という表現をうけ、信心・宗教的自覚の世界をあらわしたいと思うのである。

4.純粋客観
 純粋経験と同じく、純粋客観という表現は、西田幾多郎博士の
 「動かすべからざる真理は、常に我々の主観的自己を没し、客観的となるに由って得らるるのである。云々」
などとあるによった。

5.後得分別智
 字の如く、無分別智の後にくる智と理解されているのであるが、信心の智慧、廻向の智慧仏智と了解したのである。その立場を、純粋客観の立場というのである。

6.ただ、この信をあがめよ
 「専ら、斯の行に奉え、唯、斯の信を崇めよ。噫、弘誓の強縁は、多生にももうあいがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。たまたま、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(全書・二・一)
と述懐されているが、つまり、獲信を廻向の信と仰ぎ、廻向の道理を讃嘆するのである。
 『正信偈』(全書・二・四四)に、「信を獲て、見て敬い、大いに慶喜せしむ」とあるが、御草稿本には、この一句を再三訂正しておられ、苦心された一句であるといえよう。この一句の示されるところは、「自己が得た信を、廻向されたものと敬うとき、大慶喜心がわく」という意味で、獲信(純粋経験)から、純粋客観への転回を述べられているのである。
 『歎異鈔』後序の
 「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとえに、親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと、おぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
という、親鸞聖人のつねの仰せも、同じ転回を述べられているのである。

7.第十八願
 『歎異鈔』は、『観無量寿経』の系列の聖教であり、善導・法然二師の伝承をうけるものである。それ故に、第十八願一願建立の教学であって、四十八願のうち、第十八願のみを読みとり、他の四十七願を欣慕の願とされた。これを一願該摂の法門という。しかも、第十八願を「念仏往生の願」としてうけるのである。
第十八願は

  ┌ 信心 ―― 三信 ―― 至心・信楽・欲生
  |
  └ 念仏 ―― 十念 ―― 乃至十念

この二つの問題がちかわれているのであるが、善導・法然二師の伝承は、第十八願文から、三信をぬいて、十念のみを読みとられ、「念仏往生の願」とうけとって、第十八願を念仏の願とせられるのである。
 それに対して、親鸞聖人は、第十八願の三信のみを読みとって、「本願三心の願・至心信楽の願」などと名づけ、第十八願を、信心の願とされている。そのとき、念仏は、第十七願にちかわれているとして、念仏は諸仏の行とされるのである。このように、親鸞聖人は、四十八願から、第十七・十八願をはじめ、十一十二・十三・十九・二十・二十二願の八願を課題として読みとられている。これを、真仮八願といい、分相門の法門という。
 かく、善導・法然二師と親鸞聖人とは、第十八願の読みとり方も、四十八願中からとらえられる本願も異るものがある。しかし、『歎異鈔』――その他の和語の聖教――は、善導・法然二師の伝承をうけられているので、『歎異鈔』で、本願・誓願というときは、「念仏往生の願」としての第十八願であると了解して読まねばならない。

8.釈尊出世の本懐
 「如来、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀し給う。世に出興する所以は、道教を光闡して、群萌を担い、恵むに、真実之利を以てせんと、欲してなり」(全書・一・四)
とある。これを、如来興世の一大事因縁を顕す文と呼んでいる。この文を、『一念多念文意』(全書・二・六一四)に註釈されて
 「しかれば、諸仏の世にいでたもうゆえは、弥陀の願力をときて、よろずの衆生をめぐみすくわんとおぼしめすを、本懐とせんとしたもうがゆえに、真実之利とはもうすなり、しかれば、これを、諸仏出世の直説ともうすなり」
と述べられているが、「正信偈』には
 「如来、世に興出したもう所以は、唯、弥陀の本願海を説かんとなり」
と述べられ、また、この文を『尊号真像銘文』に註釈されている。ここに、釈尊を、如来といい、諸仏といっておられることを注意しておきたいのせある。すなわち、釈迦・弥陀二尊というとき、その釈迦は、第十七願の諸仏であって、釈迦・善導・法然・先師・よきひと、みな、第十七願の諸仏如来である。『歎異鈔』は第十七願の諸仏讃嘆をもって、一貫されていると考えられる。

