信心の定義



信心の定義してください。信心の定義を。夜晃先生の定義を見ましょうね。  

 信は、諸行と並ぶものではなくて、諸行を可能ならしむるものにあらず。信それ自身が諸行を廃捨して、独一に絶対に涅槃への唯一真実の因となるものである。

こういうふうに。だから、涅槃に通ずるのはただ信心をもってするんですよ。ね。これが明確でないといかん。諸行と並ぶものではないんだ。鎮西では諸行を入れてるんですよ。諸行往生を。諸行を入れておる。非常に分かりやすい。大学の先生でも、鎮西派(一部聞き取れず)の方がいらっしゃるけど、「諸行入ります。」とはっきり言われる。心の中で、はああ、そうですかと。諸行が入るんですよ。(ところが、夜晃先生は)「諸行を廃捨して独立に絶対に涅槃への唯一つ、唯一の真実の因となるものである。」非常に明確ですねえ。で、それが、今日みなさんに大森さんがお配りしてくれた中にそれがあるはずです。その清浄の因と果という問題でね。これもまたほんとに今の、こういうことを考えていらっしゃる哲学の先生なんか、そういうことを勉強しとる先生方はね、本当に考えたらね、この夜晃先生のね、ことばにね、私は、教えていただくものがあると思いますよ。 

