千古の闇室



 本日もご縁をいただきまして、ありがとうございます。ではお話をさせていただきます。これ、プリントをお配りになったそうでございますが、これは例の西田幾太郎の「我が心深き底あり喜びも憂ひの波も届かじと思ふ」という、今切手になって出ているんですね。その歌をね、かつての私の恩師であります大喜多先生という哲学の先生の奥さんが、お便り下さって、その手紙のところにね、封筒にね、切手のこれとこれと字が分からんから読んで下さい、次にNHKの講義に行った時でいいからその時に申してくださいと言われるようなことで。ふとね、これを思い出したんですよ。その昔、先生との……先生は亡くなりましたが……勉強会などでそれを知らしていただいたんですね。で、それの私感想を持っておりましてね、昨日皆さんにお話を申し上げた時に、だいたいですね、私たちの大学の先生と一緒の勉強会の様子なんかをちょっと申し上げた。あの十五年ずっと続いてもね、華厳経とか摂大乗論とか観経疏とかですね、大乗起信論とか臨済録とか選択本願念仏集とか、それから華厳経は今申しましたが、今は摧邪輪を講読いただいておりますが、ずーっと今十五年間その勉強会に出さしていただいておるわけです。正顕と反顕という問題で、浄土真宗のしかとした立場で、黙って聞かしていただいておると、非常に問題がはっきりしてくるわけでございますね。そのなかで一貫するものは何かというと、やはり善導大師の二種深信というものが非常に尊いものである、二種深信というものが正確に成就しない限りですね、信心はあり得ないんだと。結論はそうです。だから、二種深信のないところには、正定聚不退転はあり得ないの。正定聚不退転というのは二種深信のあるところにあるんですね。で、二種深信のあるところでないと、名号は具足されない。真実の信心には必ず名号を具すんです。その時に「真実の信心は」とあるわけですね、よく見ると。自力の信心ではないわけなんですね。真実の信心、即ち十八願の信心には必ず名号を具すんですよ。で、「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」名号は万行随一という念仏がございます。念仏は絶対他力のものであってもですね、汝自身の心が、自力の心があれば、曇った心があれば、それは一片の行になってしまうわけでございましょう。だから、本当に、南無阿弥陀仏を称えても、真実の信心は「必ずしも」、親鸞聖人は非常にことばが正しいですから、「必ずしも真実の信心は具せないんだ」と。これ非常に明確なことばなんです。今日それを食事のときにお話が出まして、栗栖先生に指摘されました。なるほどそうですね。ほいでまあ、そのことをお話申し上げようと思って。それと、昨日のこの題、これを折角お配りくださったそうで、ちょっと申し上げておきましょう。
 それがね、みなさん、この西田幾太郎の歌はこれは有名です。だから切手にね、それを選んでおりますね、切手に出ておりますね。その「我が心深き底あり喜びも憂ひの波も届かじと思ふ」というのですが、これはその、哲学の先生らと私お付き合いが非常に過分ではございますが、一応学会に出られるような大学の先生方の中へ入れていただいて、お勉強さしてもらってですね。もう体が弱いですから、本部へも正直言って行けないんですよ。団体生活ができないんですよ。ここへ来るんでも前の日に来る。こないだ一日本部へ参りましたが、それも前の日に○○会館に泊めていただいて、そして朝、タクシーで八時半に間に合うようにこっそりと行くんですよ。だから、客観的に見れば本部の講習にはよう行かん、来んということになるんだけど、私五年前まではちょいちょい行かしていただいていたんですが、もういわゆる病気してからは、左の足はまだちょっとしびれとるんですよ。団体生活がね、きついんです、はっきり言うて。だから、行けないので。行けない範囲でね、やろうと今んところ思うて、松山で、十五分ぐらいのところ歩けますから、そこだったら行けるんですよ。だから、その勉強会に、大学の先生が来いよ言うから、行かしていただく。いつも行かんと、葉書くれたりするんですよ。ほいで来てくれるんですよ。ポスト入れてくれる。それで葉書入れて下さるわけですね。もうそれと、私にできることと言ったら、NHKの文化講座にですね、一月に一回、それもご依頼を賜りまして、ない力を振り絞ってそこへ話をさせてもらいに行くということと、まあそれから約十年間ほどずっと家で勉強会を続けておると。まあはっきり言うて、まことに恥ずかしい、慙愧の至りでございますが、お念仏の私の求め方というのは、やっとそれぐらいです。元気になったらですね、一日本部へ参りまして、若い先生方、またお古い先生方のお顔をね、拝みにね、参りましょうと。それが私の願いなんです。で、少し元気が出るというと、先日のように一日前に泊まっておいて。私は実はそのようにしよったんですよ。高校の近くにね、大学のホテルかなあ、ワシントンじゃないなあ、ホテルがあるんですよ。そこへ実は泊まってね、こっそり泊まりよったんですよ、本部へ行って。みんなが寝たというころになると、外へ出てタクシー拾ってね、そこへ泊って、朝何気なしにさっと来てね、顔を洗う。みんなの中へ入る。これみんな言うてしまうが、そういうこともしよったんですよ。もたないからね。が、それもできないので、一日だけ先に来て泊る。それから一日だけおらしていただいてね。まあ、家内が付いてくるんですよ。監督みたいなもんで。三日ぐらい泊るときはねえ、私が倒れたらあんた、担いで逃げにゃいかんからね。担いで逃げるにしても付いておらにゃいかん。厄介なものですなあ、人間ちゅうものはねえ。ほいで、正直言うてその程度の私は精進しかようせん男です。だから役に立たんのです。もう光明団の関係では、もうそれこそあいつは信心のない奴だということになる。まあそれでええわけです。はい、信心はございません、私には信心はございません。ありませんと頭を下げる。しかし、本願は疑っておりません。そういうことをはっきりと前々から感じておりましたから、こんどの「光明」のね、「金剛の真心」というところに、夜晃先生が明確に言ってくださっておるね。昨日みなさんに申し上げたとおりです。本当のものは信心のうちにある(一部聞き取れず)、なるほどそうだ、まことに夜晃先生のおっしゃるとおりだ。
 そういうことでね。もう今日でこの讃嘆会も終わりでございますが、またご縁があったら来られてください。
 ここでね、このプリントで思うことはどういうことかと言うとね。先生方はね、尊い人というのはね、もう水晶のように悟った人というのは、きれいになると思うんですよ、心が。だから、「わが心深き底あり喜びも憂ひの波も届かじと思ふ」と言うたらね、この清い清い心の中には、喜びも憂いもこの世の中の生死動乱のね、心なんか、とても届かないよ、高い高い深い深い境地に住んでおるんだよ、と言いたいんですよ。(テープ一部分切れ)人間法然とかね。法然上人また心の中に煩悩を持っておった人間法然である。その証拠に、「愚痴の法然」と言っているじゃないか。「十悪の法然」と言っているじゃないか。「還愚痴、愚痴に還って念仏申す」と言ってるじゃないか。そういうことは気に食わないんですね。あの偉大な円光大師(法然上人のこと)がですね、なぜ心の中に千古の闇室が残っているんかね、というものがあるんですよ。私ははっきり言ってそうだと思うんですよ。こんなことをはっきり言うてあいすみませんが。はっきり言うて私はそうじゃないかと思う。いろんな方とお話してじっと聞いておって。


もくじに戻る / 次に進む