9.欲生我国
 「欲生我国」について注意しておかねばならねことは、第十八・十九・二十願ともに「欲生我国」と説かれているが、第十八願の「欲生我国」が、その体であって、第十九・二十願の「欲生我国」が別にあるのではない。『信巻』欲生心釈に
 「欲生とは、則ち是れ、如来諸有の群生を招喚したもうの勅命なり」
と説かれているのが、それである。

10.釈迦・弥陀二尊の問題
 この問題を譬喩として説かれているのが、善導大師の『二河譬』である。
 「此の念をなす時、東岸に忽ち、人の勧むる声を聞く、仁者、ただ、決定して此の道を尋ねて行け、必ず、死の難なけん、若しとどまらば即ち死せんと。又、西岸の上に人ありて喚うて言く、汝「心正念にして直ちに来れ、我能く汝を護らん。すべて、水火の難に堕することを畏れざれと。此の人、既に、此に遣し、彼に喚うを聞きて、即ち、自ら正しく身心にあてて、決定して道を尋ねて、直ちに進んで、疑怯退心を生ぜず」(全書・一・五四〇)と、説かれ、さらに、善導大師みずから、註釈(合法)されて
 「東岸に、人の声の勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて、直ちに西に進む、と言うは、即ち、釈迦、己に滅したまいて、後の人見たてまつらざれども、なお、教法ありて尋ぬべきに喩う、即ち、これを、声の如しと喩うるなり。……西岸の上に、人ありて喚ぶ、と言うは、即ち、弥陀の願意に喩うるなり」
と、説かれている。
 『歎異鈔』後序の「如来よりたまわりたる信心」とあるところの、如来廻向の問題を、釈迦・弥陀二尊という形で、具体的にあらわされていることを注意するのである。
 さらに、善導大師は合法段で、釈迦滅後の教法、として、釈迦をとらえておられることも注意したいのである。また、『教行信証』には、この『二河譬』につづいて、善導大師の『般舟讃』(全書・二・五七)を引いて
 「釈迦如来は、実に、是れ慈悲の父母なり、種々に方便して、我等が無上の信心を発起せしめたまえり」
と、述べられている。この文は、『高僧和讃』(全書・二・五一〇)に
  釈迦・弥陀は慈悲の父母
  種々に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり
と、善導大師が、「釈迦如来は慈悲の父母」といわれたものを、親鸞聖人は、和讃に、「釈迦・弥陀は慈悲の父母」と、いいかえられているが、その事は別として、重ねて、如来廻向を、釈迦・弥陀二尊と表現し、さらに、『般舟讃』には、それを、釈迦におさめ、また、釈迦滅後の教法としておさえられていることを注意したいのである。
 すでに、註・8でふれたことであるが、釈迦は、地上に最初にあらわれた仏である。地上の仏である。第十七願成就のすがたをあらわし賜うた、今日世尊である。弥陀の願意を、地上に、今日に、もたらし賜うた諸仏であり、善知識である。
 『歎異鈔』の宗教の、独自の意義は、この、第十七願成就の仏、地上の仏の伝承を、述べているところにあろうかと思われる。この意味で、『歎異鈔』の宗教は、地上の教主の宗教といいえよう。それに対して、『教行信証』の宗教は、「信巻」三信釈に、三信をとおして、「菩薩の行を行じたまいし時」(全書・二・六〇)とあって、法蔵菩薩の因位の行に、おさめられている。いわば、『教行信証』の宗教は、法蔵菩薩の宗教、地上の教主の宗教といいえようか。この点から、『歎異鈔』に、第十七願の問題を読みとっていきたいのである。

11.わたしを超えた…内面的充実感を得る
 『大無量寿経』本願成就文の「其の名号を聞きて、信心歓喜せん」(全書・一・二四)のお言葉を、このように表現したのである。この「聞」ということについて、「信巻」(全書・二・七二)に
 「経に、聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし、是れを聞というなり」
とあって、信を聞におさめて説かれているが、成就文の「其の名号を聞く」とあるところの、其の名号とは第十七願成就の名号、すなわち、註・10で指摘した、教法である。「よきひとのおおせ」であり、「先師の口伝」である。そこに、「仏願の生起本末」(本願のいわれ・道理)が説かれているのである。

