「親鸞一人がためなりけり」

 

 「十方諸有を勧めてぞ」というところでですね、招喚の問題が出たわけでございますね。次を申しましょう。
 「西岸の招喚」というところでございましたね。西岸の招喚があるということは、ありました。二河白道におきましてね、一つの重要な眼目というのは、これは招喚の譬えでありましょう。今ここにずっと出ましたが、招喚の譬えである。  

 汝一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん。

というところですね。弥陀の願意というものは、即ち至心信楽欲生の三心の招喚にあるんだと。弥陀の願意というものはそこにあるんだと。そして、その願意を示して「汝一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん。」ということである。聖人の浄土真宗は、いったいどのようにして生まれたのであろうか。それはただですね、弥陀の本願招喚の勅命を聞く、弥陀の本願に救われるということである。如来の本願を措いては何物もないわけであります。如来の本願力が私を救ってくださるのである。「衆生縁」「法縁」「無縁」の大慈悲と申しますが、この無縁の大慈悲が罪業の深い私を救ってくださるのである。ということである。この私の持っておる悪というものが願生浄土において妨げることはできない。私の持っておる善にもですね、用事がないんだと。共にこの善と悪には用事がないのである。ただ呼びかけたまうところの絶対の大慈悲にこの身のありのままを摂取していただくのである。そこにのみ本当の救いがあるのである。ただ黙ってですね、座ってね、目つぶって考えとったってね、そこにはね、あまりたいしたことは生まれない。やはり如来の願意というものを聞かなくちゃいけない。願意を聞くということは、即ち招喚を聞くということである。自分の苦悩というものに即してですね、招喚を聞く。それが即ち金剛の真信を頂くということである。金剛の真信はどういうことか。それは無限に私自身の内面に帰っていくことである。外へ外へとですね、ひっぱりまわされるのでなしに、内面に、目に見えないものの世界のあるということをより確実に見詰めていくことである。ただ呼びかけたまうところの絶対の大慈悲にですね、この身のありのままを抱いていただく、そこにのみ本当の救いがあると。この招喚の声を聞くということはですね、宗教生活のすべてであると思うのであります。招喚の親様の呼び声を聞かしていただく、名号の謂れを聞かしていただく、その声を頂く以外には一切はありえない。この声の前にはですね、善も欲しからず、悪も障りにならない。何の役にも立たない。じゃああるのは何か。今更ながらにですね、宿業という問題を考えられるわけである。宿業であると。地獄必定である。ねえ、本当に宿業を感じていく。そこにはですね、まず親様の存在というものがはっきりしなきゃならない。親様なくしてはですね、ただ徒に業だ業だと言ってもですね、そりゃねえ。ねえ、業だ業だと言ってもね、それはきついことです、それは。ただ業というようなものはですね、親様の招喚の声を仏様の心を静かに聞くことによってですね、この仏様の声のままに我々の心の一切というものが見えてくる、暴露されてくるものである。そういうものではないかと思うのである。そうでなかったらですね、これは大変なことになる。今さっき沢木興道先生が老師が講演で言われたようにですね、どうにもこうにもならんようになる。この声をですね、聞かないと、いわゆる歎異抄の第二章の問題であるところの、「南都北嶺にも由々しき学生たち多くおはせられて候ふなれば、かの人々にも会ひたてまつりて往生の要よくよく聞かるべきなり。」ということになるんですよ。南都北嶺の学生たちは本当にこの声をお聞きになっておるかどうかということである。二十願の世界は、ねえ、まあ十九願から二十願に行くわけでしょうけど、その世界には、死というものがない。死の感覚がない。危機感がないんです。理性の世界である。知性の世界である。だから、人間は死ぬるじゃのいうような、そういう危機感があまりない。死というものが差し迫ってきたらですね、三定死ということになるんです。そういうことんなる。この声のですね、如来本願の声の前に現れたのがですね、この二河譬の、二河の譬えの姿でありましょう。「汝一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん。」