欲生



 信楽釈を大体見たんですね。で、去年は「前念命終後念即生」というところにちょっと時間をかけました。今日は「欲生」について申しましょう。
 親鸞聖人が、一番ですね、この、「念仏は無碍の一道なり」ということばがございますが、どういうところに一番無碍の一道というものを感じられたのであろうかということを思います。生死海は有碍の血みどろでありますから、大信心の中の風光として無碍を感ずることができるわけであります。願生道のなかに仏様の血液が流れて、熱い大慈悲となってくださるのである。そして、私たちの人生の新しい諸経験の中に、暖かい満足を感ぜしめるものであると思います。だから、人生が八方行き詰まりでですね。これもうどうにもならんが、と言うた生死有碍の中にですね、ほのかに無碍を感じられるものではなかろうかと思うのですね。そういうことであります。
 だから、親鸞聖人もまた、一番有碍の中に置かれた時にですね、一番「お念仏は無碍の一道なり」を感じられたのではないかと思われるんですね。それは、やはり三十五歳に流された時ではないか、北越の天地に流された時ですね、三願転入を、一番最も感じられたのではないかと思うんですね。その当時流されるといったら、あれでしょう、なにがしかの米と、なにがしかのお塩をもらったんですね、あれ。そして、次の年にですね、籾をもらって、そして蒔いて、それができるようになったらですね。流された次の年からはもうお米の配給がないわけです。だから、籾をもらって、それを蒔いて、自分で稲を作ってですね、米をとらんといかん。そうせんと死ぬるわけです。だから、大抵はもう、大変だったんじゃないでしょうか。都会のインテリがですね、何もしないような連中が、北越とかああいうふうな僻地へね、流されて、お米を配給してもらって、お塩をくれたんですね。籾と塩。決まりがありますね。それもらって、流されて行ってですね。次の年にはもうはや、自分が稲を作って米をとらんといかなかった。そうせんと、死んでしまう。で、親鸞聖人は幸いにして奥さんがいらっしゃったからね。その説によると、その地方の豪族ですが、三好なにがしとかいう豪族のお嬢さんもらったんですね。それと一緒になられた。だから、死を免れたんじゃないですか。奥さんが偉かったと思いますね。あの、像を見ても絵像を見ても、ふってらとした奥さんで、温かそうな奥さんですね。生活力のありそうなね。しっかりした奥さんですね。絵を見ただけでねえ。あれ恵信尼というんですね。恵信尼。恵信尼さんのお便りが、大正十年の五月だったかに、本願寺の蔵から出たんでしょ。十通だったか、何通でしたかね、出た。恵信尼文書というのが出ましたね。それで、いよいよ親鸞聖人の存在が明らかになったわけですね。比叡山に居って、堂僧を勤めておったというようなね。いうのがあります。あれ拝読したことがございますが、そのように、まあ三十五歳で、無実の罪なのに流されたんです。これは事ですよね。だから、一生涯親鸞聖人は忘れ得なかった。古田武彦いう人が居るわいね。あの人はあれを取り上げる人ですね。東北大学を出た、研究家がいらっしゃる。『親鸞』というのを書いていらっしゃるね。本部でもよくお話に出るんじゃないですか。あの方の。『教行信証』の一番後へ付けておるところの文章ね。配流の文章がございますね。あれは公文書だと言うて、古田さんは今そういう説を立てておりますね。流された一つの公文書を後ろに付けとるわけですよ。それからいつの間にか、歎異抄の後ろにもあの文章を付けるようになったんですね。いつの間にか、配流の文章をね。だから、無実の罪で同じ友達が首をきられる斬首の刑にあうわけですよ。お師匠さんが流されるわけですよ。自分もまた流されるわけですよ。そういう目にあった。彼は彼の生涯を決したんでしょう。三十五歳で、もうほんとに有碍の世界に、生死海に放り出された。
