『歎異鈔集記』  高原覚正著 本文へジャンプ

註 (補 説)
<五 前  序>


1.ひそかに
 『教行信証』では、「総序」と「信巻」の三信仏意釈、及び、後序に「ひそかに」の言葉を用いられ、「教巻」をはじめ、「行・証・真仏土巻」および、「信巻」本・「化巻」本は「謹んで」の言葉を、別序・「信巻」末・「化巻」末には「夫れ」の言葉を用いておられる。
 「ひそかに」というのは、善導大師の『観経疏』「玄義分」によられ、「謹んで」は、曇鸞大師の『往生論註』に、「夫れ」は、源信僧都の『往生要集』によられて、それぞれつかいわけておられる。
 かかる細部にも、親鸞聖人の配慮があることをうかがうと同時に、唯円も、それをうけて配慮していることを思う。『歎異鈔』制作に対する、唯円の態度、姿勢をうかがい知ることができるものである。

2.伝承
 伝承の問題は、真宗の中心課題であって、すでに(註・一・2参照)少しふれたのであるが、本願の第十七願の問題である。
 第十七願は、第十一・第十七・第十八願の次第をもって、本願文にも、成就文にも書かれているのであるが、証・行・信の次第である。第十七願、これ大行であり、これ伝承である。大行といい、伝承というも、第十一願の証から生まれるということを、注意したいのである。必ず、仏道の伝承は、証・一如から来るのである。一如より来生するところの、如来そのものが、伝承の本質(体)でなくてはならないのである。それ故に、「行巻」には、「大悲の願より出でたり」(全書・二・五)と説かれている。

3.二種深信
 二種深信は、善導大師の『観経疏』から、「信巻」(全書・二・五二)に引用され、また、『愚禿鈔』(全書・二・四六七)に、親鸞聖人独自の二種深信を展開しておられるごとく、重要なるものであるが、漸次、詳説することとする。

4.実存
 実存ということについて、実存の概念は、西洋でも、哲学者によって、異るのであり、一定した定義がないのである。その実存という概念は、仏教の言葉の意味を、たとえば今、機の深信の意味を、ぴったりいいあてる言葉でないことを注意しなければならない。
 実存とは、一応、投げ出された存在のことであり、その心理を不安と説かれているのが、西洋の一般的な語義である。その直訳的解釈では、まったく、機の深信の意味と異るのである。
 今は、罪悪生死のまま、ここに、このようにしてある存在(清沢満之先生の落在)の意として用う。しかし、不安や闇の心理ではないことは いうまでもない。いずれ、度かさねて検討をしていきたいと思うのである。

5.曽我先生の教示
 「二種深信と言っても、二つ並べるものではなく、もとは、法より機を開き、機の中に法を摂めた。……機の深信に法の深信を摂める。機中に法あり。……二種深信は、法の深信から、機の深信を開く。開くのは機の深信に法の深信を摂めん為である。機の深信の外に、法の深信なし、というのが、二種深信を開顕する趣旨である」(『歎異鈔聴記』二五)と、解明されている。

6.『歎異鈔』後序
 唯円は、『歎異鈔』後序に、聖人のつねの仰せを引いて、「聖人のつねのおおせには、弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとえに、親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ、と御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、善導大師の『自身は、これ、現に、罪悪生死の凡夫、曠劫より、このかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ』という金言に、すこしもたがわせおわしまさず」(全書・二・七九二)云々と述べている。
 どちらかといえば、聖人のつねの仰せは、本願の恩徳をたたえられている言葉であるが、唯円は、善導大師の、機の深信の言葉を、親鸞聖人が身をもって示されたもので、「罪悪の深きことも知らず、如来の御恩の高きことをも知らず」、いいかえれば、二種深信すらない、我らが身を知らせんための、仰せであると、師の言葉を、どこまでも、退一歩してうけていくのである。この姿勢が、『歎異鈔』をつらぬき、『歎異鈔』の生命をつくるのである。

7.機の深信の内面にひらかれるのが、法の深信である
 かかる二種深信のうけとり方は、従来、異安心の系譜に入れられるのである。かかる、二種深信の解釈は、二念にわたるもので、二種は、一念であるという観点から、異義の中に入れられたようである。(『異安心史の研究』三八)
 しかし、自覚の内景が感情の世界であるごとく、機の深信の内景が法の深信であり、その機の深信は、法の深信によってひらかれるという円環関係にあるものである。事実としては、われらのうえにたまわる、一心のみであるが、その「心の構造を二種深信として説かれたものであると考えるのである。(註・6参照)

8.書物一つ選ぶのもよき師が必要
 「故聖人の御心にあいかないて、御用い候う、御聖教どもを、よくよく御覧そうろうべし。おおよそ、聖教には、真実権仮ともに相交り候うなり。権をすて実をとり、仮をさしおきて真をもちいるこそ、聖人の御本意にて候え、かまえてかまえて、聖教を見、みだらせ給うまじく候」(全書・二・七九二)
 と、唯円は、縷々と述べている。親鸞聖人は、法然上人をとおして善導大師を、善導大師をとおして曇鸞大師を学び求めていかれたのであった。仏道は伝承されたものであるからには、それをうけるには、伝承を逆観していかねばならないのである。
 西田幾多郎博士も、読書の注意を、このような立場から述べられていたことを記憶している。

9.親鸞聖人がすすめられるもの
 「とかく、はからわせたもうこと、ゆめゆめ候べからず。さきに下しまいらせ候らいし『唯信抄』・『自力他力』などのふみにて御覧候べし」(全書・二・六八五・『末燈鈔』第十九通)とあり、また、『御消息集』第一・第六通には、その他、『後世物語』・『二河譬喩』、また、『血脈文集』第二通には、『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』などの註釈書があげられている。
 『末燈鈔』第十九通の、はじめに、「とかく、はからわせたもうこと、ゆめゆめ候うべからず」と、述べられている言葉に、「すでに、此の道あり、必ず度るべし」(全書・一・五四〇・「散善義」)という、『二河譬』に説かれている、行者の決断をうながされる、東岸の釈迦を思わしめるものがある。
 弥陀一尊でなく、弥陀・釈迦二尊のみことにしたがうという、本願の宗教を、この、読書のすすめに知らしめられるのである。

10.客観的知・主体的知
 今、客観的知・主体的知などの用語を用いるのであるが、「化巻」(全書・二・一六六)に、智度論を引用されて「智によって、識によらず」とある、智・識の別を主体的知・客観的知という表現をとったのである。
 この「化巻」の文を、存覚上人は『六要鈔』(全書・二・四〇八)に、『大経』下巻の「如来の智慧海は、深広にして、涯底なし。二乗の測る所に非ず、唯、仏のみ独り明了なり」の語を引いて註釈されているのである。仏教用語の厳密さを思う。


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