「汝」というのは即ち十方衆生である。「一心正念」というのはね、これは「至心信楽欲生我国乃至十念」ですよ。三心十念のことでありましょう。「我よく汝を護らん」というのは、「若不生者不取正覚」である。あなたと共の運命であるぞ。人間は運命に共感することができない。運命に同ずることができない。そこで、鈴木大拙先生のような偉い人が腸閉塞でウンウンうなっとってもね、どうすることもできない。岡村美穂子さんのような立派な方がね、いつもひっついとった。それでもどうすることもできない。ねえ、「先生、してほしいことはありませんか。」「ノー、ナッシング、サンキュー。」二人は英語で言いよったんですからね。会話は。「いやあ、何もないよ。」と言って静かに亡くなっていかれた。ねえ。まことに静かな死であります。そこへどやどやどやどやと見たこともない人間が入ってきて、ばあっとね。現代の世相ですよ。そしたら、美穂子さんが腹を立てた。「酸素がないようになるじゃないか。」小ちゃい部屋へ一杯入っとるわけです。そりゃ実にいい言葉だね。「酸素が少なくなるじゃないの。先生は、たくさん来たからおれはもう駄目なかと思うじゃないの。」優しいよね。男子もなんですよ、女性にこんなに心から怒ってくれるような女性に会えたというのは、やっぱりそりゃ、鈴木大拙先生じゃねえ。男子として見たときにね、これを邪推というんですよ。これはひがみですよ。だいぶんひがんでおる。まあひがみも言うてみにゃいかんわい、男はね。愚痴を言うから男ですよ。本居宣長もいい奥さんのこで、愚痴ぎり言いよるじゃないですか。ねえ。ああ戦争に出たらこわいなあ言われる。こわくないよ。(一部聞き取れず)。みな銘銘で行きよるんです。「やあやあ我こそは。」(一部聞き取れず)がっとんこーと行くですよ、こりゃ。はい、それまでよ。なるですよ、そりゃ。そういうもんですよ。だからやっぱり弱いところは弱いなりにいいじゃないですか。ああそうねえ。奥さんそうねえ。でも、戦争しなくちゃならないのねえ。と言うぐらいのもんですよ。男たる者は、「よし、この世に(一部聞き取れず)のために俺が一つやらにゃいかん。」と思うたかもしれんなあ、そりゃ。ねえ。まあそれは邪推ですけども、とにかく「若不生者不取正覚」とういのは「我よく汝を護らん」という大悲のお心ですよ。それがまた、本願文においては、成就文においては、「即得往生住不退転」でしょうが。即ち往生を得て不退転に住するんですよ。なぜか。親の運命と共に子があるから。親は必ず浄土に往生せしめようとする願があるから、その親様の言う通りに従ったら、即得往生ですよ真即ち往生を得て、しかしながらそのままぽんと浄土へ行くのではないんです。人格が完成するまで。この地上におるんじゃから。足は大地にしっかりとあるんじゃから。住不退転、不退転に住するというのはこの地におるから言えるんです。おっとどっこい、浄土へ行ってしもうてはいけないよ。おっとどっこい行けないよちゅうのがあるじゃない。そして不退転に住するというて、相互限定で、大地に足をしっかりと正定聚不退の菩薩に引き止めたわけですよ。だから、即得往生するままが不退転に住する。仏になったんではないんだ。仏と等しき、絶対価値の顕現である。能令、よく功徳の大宝海を満足せしむるのである。たとえ一部分の功徳が出てもその中には絶対の含まれておる。だから、念々に三心が成就している心が相続するのが信心というものである。その念々に相続する信心が口称として現れたものが称名である。称名である。住不退転の称名。だから、二種深信のところにこそ住不退転というものが成立するんです。ねえ。住不退転のところにこそ称名というものが真実にあるんです。だから、真実の信心には必ず名号を具する。南無阿弥陀仏というものがそこに念々に展開されていくのでありましょう。だから、一心正念というのは即ち三心十念である。三心十念は即ち聞信することによって歓喜するんだ。信心歓喜である。それが成就文では「乃至一念」と、こうなる。「一念」の「念」は「信」ですよ。ねえ。そういうことです。「三心十念」の「念」は「行」でしょう。行即信。行即信。あら信や行、行や信と、こうなる。ね、人間の意識というものはそういうもんでしょう。それが念々に転ぜられていく。それを親鸞聖人は、真仮相対において明らかにしたのである。法然ではまだ明らかではなかった。法然自身は明らかだったけど、あとへついて行く者が明らかでなかったわけですね。