 その時に最も十九願二十願から十八願へ転入していくね、至心発願欲生我国、至心廻向欲生我国、至心信楽欲生我国という、この発願から廻向から信楽へ、こう転入していくんですね。自力の菩提心からね。菩提心がついにかなわんということになって念仏一つになって、念仏一つを申す。自分の力によって念仏を申す。すなわちええ格好、念仏申すのを仏さんに認めてもらって悟りを得ようとする。廻向、こちらから廻向しようとする。私が、念仏申す。だから一つよりたくさん念仏申す。ね、念仏の功力によって、念仏の功徳力によって、浄土に往生しようとする。それが二十願でございますね。それが果遂の願で、それが誤りであるということを知ったら、その場所的な対応、場所的対応という哲学的なね、その場所的な対応で、十八願に転入した。最もこの三願転入を感じたのは、北越の親鸞でございましょうね。だから、一切の運命を引きちぎろうかいと思ったでしょうね。なんちゅうことかと思ったでしょうね。この間違った、これぐらいひどい間違いはない。真実を言うて無実の罪で流される。命をとられる。これぐらいあなた、「咎なくして死す」ということがあるが、昔からねえ。だけど、こういうことは、なんですねえ、過去の権力者たちはやったでしょうねえ。なんにも調べんで、咎もないのにね、罪に追いやるということ、あったと思いますよ。で、そのような一切の運命を引きちぎろうかいと思う時がある。その時ね、よく言っておられたね、反逆の子になるか、それとも法の子になるか。念仏の子になるか。どっちかに行くしかない。反逆して、平将門みたいにね、一旗上げるか、藤原純友のようになるか。俊寛のように 海に向かって叫ぶか。それか、もう静かに自己に帰って、お念仏を申すか、静かに自己に帰って、み法の子になるか。どっちかでしょう。人間そういうものでしょう。どうしようかい、これで生きられようかい。これで生きてみなさい、これで、ちゅうとこですね。これで生きられようかいという有碍の中に立ったとき、どうしようもない世界にたった時ですね、すべて自己の宿業として合掌に帰ったのは親鸞聖人である。なかなかできないことです、これは。自己の宿業として受け取るということはできない。我々の生活でもそうですよ。こうして願生道に帰って、命を長からしめられたのである。この生命道につながることができたのである。実際に、私たちの生活でもね、そうでしょう。私らのような平凡な人間においてもですね、間違っとるなあ、間違っとるなあ。どうしてわしがこういうことになるの、間違っとるわ。相手が間違っておると思うがなと思うてもですね。それに対して反逆の子になるか、それともですね、静かにお念仏を申せるか、なかなかそれは難しいことですわ。だがしかし、お念仏を申すように自然に帰らしてもろとると、時間は経っても。それはやっぱり法の力でしょうね。法の力によって正しめられとることに後から気がつくわけですよね。行き詰まっておると、「光明」なんか読んでおると、先生のおことばがちゃんと用意されておる、そこに。ああ、頂いてみると、ああ、ここに先生は私に教えてくださっておる。ここにことばがあるではないか。そういうふうに、用意されたことばに遭遇できるということは、やはりこれは法の一つの願力の力でしょうね。目に見えざる世界の力だと、私は思います。だから、お念仏を申して、ああこれはわしの力じゃないなあ、全部賜ったものだなあ、これ頂いたもんだなあ、ということが感ぜられるかどうか。ね、少しでも、ほんの僅かでも。ああこれはほんとにご法のおかげだなあ、そうじゃなかったら、とてもじゃないが、私には与えられなかったなあということを感ずるということがねえ、やはり大事なことでしょうね。それがほんとうに物を批判できる世界でしょう。そういうような、賜ったものだなあということが、身につまされていただけるものでないと、価値判断、ほんとうの批判というものはできません。したら間違っとる。自己中心的で、間違っとる。そういうことを思うのであります。
 で、願生道に帰るということはなかなか困難なことであるけれども、そこに如来本願の力というものがある。それをいただかなけりゃいかん。ねえ。お念仏申してそれをいただかなければいかん。個人というものは絶対の存在ですからね。自分こそ大事なんである。自分こそ絶対の存在である。そうですよ。今の世の中はもう、見たらそうでしょうが。今の世の中見たら、ねえ、自分自身の存在というものを大切にせにゃいかんですよ。大事にせにゃいかん。