12.摂取
 『一念多念文意』(全書・二・六〇五)に
 「真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに、摂取して、すてたまわざるなり。摂はおさめたもう。取はむかえとるともうすなり。おさめとりたもうとき、すなわち、とき日をもへだてず、正定聚の位につきさだまるを、往生を得とはのべたまえるなり」
と、摂取を註釈しておられるのであるが、摂取不捨の問題は、次の註・13に詳説する。

13.摂取不捨
 『大無量寿経』は、法の真実を説く経であって、いわば、人間救済の道理をあかされている。その、道理による救済は、『観無量寿経』に説かれているのであって、その救済の事実を説くのが、第九真身観の文である。すなわち
 「一一の光明は、徧く、十方世界を照らし、念仏の衆生をば、摂取して捨てたまわず」(全書二・五七)
とある文である。この文を、善導大師は『観経疏』に
 「衆生起行して、口に、常に、仏を称すれ、ば、仏即ち、これを聞きたもう……彼此の三業、相い捨離せず云々」
と、親縁・近縁・増上縁の三縁釈をもって釈され(全書・五三)、法然上人は、『選択集』に、その中の、親縁釈を引用されている。(全書・一・九三七)しかし、親鸞聖人は、摂取不捨を釈するに、善導大師の親縁・近縁釈を用いられないで、源信僧都の『往生要集』の文(全書・一・八〇九)を用いられている。すなわち
 「我、また、彼の摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて、見たてまつらずと雖も、大悲、倦むことなくて、我が身を照したもう」
とある文である。これを、『正信偈』にも、『高僧和讃』にも引かれ、『尊号真像銘文』(全書・二・五九三)に註釈されている。これは、善導大師の三縁釈(増上縁は用いられている)の、親縁・近縁の釈では、直観的になり、神秘経験となるきらいがあるから用られず、源信僧都の釈を用いて、無碍光につねに照らされ、大悲大慈につねにまもられるという表見で、本願力廻向にかえされているようである。
 すなわち、おさめる、むかえとると、摂取の字義から註釈され、そうして、源信僧都の釈によって、てらしたもう、まもりたもうと、廻向の義をもって、摂取不捨を釈しておられるのである。

14.五逆の悪人
 親鸞聖人は、「信巻」末(全書・二・八一)に『涅槃経』を引いて、阿闍世の救済を述べられているが、五逆の悪人の救いをあきらかにせんとの思召である。また、「信巻」の最後(全書・二・一〇一)に、五逆について、法相の祖師・智周の『最勝王経の疏』の文を引いて、小乗の五逆、大乗の五逆を詳説されている。
 存覚上人は、『六要鈔』に、この「信巻」(全書・二・三一九)末の五逆の引用について、「曇鸞・善導二師によって、五逆・語法の往生を説かれて、とくに、語法の相は、論註の引文にとかれているが、五逆の相は、まだ解せられていないからである」という意を述べられ、さらに、小乗の五逆は犯さないといえようが、大乗の五逆の説によれば「人々一々にこの罪をのがれがたし」と述べられている。
 すでに、学んだ如く、善導大師は、韋提希夫人に自己を見られ、親鸞聖人は、逆悪の阿聞世に自己を見いだしておられるが、それは、大乗の五逆の説をとおした自覚によるものであると、『六要鈔』の註釈によって考えられるのである。また『六要鈔』には、この五逆の説を引用されている理由として
 「かつは、慚愧悔過の心を生せんがため、かつは、済度の大悲・深重の仏恩を念報せしめんがために、之を引かれるか」
と記せられている。大乗の五逆を列記すれば
  一には、塔寺を破壊し、経義を梵焼し、及び、三宝の財物を盗用す。
  二には、三乗の法をそしりて「聖教に非ず」といいて、障破留難し、隠蔽覆蔵す。
  三には、一切の出家の人、若しは、有戒・無戒・持戒・破戒において、打罵し呵責し、
     過を説きて禁閉し、還俗せしめて駈使し、債調断命せしむ。
  四には、父を殺し、母を害し、仏身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺す。
  五には、讃して因果を無にし、長夜に常に、十不善業を行ず。
と説かれているが、大乗の五逆の、今日的意味をくみとらねばならないのである。