だから、(一部聞き取れず)をあげたんね、これは。「西岸上に人あって呼ばうて曰く」というのは阿弥陀如来の誓願なりと。だから、誓願というのは、人生を超越せる彼岸の浄土である。彼岸の浄土から呼んでくださるんです。浄土というものは現実と連続しておるものではない。それは現実と連続しておるという人の文を私は読んだことありますよ。ちゃんとした念仏に関係のある人で。四十八願というものは我々がこの世において成就していく一つの理想のことばである。だからあれを一つずつね、この地上においてね、国土において理想国土を築き上げるのが四十八願である、と書いてある。ありゃりゃりゃりゃ。これは大変な文字じゃ。そういうふうに頂いたらこりゃやれんですよ。第一願地獄餓鬼畜生のないところを造ろうというんでしょう。だから、さあこれからあんた、この現実に立って地獄餓鬼畜生のない所をどないして造るんですか。ねえ。不可能ですよ。永遠にこの地上は生死の苦界ですよ。生死の苦界ほとりなしです。四十八願というものはそういうもんじゃない。だから、誓願とは即ち人生を超越せる絶対次元、浄土というのは。如来は、理想の浄土にあって招喚してくださるのであります。彼岸は人生の延長にあらず、彼岸は人生の延長ではないんだ。衆生の自力の足らざるですね、無量光明土である。人生に無限に眠る衆生をして覚醒し目覚めさせ、そして救いたもう力である。その誓願のみ、あるがままの我を救いたまうのであります。そういうことですよね。だから、「汝一心正念にして直ちに来たれ。」その「汝」という二人称はどういうことか。十方衆生即ち汝である。「衆生というたら先生、どういうことでございますか。」先生はだまーーって。一言、「君のことだよ。」学生の時のことです。ね。「はい。」分かっても分からんでも頭下げるしかない。それ以上もう言われんのやからね。そんなに長くおったら邪魔になる。「はーい。」あとで、衆生いうのが分からんので、電車に乗って学校へ行きよったのが、ゲートル巻いてちょっと不安になって戻ってきて、「なんか忘れ物あったの?」というて本部の人が言われてね、「いや、ちょっと先生にお尋ねすることがあるんですが。」ちょっと気障になったらいかんからねえ。「先生、ちょっと。」「ああ、構わんよ。」「先生、衆生といえばどういうことでございましょう。」「うーーーん。」と、だまーーって、だまーーって。そしてぽっつりと、「君のことだよ。」と言われたらもう終わりだ、それで。ねえ。「はい。」ほんとにこの通りですわねえ。よく時が経ってみると。それが分かったら偉いもんじゃ。それが分からんから、こやって皆さんと一緒に。皆さんは分かっておられるけど、僕自身こやって教えていただいとるわけです。こういう形でね。これは業が深いということです。ねえ。十方衆生即ち汝である。「行者というは即ち必定の菩薩と名づく。」です。言葉はいいですねえ。必定の菩薩です。前念命終後念即生。『愚禿抄』にありますね。前念命終後念即生というところに、あるでしょう。必定の菩薩なりというのは、正定聚の菩薩であるということ。だから、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり。」これは、この言葉は、すごい言葉。十方衆生から天上天下唯我独尊から親鸞一人がためなりけりと、こう転じられたんですね。この世界をほんとに、もう微かな匂いでもいいからねえ、匂いというのは「きく」というんだそうですが、きかしてもらいたいもんですね。一生かかってね。まあ遠く遠くそういう世界があるんだねえ、この地上はというので、もう灰になるのが大部分じゃろうけどね。「なにどうして、僕はそんな灰になんかならへんで。何言うんですか。」いうて怒られたらいかん、これは僕のたわ言。なかなかほんとにもう自分自身の精神を切り澄まして切り澄まして、それこそ香を焚いた(一語聞き取れず)です。静かな静かなそういう世界で、無限により静かな、寂々たる世界の中に静かに自分を見つめていって、自己の、ねえ、いかに浅い心であるかというものを内観自証していく世界でなかったならば、賑やかな世界では感ずることはできないでしょう。寂々たる世界でしょう。と、私は思う。だから、ここに親鸞聖人は、夜晃先生の言葉で言えばですね、前人未到の天地に出られた。今までのですね、親鸞一人の世界を言い表すべき言葉はなかった。一切を超えたる真実一が(一語聞き取れず)の上に感じられて「親鸞一人」が生まれるのである。