 次に欲生について。これはご左訓にですね。「ムマレントオモフナリ」とありますね。信巻には「招喚の勅命」とありますね。欲生我国というのは、十方諸有を招喚したもう勅命である。この勅命をいただいて信ずるところに信楽があるんだ。だから、信楽のところにはですね。みずから浄土に生まれんと思う心はちゃんと具足しておるんです。信心の中に欲生は含まれておるんです。義としてあるんです。だから、信楽よりほかに欲生心を要するのではないんです。至心信楽欲生の三心を合してみれば、誓願不思議を深く信ずるよりほかはないわけです。三はすなわち一つである。その深信こそは、もし生まれずば正覚を取らじとの誓願をですね、信楽することでありますから、深く信ずる心には、自ら、おのずからとしてですね。浄土に生まれんと思う欲生の心がちゃんと入っておるのであります。だから、その生まれんと思う心、すなわち欲生心と仰せられるのである。だから、至心信楽の三心の意義を総じて言えば、ただ弥陀の誓願を深く信ずる信心一つである。信心一つである。すべてこの信心一つに含まれておるんです。至心信楽欲生ですからね。だから弥陀の誓願の真実なるが至心です。弥陀の誓願の真実なるが至心。その誓願の真実をですね、深く信ずるということが信楽である。そしてその信ずるところにですね、浄土に生まれんと思う欲生心が具わっておるのであります。だから、この、開けば三心、合すれば信心一つになるわけです。だからこの信心の徳義として三心はちゃんと具わっておるのである。だから、願成就文というのがありますね。みなさんもう覚えていらっしゃるでしょう。「聞其名号信心歓喜乃至一念」この一念の念は信ですよね。と説き、この「乃至一念」の一念は行じゃない、信でしょ。信と説く。浄土論にはね、「一心帰命」というんですよ。で、信巻には、じゃあどう言ってあるか。これは一二の七八を開けてください。六行目。一緒に読みましょう。 

 まことに知んぬ。「至心」「信楽」「欲生」其の言異なりといえども、其の意はこれ一つなり。何をもっての故に。三心すでに疑蓋雑ることなし。故に真実の一心、是を「金剛の真心」と名づく。金剛の真心、是を「真実の信心」と名づく。真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。

 はい。こういうことでしょう。ちゃんとここにあります。じゃあ、金剛の真心というのはどういうことか。さっきから金剛の真心について申しましたが、金剛の真心ということはですね、これは限りなく言い換えたらね、内に歩むことである。内転することである。内に歩むことである。外へ外へと流転するのを内に歩む。内に自分自身を尋ねて行くことである。ね。だから、衆生の一心、すなわち三心を起こすのは、これ如来廻向の信であるからである。仏様より賜った信心であるからですね、三心を具足しておるんです。ということはどういうことか。というと、如来の誓願において、三心を成就し、これを衆生往生の因として廻向せられる。であるからですね、如来にも三心が具足してある。その下さる如来の三心が具足されておるから、衆生の信にも三心を内具するのであります。これがすなわち絶対他力ということである。仏様の上にですね、至心信楽欲生の三心がちゃんと成就されておる。それが、信楽という信というなかに欲生も至心も全部入っておるのである。すなわち、至心信楽欲生の三心は信心に極まっておる。その如来の信をですね、そのまま衆生に賜るのである。下さるのである。廻向して下さるのである。だから、親様にあるものが全部子供にくるから、子供にもまた、三心を内に具えておるのである。これを三心を内具するというのであります。ね。これがすなわち絶対他力である。だから、すべてですね、親様から賜るものである。
 だから、欲生というと、これを招喚、招喚。招喚の勅命と(一部聞き取れず)いただいてですね、生まれんとおもうと言いますが、これはやはり南無阿弥陀仏の南無というのはすなわち勅命である。すなわち帰命である。阿弥陀仏というのはすなわち親自身である。親自身に帰命し、親自身の勅命を聞いてそれに帰命していくのである。だから、善知識の発遣、遣り声に即してですね、招喚の勅命がいただけるわけである。招喚の勅命に即してそこに信楽というものが私たちの心に誕生するのであります。だから、他力の信心を起こすところにですね、義として、義として、------いつやら申し上げたことがありますね、「とんがらし」というのは名前です。これねぶったらベロ(舌)が痛いです。これが「義」です。ね。いい譬えですね。------信心の義としてそうなんです。