15.『教行信証』の「信巻」に…具体的に説かれています。
 「信巻」(全書・二六八)に、大信嘆徳が説かれて
 「凡そ、大信海を按ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず。行に非ず・善に非ず、頓に非ず・漸に非ず、定に非ず・蔽に非ず、正観に非ず・邪観に非ず、有念に非ず・無念に非ず、尋常に非ず・臨終に非ず、多念に非ず・一念に非ず。唯、是れ不可思議・不可称・不可説の信楽なり。喩えば、阿迦陀薬の、能く、一切の毒を滅するが如し。如来誓願の薬は、能く、智愚の毒を滅するなり」
と、四不七非をもって、本願の宗教の、不可思議の救いを説かれている。また、『唯信鈔文意』(全書・二・六二八)には、慈愍三蔵の文を引いて註釈されて
 「すべて、よきひと、あしきひと、たうときひと、いやしき人を無碍光仏の御ちかいにはえらばず、これをみちびきたもうをさきとし、むねとするなり」
 「変成金は、変成はかえなすという、金はこがねという。如来の本願を信ずれば、瓦・礫のごとくなるわれらを、金にかえなさしむと、たとえたまえるなり」
 と説かれている。また、『高僧和讃』曇鸞章(全書・二・五〇五)に
  無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみづとなる

  罪障功徳の体となる
  こおりとみづのごとくにて
  こおりおおきにみづおおし
  さわりおおきに徳おおし
などと歌われているところの「転悪成徳」のはたらきを、本願念仏の宗教がもつ故に、あらゆる条件を必要としないといい得るのである。
 かかる、親鸞聖人の大信海の讃嘆を学ぶとき、聖人以前の宗教が、如何に貴賎などの差別観をもっていたかを知らされるのである。聖人によって大衆の宗教がひらかれたのである。また、「信巻」の「如来の誓願の薬は、能く、智愚の毒を滅するなり」とあるが、もと華厳経には「智よく愚を滅す」とあるを、聖人は「智愚の毒を滅す」と転用されて、本願の宗教は智愚の差別をも超えるものと讃嘆されているのである。

16.『六要鈔』に…おさえられています
 『観経疏』至誠心釈(全書・一・五三三)の
 「外に、賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に、虚仮を懐いて、貪瞋邪偽・奸詐百端にして、悪性侵め難し。事、蛇蝎に同じ。三業を起すと雖も、名けて雑毒の善と為す。亦、虚仮の行と名く。真実の業と名けざるなり」
とある文を、常の義には、外は身口二業、内は意業とされているのを、『六要鈔』には、「内は悪性、外は三業」(全書・二・二七九)と解釈されている。また、『愚禿悲歎述懐』和讃(全書・二・五二七)には
  悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆえに
  虚仮の行とぞなづけたる
 と述べられていて、『散善義』には、「事、蛇蝎に同じ」とあるを、和讃には、「こころは蛇蝎のごとくなり」とうたわれている点からも、三業・雑毒虚仮の行の内因をおさえて、「こころ」と説かれていることを知らされるのである。

17.煩悩をとれば、人間でなくなる
 『観無量寿経』定善示観縁(全書・一・五一)の「仏滅後の諸の衆生等は、濁悪不善にして、五苦にせめられん」との文を釈して、善導大師は『観経疏』序分義(全書二・四九六)に
 「此の五濁・五苦・八苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者はあらず、常に之に逼悩す。此の苦を受けざる者は、即ち、凡数の摂にあらざるなり」
と説かれている。すなわち、人間存在は、五濁・五苦・八苦として存在していると説かれているのである。五濁とは、劫濁・衆生濁・見濁・煩悩濁・命濁。苦は、生苦・老苦・病苦・死苦・愛別苦の五苦に、五陰盛苦・求不得苦・怨憎会苦の三を加えた八苦である。要するに、人間は、清浄・純粋なる存在でなく、楽天的な存在でもなく、濁すなわち、不善なるものとして存在する。よごれた存在と説かれているのである。
 また、善導大師は、定善示観縁の「煩悩賊に害せらるる」の文を釈して、「縁に随うて行を起して、進道資粮を作さんと擬するに、何んぞ其れ六賊知聞して競い来って浸奮し云々」(全書・一・四九四)と註釈を加えられ、煩悩は、求道心にたったときおそいくるものであると説かれている。すなわち、煩悩は心理分析などの問題でなく、求道における問題であることを注意されているのである。