それは実に具体的な一であり、全的な一でありましょう。それ故に必定の菩薩といわれるのです。必定の菩薩といわれるのである。汝と呼ばれたる念仏行者は、摂取不捨されたのであります。あの「弥陀を頼めば南無阿弥陀仏の主になるなり」、まことにね、南無阿弥陀仏の主になった人でしょう。ねえ。これ、この世界があるんですよ。この地上には。今までだれも到ったことがなかった。みんないろいろいろいろ言うたけど、だれも到ったことがなかった。親鸞一人がためなりけりと本当に言える世界があったんですね。蓮如上人も「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。」と言われた。夜晃先生も「一対一の壮観だねえ。」と言われた。あの書斎で私たち学生に。「ああ、親様と私との一対一の壮観だねえ。」まことそうですよねえ。法界に、この宇宙といってよろしい。宇宙のほうが現代人には分かるからね。この宇宙に、この法界に、阿弥陀様一人格のみです。一人格でしょう。阿弥陀如来一人格である。その阿弥陀如来一人格が私と一対一の世界にあるんです。宗教の世界はそういうものでしょう。一対一の壮観である。ああ、見事なもの。ねえ。おばあさんもお念仏申しながらね、このおじいさんもそうです。一対一の壮観を(一部聞き取れず)。必堕無間の私の一人の我。一人の我というのは必堕無間ですよ。地獄行きですよ。ねえ。その必堕無間、自力無効の天地に呼びかけてくださっておる、その招喚の声を聞く一人ですよ。一人の我。絶対一人。この一人が「汝」である。たくさん人がおっても、たった一人である。法界の中にたった一人が呼ばれておるんですよ。十方衆生の名において呼ばれるということは、即ち十方衆生は「汝」一人の内容ですよ。私という意識の上に立ったならば、仏と我とのですね、一対一の呼びかけを聞く世界しかない。この一人が「汝」である。「汝、一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん。」この世界しかない。一切衆生即ち一人、この一人が生死海と具体的なる一人である。しかしながら、ねえ、衆生とは(一部聞き取れず)。衆生とは、一切衆生というのは私の内容。私のことだ。まことに久遠の真実に呼び覚まされたる一人ですよ。摂取不捨の一人です。「地獄は一定住みかぞかし」の一人。よき人の仰せを絶対に生きることのできる一人である。この一人の天地に達せられたものは、親鸞聖人が初めてであったと言われるのでございます。そういうこと。この一人に目覚めた人は親鸞聖人以外になかった。ねえ、これはすごいことですよ。そういう世界があるということだけ知っただけ。その香りをきいただけでも、すごい。この一人の天地に達せられたものは聖人が初めてであった。で、先生の言葉で言えばですね、それは、奈良朝にもなかった、万葉の人も知らなかった。万葉の歌人たちも知らなかった。平安朝の人も知らなかった。民族は、大和民族はですね、鎌倉時代に到って初めてわが親鸞聖人のこの「一人がための世界」を生むことができたのである。このような自覚というものは、中国においてもこの自覚は生まれなかった。たくさんの聖者が出ましたよ、中国は。孔子さんも出ましたよ。老子さんも出ましたよ。その他詩人もたくさん出ました。李白も出ましたね。王維も出ました。みんな、あの中国大陸で偉い人が出たし、宗教家も出た。だがしかし、実にこの親鸞聖人がおいでになられるまではですね、人類は、このような境地に到ることはできなかったといわれるのであります。親鸞聖人において、この「親鸞一人がためなりけり」という、そういう世界が感ぜられて、そこに生きられたわけである。これはちょっとねえ。これはもう、何回でも何回でも推求してね、いただかなくちゃいけないところであります。そうですよね。何がなんだと言ってもそうですよ。だから、「汝一心」という「汝」の呼びかけ、そのままにですね、素っ裸な人間、あるがままの人間の姿を照らし出された素っ裸の人間、偽りのない人間の姿、呼びかけた真実、その真実に根こそぎ動かされた信心、人間の定散八万四千のですね、善を捨てて、定散の善よ、さよなら。さよなら、さよなら、さよなら。一切のその善からさよならしてですね、捨てて、大地の上に立ったのが愚禿親鸞であります。そうじゃないですか。迷うことなかれ。汝一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん。まことに善導大師の言われるとおりである。ねえ、そうですよ。ただ「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば親鸞一人がためなりけり」。人間がどれだけ相対的な、人間がどれだけ磨いてもですね、善を修めても、仏になり、菩薩になることはできない。みなできると思ってるんですよ。そこに誤りがある。やったことないから。ほんとうに。菩薩には人間がなるのではない。ねえ。真実はいずこに属するか。人間に属するか、それともまた仏に属するか、ということによって、聖道から浄土への展開があるということを、昨日いっしょに頂きましたですね。まことに自力から他力への転入である。本願への転入である。本願への願入である。ね、煉瓦を積むように、私たちが一生懸命に煉瓦を積んでも、お月さんの世界へ行くことはできない。だから、菩薩には人間がなるのではない。仏が菩薩になるのである。ほとけさんが菩薩になるのである。「必定の菩薩と名づく。」いい言葉ですね。必ず定まった菩薩になるんだ。正定聚の菩薩というのである、それを。必定の菩薩。前念命終後念即生である。ね。後念即生において必定の菩薩となる。正定聚不退の菩薩となる。住不退転である。退転をしないということはですね、進むしかない。だから、無限なるものの廻向表現によって、個は、個人は、個は超個の、個人を超えたところの、無限の廻向によって、無限それ自体の摂取によって、ここに一人の自覚というものが誕生するのである。本願を信ずる、そして一切を本願にお任せする。この「汝」という呼びかけ、この「汝」という呼びかけ、それだけが一切衆生を救うのであると、こう申されるのでございます。確かにそうですよね。静かに静かにね、大悲のお心に帰らなくてはいけない。そういう世界を仰がなくちゃいけない。そうですよ。そうじゃございませんか?はあ何だ、かんだと言うのもいいけれども、こうして先生が「おらんようになろうね。みな、おらんようになろうね。」おらんようになるということは、こういうことでしょう。「おらんようになろうね。」ということは、「相をとるまいね。」、無相の相です。相をとるまいね。すぐ相をとってしまう。そういうような、精進しておるという相をとってしまう。どっこもやっていない、俺とこだけやないか。ようやっとるのは。俺とこは天下一だぜ。ひどいことには、日本、日本でここだけが真実の発祥の地である。そんな馬鹿なこと言う人はおらんけども。ね、人間というものは高く上がっていったら何を言いだすか分からない。親鸞聖人の世界をかりに求めつつも、そうなってはいけないですねえ。親鸞聖人がご在世中には、なんでしょ、弟さんの尋有さんの家におったんでしょ。どこにおるやら分からん。歴史上ほんとに親鸞という存在あったんかねちゅて、疑われた時代がずっとあるでしょ。その中でただ、『教行信証』が、そして大正(一部聞き取れず)ですか、本願寺のお蔵から、恵信尼文書が発見された。調べてみると、ああ親鸞聖人へ出したお便りなんですよねえ。そうすると初めて若い時に叡山で堂僧を勤めていらっしゃったということが分かったわけでしょう。だんだんと、ねえ、実像が分かってくるようで、本当は分からない。良寛さんだって、なんですね、百五十年ほど前の人でしょ。自分のことを言ってないから、ほんとは分からんそうですね。推測しよるだけだそうですね。ちょっと前、明治維新のちょっと前の人ですが、自分のこと言ってない。まして九百年八百年昔の人は分からないですね。自分のこと言ってないから。ただ『教行信証』に越後へ流されたことは載ってあるだけでしょう。まあそういうことでございます。
 だから、即ち、「一心正念にして直ちに来たれ。」、一心ということですねえ。そういうこと。で、即時入必定ということ。一心正念にして……一心というのは真実の信心である。ね。浄土教を一貫する一心である。如来廻向の一心である。こういうふうにしてですね、善導和尚の言われるところの、所謂希有人とか最勝人とか妙好人という方が誕生したんですね。上々人とか真の仏弟子とか。日本は多くの妙好人が生まれてきました。これこそ日本の宝でありましょう。そして日本の妙好人たちはみな、一文不知の人たちであったのであります。だから、本当の仏弟子というものは、如来の「汝」の招喚を聞くことによって生まれるのであります。だから、横超の金剛心といわれる。よこさまに超える、金剛心といわれる。