丸いんです、心はですね。だから、信楽よりほかにですね、欲生心が要るんじゃないんです。信心ですべてなんです。疑いなき心ですべてが入っておる。だから、信心を得た人はこうやってお話を聞いたり讃嘆したりするわけですね。信は願なり。信は願なり。信心は願生の願である。信は願なり。ね。欲生である。生まれんとおもう心が欲生である。だから信は願なりというでしょ。だから、三つが離れてあるのではないのであります。私たちの手元では、如来の本願を深く信ずるという信楽よりほかにないわけである。若不生者の信心であるから、もし生まれなかったら私は仏になりませんよ、あなたとどこどこまでもあなたについて行きますよ。だから、生まれんとおもう心を具足しているわけです。生まれんとおもう心をいただいておるわけです。ね、信のなかに欲生があるということです。
 欲生心のことを願生心、願往生、願生心と言いますが、他力の信心のなかにちゃんとそれが入っておるのであります。だから、願往生の道というものはですね、この世から浄土へ往くのは、よくお話にいただくでしょう、地理的な移動ではありません。ここから東京へ行くというふうな地理的な移動ではありません。貪瞋煩悩のなかに白道に生きることである。白道というのは正定聚の願往生心であります。すなわち金剛の信心である。信に生きることである。だから、金剛の真信とか信楽とか言うけれども、それはどういうことか。それは内に歩むことです。限りなく内に歩む。外へ外へと流転するんでなしに、限りなく心の内に歩むことであります。そういうことですね。で、まあそういうことがね。世間と出世間との違いというのが、一二の七〇にあります。お開けください。八行目にございますね。いっしょに読みましょう。 

 釈に、「不簡内外明闇」と云へり。「内外」とは、「内」は即ち是れ出世なり、「外」は即ち是れ世間なり。「明闇」とは「明」は即ち是れ出世なり、「闇」は即ち是れ世間なり。又復「明」は即ち智明なり、「闇」は即ち無明なり。

 いい言葉でしょう。外へ外へ世間へ世間へと引っ張られるのはですね、闇へ闇へと引っ張られておるわけです。このお言葉の通りである。闇というのは無明です。智慧がない。自分も損をするし、他人も損をさせるわけです。闇へ闇へ行くわけである。金剛の信心とは内へ帰ることである。智明の世界である。智明の反対は無明です。だから、六道を輪廻するわけです。苦しい苦しい苦しい世界から苦しい世界へと行くわけですねえ。即ちこれは虚偽であると。だから、私たちは友達によってですね、大抵どっちにでも引っ張られるわけです。悪友がこっちへ行くかと言うと、そっちへ行くというと、世間の方へ引っ張られるわけです。そうすると、ああお金がほしいなあと、お金があったらなあ、ねえ、そういうことになるでしょ。歳取ったら子供がおったらなあと思うかもしれない。ところが、子供がおって、ドラ息子がおると、まあ(一部聞き取れず)できたもんじゃと思うかもしれない。まあ闇から闇へと外へ引っ張られていくわけでありましょう。だから、そういう流転の世界からですね。静かに内へ帰るということ、内へ帰る、智慧のある世界へ帰るということ、それしかない。そういう転換しかない。貪欲とか瞋恚とか愚痴、そういうものの中に私たちが道を求めようと思ったら、自分の内に帰るしかない。だから、法然上人は愚痴の法然房、内へ内へ帰ってですね、自分の中に、愚痴であり、そして瞋恚であり、貪欲であり、三毒そのものである自分というものを発見した。だから外の三毒に染まらなかった。三毒を超えることができたんですね。だから「還愚痴」というんですね。還愚痴。おもしろい話ですよ。還愚痴。愚痴に還る。これはね、浄土宗の方がいらっしゃるんです。私の知った人に。法然さんの弟子ですよね、浄土宗だから。そしたらね、法然上人は還愚痴、還愚痴と言うと言うんですよ。それ知ってるんですよ、その人らは。愚痴に還る、それが気に食わん、その人たちは。なぜかというとね。法然上人というのは大聖者だ、心の中はもう仏さんになってしもうとる。その人がじゃね、愚痴に還るとは。愚痴なんかあるはずはない。愚痴に還るとは、これはいったいどういうわけか。これはどうもわしゃ気に食わんなあ、分からんと。そういうような。ね、おもしろいでしょ。還愚痴、還愚痴。法然はもう歳とったの。