18.実存という概念
 実存という言葉の概念は、一定しておらないのであって、それぞれの立場において用いられている言葉で不確実・不確定な言葉であるが、一応、人間を、投げ出された存在ととらえるのが実存の立場である。また人間を、単独な自覚存在とし、その根本的気分を不安と考えているのが、実存哲学である。
 このように、一般に用いられている意味の実存という言葉を、煩悩具足の凡夫という自覚と等しい言葉と考えることはできない。先にもふれた如く、煩悩は、求道上の心理であって、求道のないところには問題とならないものである。しかも、不安の心理ではないから、煩悩具足の自覚を、ただちに、実存の自覚と等しいものと考えることはできないのである。
 ただ、人間存在を実存ととらえるのも、煩悩具足の凡夫というも主体的自覚のうえの言葉である点は等しいのである。

19.仏の側から、かねて洞察されており
 『観無量寿経』定善示観縁に「仏、韋提希に告げたまわく、汝は是れ凡夫なり」(全書・一・五一)と説かれている。また、煩悩具足の凡夫とは、善導大師の『往生礼讃』に
 「自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界を流転して火宅を出です」(全書・一・六四九)
と説かれている。人間みずから、煩悩具足と名のるのでなく、理知的人間を超えた立場からの「仰せ」である。人間を超えた立場から、すなわち、仏の立場から人間を洞察し、大悲しての「仰せ」であるから、「仰せ」を聞くとき、煩悩具足の凡夫ということが、われら人間の自覚になるのである。人間より以上に、人間を自覚されている本願の立場からの「仰せ」である。理知的人間では自己自身を自覚することができないのである。

20.『観無量寿経』の…たてるのでありました
 善導大師の『観経疏』第八像観(全書・一・五一九)に説かれている問題である。キリスト教では、絶対者としての神をたて、人間は原罪、いいかえれば、本来的罪を負うものとするのに対して、仏教は、絶対者をたてず、また、人間の本来性を清浄なるものとするのである。人間に純粋性・尊厳性をみとめるのである。
 聖道門がその伝統にたって、唯識法身観などの教説をたてるのは当然のことといわねばならない。この聖道門の教説の代表として、善導大師は
 ①唯識法身観――浄影の説で、心の外に何物もない、識のみを実と観ずる観法
 ②自性清浄仏性観――嘉祥の説で、衆生本来の清浄仏性を観ずる観法
の二説をここに引いて批判を加えられている。すなわち、人間の本来に、純粋性を見る聖道門の教説は、自覚にとどまって、自覚の根源、自覚せしめたものを自覚することがないといわねばならない。
 善導大師は、末法の自覚にたって、聖道門の教説を否定して、自己そのものに、「出離の縁あることなき身」を見出されたのであるが、親鸞聖人は、その善導大師をうけて「信心仏性」の説をたてられている。信心仏性を、まさしく、あかされているのが、「斯の心は、即ち、如来の大悲心なるが故に」(全書・二・六二)と説かれている「信巻」信楽釈である。
 また、『唯信鈔文意』(全書・二・六四八)に
 「仏性すなわち如来なり、この如来微塵世界にみちみちたまえり、すなわち一切群生海の心なり、この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり」
 また、『弥陀経和讃』(全書・二・四九七)に
  信心よろこぶそのひとを
  如来とひとしとときたもう
  大信心は仏性なり
  仏性すなわち如来なり
と説かれている。すなわち、人間そのものに純粋性を見いださんとする聖道門に対して、善導大師をうけ、末法の自覚をもって、しかも、人間の中に、純粋性を見いだされたのが「信心仏性」説である。廻向の信心に仏性を見いだされたのである。末法の自覚(人間凝視の確かさ)をうしなわず、しかも、大乗仏教の精神をうけつがれたのである。(本書■・二七三・41参照)