 因と果。因は果に、因は果へと必然に発展していくものである。因は果に必然に発展していくものである。果は因に内包されるものである。

 それだけです。ほいで、証巻(編者註:夜晃先生の「証巻」ノートのこと)を読むとね、その次の下に書いておる、「竹と木との相続するようなものでない」と文章が書いてあるんですよ。それはちょっとね、文章が、先生独特にずずずーーっと書くからね。読みにくいんですよ。あの証巻というのは読みにくいところがたくさんあるでしょう。先生の個性が出とるから。急いで書いとるから。見せるためのものじゃないんだから、あれはね。そうすると、私たちのようなあそこにおった者は、慣れとるというか、すぐ読みやすいよね。だから、愛媛の人でも、ある人が突然ふらっと入ってきて、「なんですか。」言うたら、「これ読んでください。」言うて、あの証巻の分からんところをね。五六箇所かなあ、ずっと読んでくださいとお読みしたことがあります。あなた偉いですねえと申し上げたんだけれども。そういうことがあります。だからちょっと、その中のこれは一つです、その下に書いとるのは。ちょっと文章は、まあ機会があったらね、「証巻ノート」を開けてごらんなさい。文章があったら、その上にこう先生がたたたたたっと書いとるから。非常に尊いことが書いてある。ねえ。正定聚から涅槃への道というものは、竹と木とを繋ぐような、異質的なものを繋ぐようなものでない。信心と涅槃とは同質なもの、質が同じである。これ、西田さんが言ってるわけです。これ、去年だったか、お尋ねになったね。ね。ちょっとね、信心と涅槃の問題は。お忘れになったかな。
 信というものと涅槃というものとは同質なんです。質は同じです。因と果にすぎないんです。だから、だから信心はね、涅槃へ行こうとするんです、同質だから。因から果へ行こうとする。果は因を引こうとする。同質だからね。で、そこで、正定聚という問題が起きる。なんとなれば、この世にある限り私たちは因の姿をとらざるを得ない。これは大地の約束である。ああ、この身このまま、すたっと悟りを開いてね、我は仏であると言うたってね、ぼやっとしてますよ、それは。「それは仏というのはそれなんですか、絶対に人格が完成して仏になったことですか?」「どうかな。」ということになりますよ。「おお、そうだ、仏になったのである。」「(一部聞き取れず)法ですか。ほう、安っぽい仏ですな。」ということになる。三十二相八十随形好ですか、そんな尊い相を表す、そんな人はおらんから、それほど絶対に隔絶したものであるということでしょう。絶対人格というものは。だから、浄土真宗においては、この世において絶対人格の完成ということは認めない。そりゃあったりまえのことでしょ。しかしながら、それに無限に近づくことはできるんだ。願力によって。それを如来と等しと言うんでしょう。だから、救いにおいて、じゃあ、救いにおいて救済ということはなんで成立するか。念々において全一なる価値そのもの、全一なる価値、価値と実在のなかの全一なる価値そのものが、全一なるものが、我のうえに廻向されると。それを「能令速満足」というのである。よく速やかに功徳の大宝海を満足せしめるから、これをうつすことはできるのである。いかにそれがわずかしか出ていなくても。だから、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」。涅槃の分を得るのです。真っ赤な功徳であってもそれが薄かったり濃いかったりする。それは、阿弥陀様というものは、報身仏というものは、汝の自覚の歴程を通さなければ、わが身柄に出ないんですよ。本願というのは。ねえ。信心の深さ、自覚の深さに応じて、この世に現れてくださる。少し現れても全部現れても、全一なる価値、値打ちそのものは同じである。だから、これを「現成(げんじょう)する」という。「南無阿弥陀仏が現行する」という。でしょ?だから、禅でも「現成公案」というじゃないですか。念々に全一なるものが現れてくださる。絶対尊重である。絶対尊重である。「天上天下唯我独尊」である。まさしく独尊である。なぜか。わしが独尊じゃない。現れてくださったものが独尊だから。したがって、皆さんすべて独尊である。だから皆さんが拝めるわけです。皆さんがいちいち南無阿弥陀仏である。その南無阿弥陀仏を一つ与えたら、一つの南無阿弥陀仏になる。浄土の木というものはそうです。浄土の木というものは、集めたら一本の木になるでしょ。だから、皆さんも南無阿弥陀仏、みんな南無阿弥陀仏ですよ。それが一つに集めたら一南無阿弥陀仏です。だから、法界にはただ、南無阿弥陀仏のみ生きてましますのである。南無阿弥陀仏のみ生きてましますのである。だから、だから、「弥陀を頼めば南無阿弥陀仏の主になるなり」と、昨日申し上げたね。南無阿弥陀仏の主になるんです。私の主体になるんです。同体になるんだ。弥陀同体になるんだ。弥陀と悟りが同じになるんだ。しかし、ゆめゆめ誤ってはいけませんよ。我々は大地にある。浄土におるんじゃない。大地、この生死海に住んでおるんだ。煩悩、煩悩の凡夫である。煩悩成就の、その世界の、因の姿におるんである。だから、これを東大の笠原一男という教授は、「親鸞聖人の世界は、煩悩ぼとけだね。」と言った。「煩悩ぼとけだね。」その先生、(一部聞き取れず)で会いましてね。煩悩ぼとけ。私は、松山東校というて、あの「坊ちゃん」の学校があるでしょ。あそこでね、ちょっと勤めたことがあるんですよ。そのとき講演に来てね。校長がおらんのでね、校長は偉い人やから、しょっちゅう外へ行っておる。で、僕はね、紹介せにゃいかんのですよ。東大の先生を講演に呼んで。困ったな、しかし東大の先生じゃから本を書いとるやろうと思うてね。わしゃ本が好きですから、図書館へ行った。学校の。あっこは先輩が偉いからね、何回も燃えたんだけどね、すぐにね、寄付してくれるんですよ。で、本を見たらある。笠原一男さんの、ある。やったあと思うて、だあああとね、十分ぐらいで見た。そこは要領よねえ。ほいで、ご紹介申し上げた。生徒は優秀だからねえ、いやというほど優秀なんが入っとる。で、笠原先生の著書を、本校にありますが、これはお念仏の本でね、こういうことを書いてある。こういうことをと言うたって(一部聞き取れず)でね。こういうことを書いておられますので、そういう先生ですから、とご紹介申し上げた。それが当ったんですよ。先生喜んで、飛び上がるほど喜んでね。こんな田舎のね、一教頭がね、しょうもない奴が、わしを紹介するのに肝心なことを言うとるというんです。それはねえ、わしが戦争に行くときにね、学徒動員、僕と同じぐらいの年齢です、学徒動員で行ったんです。その時にね、大学院にいらっしゃったんでしょうねえ、その親鸞教学について、特に蓮如が詳しいんですね。そういうことを研究しよってね、もう学徒動員令が下ったからね、急いでね、まとめたんです、論文を。卒業論文を。これを書いてこれで死んでもええ積もり。そのごろの学生はそうでしたよ。もう死んでもいいから置いておこう、と言って行ったんです。で、それをね、元気で還って来たでしょ。で、東大の教授になったんですな。で、それを本にしてくれたんですよ。だから、初回の論文がね、その本なんですよ。うまいこと当ったんよね。喜んでね、先生がね。「ああ、ありがとう。」大先生にありがとうと言われると、どうしようもないもんね。ご縁というものは不思議なもんです。その先生が、「煩悩ぼとけだね。」と言うんです。煩悩を持っとるものは仏である。まあ表現が適切かどうか知らんが、お心はいただくことができますねえ。
 そういうふうにお念仏というものは、唯信独達である。信心というものはすばらしいものである。で、これはそこに「正定聚」として、先生の文を書いております。   