死ぬまでね、愚痴に還れ、愚痴に還れ。還愚痴。愚痴の法然房ですよ。それを現代のずっと浄土宗の流れを汲む方が、全部ではないんでしょうけれども、その知ってる人が、法然は気に食わん、どうも法然は還愚痴じゃなんて、あんなこと言わにゃええのに、とこう思う。法然上人の人格を傷つけると思うんよね。だから、大聖者というのは愚痴もなければ何もない、もう芯から芯まで、蚕がもうきれいに透明になるように、真実そのものになりきってしもうとると、こう思ってるんですね。煩悩なんかさらさら無いわけです。真実そのものになっとるわけよ。だからそのそう思うとる人はね、愚痴に還る、愚痴に還って念仏申そうということを文献に書いとると、なんとこれはまあ、ちょいと他の人がこれ付け加えたんじゃなかろうか、というようなことになってしまうですね。全然受け付けんような気になるわけです。既にそこにはや大きな間違いがある。分かっとるようで。そんなことを批判せい言うたら、ぱしっと言うたら、怖いから僕は黙っておる。なんか言うたら喧嘩になるばかりやから。「当座諒承」せんとね。そうですね。そういうものですよ。
 だから、いかにね、お念仏の世界というものはです、自覚と言うたらね、いかに尊いかが分かりますよ。そこになったらなんでしょうが、学問なんか要らんですよ。そういうことが分かったらね。学問があったら邪魔になるですよ。そういうこと分かろう(一部聞き取れず)「一文不通のともがら。」一文不通です。一文不通と言うでしょ。「一枚起請文」ご存知でしょ。法然の。聖典にございますね。「一枚起請文」、開けてみますか。滅多にお開けにならんかもしれません。いや、失礼なことを言うてはいかん。三六です。通ページで七八八。「一枚起請文」いっしょに読んでみましょう。 

 もろこし我が朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず また学文をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず ただ「往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑なく往生するぞ」と思ひとりて申すほかには別の仔細候はず 但し三心・四修と申すことの候ふは皆決定して「南無阿弥陀仏にて往生するぞ」と思ふ中にこもり候ふなり この外に奥深きことを存ぜば二尊のあはれみにはづれ本願にもれ候ふべし 念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じて、智者の振舞をせずして、唯一向に念仏すべし

 ね、「一文不知の愚鈍の身になして」。これをですね、学問があるのにね、謙遜してね、こういうふうに言うておるんだ、ととるのは誤りです。誤りです。「一文不知」とか、「一文不通」というのはどういうことか。それは大学へ行って勉強してね、ものを知るということの、知るということの反対ということやないんです。これは何もそういうことを知らない人の言うことやないんです。なぜか。これを書いた法然上人はね、一切経をね、五へん読んだんです。五度繰り返し読んだんです。五度繰り返し読んだんです。もうその当時としてはこの人ぐらい偉い人はおらんという大学者やったんですよ。五度読んだんです。その人が、わしは一文不通のものであると言った。愚痴の法然房だと言った。十悪の法然房だと言った。どういうことかというと、一文不通というのはですね、この生死を解脱する、本当に救われる道というものを知らないということです。だから、宗教というものは、一文不通のともがらにみんな置く、置くんです、置かれるんです。それが宗教というものです。それを一文不知のともがらというのであります。一文不知、何を知らないか。生死解脱の門を知らないのです。生死解脱の法を知らない。生死解脱の法を知らない。助かる手がかりがないということです。善導大師の「無有出離之縁」、助かる手がかりがない。自力無効である。もう手も足もなんにもこれは役に立たない。仏になるためにはなんの役にも立たない。ということを知る。それが一文不通ということでしょう。だから、一文不知のともがらにはですね、聖者もまた自覚して一文不通のともがらにならなくちゃ救われない。生死流転するしかない。おれはもう無有出離之縁の悪人であるということがはっきり分かった世界が「一文不通」。そこにおいて、法の深信として本願を信ずる。本願を信ずることによって、一文不通の(一語聞き取れず)、照らし出される。あぶり出される。照らし出されていよいよ法の深信が確実になるんですね。この相互に照らし照らされる、それを相互限定という。だから一文不通のともがらなんですよ。みんな。そこまで降りてこなければ助からん。で、それを誤ってですね、どうもそういうものは気に食わんなあなんて言うたら、気に食わんと言う人はそれは間違いだと思うのであります。