だから、金剛心を極まるが故に、金剛心を頂くことができるが故に、「弥勒と等し」といわれる。如来と等しといわれるんですね。で、そのあとずっと、信巻には、「真の仏弟子論」というものがあるんだそうですね。真の仏弟子というものは、「汝」という言葉を私の上に本当に頂くということ、ということでありましょう。だから、この一心、「この一心堅固なること金剛の如し」と言われますが、(一語聞き取れず)いろんな異学異見を聞いてもですね、壊れない。煩悩にも破られない。この一切に破られない相を金剛石、堅い。ただ堅いというんじゃない。破られない、壊れない、金剛の相を(一語聞き取れず)したのが、この二河白道でありましょう。

 だから、ありがたいことに皆様のご念力によってですね、皆様のご念力によってですね、私のようなものが、そうした月に一回でありますけれども、大学の先生、偉い先生らの講読を聞かしていただく中でね、はや十五年になりますがね、聞かしていただいてね、難しいこと勉強するんですよ。華厳経、摂大乗論、もう何回でも言うように、大乗起信論、臨済録、まあ十五年も経つと、振り返ってみると、一つも分かっておらんけれども、本の名前ぐらいは覚えとらあね。先生が一生懸命講義してくれるんだから。黙って聞いておりますけどもね、ありがたいことに、お念仏を学生時代に聞かしていただいたお陰でねえ、ああなるほどなあ、ああいうとこがああいうふうに頂くんだなあ、ああここではああいうふうに頂いてないなあというね、その違いがね、分かるような気がするんです。私は違いの分かる男である、いうようなことは言えんけどね。そういうような感じなんです。正顕と反顕やね、なにもかも本当のように見えたり、ご無理ごもっともじゃおかしいですよ。華厳経がこないだ済んで、今、何回も言うね。今『摧邪輪』のご講読いただいとる。これはほんとにありがたいことで、感謝しとる。ほんとに明恵上人という方は頭のええ人、勉強のある方ですよねえ。緻密に論をぴしーーっとね、論じておりますわ。で、みな講読する先生がすごいですね。頭がいい、これどのようにしてこれ論破するんですかという、論破できないですよ。その当時の最高の学僧ですからね。法然上人が亡くなられてからそれお書きになったんですよ。あれね。だから、法然上人が生きておられたらどのように言うかねえ、ということになってね。或る人が、まあなんだろうね、法然上人はニコニコ笑っとるだろうね。はああ、ええこと言われるなあ。「中村さんどう思うぞね。」「はい。そうだと思いますよ。ニコニコして歴史の審判にまず待つでしょうね。」ちと偉そうなこと言うたね。それ聞いとるからね。聞いとるから、そんなん僕自身の考えではとても出んですよ。僕の頭では。ちゃんと今まで聞いとるから。歴史の審判の前に遂に化石になった。なぜか。自己を見なかったから。それだけです。恐ろしいことないですか。学問の世界であなた、とてつもない人ですよ。恐ろしいことですよ。宗教の世界。汝がわかるということが。そこが仏教なんだから。それ以外に何物もない。私はそれ、高山寺へ偶然に連れていかれてね、高山寺へ座ってね、思うたですよ。はああ、あの釈迦の生まれ変わりと言われるぐらいに戒律を保った人ですよ。それこそあの高山寺の明恵上人は。今でもね、白洲正子さん言うたらね、もう大変な信者ですよ。両親までが。それは崇拝者が多いことですよ。高山寺の明恵上人。聖僧ですよ。なるほどこういうとこへ住んでおったら、なるほどなあ、ねえ。聖道門の菩提心は必要ないじゃのいうて言われたんじゃあ、こりゃたまらん。仏教否定したもんだから。ねえ。菩提心は要らんよ、というのは、聖道の菩提心ではだめだということですよ。だから、『和語燈録』には浄土に生まれんと願う心を菩提心というというて、ちゃあーんとその、読む者は読みなさいと書いてくれとるのね。法然上人は。法然上人さんもおもしろい人ですねえ。というのは、(一語聞き取れず)過渡期の上人だから。過渡期の聖者だから。人物が(一語聞き取れず)いかん。清濁併せ呑むです。いっぱいいろんな弟子が来とるんじゃから。叡山の回し者も中にはおるかもしれん、おったでしょうね。いっぱいおるんだから。ほで、にっこりと笑うて念仏を申しながら、ちゃんと書くべきものを残しとるわけです。真髄を得ない弟子たちは(一語聞き取れず)自力の念仏をやっとるわけ。自力の功徳ね、自力の称名というのをやってるわけ。