21.仏が、我が痛みとしてたちあがられる
 善導大師は、『観無量寿経』第七華座観の住立空中の仏について問答をおこして
 「答えて曰く。此れは如来、別に密意あることを明す。但、おもんみれば、裟婆苦海なり、雑悪と同居して、八苦相焼く……六賊常に随うて、三悪の火坑、臨々として入らんと欲す。若し是を挙げて以て迷を救わずば、業繁の牢、何によってか勉るることを得ん。斯の義のために、立ちながら摂りて即ち行く」(全書・一・五一四)
と説かれている。すなわち、立っている仏に、摂取不捨の大悲を見られたのである。仏は、迷いの衆生のために、たちたもうことを述べられている。

22.五劫思惟
 永劫(永遠)の問題は、宗教の問題として、一般に考えられているが、五劫・永劫と対句としては、『大無量寿経』の宗教の独自のとらえ方であろうと思われる。永劫は宗教一般の問題であろうが、五劫ということが本願の宗教独自の問題である。
 すなわち、五劫思惟によって、法成就のために、本願を建立されたということが大切な問題である。これが他の宗教では、問題になっておらないのであろうかと思われる。南無阿弥陀仏という法を成就するための本願を、すなわち、名号の本願を建立するのに、五劫思惟されたというのである。この五劫思惟を具体的にあらわされたものが、第十七願諸仏称名の願であろう。その第十七願に代表される選択本願によって成就された法に救われるのである。
 永劫修行は無縁の大悲である。その無縁の大悲が、われらの身の事実にふれたときが、機の深信である。われらは機の深信において、無縁の大悲を感ずるのである。善導大師の機の深信は、その表白である。いわば第十八願の自覚である。第十七願の法は、無縁の大悲をとおして、無有出離之縁の自覚(第十八願)をとおして、われらの救いを成就するのである。かくの如く、五劫・永劫の問題は、本願の宗教独自の課題を、真実教の面目を語っているのである。

23.現生不退
 まさしく現生不退を、教学の主題とするのは、龍樹菩薩と親鸞聖人である。すなわち、聖人は本願成就文を立場とせらるる故に、「即得往生、住不退転」の成就文の言葉が課題となることは、言をまたないことである。
 しかし、彼土不退の教学の系譜(善導・法然)にある『歎異鈔』が、その第二章に現生不退をあきらかにしていることは注意しなければならない。『教行信証』行巻の六字釈に、「必得往生と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。経に即得と言えり、釈には必定と云えり」(全書・二・二二)と述べられていて善導大師の六字釈を解釈されるに、成就文の即得、龍樹菩薩の易行品の必定の語を引いて、不退の意をあかされているところにも、聖人の現生不退の利益を重要視され、彼土不退の浄土教の伝承のうちに、『華厳経』以来の大乗仏教の精神をうけつがんとされていると考えることは如何であろうか。いずれにしても、『歎異鈔』といい、善導大師の『六字釈』といい、彼土不退の教学の系譜のうちに、現生不退を述べられている親鸞聖人の意をうかがうのである。さらに、不退の義は詳説さるべき重要なる問題であるが、次の機会をまつこととする。

24.第二には・・・人々がいた
 『歎異鈔』に善悪の問題が主題の一つとして説かれていることは、法然門下の西山派が鎌倉幕府に接近し関東に勢力をはっていたことが、一つの影響をあたえることになったとも考えられる(「八 第三章・第一節・逆説表現か」参照)。すなわち、浄土の異流や聖道門仏教のつまずきは、善悪の問題と宗教の限界を明断することができなかったところにある。聖人は、聖道門、浄土の異流などと区別して、真宗を明らかにするために、いいかえれば、一代仏教を判別して、二雙四重の教判をたてられ、純粋なる宗教(横超の宗教)を明らかにされた。
 しかし、単に、一代仏教を分類されたのでなく、一代仏教は、「われらが心を勧めんが為」のものである(全書・二・六五七、『末燈鈔』第一通)ことを忘れてはならない。

