約本の三心 約末の三心



で、ここで、「約本の三心」とか「約末の三心」とか申しまして、信巻三心釈に述べておるのが「約本の三心」というものでありますが、如来の至心欲生が一つの信楽になっておるという。二心一を成すということがありますが、これが「約本の三心」。それから「約末の三心」というのがございまして、既に如来のお手元に三心が成ずれば、これを受け取った衆生の上にですね、三心を具するというのはこれは当然のことであります。したがって、信楽には至心欲生を含んでいるんだと。これはまあ「約末の三心」といわれるものでございます。これはあの信巻の字訓釈の中でありますが、三即一です。一即三か。三か一かです。両方から言っておる。だから、信心の中には至心信楽欲生がばっちり入っておるということを、古来の覚者たちは述べておるのです。約末の三心、どのように三心を具足するか。約本というのは本のほうで、即ち信巻の字訓釈が三即一の信心でありますね。それを表しておる。衆生受領の姿はただ無碍の一心であると。そういうことです。一心に二つを摂しておる。も一つの約本のほうはね、これは、信巻の三心釈でありますが、三心成就の姿、如来の至心欲生が一つの信楽を(一語不明)する、ということです。本に約すか、末に約すか。去年それをちょっと申し上げたんですが、そういうことであります。
だから、私たちはたくさんのことを知らんでもええので、たった一つの真理をですね、ほんとうに自分のものにするということ。だから、人生の荒野に立ったときには、なんにも役に立たないのであって、たった一つですね、自分自身が信じられた真理というものが力になってくださる。如来浄土のすべてをですね、くださるという慈悲の心、慈悲の教えというそういう教えに連なるということがですね、大切である。欲生の二字は、如来無底の智慧海、底のない智慧海、至心より出ておるがためであります。ね、もとは至心である。したがって、仏の願は欲生、仏の行は至心でしょう。真実信でしょう。それ願行が即ち親様が願行が阿弥陀仏であります。だから、「我が国に生まれんと欲え」とは、我が国に生まれさせずにはおかないとの願があるわけです。欲生我国という願があるわけですね。八万四千の問題を投げ捨てておいて願生の道にあると全てが解決できると言われる、その元がここにあるわけであります。そういうことですね。
したがって、三千年来七高僧の天才が命がけで練って練ってですね、結論を出したのが念仏であります。これもよく皆さんお聞きになったでしょう。如来の智慧慈悲願行の全てが名号のなかにあるというわけであります。永遠の永劫を貫く真の智慧、一切衆生を救わねばおかぬとの慈悲、この全てが名号のなかにある。それを廻向されるのであります。そういうことですね。信楽には至心と欲生、至心というのは信楽の体である。欲生というのは信楽の義相である。姿である。その三即一の信心が信巻に表されておるのであります。一即三心、三心即一心、この信が他の信心より尊い所以、他の信心と、仏教では信心をよく言いますけれども、他の信心と異なるところはそこにあるんだと。浄土真宗に言われるところの信心は、この三心というものを具足しておるのであると、そういうことであります。
まあ、ここで皆さんがどのような事件が起きても念仏のなかで解決できるんだよと、念仏申して世の中生きて行こうね、何が起きても念仏より小さいんだ、お念仏よりはみ出した大きな問題はないよと、お念仏一つで事足りるんだよ、ね。お念仏一つで全てが足りておる、と言われますが、そのようには私たちもね、そのようにお念仏を申したいものです。ね。だからしっかり私たちはお念仏申すことです。そのようにお念仏の中には尊いものが含まれておるんだ、ちゃんと用意されておるんだ、それが歴史の本質になっておるんだ、私が生きる本質というものはそこにある。それをまあこうして聞かしていただくわけです、お互いにね。
明日は、三心十念ということを考えてみましょうね。至心信楽欲生我国乃至十念せんでしょ。ところが、この和讃にはですね、その十念というのがないんですよ。この和讃にはただ三心のみが出されておりますね。そのことについて、明日はいっしょに勉強しましょう。
これはもう皆さんよくご存知だと思います。十八願に二つある。信心往生と念仏往生とある。つまり行と信と一つであるということですね。そういう問題が生まれておる。この和讃に十念がないでしょ。「至心信楽欲生と」というところまでしかないでしょ。「乃至十念」をここで略しておるのはどういうことかと。そういう問題がこの和讃にはあるわけですね。それを一つ見てまいりましょう。「至心信楽欲生と 十方諸有を勧めてぞ 不思議の誓願顕して 真実報土の因とする」というところを一緒に考えてみましょう。


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