親鸞聖人はピシッとですね、真仮相対をピシッとやっとるのを、頂いたのは四人か五人ぐらいですかねえ。或る人の説によると。実際法然のすーーっとそれが分かったのは。怖いことですよ。あとは空回りしよったわけですよ。ご苦労さんでしたという。しかしその衆らこそ、我こそ真実である、我こそ法然の真髄を得た、我こそ後継者である。我の側に寄らざるものは皆これは真実の信心を得ておるものではないというとこなんでしょうね。宗教いうものはそう。ところが、どこにおるやら分からん、ごとごとのね、寺のね、一間借りて、そこで『教行信証』をこつこつ書いた。法然の命日かなんかの御講の日には行かれよったといわれますね。親鸞聖人。そのために帰られたという説もあるね。だから、それははっきりしとったでしょう。でも(一部聞き取れず)見えなかったでしょう。だけどそこに『教行信証』という強大なものをね、お書きになった。それは即ち「愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑して定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまず」と悲嘆されたわいね。あれを見よ、親鸞は悟っとらんやないか。一生愛欲に迷い名利に迷っとるではないか。だから親鸞は気の毒だなあ。悟ってないよ。僕にそれ言うたってどないなるんですか。僕は「ははあ」と言うだけですよ。わしに言うたって。どうにもならんですよ、これ。「ははあ」言うだけ。目も、目の玉も動かんですよ。「ははあ」言うだけです。ものは言えんわい、そりゃ。皆さん、意味はお分かりになるでしょ?親鸞聖人は悟るなんていうようなことは凡そ使わなかった。悟るということは仏になるということ。仏になるということは、絶対人格が完成するということだからね。絶対に人格を完成できますか、この世の中で。そんな教学は嘘ですよ。まあ腹減ったら飯食わんのかい。好き嫌いはないんかい。ほんなら人見てはっきりいいなあと思わんのか。僕は思う。もう七十四ですけども。ああ、テレビにきれいな人が出ると、ああきれいな人が世の中にはおるもんじゃなあ、あああれだからお金になるんだなあと、すぐ思う。それぐらいのことです。それ以上は思わん。ねえ、そういうもんです。煩悩です。凡夫ですよ。だからその凡夫をですね、「汝、汝」といって呼んでくださる。どこ行っても。親様が、「お前よ!お前が目当てじゃないか。汝、汝、お前が浄土に生まれるまでは。」呼び続けるんですよ。そういう真実というものを本当に素直にいただけるかどうかにあるんじゃないですか。ねえ、目にもの見せてくれるものだけに真実を見ておったんではねえ。これは、大変なことになる。目に見えない世界、貧しくても尊いものがあるんだぞという世界、そういうものに活眼する。ああいう音ではないけれども、声なき声、即ち音よりもなお確かな、親様が「汝!」といって呼んでくださる声があるんだぞ、ということをね、頂いていくということは、念々に親の心をはっきりしていくということがお念仏の心ではないか、と思うのであります。



おわりに



 真宗の真面目というものはまことに、本願を信じきる、真実の信心にあるのであります。本願を信じきる一心に極まるのであります。それは、いかにして起こるか。善知識に会い、聞其名号信心歓喜と名号を聞き開くところに開かれてくるのでありましょう。だから、信の前に何物も要らない。信の世界には凡小の一切の計らいを用いず、真に親心を聞いた、そのまま。ねえ、真に親心を聞いたそのままよりほかにですね、一切間に合わないのである。如来本願成就の大信心というものは、このように、親心の「汝!」という呼び声に覚まされること以外にですね、一心成就ということはあり得ないのでありましょう。まことにお粗末な心ではありますけれども、親の心はいずこにあるか、「汝、汝!」といってどこにいても親が呼んでいてくださるのであるということをですね、感じながら、尋ねながら、生きたいものでございます。まことにご縁を頂きましてありがとうございました。これで終わります。ありがとうございました。ほんとにありがとうございました。到らんところはどうぞご寛容のほどよろしくお願いいたします。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 
    


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