    ┌竪出―歴劫迂廻の菩提心…聖道歴劫修行の証―難行道・聖道権教 ――┐
    |                     法相等歴劫修行の教  |
  ┌竪┤                                ├―漸教┐
  | |                                |   |
  │ └竪超―自力金剛心・菩薩…即身是仏・即身成―難行道・聖道の実教・ |   |
  │     大心       仏等の証果    仏心・真言・法華・ ―⏆┐  |
信巻┤                       華厳         ||  ├愚禿鈔
  |                                  ||  |
  │ ┌横出―正雑定散・他力中…浄土胎宮辺地懈慢―易行道・浄土要門・観経┘|  |
  | |            の往生      定散散福九品の教    |  |
  └横┤                                 ├頓教┘
    |                                 |
    └横超―願力廻向の信楽……選択本願・真実報―易行道・浄土本願真 ――┘
        横超大菩提心   土・即得往生   実の教・大無量寿経


25.賢善精進計
 了祥師は、『歎異鈔』の異義八章の中、第十三・十四・十六・十八章を専修賢善計・賢善精進計、第十一・十二・十五・十七章を誓名別信計と分けられているが、両計がいりまじっている章もある。

26.臨終の救い
 『末燈鈔』に
 「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに、臨終ということは、諸行往生のひとにいうべし、いまだ真実の信心をえざるがゆえなり。……真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す。このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」(全書・二・六五六)
と説かれている。また、『歎異鈔』第十五章には
 「おおよそ、今生に於ては煩悩悪障を断せん事、極めてあり難きあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生の覚をいのる云々」
と説かれているが、浄土門の異流・聖道門ともに、自力を立場とする故に、臨終をたのむ、未来の救いをたのむことになるのであって、ただ、真実信心の行人のみ、「信心さだまるとき、往生さだまる」と説かれているのである。第十八願の機は現生不退の益を得るのであって、臨終・未来に望みを托する要がないのである。あらゆる宗教の願いとするところを成就するのが、真宗の救いであると説かれているのである。

27.「すべて、水(貪愛)火(瞋憎)の難に堕することをおそれざれ」
 善導大師の『散善義』の二河譬に
 「我、いまかえらば亦死せん、とどまらば亦死せん、ゆかば亦死せん、一種として死をまぬがれざれば、我、むしろ此の道を尋ねて、前に向うてゆかん。……此の念をなす時、東岸に忽ち、人の勧むる声を聞く。仁者、ただ決定して此の道を尋ねて行け、……と。又、西岸の上に人ありて喚うて言く。汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん、すべて、水火の難に堕することを、おそれざれ」(全書・一・五三九)
と神話的に表現されているが、東岸の釈尊の発遣(すすめ)の声によって、内面にひらかれた決断を、西岸の弥陀の招喚の声とたとえられているのである。
 釈尊の教えが、声となって呼ぶのである。それにこたえて、我の内面に、決断の叫びがうまれ、我に呼びかけるのである。外の声ではないのであって、内なる我(純粋主体)が、我に、汝よと呼びかけるのである。この意味から、水火の二難、善悪の問題をおそれなくなる心は、外からあたえられるのでなく、本願の教えにおうた者の、内にひらかれる決断である。内なる新しい勇気である。

28.第十七願
 法然上人にとっては、第十八願を王本願と名づけ、本願の中の本願と考えられたが、親鸞聖人の教学では第十七願こそ王本願であり、本願中の本願であるといえよう。
 存覚上人は『六要鈔』に
 「凡そ、四十八願の中に、此の願、至要なり、若し此の願なくば、名号の徳何ぞ十方に聞こえん。聞いて信行するは、此の願の力なり。若し此の願なくば、超世の願意、諸仏何ぞ証せん。証に依って信を立つるは、又、此の願の恩なり
と説かれて、第十七願をたたえておられるのである。(本書■・七二・一四〇参照)


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