 だから、願生浄土というのはですね、この人生に対してですね、価値的な意義という問題をはっきりしなければいけないのであります。如来招喚の声を聞くことによって、流転せる子はですね、本国に向かって向きを変える。「廻思向道」と言いますが、思いをめぐらして道に向かうということである。それだけでですね、人生何物にも代えがたいところの絶対的な値打ちというものを持っておるのであります。だから、願生の旅を続けていくですね、このことの一歩一歩がですね、大いなる響き、大いなる光をこの世にあらしめるに違いない。なぜか。なぜかというたら、それはもう仏さまがこの世に出てくるためにはですね、この世に具体的に出てくるためには、願生道を通してでないと出てこれないのです。本当にお念仏を申す人の上にのみですね、仏さまの具体的な徳というものが出てくるわけです。だから、この大いなる光をこの世にあらしめる。それがもう本当にどんな方であろうとも、それが思われなくちゃいけない。そこに価値的な一つの大きな転換というものがあるわけである。だから、私たちがお念仏申すこと自体がですね、光そのものの中に生かされておる。如来の真心のなかに生かされておる。そしてまた如来の真心を真心としてこの世の中に現すことができるわけです。ほんとはね。南無阿弥陀仏によって。だから、信一念によって、信一念によって、如来の光が生きるのであります。その一念の信が相続し、大信決定して往く生活そのものが、すなわち願生浄土である。願生浄土のなかにそれが含まれておるわけである。したがって、弥陀の誓願の真実なるが至心であり、深く信ずるのが信楽であり、浄土に生まれんとの願いが欲生である。この至心信楽欲生の三つがですね、一つになって、信となる。それを一心という。「世尊我一心」一心です。一心の徳義として、この三心が具わっておるのであります。これが即ちですね、久遠劫来の私たちの流転の源であるところの自力というものを壊してくださる。これが壊してくださって、私どものところに廻向してくださる。そして、その大きな南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の中身でございますから、この六字がですね、私たちの心の中に廻向されて、それが人生の、よく言われますように、根本主観になるからですね、私たちは救われるわけです。だから、仏の大功徳そのものがですね、人格の本質となるわけであります。だから、如来廻向の信心であるから、三心を具足しておる。三心を具足するためにですね、本願の三心があるのである。衆生にあってはただ信心、それが即ち浄土往生、衆生が往生するところの因となるのであります。だから、先刻申しましたように、如来の本願にも三心を具足しておる。如来の本願に三心を具足してあるから、それを賜った衆生の信心にも三心を具足しておる。これがこう二つあわさってですね、絶対他力といわれるものであって、これが信心の宗教である。真実の宗教であり、浄土真宗の宗教であります。如来と衆生の信心ともに同じ徳性である。親様の徳と子供の徳とはですね、一つである。おんなじものである。おんなじ徳性である。徳性が一つである。親さまと私とは一つである。そういうところにですね、救いがあるのであります。だから、真心は、真心は、必ず私の上に成就してくださるのであります。だから、真心で成就したものが本当のものである。「人生を浄土の縁として如来の真心のなかを生きさしていただいた」という細川先生のご文がございますが、まことにその通りでありましょう。如来の真心がすべてを成就してゆくのである。


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