信において即得往生し、往生浄土、証大涅槃の確信を自証するのは、蓋し信に大涅槃を内在するが故である。

 ねえ、信心に大涅槃の徳が入っとるんです。だからね、お念仏のお話を聞いてもありがた
いと思われることもあるし、お念仏の本をいただいて、ああそうだねえと言って感動するのですよ。それはすなわちあなたに信心があるからです。あなたにこの世ならぬものが来て、あなたの根本主観になって、それによって価値判断、値打ちを判断する、批判する力ができておられるからである。それを信心獲得というんでしょう。それであるならば、そこに寝とる病人でも、動けん人でも、元気で飛び歩いてる人でも、そういう差別なしに、「老少善悪の人を選ばれず、ただ信心を要とすと知るべし。」という親鸞のお言葉は生きるじゃありませんか。学問やなんか書いとりゃせん。ただ信心を要とすと知るべし。ああ、まことにそうです。ありがたいなあ。で、昨日言った法然の「一枚起請文」におけるところの、一文不知のともがら、一文不通のともがら、それは学問のことを言っておるのではないんだ。その証拠に法然は、一切経を五度読んだといわれる。嘘か本当か知らないよ。五度読んだ。何のために読んだか。我の救われるものはないか。叡山へ上がってやってみたが何もできなんだ。頭だけは膨れた。問いに行って、偉い人に質問に行っても、自分のほうがよう知っとるんで、あれ?と思うたでしょうねえ、おそらく。どうもこうもならんじゃないですか。そして、四十三歳まで真実わしを助ける道はないかと言って探し回った。やっと善導の『観経疏』の「一心専念弥陀名号」、ねえ、「念々に忘れざるをば正定の業とす」とね、「彼の仏願に順ずるが故に」という文章に会うて、落涙数十条やなんてまあ大げさやけど、はあと言って救われたんでしょう。そういうものでしょう、実際。ね、そういうものなんです。そこにやはりお念仏の徳というものが私はあると思うのであります。だから、女子も救われるんだ。女子は仏法の器である。その証拠に、女の人は男子よりすごいじゃないですか。お念仏申したら。男子はちょっと偉くなると、もう説法しだしてから、分かったような気になってしまう。ねえ。そして、勉強せんような格好しとると、あれは信心がないわ、あれはつまらんぞ、あれはどうも、ということになって、自分がもう偉いもんになってしまう。わしはもう一番活躍しとるということになるんですねえ。そしたら、もうそれは、もうどういうんかいな、それはなによね、ちょっとしんどいね。わしらみたいな力のない者は、あああ、となってしまうですよね。ところが、法然上人のように、一文不通のともがらよ、一文不知というのは学問じゃないぞ、力じゃないぞ、老少善悪ではないぞ。老少善悪というのは、相対ではないそ、是でもない、非でもない。ただ信心を要とすと知るべし。阿弥陀さんを疑いなさんなよ。そしたら歴史的な人間になれるんだよ、ということでございましょう。
 ちょと休みましょうね。あら、過ぎた。私は悪い癖があって、話しだしたら止まらん。ごめんなさい。南無阿弥陀仏


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